精 霊 呪 縛
第一部 プリエスカ・理学院編
第4話「愛される者と呪われる者と」(1)
シフルは教壇に立たされて、すり鉢状の教室の底からAクラスを見上げていた。
ヤスル教授の視線に促され、少年は指折った右手をさしだす。のびた指の数は右三本、左三本の合計六本。召喚するは、六級精霊。
この日、ヤスル教授の上級精霊学講座で、新入り三名はこれまでの学習の成果をみせるよう指示された。名前順に指名された三人は、すり鉢状の教室の底に呼びだされ、同級生の視線を一身に浴びることになったのである。
一人めのアマンダは水(アイン)六級召喚に挑むも、空気が青みを帯びるにとどまった。二人めのユリスは、極度の緊張によってか火(サライ)召喚に見事に失敗。続く三人めがシフルだった。
少年が教壇にのぼると、Aクラス生の態度が変わった。みなが自分の背後にリシュリュー・ダナンを見ていることに、少年も気づいている。
——だからこそ、失敗なんかできない。
「火(サライ)の子らよ」
シフルは落ちついた声で呼びかけた。大丈夫、自信をもて。ドロテーアの前で、あんなに簡単に召喚したじゃないか。火(サライ)を信じるんだ。絶対、来てくれる。シフルはなるべく何も考えないようにし、ただ火(サライ)への思いを募らせることに専念した。
そして、
「オレに力を貸してくれ!」
その言葉とともに、右手を振り下ろす。
ポン、と軽い音がした。
が、なぜか目の前に精霊の姿はない。
「あ、あれ? 今……」
確かに精霊の現れる気配があったのに、どこにもいない。シフルはあたりを見まわす。
「上出来だ! メルシフル・ダナン」
ヤスル教授が手を叩いた。教室は少しざわついていたが、中には教授に倣って拍手する者もいた。ややあって、みなの視線の向かっているほうを振り返ると、小さな火が宙に浮かんでいる。それも、どういうわけか彼のうしろに、だ。シフルは眼をみひらき、次に大いに息をついた。
——やったんだ。
「なかなか早かったな」
教授がシフルの肩を叩く。
「そうなんですか?」
「ああ。Aクラスに上がってから一度や二度の授業で、六級を召喚できる学生はそういない。君も晴れて期待株の仲間入りだな」
(期待株!)
シフルは瞳を輝かせた。自分には精霊召喚の才があると、信じてもいいのだろうか? だとしたら、それほどうれしいことはない。シフルは歯ぎしりする父の顔を想像し、ひとりほくそ笑んだ。ついでに母の曇った顔をも思ってしまい、せっかくの上昇気分が一気に下降した。
「あっ、そうだ」
シフルは思いだしたように手を打つ。所在なく漂う火(サライ)に向き直り、
「火(サライ)! 来てくれてありがとうな」
〈いいえ〉
精霊はすぐに答えてくれた。幼女の声にも似て、高く細い声である。
「ところでさー、なんで召喚士の後ろに来るんだよー? 間の抜けたやつだなあ!」
シフルは冗談めいていう。
〈ごめんなさい、でも〉
小さな炎がゆらゆらと揺れた。〈私がもう一度、あなたのお役に立ちたかったから。他の仲間を押しのけたんです〉
「このあいだのやつか!」
Aクラス昇級を決めてくれた精霊にちがいない。シフルは破顔した。
「すごいな。おまえも六級に上がったんだ」
精霊が、はい、と答える。「へーそうなんだ、よかったな。今回もありがとうな」
〈いいえ、シフル。……また、あなたのお役に立てる日がきますように〉
そう言い残して、火(サライ)は再び空気のなかに溶けていった。シフルは満面の笑顔で手を振り、精霊を見送る。ふと気づけば、ヤスル教授がかたわらに立っていた。彼が真顔だったので、シフルはどきりとした。
「あっ、先生。すみません、すぐ席に戻ります」
「精霊が同じ人間の前に二度現れる?」
「え?」
ヤスル教授は自分の顎に手をあててうつむき、口のなかで言う。
「精霊の階級が上がる?」
「……教授?」
何ごとだろう。助けを求めて学生たちを見上げても、シフルに事情を説明してくれるどころか、みな変な顔をして耳うちしあうばかりだ。頼みの綱の友人たちも、ユリスは何やら思案に暮れ、アマンダは口を開けて惚けている。ドロテーアはといえば、シフルと目が合うと微笑んだ。
「ダナン」
「はいッ!」
ヤスル教授に暗い声で呼ばれて、シフルは過剰に反応した。
「——君は、これまでの学説を覆した」
「い?」
「……授業は中止だ。各自、自習! 私は教授会を開かねばならない」
学生たちにそう告げながら、ヤスル教授はシフルの横を通りすぎ、さっさとAクラス教室をあとにした。教壇に残されたシフルは、なすすべもなく立ち尽くす。
やがて席に戻っていくと、アマンダの晴れやかな笑顔に迎えられた。
「シフルすっごーい!」
アマンダは頬を紅潮させた。「これまで教授たちが気づかなかったことを、シフルがあっさり暴いたんだ!」
「オレいったい何したっけ……?」
シフルが困惑顔でつぶやくと、ユリスが呆れ顔で応じた。
「バッカだなー。初級(エレメンタリー)の教科書に出てたことだぜ? こないだも妙だと思ったけど、やっぱおかしかったんだな」
ユリスはAクラスに昇級した日のことを言っているらしい。あの日、シフルとユリスがAクラス寮の部屋で初めて顔を合わせたとき、シフルが「試験の際に合格させてくれた火(サライ)を呼びだして礼をいった」と告げたところ、ユリスは興味深げに「へー、そんなことあるんだ」とつぶやいたのだった。
「で、それ、どんな内容なんだ?」
シフルが尋ねると、
「えーと、ひとつは精霊の出現について、だな」
ユリスは記憶を探るように天井を見上げた。いわく、「精霊は常に大気に乗って流れ、ひとところにとどまることがない」。また、「いったん使役を許した人間の前に再び出現することはない」。もうひとつは、「精霊は絶対不変のヒエラルキーのなかにある」。「精霊はおおむね各属性の長、一級から十級精霊に階級分けされているが、これは永劫不変のものである」。
初級(エレメンタリー)時代の教科書である『召喚学入門』の抜粋を暗誦され、シフルは納得した。同じ精霊を二度使役でき、しかもその精霊が七級から六級に上がったとあっては、教科書が嘘を教えていることになる。このために教授会が開かれるのもむりはない。
「ふーん……。よく覚えてるなあ、初級(エレメンタリー)の教科書なんて」
シフルは、試験が過ぎると五割以上の暗記事項が抜け落ちるタイプだ。
「初級(エレメンタリー)には一年も在籍してたからな。思いだしたくもない、退学と隣り合わせの日々……」
「それはご苦労さま」
シフルとユリスの会話に、他の学生が口を挿んできた。「君の実力が、初級(エレメンタリー)の学習プログラムを消化するのにも一年かかるぐらいのものだったってこと、わかってよかったね」
相変わらずの物言いと、低い声。振り向くと、ルッツ・ドロテーアの金の瞳が笑っている。ユリスが傍目にも明らかなほど蒼白になったので、シフルは即座に言った。
「ドロテーア、おまえ、きついよ。事実でもそうでなくても、言葉とそれをいう相手は選べ」
シフルは、事実に反するフォローは好きではない。よって、ドロテーアの言葉を否定しなかった。
「ルッツでいいよ、シフル」
彼は悪びれることなく微笑む。
「じゃあルッツ。悪いこと言わないから、覚えとけよ」
答えて、シフルはユリスたちに向き直った。足音と扉を開け閉めする音で、ルッツが教室を出ていくのがわかった。足音が遠ざかると、思わず嘆息した。きらいではない。けれど、ルッツは鋭利な刃物を平然と振りかざし、呼吸するように人を傷つけて歩く。彼の言葉のすべてが真実であったとしても、そのことは事実。
「なあ、自習だし、外行こうぜ」
シフルは何ごともなかったふうで二人に声をかけた。アマンダも水色の瞳を細めて、
「うん! 行こ、ユリス。今日は天気もいいし、広場に出たら気持ちいいよ」
「……ああ」
ユリスは薄く笑った。声の弱々しさから、彼がいかにそれを苦く受け止めているかが理解できる。ルッツの言葉に、思いあたる何かがあったのかもしれなかった。今はまだ、それを聞ける仲ではないけれど、いつか苦い気持ちが溶け去ったらいい、とシフルは思う。
三人は、おのおの議論するAクラス生たちを尻目に、教室を出た。
外に出ると、秋らしからぬまぶしい日射しが目を打った。ユリスは、顔に日がしたたかに当たるのもかまわず、うつろな眼でたたずんでいる。
「なあ。そんなに気にするなよ」
シフルは手をかざし、光を遮った。「おまえ、きっと考えすぎて失敗するんだよ。今までもそうだったろ。アマンダぐらい気負わないほうが、何だってうまくいくよ」
そうシフルが言うと、ユリスは反応せず、代わりにアマンダが頬を膨らませた。
「ちょっとシフル、それ、どういう意味っ?」
「そのまんま。アマンダはいつも元気でいいなって、褒めてる。オレだってうらやましい」
「女の子はそんな単純じゃないんだよ! もう!」
「いてっ」
アマンダはシフルの頬をつねりあげた。
「そういうこと言う悪い子には、こうだもん!」
アマンダはにっこりと笑うと——どうも怒っているらしい——、シフルから眼鏡をとりあげた。次に自分の懐を探って櫛をとりだし、シフルにとりつくとむりやり髪をとかしはじめる。
「あっ何を!」
「こうだよっ!」
シフルの、手入れはされていないが半端に伸びている銀の髪を丁寧に梳き、分けめをつくった。多少伸びているとはいえ基本的に短い髪が、櫛を通されることでにわかに少女じみたつやを帯びる。続いてアマンダがスカートのポケットからとりいだしたるは、口紅。シフルは、げッと叫んで逃げだした。
「あっ、待てえ」
「死んでもヤだ!」
シフルは全力疾走した。が、シフルの足は遅く、アマンダの足は速い。十メートルほど走った地点で捕まり、そのまま地面に押し倒された。
「ちょっ……、それはいくらなんでもまずいって!」
先ほどまでしおれていたユリスが、アマンダを止めにかかる。彼がまずいと言っているのは、シフルに口紅を塗りたくることではなく、アマンダがシフルに馬乗りになっている体勢なのだろうが、何にせよ彼は駆けつけた。
「ふーんだ。罰だよー」
アマンダはそう告げると、ユリスの制止を振り切って口紅の蓋を開けた。鮮やかなピンクの口紅を、シフルの唇に塗る。ユリスがそれを見て、ものすごい衝撃を受けたという表情になった。間接何とやらのせいだろう。
シフルは最後の抵抗とばかりにあがき、顔を腕で覆っていたが、
「ほぉーら! できたっ」
というアマンダの声とともに、腕をどかされた。
シフルの腕を押さえこむアマンダ、そのアマンダを引きはがそうとするユリス——双方はしかし、シフルの容貌があらわになった瞬間、動作することを忘れたかのように静止した。
「うそ……」
アマンダは瞠目している。ただでさえ大きな瞳が、驚愕によってますます大きくみひらかれた。どさくさにまぎれてアマンダに抱きついているユリスも、彼女に触れているという事実まで忘れたかのように、シフルをみつめてくる。
アマンダがどいてくれたので、シフルはからだを起こした。先ほど学説を覆したといわれた際よりもいっそう驚く二人の顔を、複雑な気持ちで眺めやる。
次の瞬間、
「シフル、か・わ・い・す・ぎ——ッ!」
と、アマンダの黄色い悲鳴が耳をつんざいた。
ユリスもまた、頬を若干赤らめつつ、つぶやく。
「おまえそれ、犯罪」
「顔赤らめてんじゃねーよ、この野郎」
シフルはユリスをにらみつけ、あたうる限り低い声で返したが、いくらすごんだところでまったく効果がなかった。髪をとかされ眼鏡を奪われ、紅を差されて、もともと背も低く、制服が男もので骨ばった体型であること以外はまるっきり少女そのものとなったシフルでは、男からすると微笑ましいだけだ。発育の遅い少女だと思いこむのも可能である。
ユリスは何を思ったか、幸せそうににやけた。それがまた、シフルには癪にさわった。
「アマンダ。これとって」
シフルは可憐な顔を彼女に近づけ、桃色の唇をいやそうに突きだす。
「イヤ。そのままでいてよーう」
アマンダは懇願した。「ねえねえ、私の服貸すよ?」
その提案に、シフルは吹きだした。一転して真剣な面もちになると、大急ぎで自分の髪をかきまわす。アマンダが不満を主張しても、こればかりは知ったことではない。
ユリスが眼鏡を取り返してくれたので、唇をこすって口紅を落としたあと、再び眼鏡を装着した。眼鏡を外しているときに比べ、視界が格段に狭くなる。でも、これはシフルの大切な隠れみのだ。
「かわいいのに……」
アマンダが口惜しげにシフルを見る。
その哀れっぽい表情がなんだかおかしくて、シフルは笑いだす。ユリスも、つられてか喉を鳴らす。さいしょ遠慮がちにくつくついっていたが、しばらくすると堰を切ったように笑いだした。
アマンダはそれを見て、にっこりと微笑む。花ひらくときの、壮絶な愛くるしさだった。やはり、かわいいといったら彼女のような人をいうのだ。知りあったばかりの友人が落ちこんでいるのを目にして、口先だけで慰めるのではなく、からだを張って彼の気持ちを軽くしようとする、彼女のような。
「ユリス、元気ー!」
アマンダは踊るように回ってみせた。頭の上でふたつに結わえられた金の髪が、それにともなって揺れる。シフルは横目でちらりとユリスを見やった。思ったとおり、わかりやすいほどアマンダにみとれている。
(ま、わからないでもないけどさ)
はっきりいって、Aクラスで他の誰かをみつけるのでなく、シフルたち二人と一緒に行動しているのが不思議なぐらいである。二人とも女の子に好かれるタイプではないし、アマンダのかわいさなら、いわゆるそういうタイプの男でも余裕で捕まえられるだろう。ユリスなどイチコロで当然だ。
「さて、自習しよっか! 二人とも」
ユリスの惚けた眼差しにも気づかない無邪気さで、彼女は言った。「シフルはもう六級呼べるんだし、私たちにアドバイスしてくれるよね?」
「オッケ」
シフルは承諾した。「とはいっても、ルッツの受け売りで、『あんまり考えすぎるな』ってぐらいのもんだけど」
ユリスも先ほどのしおれた様子はどこへやら、ガッツポーズで気合いを入れていた。
「よーし! せっかくAクラスにあがれたんだから、遮二無二やるぞ!」
三人はそれぞれ指を数え、精霊召喚を試みはじめた。ユリスとアマンダは先刻Aクラス生の前で失敗してしまった六級精霊、シフルは今度は五級火(サライ)に挑戦する。
(ちゃんと五級を呼べるようになったときには、またさっきのやつに会えたらいいのにな)
と、シフルは思う。もちろん、礼拝での《若人》役を狙うには、火(サライ)四級のエルン・カウニッツにとって代わるのがいちばん容易だという打算的な理由もあるが、そうした思いのほうがもっとはっきりしている。
〈また、あなたのお役に立てる日がきますように〉
そう告げて、おそらく感覚としては微笑んでいたあの精霊に、シフルもまた会いたかった。会ってどうするわけでもないけれど、また会えたな、と言って笑いあえたら、きっとすてきだろう。
「火(サライ)の子らよ、オレに力を貸してくれ!」
ユリスとアマンダが奮闘するかたわらで、シフルもまた右手を振り下ろした。
が、周囲の空気はまるっきり反応を返さない。
(ま、こんなもんだよな……。学説を覆してみてもさ)
シフルは苦笑した。簡単なことなんて、何ひとつないのだ。これからも何度となくこうして失敗を繰り返すのだろうし、その失敗から抜けだせなくなるときもくるだろう。それでも挑戦しつづけなければ、大海の鯨になることはできない。大海の鯨にいつかなれるとしても、なれないとしても。
——とりあえず、目指すは五級火(サライ)召喚だ。
その次は四級火(サライ)。これでエルン・カウニッツに追いつく。さらにその次にくるのは三級、この時点でカウニッツか他の学生が実現していなければ、それで《火(サライ)を讃える若人》の役目がまわってくる。そうしたら、ロズウェルに近づける。ロズウェルに近づくことは、大海の鯨に一歩近づくこと。
——がんばろう。
「火(サライ)の子らよ!」
少年はまた呼ぶ。授業中の人気のない広場に、シフルたち三人の声がこだました。
To be continued.