精 霊 呪 縛
第一部 プリエスカ・理学院編
第7話「この足が駆ける」(1)
黒い霧が晴れると、そこは元いた展望台だった。
少し風がある。わずかに波立つ海があり、夕日に赤く染まる理学院の広場があった。
今、シフルのからだと視界を支配しているのは彼自身である。シフルはおそるおそる、てのひらを開いたり閉じたりしてみた。ちゃんと思いどおりに動く。
足下に、気晴らしに吹き鳴らそうと持ってきたゼッツェが落ちている。過去を見ているあいだに落としたらしい。拾いあげると、かすり傷だけで無事だった。
十六年前の過去を見はじめてから、かれこれ一日以上が経過しているわけだが、シフルにはどうも実感がわかない。たった一日で季節は変わらないといえばそうだけれど、一日前とまったく同じように思われる夕焼けの色に、なんとなく異和感を覚えるのだった。
そういえば、過去を見ているあいだ、現在の自分というのはどうなっているのだろう。丸一日ここにいたなら、誰かに不審がられることはまちがいない。
「……あッ」
シフルは思いだしたように叫ぶ。「ままま、丸一日——?」
わなわなと震える唇からほとばしったのは、ほとんど悲鳴だった。
理学院では、出席もむろん成績のうちである。当然、無遅刻無欠席なら皆勤賞となり、何点か上乗せされる。上をめざす者であれば、皆勤賞は当たり前。労せずして得られる点を、みすみす逃すまぬけはいない。シフルもこれまで、欠席はもちろん遅刻も早退もしなかったのだが、こんなところでまるまる一日欠席という大穴を空けてしまった。
しかも、今の状況はどうだ? そう、留学メンバーの選抜試験まであと五日しかないという、ただでさえ時間の惜しいとき。そこに一日まるまるムダづかいとは、まさしく死んでも死にきれない。でももはや、後悔先にたたず、だ。
「空(スーニャ)ー! どうしてくれんだよ、おまえのせいだぞ! 証拠なんて、まさか一日以上かかるなんて思ってねーよ!」
シフルは目の前の青い妖精にむかってわめいた。不注意は自分のせいだが、責任転嫁でもしなければやりきれない。だが、こうしている時間も惜しかった。シフルはすぐに八つ当たりをやめて、急いで広場への階段を下りだす。
「おい、どこに行く」
「寮に戻るんだよ。時間がもったいないんだ、選抜まで四日しか残ってない! こうなったらロズウェルにでも誰にでも召喚のこつを聞いて、それから……」
すると、うしろから空(スーニャ)にシャツの襟をつかまれた。シフルはなお降りていこうとしたが、思いのほか強く握られており、解けない。少年はしぶしぶ振り返り、
「……どうしろってんだよ」
と、口を尖らせた。青い妖精は、よくわかっているじゃないか、と言ったうえで、
「認めろ。時姫(ときのひめ)さまが実の母親だと」
シフルは深いため息をついた。
「あれが証拠になるってのは理解した」
それから、肩をすくめてみせる。「だけど、いきなり気持ちのうえでも受け入れられるかっていうと、そんなに簡単じゃない。オレは十六年間、ベルヴェット・ダナンの息子だった」
「時間がない、と言ったのはきさまだろうが。早く認めてしまえ」
対する空(スーニャ)の言い分はこのうえなく勝手である。「さもないと、ラージャスタンに行けなくなるぞ。あの女とともに留学したいのだろう?」
シフルは軽い頭痛を覚えた。なぜ、そんなことまで知っているのだろうか。さっき十六年前の過去を見たように、《時姫》の息子である自分を常に観察しているとでもいうのか? そういえばこの妖精、ベアトリチェ・リーマンの『精霊王に関する考察』を読んだことも知っていたし、彼女が総合精霊学の権威だったことも知っていた。
が、それはともかくとして、《時姫》を母と認めることがなぜ留学につながるのか、シフルには納得できない。その女は、母と呼ばなければ《力》を貸してくれないとでもいうのだろうか? それなら、別に認める必要なんかない。なぜなら《力》など借りないからだ。
——オレの力だけで留学できなきゃ、意味がない。
(オレの力でロズウェルに対抗しないと)
そう思うと、シフルの気持ちが再びしぼんできた。母だという《時姫》——その夫たる《精霊王》に呪われているのが自分。自分の力だけでは、あの天才ロズウェルに張りあうことなどできはしない。
(でも、借りた力で勝ってどうする)
そんな空虚な勝利に浸って、何の意味があろう。とにかく、自分はひとりであたうる限りに努力しなければならない。そのうえでなら、最終的に玉砕するも、——ありえないにせよ勝ちを得て歓喜するも、空虚ではない本物の結末だ。
「留学はしたい。だけど、《時姫》の力なんか要らない。オレはオレの力さえあればいい。だから、今はまだ受け入れない」
「きさまは頑固すぎる」
「親父譲りだな」
シフルはにっこりと笑った。その口の端は、皮肉っぽく歪められている。そこには、自分は「時姫の息子」ではなく「父の息子」なのであり、他方では「父の息子」であることも認めたくないのだという含みがこめられていた。
「親不孝者め」
空(スーニャ)が罵る。
「親のない妖精に言われたくないね」
シフルは即座に言い返す。「だいたい、親かどうかはっきりしないやつに孝行しろったってムチャな話だろ。……とにかく、その件はまた今度にしてくれよ」
そこまで言って、襟をつかまれたまま再び階段を降りはじめたシフルは、ふいに思いついたように、あ、とつぶやく。無表情にたたずんでいる妖精のほうへ、勢いよく向き直った。
「そうだ、おまえ!」
シフルは急に声を弾ませた。「そういや、おまえも精霊だったんだよな。なあ、精霊召喚のこつ教えてくれよ。知ってのとおり、留学の選抜試験を受けるには、最低五級の精霊を呼べないとだめなんだ」
そうだよ、こいつがいたんじゃん、精霊のことは精霊に聞け、だ! と少年はご満悦の体である。
対する妖精の反応は、相変わらず冷めてはいたものの、シフルの頼みにあっさりと答えを与えてくれた。
「精霊を喜ばせろ」
「へ?」
ごく簡単に返されたので、シフルは一瞬そうとは思わなかった。それから一転、目を輝かす。
空(スーニャ)は繰り返した。
「力を借りたければ、精霊を喜ばせろ」
「……あー、それか」
シフルは肩を落とす。そんなことはすでに知っている。精霊は己の趣味や気の赴くままに現れるから、てっとり早く精霊の喜ぶことをすればいい。問題は、それでいったいシフルの何に精霊が喜ぶのか、ということだ。水(アイン)に愛されるロズウェルや、風(シータ)に愛されるルッツであれば、精霊たちは呼ばれただけで大喜びするかもしれないけれど、シフルを含めた大多数ではそうはいかない。
舞踊の教師ともちがうから、シフルが精霊讃美の舞を踊ったところでどうにもならない。噂によると一部の司教たちが実際に行っているという、食べ物や宝物で釣るのも、家出少年の清貧シフルには到底不可能だし、そもそも一時的に力を貸してもらえるだけでは仕方ない。生きている限り力を貸してくれるようでないと、召喚士としてのシフルの力にはならないのだ。
「ゼッツェだ」
空(スーニャ)は短く言った。
シフルは一瞬ぽんと手を叩きかけたが、すぐに頭を振る。
「ゼッツェならいつも吹いてる」
手もとの楽器を、そっと撫でた。「だけど、精霊なんて来てくれたことないぜ。讃歌だってよく吹いてるのに。《若人》のセリフ暗誦するだけで精霊に喜ばれるようなやつとはちがうんだ」
「きさま、時姫さまをなめているのか?」
なぜか、妖精の口調が怒りを帯びはじめた。
「なんでそうなるんだよ」
「なるに決まっている。精霊に愛される人間は、容貌にせよ性格にせよ、血筋によっている。精霊に愛されていると思えないのは、おまえが時姫さまの血に疑念を抱いているからだ」
「アホか!」
シフルは間髪を入れず返す。いいかげん、この青い妖精の《時姫》至上主義といわんばかりの価値観には我慢ならなくなってきた。
「おまえの頭が偏っているのはわかったけど、そういう問題じゃない。……だってそもそも、呪われてるんだろ? 『母親』の血も、オレの血も。ゼッツェ程度で、精霊が喜んでくれるわけがない」
そうだ、仮にさっきまで見ていた過去を受け入れ、《時姫》なる女を母と信じるならば、きっと彼女が夫たる《精霊王》に何らかの理由で呪われていて、その息子であるシフルもついでに呪われているのだ。《精霊王》はすべての元素精霊を統べる存在なのだから、《精霊王》に呪われている自分が、いくら低い級とはいっても精霊に愛されるはずがない。
だいたい、三級以上の精霊の力を使役できない人間が、愛されているといえるわけがない。ロズウェルは一級妖精を従えており、ルッツも三級精霊の力を操る。それら大きな力こそ、精霊に愛される者の証。
「メルシフル、おまえの頭が固いのはよくわかった」
あからさまに嘆息しながら、空(スーニャ)がゼッツェを指し示す。「何も言わず、まずはゼッツェを吹け。世の中、きさまごときの未熟な頭で理解できることばかりだと思うな」
「……だけどさー」
むだだとわかっているのに。
「もうこれ以上、言ってやれるようなこつはないぞ」
冷たくそう言われては、少年も渋っている場合ではない。嘆息したあとで、マウスピースに口をつけた。息を吹きこみ、木管のまわりに手をあてて、まずは楽器をあたためる。
次に曲目を考えた。これは、たとえ無駄でも、実験なのだ。精霊讃歌にするしかないだろう。シフルは迷うことなく、なじみのある四番を選んだ。精霊讃歌の第四番といえば、礼拝から結婚式にいたるまで幅広くうたわれる、誰もがメロディを覚えている曲だった。
シフルは思いきり息を吸いこみ、あたたまったゼッツェに吹きこむ。ポー、と優しい音色が響いた。よし、いい音だ。準備万端。シフルは、かたわらで見守っている青い妖精をちらと見る。空(スーニャ)はうなずいた。
シフルは覚悟を決めて、指穴をひとつひとつ押さえる。そして、息を吐きだすとともに、それらを放したり押さえたりした。
シフルの指の動きが、吐く息が、音楽をつくりだす。夕焼けの理学院に、優しくも寂しげな旋律が流れはじめた。シフルにはなんとなく不思議だった。まるまる一日が経過して体力を消耗しているはずなのに、いつもと変わらないゼッツェ演奏の楽しさがある。
(どうしてだろう)
シフルは恍惚と目を閉じる。(好きだからか? ……でも、本当に疲れてるときって、だんだんマウスピースくわえてる口がゆるんでくるんだよな)
しかし、今のシフルはしっかりとマウスピースをくわえており、当分ゆるむ気がしない。まだまだ吹ける。今、いつも一緒に合奏するけれど一度も姿を見せていないあの《彼》が現れても、いつもと同じように心が弾むだろう。
(来てくれないかな? アルトパートに入ってこいよ、おまえ!)
「おい、目的を逸脱するな」
突然、空(スーニャ)が口を挿んだ。「目を閉じてどうする。ちゃんと目をかっぴろげて見んか」
「あ、そうだった」
シフルは一瞬演奏を中断してつぶやくと、あわててまぶたをもちあげる。
そのとき、視界のなかで光が弾けた。
思わずあッといって、シフルは目を覆う。パチッという音まで聴こえたような気がした。冬でもないのに静電気でもわいたかな、と思いつつ、少年は目をこする。すると目の前で、また光が落ちていった。見覚えのある光——けれど見たことのある光とはちがう、赤い光。それは、すぐに消えていく。
「これって……」
シフルは信じがたい気分で、ゼッツェを握りしめる。真剣な面もちで息を吸いこみ、再び同じ曲を演奏しはじめた。曲が走るのにともなって、赤い光が落ちていく。それはまるで、赤く光る蝶の鱗粉——。ロズウェルの舞で発現した青い光と同じもの、ただ属性がちがう。
「火(サライ)、なのか」
シフルは尋ねた。答えは返らない。
「見ればわかるだろう」
代わりに空(スーニャ)が言った。赤い光は、いよいよちらちらと降ってくる。シフルにまとわりつくようにして淡い光を放つ。
シフルはまた訊く。
「喜んでくれるっていうのか? オレのゼッツェで」
「だから言ったろう」
空(スーニャ)はさも当たり前のように告げる。「おまえは精霊に、特に火(サライ)に愛される者だ。そうでなければ、口を聞いてくれる精霊など現れるわけがない」
青い妖精は、先日の試験のときや六級火(サライ)召喚に成功した際に、あの火(サライ)とシフルが語らったことをいっているらしかった。
「あれって、あの火(サライ)がオレを好きでいてくれるってことなのか?」
「そうじゃなければ何だというんだ、察しの悪い」
「だけど! だけど、オレ、呪われてるんだろ?」
問う少年に、空(スーニャ)はあっさりと返した。
「精霊王に呪われているのであって、精霊たちに呪われているのではない。三級以上の精霊の力を借りられないのは、精霊王が精霊たちに圧力をかけているからだ。が、感情はどうしようもない」
妖精はきっぱりと言い切る。「自分たちの王がその者を呪っても、愛すべき者は愛すべき者のまま、変わらない」
シフルは、急に頬が熱くなるのを感じた。
(……そんなの、知らない)
泣きたいと思った。でも、涙は出なかった。うれしくて——ただ、笑いたかった。
シフルは顔をあげる。誰にむかって、何をいえばいいのだろう。彼はあたりを見回した。それでも誰かに何かを伝えたい。
火(サライ)はそれぞれ単独の存在。しかし、ああして光を散らすときの彼女らは、ひとつというよりも多人数で、同時にひとつの意思を共有しているように思われた。だから、赤の光は舞い散る花びらにも似て、それぞれがきらめいて歓喜を表現する。
それぞれ異なる個体であっても、火(サライ)全体の意思として自分を愛してくれているというなら、ひとり残らずすべての火(サライ)に伝えたい。彼女らが与えてくれたものが胸のうちにあふれているということの——喜びを。
「……うれしい」
それだけじゃ足りない。
「ありがとう」
それはそうだが、それだけじゃない。感謝より、もっとあたたかい。
「いや」
そうだ、これだ。シフルはやわらかく微笑んだ。「オレも、好きだよ——火(サライ)」
ぱっ、と赤い花弁が、ひときわ激しく飛び散った。
その光のまぶしさに、シフルは目がくらみ、反射的に手をかざす。目がもとに戻ってから手を下ろしても、なお赤い光は少年を取り囲んで落ちていく。よく見ていると、ひとつひとつがくるくると踊っている。シフルは、そのうちひとつの光に顔を近づけた。と、その赤い光の粒は、いたずらっぽく少年の眼の至近距離まで寄ってきて、前触れなしに激しく点滅してくれた。一瞬、彼の目の前は赤い光に埋められた。
シフルは苦笑し、まばたきを二、三度する。視界が元通りの色合いになったとき、あとにはこれを教えてくれた妖精ひとりがたたずんでいた。
空(スーニャ)は、それみたことか、と無言のうちに主張している。
「……おまえの言うとおりでした」
シフルがしおらしく認めると、
「当たり前だ。俺の言うことがまちがっているはずがなかろう?」
と、胸をそらしてみせた。「だから、とっとと時姫(ときのひめ)さまのことも認めるがいい」
「それとこれとは別」
シフルは即座に返す。「認めるのに時間を要することと要さないことがある」
「頑固者め」
妖精はまた悪態をついた。
「だからそうだってば」
少年は肩をすくめる。空(スーニャ)にむかって小さく手を振り、
「ありがと、な」
はっきりしない声で告げて、踵を返した。
足早に階段を降りると、そのままの速度で広場を横切り、少年は去っていく。残された青い妖精は、わずかにクーヴェル・ラーガ(青い石)の瞳を細めた。
シフルは寮に戻った。
階段を昇ってAクラス寮にたどりつくと、とたんに緊張で喉が絞まり、軽く咳きこむ。しきりに嘆息しつつ自分の部屋の扉の前に立ち、うしろめたい気分で扉を開けた。
(一日まるまるさぼっちゃったんだもんな……)
シフルは後悔に苛まれている。事故みたいなものだが、確認しなかった自分にも非がある。
(ユリスたち、呆れてるよな……、きっと。ロズウェルやルッツなんか怒ってそうだ)
理学院は、単なる高等教育機関ではない。プリエスカ全土の学校から優等生中の優等生が集ってくる、名門中の名門だ。王立であることにかけて、世間では《王さまの学校》とも呼ばれている。
そんな理学院では、基本的に不まじめな学生など受け入れないし、また成績に影響するとわかっていてむざむざ授業に遅れてくるような学生は昇級できない。おおかたの学院生にとって、無遅刻無欠席は当たり前のこと。そうでない学生については、おまえ本当にやる気あるのか? という話になる。
そういった考えかたの度合いはクラスが上がるごとに突出してきて、当然Aクラスにおいて絶頂となる。Cクラスあたりにいたころは、病弱を理由にしばしば欠席する学生も見受けられたが、Aクラスまでくると心身ともに強健な学生しか残っていない。たまに欠席者がいたと思えば、深刻な病が明らかになり、そのまま学院を退学していく学生だったりする。
よってシフルは、やむにやまれぬ事情があったとはいえ、まんまと一日欠席の大穴を空けてしまったことに罪悪感を覚えていた。友人は呆れることまちがいなし、シフルにかまうルッツには失望されるだろうし、ロズウェルに皮肉をいわれないはずがない。
担任がヤスル教授でよかった、教授は学生に無関心だから、とシフルは思う。それがBクラスのときの担任、カリーナ助教授だったら、まず呼びだされただろう。前に、そうして彼女に大目玉を食らった学生がいた。彼は、たかが一日、学院の外で羽を伸ばしただけだった。
(うー……、あー……気が重い)
シフルは扉を全部は開けず、隙間から中をうかがった。
ユリスがいる。彼は自分の椅子に腰かけて、何やらほがらかに笑っていた。誰かとしゃべっているようである。
「あ、シフル! お帰りー!」
アマンダだ。今日も彼女は晴れやかな雰囲気を発散している。ためらうシフルを、笑顔で部屋に招き入れた。
「あ、うん、ただいま」
シフルは逃げだしたい気持ちで、のろのろと部屋に入った。アマンダはシフルの不審な態度をめざとく察し、
「どうしたの?」
と、首を傾げる。
(へ?)
シフルもまた首を傾げた。いつも三人で行動しているのだ、シフルが無断外泊——実際はそういうわけではないが——と無断欠席の「罪」を犯したことを、知らないはずがない。
「?」
「?」
同じ方向に顔を傾けて、みつめあう二人。次の瞬間、二人して、うふふふ、と笑いはじめた。
「何してんだ、おまえら」
ユリスが呆れている。
「あのさ……」
シフルは中途半端に笑みを浮かべて、友人に尋ねた。「今日、何の月の何日だっけ」
「? 第三の水(アイン)の月二十日だろ。な、アマンダ」
ユリスは部屋にかけてあるカレンダーを指さした。アマンダも、そうだよ、とうなずいた。
(二十日——)
シフルは留学生募集の告知にあった文句を思い起こす。(申込の期日は第三の水(アイン)の月二十五日だった)
あの告知を見たとき自分は、あと五日しかない、と絶望したのではなかったか。それから、空(スーニャ)が見せた過去で一日以上を過ごした。そこで経過した時間を差し引けば、どう考えても残り四日にしかならないはずなのに、なぜかシフルは今、あの留学募集告知が掲示された日と同じ日にいる。期日まで、あと五日。
消えてなくなったのは、十六年前の日々を過ごしたあの一日。
——《時姫》。
「つまり時姫さまは、精霊王の妻であるとともに、時属性を支配するかたである」。そう言ったのは、あの妖精。
——まさか、本当に……?
シフルはついに、あの青い妖精の主張を信じざるをえない状況に叩きこまれたことを心底悟った。
(時姫、という通り名は、あのかたの能力と立場をまさしく表している)
(『時』は時属性。『姫』は寵姫)
ないことになってしまった過去での一日。
十月十日をほんの一瞬に短縮して生まれてきた赤ん坊。
(その子に、メルシフルという名を与えよう)
そう言って、女は扉に手をかけたのだった。(私の子である証として。——中世ロータシア語で、《真の無(メル・シフル)》を意味する言葉……、私が長年望んできたことだよ)
——オレは……。
シフルは覚えず、口を手で塞いだ。言ってはならないことを、その口がもらさないように。
——母さんは……。
どうして、手を離した。どうして、自分を見ない。
——時姫(ときのひめ)、
(オレの、本当の母親)
To be continued.