精 霊 呪 縛
第二部 ラージャスタン・アグラ宮殿編
第15話「名前のない感情」(3)
夜更けすぎ、セージは次の間に控えていたツォエルに声をかけ、書庫に行きたいと告げた。遅い時間ではあったが、ツォエルは《かしこまりました》と言ってランプに精霊の火をつける。
セージはあとに続きながら、薄明かりに照らされた《五星》筆頭の背中を、静かにみつめていた。
この人物に謀られて、取り返しのつかないことをした。しかし、胸中をよぎるのは、恨みではなかった。本当の意味での「アグラ宮殿の尖兵」たる人物は、このうえなく上首尾にことを運び、自分はその意図どおりに動いた。それは、あまりにも純然たる敗北だった。
(敗北感すらない)
自分でも驚くほどに、胸のうちは静かだった。海千山千の女官の企みがきれいにはまり、セージはそれに沿って動いた、それはごく当たり前の物理法則で、いま思い返しても抵抗できない流れだった。
ただ、今はもう、シフルの顔が見られない。それからきっと、サイヤーラ村にいる家族の顔も見られないだろう。家族はいずれにせよ当分会えないからいいが、シフルはそうもいかない。
(いつか本当のことを伝えられたらいい——なんて、嘘)
自分で自分を偽った。そのことに、気づいてすらいなかった。セージは今の状況に追いこまれて、初めて気づいた。
セージは「強く賢く正しいセージ・ロズウェル」としてシフルの前に立っていたかった。弱さも抱えたひとりの少女セージ・ロズウェルのことは、シフルには見せたくなかった。どこかで、シフルに先輩か姉のような気持ちがあり、はっきりいえば——下に見ていたのだ。
シフルのことが好きだった。ユリスとアマンダにも、そうはっきりと伝えた。アマンダを牽制する意味合いもあったし、そんな自分に迷いはなかった。
でも、今は揺らいでいる。理学院では何回も私闘を申しこまれ、勝利するのが当たり前だった自分。ラージャスタンに来て、女官の手管をまえにあっさりと敗れた。
(まさに、井の中の蛙ね)
ひとたび自信が揺らいだら、自分の気持ちにも迷いが生じた。今はシフルの顔を見られないし、見たくない。確かに、彼のことが好きだったはずなのに。
(そんな大した気持ちじゃなかったのかも。ただ、苦しいときにシフルのゼッツェの音色に救われただけで。そんな気持ちで、アマンダを牽制しようだなんて。……私はなんて、)
——くだらない人間なの。……
自分が自分を責める声が、やまなかった。今までの自分の人生すべてが、無意味なもののように思えた。父やオコーネルが特別にやさしかっただけで、自分に価値があるわけではないのだと。
(怖い)
これから、何が起こるのか。想像できることはひとつしかない。もちろん、誰もセージを責めはしないだろう。哀れな学生がアグラ宮殿の陰謀に巻きこまれた、と誰もが考える。怒りの矛先はアグラ宮殿、ひいてはラージャスタンに向かうだろう。
けれど、ラージャスタン留学を決めたときには、まさか自分が「陰謀の被害者」として哀れまれる身になるとは、まったく想像していなかった。
(惨めだ)
セージは、ぽつりとひとりごちる。(……頭が、ぐちゃぐちゃ)
ツォエルはムリーラン宮書庫にセージを案内すると、《あまりご無理はなさいませんよう、ほどほどでお休みくださいませ》と告げ、姿を消した。セージが今夜は自室に戻る気がないのをよく理解しているらしかった。セージがラージャスタン貴族か何かだったら、これほどありがたいお付きもいないだろうが、この極めて有能な女官はまちがいなくセージの敵なのである。それもこのほど、仇といっていい存在になった。
しかし今は恨みも憎しみもなく、セージは戸惑いのなかにあった。陰謀に巻きこまれた自分を受け入れられない。今は、部屋でじっとしていられず、眠ることもできなかった。とにかく何かに没頭していたくて、夜っぴてラージャスタン史の史料でも読みふけろうと、夜中に書庫にやってきたのだ。
セージはツォエルに借りた火(サライ)のランプをかざしながら、深夜の書庫内を歩いていく。闇と無数の本とに囲まれ、小さな明かりをみつめていると、ようやく心が静かになってきた。けれど、奥の闇にじっと目を凝らしていると、そこに光がともってほしい、と思う自分がいた。
(……誰か、)
——誰か、光を。……
「……誰か……」
知らず、口もとでつぶやいて、セージは息を呑む。
闇のむこうで、実際に火がついたのだ。一瞬、自分のランプをみつめすぎて、目がくらんだのかと思った。
だが、ちがった。本物の光だった。
「セージ」
彼女の冷えた心をくるみとるような、少年の声だった。同時に、だからこそ今いちばん聞きたくない声でもあった。
あ、と唇からかすかに声がもれてしまう。胸がつまり、一瞬、返事ができなかった。
——おまえは、《鏡の女》セージ・ロズウェル。
(いっぱしの女の子みたいに、声を震わせて悟られるなんて、絶対に許さない)
自分の心よりもっと冷えた声を、自分自身に投げつけた。熱くなりかけたまぶたがすっと冷えていき、セージの両目はそこにいる少年をしっかりととらえていた。
「《シフル、眠れないの》?」
笑みさえ浮かべて、セージは少年に声をかけた。
「ここに来たら、セージに会えるかなと思って」
わざとらしく王の言語(ルグワティ・ラージャ)で話しかけたセージに、シフルは現代プリエスカ語で答えた。彼は今、他でもないセージに相対している。使用言語について注意してくる者は、今はここにはいない——少なくとも、建前上は(ツォエルは姿を消したように見えて、近辺で様子をうかがっている可能性もある)。
「わざわざ会いにきてくれたの? うれしいな。心配かけてごめんね」
明日も講義あるから、早く戻ったほうがいいんじゃないかな、と、努めて平静を装い、勧める。あたかも、それがもっとも理に適っているとでもいうように。実際のところは、自分がシフルの前に立つことに耐えられないだけだなんて、これも少年には決して知られたくなかった。
「こっちこそ……」
シフルは言って、口をつぐんだ。「セージが今すごくつらいのはわかってる。それなのに、オレは何もできなくて」
ひゅっ、と自分の喉を空気が通る音がした。
「これはただのオレの推測で……ルッツたちに話を聞いてそうじゃないかと思っただけで、ちがってたら悪いんだけど」
(お願い)
心臓が、不自然に脈動する。(何も言わないで。知らないふりをしていて。……何も知らないままの、シフルでいて)
「セージは、休戦記念日の式典のことを気にしてるのか?」
不自然な脈動のあと、心臓は凍りついたようだった。もちろん、セージは若く健康な少女であって、彼女の精神状態がそうさせただけだが、臓器に冷えを感じるのは生まれて初めてだった。
それと同時に、先ほどまであれほど騒がしかった心の声はなりをひそめ、代わりにセージは口をひらいた。
「気にしてるも何も」
セージは、静かに答える。「私が端緒を開いたのはまちがいない。私には責任がある」
「責任なんて……本当はオレだったのに。たまたまオレはいなくて、セージはその場にいたってだけだ」
「それはそうだね。でも、シフルは現実にあの場にいなかった。もちろん、シフルが悪いだなんて少しも思ってない。シフルの行動には、シフルが責任をとった。一か月の謹慎でね。私の行動は、私が責任をとらないといけない」
「それで言ったら、ルッツとメイシュナーだって同じだし……、それに、まだ何も起こってないだろ。起こるかどうかもわからない」
「それはどうかな」
セージは、ふ、と笑う。「私たちが知らないだけかもしれない。外の状況なんか、私たちには何もわからないんだから。それに、ツォエルさんは無意味な行動なんてしない。あれだけはっきりした行動に出たんだ……きっともう、結果は出てる」
薄明かりに包まれた少年の切実な目の光を、セージは見た。あの目が直視するにふさわしい自分でありたかった。けれど今は、その光を受けとめることができない。どこか、別の何かを見ていてほしい。そうしたら、よそごとのようにその光を見ていられるだろう。
「私たちは籠の鳥。しかも、目隠しまでされている。目隠しされて、手を引かれるままに、……やってはいけないことをした」
それが私で、シフルが追いかける価値なんか全然ない、とまで言いかけて、それ以上は声にできなかった。口にしてしまったら、本当に自分がどうしようもない存在になる気がした。
理学院にいたころの自分のままだったなら、どんなによかっただろう。でも、あのころの自分は、すでに理学院でこのうえ学べることはないと感じていた。結局、何か新しい道が拓かれれば、必ず飛びついたにちがいない。シフルと一緒に新しい道に進みたくて、まわりを引っぱりまわしたことも、まったく後悔していない。
「これからプリエスカが陥る事態の責任は、私にある。今はその重さが……とてもつらいけれど、いつか必ず私が取り返す。——だから」
セージは慎重に言葉を選んで、シフルを見た。
「……だから……?」
シフルの透明なまなざしが、セージを包みこんだ。先ほどからの彼の言葉どおり、責める色はなく、気づかわしげな眼だった。だからこそ、よけいセージは胸がつまった。いつもの賢明な自分を見せたかった。
けれど、
「私を……」
出てきた言葉は、彼女の理性の声に反して、賢明さのかけらもなかった。
——私を——
「えっ、なんて? ……」
暗がりの中で、少年の戸惑う声が聞こえる。少女は両まぶたを手で押さえこんだ。もう、彼の戸惑うところを見ないですむように。
——私を、嫌いにならないで。……
おそらく、自分はそれを口にしてしまったのだろう。
ムリーラン宮書庫の夜の静寂の中で、自分の声は必要以上に響いたはずだ。もしかしたら、ツォエルに聞かれた可能性すらある。だが、そうだとしても、かまわなかった。プリエスカの留学生の人間模様など、ツォエルにとっては何の感興も催さないだろう。いや、むしろ人間模様を利用して自分のもくろみどおりに物事を運ぶのが、ツォエルの仕事だろうか。
それでもよかった。いずれにせよ、ツォエルは何もかも察しているだろう。なんの訓練も積んでいない学生の考えそうなことなど。
――本当はセージ、全部わかってるんでしょ。私が何を知られたくなかったかなんて、何を恐れていたかなんて。……
(《ワルツの夕べ》で、アマンダが似たようなことを言ってたな)
思い返せば、あのころの自分は、アマンダを傷つけたのかもしれない。
(……自分の行いが、自分に返ってきた)
しかもシフルによれば、今アマンダは精霊王によって肉体の時を止められ、精霊人形のひとりになっているという。
——私の時も、止まってしまったらいいのに。
セージは発作的にそう思った。
(私なんか、)
普段、決して使わないようにしていた言葉が、ふいに脳裏をよぎった。
(私なんか、しんでしまえば、)
「——セージっ!」
ぱん、という音がして、少女ははっと目をみひらいた。
気がつくと、少年の灰青の瞳がすぐ近くにあって、少年の両手に頬をはさまれていた。少年の手にあった火(サライ)のランプは足もとにおかれ、床からふたりを照らしていた。
「……痛い」
「そりゃそうだろうな、思いっきりやったもん」
両頬がひりひりする。あまり両親にも殴られたことのない、優等生の長女セージには新鮮な感覚ではあった。
シフルは、がんばってセージをにらみつけていた。怒り慣れない、必死の体のにらみではあったけれど。ややあって、あー、と目を逸らした。
「ごめん」
痛かったよな、とつぶやいて、少年はそのまま両頬を撫でた。あたたかい指先に頬をさすられて、冷たい頬に熱が伝わってくる。
「あ! ていうか」
シフルは勢いよく手をあげた。「さわっ……ごごごごごごめん!」
そのままの勢いで、うしろに飛びすさる。背後に書架があることも忘れて。
どん、という音がして、少年は棚に激突した。今いる書架が石板や巻物の棚ではなく、最近出版された書籍の棚だったのは幸いというべきか。とはいえ、石板の棚ならシフルにぶつかられたぐらいで倒れない気もするので、むしろ不幸か。
つまるところ、シフルはそのままの勢いで書架ごと背後に倒れた。書架の裏側にあった本はむこうの通路に飛びだしてしまい、こちら側の本も多少飛びでて、当の本人も本の山に埋もれてしまった。
「シフル!」
頭の中からは直前まであった何もかもが吹きとんで、セージはとっさに駆け寄った。
シフルの顔の上にまで積もった本をとりのけ、目をかたくつぶる少年を掘り起こす。
「いってて」
「大丈夫? ケガしてない?」
まずシフルの上の本をすべて取り除き、揃えて脇に積んでおく。それから、少年の手を引き、別の本棚にもたれさせた。床の上の火(サライ)のランプは、幸い位置がずれていて、本の波に巻きこまれてはいない。念のため、ランプを離れた場所に置きなおす。
「私の頬なんか、どうでもいいのに。そんなことで大ケガしてどうするの……前に時姫(ときのひめ)さんに会いにいったときだって、一歩まちがえたら大ごとになってたよ」
あのときのセージには、トラブルもおもしろかった。理学院に飽きていたセージにとって、シフルのもってくるあらゆる話は心が浮き立つものだった。いろいろな意味で「精霊の恵み」だったから、何か言う必要も感じなかったが、こうたびたび重大事故になりかけては、忠告せざるをえない。
「こんなどうでもいいことで、大げさに反応しないんだよ、シフル。まして今いる場所は、何が致命的になるかわからない場所なんだから」
「ごめんセージ。だけど……」
「?」
いつものように素直に謝るシフルだったが、何かを言い募ろうとする。
「オレにとっては、どうでもいいことなんかじゃなかったよ」
「どうでもいいことでしょ。頬とか手ぐらい」
答えつつ、脳裏にひらめくものがある。オコーネルと過ごしていたあの昼休み、セージのところにやってきたあの男たち。もしあのとき、キリィがセージの声に気づいてくれなかったら、自分の身に何が起こっていたか。
そうだ。頬や手ぐらい、大したことではない。しかし、
「セージはオレじゃないだろ」
シフルは思いのほか、はっきりと断言した。「オレがどう思ったかを、セージが決めないでくれよ」
「ああ……」
それはそうだね、と同意して、セージは困ってしまった。なんだか、今この場でどう振るまったらいいのか、全然わからなくなってしまった。
「オレはセージに……さわったら、びっくりする」
と、シフルは告げた——「些細なことなんかじゃない」
シフルがどんな顔色をしているかは、ランプの光が弱すぎて、はっきり見えなかった。
「びっくりする」
セージは思わず、ぼんやりとシフルの言葉をくりかえした。「些細なことじゃない……そう……」
それ以外に、どうにも処しようがなかった。すとん、と腰が落ちて、少女はシフルのかたわらに座りこんだ。
「プリエスカのこと、ラージャスタンのこと、アグラ宮殿のこと。それは確かに重大だよ。だけど、オレにとっては、セージのことも重大なんだ。だから……」
シフルは体勢を整え、前のめりに少女をみつめてくる。
セージも、無意識に少年に向かいあい、顔を近づけていた。
「……だから……?」
(言葉が、ほしい)
と、セージは思った。
——他でもないあなたが、私のために紡ぐ言葉を。
少女は今、狂おしいほどの飢えを感じていた。彼も同じだったらいいのに、と心から思う。でも、その一方で、同じでなくてもかまわない、という気持ちもどこかにあった。もう、何だってかまわない。
闇の中で、火(サライ)の光がちらちらと揺れ、少年少女を照らしていた。
To be continued.