精 霊 呪 縛
第二部 ラージャスタン・アグラ宮殿編
第15話「名前のない感情」(4)
青い静寂の朝、砂岩づくりの廊下で、かすかに布靴の音が響く。
響くといっても、底が固い靴の立てる音とは程度がちがうのだけれど、朝の静けさの中では、布靴の音もひどく響くようだった。自分の足音さえなければ、完全な静寂だったのに——とも、ライラは思う。
ライラは静寂が好きだ。静寂は自分を包みこんでくれる。静寂には境目がない。自分という存在を意識せずにいられる。けれど、早朝にライラが動きまわっているのは仕事があるからで、いつまでも静寂の中に安穏としてはいられなかった。
「火よ、朝ですよ」
と、ライラがささやきかけるのは、夜間に宮殿の廊下を照らしていた灯りだった。「今朝のお役目は終わりです。また夕刻お願いします」
語りかけると、灯りの火はすっと消えた。ムリーラン宮に仕える女官の数は限られているため、朝に火の精霊に呼びかけるのは担当留学生のないライラの役目だ。夜に火をつけるのは、アグラ宮殿随一の精霊使いであるメアニーだが、消すほうは誰でもできる。強いていうなら、ライラが召喚した精霊ではないだけに、ひとつひとつ声をかけなければならないのが、手間といえば手間だった。
とはいえ、ライラはこの仕事が決してきらいではない。ひとつ、またひとつと、精霊入りのランプに声をかけるたび、赤い光が消え、それと同時に周囲が青く明るくなっていく。精霊の力なしで、宮殿の砂岩の赤が見てとれるようになる、静かで急激な変化。このまま、宮殿じゅうの灯りを消していきたいほどだが、残念ながら《五星》女官の立場ではそれはできない。ムリーラン宮以外は、赤い袴の女官たちの仕事である。
ライラがひとつひとつ惜しみつつ仕事を進めていると、書庫の入り口に誰かが立っているのが見えた。一瞬それが誰かわからなかったが、ややあってライラは気づいた。
そのひとは、青い朝に溶ける色をしていた。
「そちらは……」
呼びかけると、壁に寄りかかったそのひとが顔をあげた。はっとするような濃い青をした長い髪と、同じ色の瞳。近づくと、耳が長く尖っているのが見える。耳が見えれば、もうそれが誰かまちがえることはない。
「《ラーガさま》」
ライラは現代プリエスカ語で声をかけた。「《シフルさまは中にいらっしゃるのですか?徹夜でお勉強でしょうか》」
「《わが主なら、中で女といる》」
青い妖精は率直に答える。
「《セージのことでしょうか》」
「《そうだ》」
セージとシフルは、プリエスカから来た留学生四人のなかでは仲がよい。見ていると、四人並ぶときにあいだに座るのはいつもその二人で、聞くところによると残りの二人の少年の仲はあまりよろしくないとか。
しかし、仲がよいといっても、いわゆる年頃らしい欲求に従った行動をとるような関係ではないような気がした。なんといっても、ふたりとも本当にまじめな学生だ。ましてや、ライラが特によく知っているセージのほうは、折り目正しさが服を着て歩いているような少女である。
もっとも、だからこそ宮殿は、所在不明になったシフルに代わり、彼女を動かすことにしたのだけれど。彼女以外にも「保険」は用意されていたが、まじめで折り目正しいということは、行動が予測しやすいということであり、彼女が「標的」に選ばれた大きな理由だった。
それに気づいた彼女は、きっと深く傷ついただろう。傷ついた心と、年頃の少年少女の欲求が結びつくのは、よくある話ではあるのだけれど。
「《あなたが外にいらっしゃる理由がある、ということなのでしょうか?》」
ライラはラーガに念を押した。留学生たちが何をしようと自由だが、このあとの講義に影響したり、《五星》の誰かが折悪く書庫に踏みこんだりといったことは避けなければならず、何かあれば職務上、連絡の必要がある。もっとも、セージの担当女官であるツォエルがこの状況を看過するはずもないのだけれど。念のためだ。
「《妖精は主(あるじ)の邪魔はしない。実態は関係ない。主が指示したとおり、ともにここに来て、扉の外で待っている》」
「《そうですか》」
中で起きていることにはあまり興味のない様子で、空の妖精は言った。世界で唯一無二の存在でありながら、やっていることはいくらでも代わりのいる自分たち女官と変わらないのが、ライラには不思議といえば不思議だった。
しかも、彼のように自分で主人を選んだ妖精は、それを望んで行っているという。炎の妖精憑きであるメアニーが、先日の講義で語った。
「《シフルに忠実でいらっしゃるのですね》」
ライラはつい、彼に語りかける。
「《そうだ》」
ごく手短に、彼は答える。ライラが彼の任務によけいなくちばしを挟んでいるというのに、特段うるさがるふうでもなく、淡々と、ごく当たり前に返事をした。
このひとは、同じ調子で、先日ライラに告げた。
――美しいと思う。おまえを美しいと思う。
と。おまえが美しいのは事実だ——とも、彼は言った。
正直なところ、容姿を褒められるのは、皇女マーリの影姫であるライラにとっては珍しいことでもなんでもなかった。多くの人間、特に王侯貴族たちはライラを見ると、真っ先に容姿を褒めそやす。影姫になる以前から少なからずその傾向はあったので、ライラにとって「美しい」といわれることは、ひどく退屈なことだった。
しかし、このひとに言われると、言葉がちがう意味をもちはじめるようだった。幼いライラにその言葉をかけた人間たちも、皇女を装うライラにその言葉をかけた人間たちも、ただ無意味にやってきては去っていく、一時だけかすかに煩わしい羽虫のようなもの。だが、そのひとは確固たる存在感をもってライラの目の前にいて、同じ言葉をちがうように口にする。
その濃青の眼になんら感動の色はなく、本当になんでもないことのように口にされた言葉は、冷淡でもあったが、同時に密やかな熱を帯びていた。
いや、ライラがそう感じただけかもしれない。あるいは、そう「感じたい」だけかもしれない。少なくとも、「美しい」という言葉が、初めてライラにとって意味をもった瞬間ではあった。
ライラの中に、ひとつの問いがある。
(あれは、どういう意味でしょうか?)
それは、ごく個人的な質問だった。明らかに、ラージャスタン第一皇女の影姫たる者が、プリエスカの留学生を主人とする妖精に問う内容ではない。
(あなたは、わたくしのことをどうお思いなのですか?)
こんなことを尋ねたいと思ったのは初めてだった。誰がライラのことをどう評価しようと、ライラの心はまるで波立たない。それなのに、この青い妖精の言葉だけが、ライラの心に刺さる。閉じた貝に刃をさしこまれるように、心がひらく。
——このひとは、人間ではない。
正確には、この体はかつて人間として生きていたことがあった。美しいまま死んだ遺骸を、精霊が器として選び、宿ったもの。それが妖精である。
——このひとは、「今は」人間ではない。
だから、このひとの言葉が気になるのではないか。ライラはそう想像した。妖精に、人間社会は関係ない。貴族の社交界で通用する建て前など、妖精には無用の長物。きっと、妖精の言葉とは、もっと始原的なものなのではないか。言うなれば、妖精の言葉は、「世界の評価」なのではないか。
(自分が世界にとって美しいと、うれしいのか)
自分にもそんな女心があったというのが驚きだった。とっくに心らしい心など失ったと思っていた。泥川をさまよううちに、信じた人に裏切られることをくりかえすうちに。
それなのにまだ心は生きていた。このひとの言葉が、光のように自分の心にさしこんで。
ライラは知らず微笑んでいた。ラーガは表情をまるで動かさないまま、そんなライラを見ていた。
「《あなたにお聞きしたいことがあります》」
すると、この世のものとも思えない美貌をもつ妖精の表情が、かすかに動いた。
ライラはそれをしげしげと見ながら、このひとは確かにオースティンさまに似ている、と思った。留学生メルシフル・ダナンに憑く空の妖精、その器が、オースティンの祖先・英雄クレイガーンだという伝承が残っていることは、「五星」筆頭から聞いている。
オースティンの言葉も、たとえ暴力的だとしても何度もライラの心を動かしてきた。自分は結局、英雄を崇拝するラシュトー大陸の大衆の一人にすぎないのかもしれない、とも思う。
「《何だ》」
口火を切るだけ切って黙っていたライラに、妖精は逆に尋ねる。ライラは、元素精霊長でも少しせっかちなところもあるのだと思って、ふふ、と笑った。
それから、まっすぐにトゥルカーナの貴石と同じ瞳を見据えて、言った。
「《あなたは、心に縛られないのですか? それとも、あなたの心そのものが、あなたではない何ものかの意思によって動いているのですか?》」
「《言っている意味がわからん》」
ラーガは即答した。
「《つまり……》」
ライラは言葉を探した。「《あなたには心がおありですね》」
「《ないこともない》」
「《けれど、あなたは人間ではなく、妖精、つまり精霊の一種です。精霊は人間とは別の摂理で生きているものだと思います》」
「《そうだ》」
手短ではあるが、律儀に相槌を打ってくれるのがおかしかった。が、笑みをおさえて、ライラは次にくるべき言葉を探した。
「《あなたの言葉は、その摂理に基づいたものなのでしょうか。それとも、摂理を前提として、あなたの心に縛られて出てくるものなのでしょうか。それとも、あなたはこの世でたったひとりの空の精霊ですから、心そのものが、摂理であったり、なんらかの存在に縛られているのかと——おわかりになりますか? ……つまり、あなたの言葉は、どこから出てくるのかということを、お尋ねしたいのですけれど》」
青い妖精は微動だにしなかったので、ライラはだんだん恥ずかしくなってきた。
「《なぜあなたは、わたしを美しいとおっしゃったのですか?》」
顔から火が出そうになり、最後は声がしぼんでしまった。「《わたしなどを。美しいとおっしゃった》」
褒められたら、ただ適当に礼を言って流す、社交界ではそれだけの話だ。それなのに、どうしていつまでもこだわってしまうのだろう。
このひとだから? このひとが妖精で、その言葉は世界の評価だから?
——わたしの心は、どこにあるのか。……
「……」
そのひとは、ライラの不躾な問いに、ぽかんとしたようだった。
いつも主人であるシフルのかたわらで、何かつまらなそうな顔ばかりしている美貌の妖精の、思いもよらない表情。英雄クレイガーンの肉体が五百年以上前のものであることを考えると、少なく見積もっても五百年以上この世界で暮らしてきた存在をぽかんとさせてしまい、ライラはどんな感想をもてばいいのかわからなかった。
「《なぜ? ……なぜと言われると、むずかしいな》」
返ってきたラーガの答えに、ライラは急速に頭が冷えていくのを感じた。なんということを訊いてしまったのだろう。
「《失礼いたしました。どうかご放念くださいませ、ラーガさま》」
そう告げたライラの声は、いつもの平静さを取り戻していた。覆水盆に返らず、とはいうものの、ラーガのほうも訊かれて困っているぐらいなのだから、なかったことにすればよい。
ところが、ラーガは話を続けた。
「《このあいだも言ったが、おまえが美しいのは事実であって、自明のことだ。何か深い意味があるわけではない》」
意味があるわけではない——その言葉に、ライラはほっとするような、少しがっかりするような、そんな心地がした。
「《だが、この『事実』『自明』が、何にとってなのか、ということが問題になってくるだろう》」
「《何にとって、ですか》」
「《そうだ。おまえの質問の意図は、そういうことだろう。空(スーニャ)の妖精にとって、おまえの美しさは自明なのか。空(スーニャ)の妖精にとっては、ということは、上にいる精霊王にとって自明ということなのか。俺をシフルに仕えさせたかたにとって自明ということなのか。あるいは、すべての精霊にとって自明なのか。万象にとって自明なのか。もしくは、この器にとって自明なのか。いずれにも影響されない、俺自身にとって自明なのか》」
「《ええ……そうなのだと思います。わたしはそれが気になっています。ただ、気になっているだけ、なのですけれど》」
あまりにもはっきりと彼が明言するので、ライラもはっきりと肯定するほかなかった。彼がライラの感情を憶測するようなところがないので、恥ずかしさは薄らいでいた。ただ単にここにある心を、受けとめてもらえたような気がして、少女は不思議な安堵を感じていた。
「《気になっているだけで、どうしたいということもないのです。ですから、ラーガさまは拒まれてもよろしいかと》」
「《どうせシフルが出てくるまでは退屈だからな。退屈には慣れているが、退屈が紛れるのもいい。そう思わないか》」
「《ええ、思います》」
ライラはうなずいた。相変わらず妖精は無表情のままだったが、ライラは知らず知らすのうちに自分の表情がゆるんだことに気づいていた。
ここにあるのは、なんの目的もない、名前のない感情。けれど、この感情に名前をつけることもなく、尋ねたことに答えが返ってくるのは、なんて幸せなことだろうか。
(幸せ……)
自然とその言葉が胸に浮かんで、ライラははっとする。
——これが? ……
「《教えていただけますか。ほんの退屈しのぎに》」
継いだ言葉は、半ばたわ言だった。
「《俺は空の元素精霊長だが、世界のすべてを知っているわけではない。俺自身のことも、俺の器のことも、俺の心のことも。ただ、それらは不可分だということはいえる》」
「《はい》」
ライラはすみれ色の瞳を、まっすぐに妖精に向けた。吸いこまれそうな、満天に星をたたえた空のような濃い青の瞳に見入る。妖精の目がうなずいた。
「《無意識に支配されている可能性は十分にあるだろう。俺は、俺をシフルに仕えさせたかたを心から慕っているが、それはもしかしたら器の影響かもしれない。しかし、俺はあのかたを敬い、慕う自分を否定できない》」
「《はい……》」
ラーガは遠くを見る顔で、その人物への敬慕を語った。英雄クレイガーンはその人物を慕っており、ラーガもその影響を受けているかもしれない、ということである。いったいどんな人物なのだろう、とライラは思った。英雄はともかく、このひとに慕われていることがうらやましくもあった。
「《だが、おまえについて言えるのは》」
ラーガの青い眼がこちらに向けられた。少女はとっさに、びくりとしてしまう。
「《英雄は、ライラ——おまえを知らない》」
——俺は、知っている。……
ライラの目の前が、ぱっと明るくなったような気がした。
青い妖精は、なおも笑わない。
ちっとも笑わずに、ただ、少女を見ている。
To be continued.
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