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​精 霊

第一部 プリエスカ・理学院編

第7話「この足が駆ける」(3)

 第三の水(アイン)の月二十五日——。

 その日は少年にとって、あらゆる意味で契機となるはずだった。

 

 

 時刻は夕方五時十分前。

 秋が深まり、日没もだいぶ早くなるころの、曇りの日。今日は理学院名物ともいえる美しい夕焼けは見られず、この時分ともなれば灰色の空が暗くなっていくばかりである。寮へ帰ろうとする学院生たちの影もはっきりせず、ぼんやりとした長い影は、群がり、あるいは単独で、それぞれの速度で寮棟に向かっていく。

 その流れのなかを、ひとつの影が逆らって進んでいる。その背後に、影がもうひとつ。最初の影は足早に校舎をめざし、続く影はその影のあとを追っていた。

「——シフル」

 先に歩いていた影を、うしろの影が呼び止める。「やっぱり君も行くんだね。期待を裏切らないでいてくれてうれしいよ」

 シフルは歩きながら振り返る。ルッツだ。が、シフルは足を止めない。一緒に行くよ、と一方的にいうルッツに、勝手にすれば、と答える。

 妙にうれしそうな様子で、猫のごとき金の瞳を細める同級生に、調子を合わせる余裕などシフルにはなかった。時間は五時十分前、つまり刻限ギリギリ。もちろん、精神状態だってギリギリである。今回の件では、あらゆる意味で余裕がなかった。

 あれから、練習は必死になってやった。才能や素質の面での不安を解消するには、練習しか手段がなかったのだ。

 そのうえ、不安を解消できるだけの練習を積める時間もなかったので、この五日間、授業や予習復習の合間をぬってひたすら精霊召喚を試みた。とはいえ、校則で召喚学実習の授業を除くむやみな召喚行為を禁じられていたから、授業ごとの短い休み時間、用足しするでもなく洗面所の個室に駆けこんでは小声で精霊を呼び、昼休みには人気のない寮まで走っては自室で精霊を呼び、放課後にはいつものように展望台で呼び、夕食後もやはり展望台で……という具合に、さまざまな工夫を凝らしたうえで、空き時間は全部練習につぎこんだのである。

 これがうまくいかなかったら最後だ、と自分に暗示をかけ、勉強以外の何もかもを削って駆け抜けた五日間。体力的にも精神的にも限界だった。理学院は普段の勉強のみでも充分厳しいというのに、それに加えての努力。いくらシフルが若くても限界があるし、何といっても結果として成功しない確率が高い、という予測が少年の体力精神力をますます絞りとる。

「それで、どうなの? 五級程度はなんとかなった?」

 そう言って笑う《四柱》の一人、ルッツ・ドロテーア。三級風(シータ)を思うまま操り、彼らを使役して攻撃することさえできる彼も、今回の競争相手の一人である。

 留学生募集の四人の枠に、シフルが知っている限りでも、ルッツをはじめとした《四柱》と自分が名のりをあげている。彼ら四人は、シフルの留学にとって大いなる壁だった。シフルが留学を射止めるには、理学院召喚学部Aクラスでトップの実力を誇る四人のうち、せめて一人を打ち負かさなければならない。

 それに、競争相手が彼らだけと決まったわけではない。ひょっとしたら、《四柱》が応募していると知ってもなお挑戦する果敢な学生は、シフル一人ではないかもしれないのだ。そうなると、《四柱》には及ばなくとも「五級程度」であれば召喚できるような学生が、ぞろぞろ来ている可能性もある。シフルは、彼らにも負けられない。

「さあね。見てのお楽しみ」

 シフルは、ルッツにむかって無表情に答える。というより、無表情に答えざるをえなかった、というほうが正しい。今のシフルは、意気揚々と胸を張ることも虚勢を張ることもできなかった。それほどに自信をもてず、心の余裕もない。

(いつもどおりにやるしかない)

 シフルは凝り固まった肩をほぐす。(オレはいつも、試験が得意だったじゃないか。緊張してても、声なんか震えたことない。手も足も、気持ちも、緊張するにつれて研ぎ澄まされて——それで、成功してきたんだ)

 ——でも、今日は。

 シフルは内心ひとりごちた。

 ——ムリ、なのかもしれない。

 準備が間に合わなかったことなんて、これまでなかった。いくら努力を積んでも「準備にならない」ことなんて、これまでなかった。何といっても今回の選抜試験は、準備如何でどうにかなる類いの試験ではないのだ。

「ふふ、楽しみだね」

 ルッツはじっさい楽しそうに微笑んだ。「せいぜいうまいこと、あの『バ』カか能なし年増を突き落としなよ」

「できるもんならな」

 シフルには、そう答えるのが精いっぱいだった。いつもの試験のあとに、自信満々で友人に接したときのようには、振るまえそうになかった。

 二人は、それからひと言も口をきくことなくカリーナ助教授の研究室に向かった。

 五時五分前に研究室棟にたどりついた。長い螺旋階段をのぼり、五階にある彼女の研究室の前に到着したのは、五時一分前。シフルは壁にかかった時計でかろうじて間に合ったのを知ると、まずは深呼吸して気を落ちつけ、それから扉を三度叩いた。

「——失礼します」

 ドアノブを回し、室内に入る。ルッツが続いてきたところで扉を閉めた。

 おもむろに振り返り、シフルは息を呑む。他の競争相手たちがそこにいた。セージ・ロズウェル、ニカ・メイシュナー、エルン・カウニッツ。Aクラス《四柱》の残りの面々。それに、彼らだけではなかった。顔に見覚えのある学生が三人。まったく知らない学生が二人。

 四人の枠に、合計十人もの希望者が集まっている。つまり、カリーナ助教授の決して広くはない研究室には、彼女を含めて十一人の人間がひしめいていた。

「あらあら、よくもまあ……、集まったものね」

 カリーナ助教授はどことなく呆れた声で言い、部屋の中央に椅子をおく。その上にどっかと座り、さぞかし自慢にちがいない美しい足を組む。集まった学生たちの顔を順々に見やると、少しため息をつき、無言で肩をすくめた。

 そして次の瞬間、その赤い唇を歪め、

「とにかく! 五時になりました。これをもって、留学生の募集を締め切ります」

 と、なげやりに宣言した。「ギリギリで滑りこんだ子も、余裕をもって申しこんだのに私に呼びつけられてここにいる子も、お疲れさま。ここからは、留学希望者を対象とした説明に入ります」

「先生、選抜は?」

 一人の学生が口を挿んだ。

「いったん解散して、今晩八時に改めて実施します。教授陣はもちろんのこと、学院の理事や大司教閣下の前で精霊召喚をしてもらいますから、そのつもりでね。安心なさいな、この場では選考の類いは一切ありません。ただ私は、みなさんにこの『留学』がどういうものかわからせるためにここに呼んだのよ。私の一存でね。他に、強いて質問のある人?」

 学生たちは一様に首を横に振った。カリーナ助教授はそれを見て、さて、と口を切る。

「みなさんも、ラージャスタン帝国という国はよく知っているわね。ここにいる人のほとんどは、休戦協定のときやっと生まれていたぐらいの歳かしら。それでも、あれからまだ四半世紀も経っていない。親御さんにたくさん話を聞かされていることでしょう。募集に応じてきたのは、むろんそれを理解したうえでのことにちがいないわね?」

 彼女の言葉の要点は、ラージャスタンが長らくプリエスカにとって「敵国」だったということにある。戦闘を幾度となく繰り広げていたころ、両国は互いに攻撃しあい、互いに多くの犠牲者を出した。しかもあの戦争は、ラージャスタンではなくプリエスカが仕掛けたもの。どちらがより悪かといえば、自分たちのほうである。

 ラージャスタンへ行けば、人々の悪意にさらされる恐れは充分にあるし、皇宮警護とはいってもむしろ狙われるのは皇家ではなく自分たちかもしれない。それでもなお、精霊召喚士の卵として精進するためにラージャスタン留学を希望するのか。彼女は暗にそう言っている。

 カリーナ助教授の問いかけに、一同は黙ってうなずいた。シフルももちろん首を縦に振った。

「まあ、それは当たり前のことね。地元の学校を辞めて王都まで勉強にやってくるあなたたちの情熱なら、それぐらいはするでしょう」

 ふいに彼女は、一人の学生に顔を向けた。「でもね——問題はそれだけではすまないの」

 助教授に視線を注がれた学生は、何を訊かれるのかと身構えた。カリーナ助教授は、ヘルマン君、と学生を呼んだ。

「あなたは、それ以外のどこに問題があると思う?」

「どこにって……、えーっと」

 ヘルマンという学生は思案をめぐらせる。他の学生たちも、次に当たるのは自分かもしれないと頭を動かしはじめた。シフルも同様である。

(わざわざこんなふうに説明会を開くほどの問題……。そっちが当然、カリーナ先生が本当に言おうとしてることなんだよな)

 シフルをはじめとして、学院の秀才たちはうなる。シフルはロズウェルを横目に見たが、さしもの彼女もまだ答えを導けていない。

「要はその……危険だってことなんですよね?」

 指名された学生が念を押す。カリーナ助教授は表情を動かさず、

「ええ、そうね。だけど……、危険は危険でも、ただの危険ではなく」

 と、付け足した。「あなたたちが複雑な立場に置かれる可能性がある、そういう危険」

「複雑」

 学生はそう反復した。

 そこに、手を挙げたのはロズウェルである。彼女は助教授のヒントから何かを得たらしい。カリーナ助教授に発言を許されると、彼女は考えを述べた。

「私たちが精霊召喚士であることが問題なのではないでしょうか。それも、私たちは上級召喚士並の力をもっています」

「あっ」

 ヘルマンという学生が、なるほど、とばかりつぶやく。一同のうち、何名かはわかった顔になり、何名かはまだわからないというふうに首を傾げた。シフルはといえば、かろうじて納得し、ぽんと手を叩く。一方で、彼女の言葉があるまでは何ひとつ思いつかなかったことに、焦りを覚えもした。

「ご名答」

 と、カリーナ助教授。「わからなかった人は、精霊召喚士の戦いのことを考えてみなさいな。いやでもわかるでしょうから」

 精霊召喚士の戦いは、非常に単純である。精霊はいかなる属性であれ、自分より高い級の精霊に絶対服従だからだ。要するに、上級の精霊を召喚できるほうが勝つ。同じ級の精霊同士がぶつかれば相殺する。よって、国家間の戦争に精霊召喚士を投入した場合、より優秀な召喚士を多く従える国家が勝利し、双方に同じくらい優秀な召喚士がいた場合は決着がつかない。

 この場合、小物の数は何の足しにもならない。一般兵に対する攻撃には

役立つかもしれないが、精霊は集団であっても決して自分より上の者には攻撃しない。十級精霊が束になっても、一級精霊の力を凌駕することはないのだ。それは、精霊たちの絶対的な理である。

 理学院では近年、優秀な召喚士をあまり輩出できていないため、ヤスル教授がその対応策として、複数の召喚士による複数の精霊の力を融合して大きな力をつくりだす研究をしているというけれど、シフルがその話をルッツから聞いた段階では、まだ実用には遠いようだった。仮に、いずれはヤスル教授の研究が実用段階に到るとしても、当分は各々がどれだけ上級の精霊を使役できるか、という点に精霊召喚士の戦いの結果は委ねられる。

 ロズウェルのような、上級召喚士並の学生がラージャスタン留学するにあたって問題となるのは、そこである。秀でた召喚士のいる国が戦争に勝つとすれば、ラージャスタンの狙いは何だろう。——秀でた兵器となりうる芽を早めに刈ってしまいたいのか、それとも自らの掌中において咲かせたいのか?

 もしも、上級召喚士並の学生がラージャスタンに感化され、プリエスカ人であるにもかかわらずラージャスタン側の兵器となったら? もしも、そうなることをラージャスタンに強要されたにもかかわらず、それを拒んだら? ……むろん、危険であることは最前提だ。そのうえに、さらに重なる問題の数々。

「そういうわけでね」

 十名が全員理解した顔になったところで、カリーナ助教授は言う。「いろんな意味で危険なの……この留学は。それをわかったうえで、改めて名のりをあげてほしいのよ」

「何であれ、俺は行きますよ」

 学生のなかから、ルッツが即答した。その場は重苦しい沈黙に陥るはずだったが、彼の発言によってそうはならなかった。

「学院の勉強なんて、もう俺にはつまらない。俺はおもしろいところに行く」

「私もです」

 ロズウェルがあとに続く。「これ以上Aクラスに居座っていても何の成長も望めませんし、それに自分の身を守る自信ならあります」

「わかったわ。ドロテーア君にロズウェル君ね」

 カリーナ助教授は引き出しから紙をとりだすと、羽根ペンの先をインクに浸し、二人の名前を書きつけた。羽根ペンを机に転がしたかと思うと、そこにあった紙を裂き、窓から降らせてしまった。どうやら、五時以前に受けつけた希望者の名前がそれに記されていたようだ。今回が本当の受付だといいたいらしい。

「おれは、自信ないです。……すみません」

 一人の学生はそう言いだした。「辞退します」

「いいわ。私はあなたたちを牽制するためにこんな説明してるんだから。寮に戻りなさい。クトラー君、これからも勉強がんばってね。次はきっとAクラスに上がれるわよ」

 クトラーという学生は頭を下げ、研究室を出ていった。彼はBクラスなのに、五級精霊を召喚する自信があったらしい。けれど、ラージャスタンの皇宮で己の身を守りきる自信はないようだった。

「さあ、他の人はどうするの? 決めるのはあなたたちよ。誰も強制はしません」

 カリーナ助教授の、強い言葉。選択をすませていない七人は一様に躊躇し、顔を見合わせた。そこからは、カリーナ助教授は急かさなかった。彼女はただ黙って、学生たちが選択するのを待つ。結局、その場には重苦しい沈黙が訪れた。

(オレは、決めてる。行きたい)

 シフルはひとりごちる。しかし、自分の身を守れる自信も、五級精霊を確実に呼べる自信もない。応募する資格があるとは、到底いえない。

(まさか、ここに来てこんなふうに選択迫られるなんて思ってなかった。受付だけして解散して、夕食のあとに試験するのかと)

 シフルもまた、ためらっていた。資格も不充分なのに、ロズウェルやルッツと肩を並べることができるだろうか。教授陣にしてみれば、滑稽そのものなのでは? 滑稽な自分というのは、これまでに覚えがないでもないけれど、今回はそこから抜け出る自信がない。だから、滑稽な自分に踏みだせない。

(……でも、決めたんじゃないか)

 シフルはぐっと拳を握る。(今だ、言え——)

「——先生ッ!」

「——やっぱ、おれも行きたいです!」

 シフルが一歩前に出るのと、メイシュナーが口を開くのとは同時だった。シフルは言葉を呑みこみ、メイシュナーは発言を続けた。

「精霊召喚士ってのは、歴史的に戦いと関わってきた。たとえ実力に不安があっても、ここで逃げるわけにはいかんと思うんです」

 彼の決意表明を受けて、カリーナ助教授はペンを走らせる。

「はい、メイシュナー君ね。それに」

 彼女はちらとシフルに視線を投げてきた。シフルは肩を痙攣させる。気づかれていた。

「あッ……」

 シフルは何ともつかない声をもらし、思わずうつむいた。が、他の学生、特にロズウェルとルッツに痛いほどの視線を注がれ、意を決して顔をあげる。カリーナ助教授のまっすぐなまなざしに応え、努めてまっすぐに見返した。揺らいではいるけれど、必死の瞳で。

「オレは、ここにいる誰よりも実力が不確かだけど……ッ」

 少年はそこで密かに深呼吸する。「……でも、事態を打開するために必要なんです。可能性があるなら、挑むだけでもさせてください」

「事態?」

 カリーナ助教授がいぶかしげに問い返す。しまった、と思ったが、もう遅い。とてもではないが、みなの前で言えることではなかった。シフルは口を塞ぐ。ロズウェルを横目に見ると、彼女は眼をみひらいていた——彼女は先日の一件で知っている。ルッツを含めた他の学生はといえば、カリーナ助教授とともに眉をひそめていた。

 しかし、シフルは黙っている。これを言ったら、もう特待生扱いでなくなってしまうかもしれない。何しろ自分は、三級以上の精霊を召喚できないことになっており、精霊召喚士として教会の役に立つことができない学生。役に立たないとわかっている学生を、援助する学校があるだろうか。

「……まあ、いいわ。いずれ聞かせてもらいましょう」

 カリーナ助教授はさっさと矛先を転じる。シフルはさしあたりほっとした。

「そろそろ、夕食ね」

 彼女のつぶやきに、室内の時計を見ると、針はすでに六時前を指していた。夕食は六時に始まり、七時には片づけられる。のみならず、学院には年ごろの男子が多いため、早めに食堂に行かないと充分な量が確保できない。すると、食事のことで焦りが生じたのか、一挙に四人が辞退を決めた。

 辞退した者は続々と研究室を去り、部屋には六人が残った。まずは部屋の主であるカリーナ助教授。それに、留学希望者五名。うち四名は助教授の警告を受けてもなお決心を変えず、うち一名はまだ決断を下してはいない。

 エルン・カウニッツ——彼が最後の一人だった。

(こいつがあきらめてくれれば、行ける)

 シフルは、おそらく選択済みの四人のなかで、自分がいちばん緊張しているだろうと思われた。なにせ、五人希望して一人が落ちる場合、まちがいなく対決はカウニッツと自分とのあいだに起こるだろうことが、容易に予想されるからだ。

 ところが、

「選抜試験、受けさせてください」

 と、カウニッツはようやく告げた。思いのほか、その声は明瞭だった。

「これまで普通の人の勉強する年齢を過ぎても、好きなように勉強してきました。長男だというのに、家族は俺の好きにさせてくれた。このうえ留学まで、しかも自分の身を危険に晒すような留学なんて、家族にはさらに心配も迷惑もかけてしまうでしょう。だから、迷いました」

 カウニッツは、眼を閉じる。「——でも、やはり、ここまでやったからには中途半端に終わりたくないんです。選抜試験になった以上、俺が受かるかどうかはわかりませんが、挑戦だけはしておきたい」

 青年がその真摯な言葉を言い終え、再び眼を開けたとき、カリーナ助教授はもう彼の名を記し終えていた。そして、残った五人に向けて、彼らの名の明記された紙を示す。

「留学希望者は五人でいいですね?」

 一同がうなずくと、彼女はその紙を丁寧に折りたたみ、大事に封筒にしまった。おもむろに立ちあがり、座っていた椅子を元あった机の下に戻す。それから、入口扉に向かいつつ、助教授は言った。

「では、八時からAクラス教室で選抜試験を実施します。遅刻した者はその時点で受験資格を失いますので、気をつけるように。——以上よ」

 そうして、カリーナ助教授は解散を宣言した。そのままさっさと研究室をあとにするかと思いきや、彼女はシフルにつと近寄ってきて、

「ダナン君。負けずぎらいだけで、この選抜には通らないわよ。……あなたはここまでがんばってきたけれど、今回はさすがに勝てない」

 と、《四柱》には聞こえない、小さな声でささやく。

 シフルは一瞬むっとして、悲しくもなったが、すぐにそれが助教授なりの激励なのだとわかった。いつかもそうやって、《セージ・ロズウェル》の名前を教えてくれたではないか。その名前があったからこそ、自分は理学院でここまで来ることができた。

「ありがとうございます。カリーナ先生」

 シフルは、今度こそ本当にしっかりと彼女を見返し、そう答えた。「精いっぱい、やります」

「そう」

 がんばりなさい、とカリーナ助教授は笑った。

 負けられない理由がまた増えた——と、シフルは思った。

 

 

  *

 

 

「——まずは、ルッツ・ドロテーア」

 進行役の司祭が彼を呼ぶ。「前に出なさい」

 ルッツは席を離れ、すり鉢状のAクラス教室の底——つまり教壇に立った。彼が猫目石の輪の中心に入ったところで、教会所属の召喚士が水(アイン)の結界を召喚する。ルッツの姿は、あっという間に水の膜に覆われた。

「君たちには三度精霊を召喚してもらう。何級でもどの属性でもかまわないし、融合でもいいが、最低一度は応募条件にあった五級以上の精霊を召喚すること。結界は水(アイン)の一級精霊だから、一級精霊を呼んでくれてももちろん支障はない」

 進行役の声が、広い教室に響きわたる。

「選抜のポイントを説明すると、ひとつ、かの国で自分の身を守れるかどうか。ふたつ、なおかつ皇家の人々を守れるかどうか。三つ、それらの精霊召喚がまぐれではなく確実かどうか」

 また、司祭はこうも補足した。「言うまでもないが、三つめのポイントは重要である。三級精霊の召喚に失敗して身に危険が迫るより、四級精霊を呼んで確実に攻撃できたほうがいい」

(攻撃……)

《四柱》の他の三人とともに座席に着いて順番を待つシフルは、その単語にどきりとした。これまでの授業で、確かにプリエスカ・ラージャスタン戦争における精霊召喚士たちの活躍にはしつこく言及されてきたけれど、誰かを「攻撃」する前提でものを教えられたことはなかった。

 だから、シフルは考えたこともなかった。少なくとも、先日、ルッツが石を割ったのを見るまでは、精霊の力に「破壊力」があるかどうかなんて考えもしなかったし、ルッツがその力をロズウェルに差しむけてみせるまでは、精霊の力が人を傷つけるなんて思いもしなかった。

(あのときは、ロズウェルが水(アイン)を呼んで、ルッツの放った風(シータ)と力を相殺させたんだ。突然のことなのに、あいつは冷静で……)

 確実な精霊召喚。自分の身の防御。彼女は完璧だった。

(それに、あの事件)

 ロズウェルが学生を水(アイン)で殺しかけた、かの事件。あれは決定打だ。彼女は確実に精霊を使役し、己の身を守り、なおかつ敵を攻撃——傷つけることだって、できる。

 ——今は休戦中だけど、いずれまたラージャスタンとの戦争が始まれば、やつはプリエスカの最高の兵器になるよ。

 学生たちのささやき。

 ——私は、人を殺すためには精霊を呼ばない。冗談でも、私の力を戦争と結びつけるな。

 それに、彼女自身の言葉。……

 シフルは思わず、隣に座っているロズウェルを見た。ランプを数ヶ所ともしただけの暗い教室に、ルッツの召喚によって生じた光を浴びて、彼女の凛とした横顔が浮かびあがっている。無意識にそうしていたので、彼女が視線に気づいて何か用かと訊いてくるまで、ただ漫然とその横顔をみつめていた。

「あ、ごめん。何でもない」

「ドロテーアの召喚を見てなかったのか?」

 彼女は小さく笑った。「ずいぶんと余裕じゃないか。そのぶんなら心配ないな」

「う……、ルッツ、なに召喚してた?」

 シフルは尋ねる。彼女はくつくつと笑って、

「一回めが風(シータ)の三級。二回めが風(シータ)三級と火(サライ)五級の融合。ほら、これから三回めだ」

 と、教壇を指し示す。

 ルッツは水(アイン)のドームの中にたたずんでいた。いつもどおりの落ちついた振るまいで、広げたてのひらをゆっくりと掲げる。

「水(アイン)の子らよ、俺に力を貸してほしい」

 彼の言葉とともに、水(アイン)のドームは別の水(アイン)で満たされた。ルッツはその水の中で、水のゆらめきの影響を受けることなく立っている。

 同席する教会関係者のあいだから、ワッと拍手が起こった。

「すばらしい!」

「彼はすぐにでも召喚士の資格を得るに値する!」

「すばらしいじゃないか、ヤスル君。君の指導の賜物だよ、彼の才能があそこまで洗練されているのは」

 何ぶん教室が暗いので顔はわからなかったが、声からするとシャリバト精霊大司教のようだった。

「恐れ入ります」

 ヤスル教授の態度も、いつになく恭しい。

 そこに、同席者の興奮を打ち切るかのように、

「では、次。セージ・ロズウェル、前に出なさい」

 という進行係の声が入った。

 呼ばれてロズウェルは立ちあがり、

「じゃ、行ってくる。手加減はなしだ」

 と、シフルに告げ、硬質な足音をたてて教壇に向かった。入れちがいでルッツが戻ってきて、ロズウェルのいた席をとると、

「ま、こんなもんだよ。シフルもせいぜいがんばって」

 と、むやみにプレッシャーをかけるので、シフルは臓腑をえぐられる思いがした。

 どうやら試験は、先ほど名前を書かれた順らしい。となると、ルッツ、ロズウェルときて、メイシュナー。その次がシフルで、最後がカウニッツである。偶然とはいえ、どうかと思う順番だ。

 というのも、「確実」で「自分の身と皇家の人々を守れる」という評価基準を、「より高い級の精霊をより確実に召喚できること」だと解釈するならば、この順序は、ちょうど後半に敗者決定戦を据えたことになる。なぜなら、どう考えても、風(シータ)三級を操るルッツと水(アイン)一級を使役するロズウェルはその条件に適っているからだ。問題は、メイシュナー以降の三人——むろんシフル自身も含む——なのである。

 メイシュナーは二人に同じく《四柱》の一人だが、《精霊を讃える若人》の役目は土(ヴォーマ)五級召喚によって獲得したという。土(ヴォーマ)という気むずかしい精霊をそこまで呼べる者はそういないが、精霊召喚士の戦闘の性質からいって、ここでも問題になるのは精霊の階級だろう。土(ヴォーマ)以外の精霊をどれだけ操れるのか、特に噂は聞こえてこないから、おそらくよくても五級程度。三回の召喚の平均が五級以下になるとすれば、ルッツやロズウェルと比較したときの遜色は否めない。

 カウニッツも《四柱》だが、《精霊を讃える若人》の役目は火(サライ)四級召喚によって獲得したという。カウニッツ本人から聞いた話によると、ルッツとロズウェルも火(サライ)なら四級まで呼べるものの、同じ学生が《若人》を兼任するわけにはいかないので、彼に繰り下がってきたらしい。その話から、他の精霊の召喚も大したことはない。それでも《四柱》と呼ばれているからにはそこそこ実力があるはずであり、そうなると、彼もやはり火(サライ)以外は五級程度だろう。こちらも三回の召喚の平均は五級前後になるはずである。メイシュナーとほぼ並ぶ。

(オレは……)

 シフルは自分の順位を予想しようとして、やめておいた。考えてもむだだ。どう考えても、いちばん不利なのは自分である。経験がそもそも四人に比べて足りないうえに、絶対的に不利な条件まで背負っているのだ。

(でも、できることなら)

 シフルは己のてのひらを凝視した。(四級が召喚できたら、いいんだけど)

 選抜試験の説明を聞いたとき、このさい三回とも火(サライ)の五級で揃えようと思った。火(サライ)は四属性のなかでいちばん気やすい性質であるとともに、シフルにとっていちばん相性のいい属性で、なおかつ先日、空(スーニャ)に教えてもらったからだ。自分は火(サライ)に愛される者だと。

 が、よくよく考えてみると、火(サライ)しか使えないというのは不利である。戦いでなくても、例えば火(サライ)を使役して火をつけて、それを消すための水(アイン)を召喚できないとなると大問題だ。よって、いくら得意といっても火(サライ)にこだわってはいけない。試験の評価基準を、大幅に逸脱してしまう。

(ルッツはよくわかってんなあ)

 シフルは嘆息した。(ちゃんとポイント突いた選びかたしてる。やっぱ、いくらあのルッツでも、Aクラスってのはダテじゃないんだな)

 そこで彼は、まず一回めに火(サライ)五級を召喚し、二回めは、一回めがうまくいった場合は火(サライ)の四級に挑戦、失敗した場合もういちど火(サライ)五級を呼び、最後に水(アイン)か風(シータ)の六級を召喚して属性の種類を増やすことにした。あまりむちゃをせず、自分の力を最大限示すと同時に階級の平均値をあげるためには、これぐらいだろう。

(四級か)

 シフルはいよいよ深くため息をついた。このところ練習していたのは五級で、四級など試みたことすらない。それに、精霊王の呪いによって三級以上の精霊の力を借りられないシフルには、四級召喚が仮にできてしまったら、もうそこが行き止まりなのだ。できるようになりたいけれど、なりたくない。

 ——なるようになれ、だ。

 シフルはついに覚悟を決めて、ロズウェルの召喚を見ることにした。が、彼が考えあぐねいているあいだに、彼女はとうに試験をすませてしまったらしく、シフルが姿勢を正して前を向いたときには、もうこちらに帰ってくるところだった。

「お疲れ。なに召喚したんだ?」

 少年は悪びれもせず尋ねる。

「本当に余裕だな、ダナン」

 ロズウェルは呆れ気味に言い、右隣に腰を下ろした。「一回めは水(アイン)一級、それで力の相殺が起こって結界が壊れたから、二回めは一級水(アイン)の結界。三回めは火(サライ)と風(シータ)の融合だな。両方とも四級」

「さすがだね、ロズウェル」

 左隣で、ルッツが口角をあげる。「この調子だと、もうちょっとしたらひとりで《若人役》四人分できるようになるんじゃない?」

「それは、今すぐ理学院の方針が変わったとしても不可能だな」

 冗談とも本気ともつかないルッツの物言いに、彼女は即答した。「他の三属性はともかく、土(ヴォーマ)をまともに扱えるのは選ばれた人間だけだから。おそらく、当分は彼が土(ヴォーマ)を讃えるだろう」

 彼女は顎をしゃくって、教壇に歩いていく者を示した。三番めに名前を記された学生、ニカ・メイシュナー。

 ついに、脱落者一名を決める争いが始まるのだった。シフルはもう何も考えまいと彼を凝視する。メイシュナーは教壇に上がると、水(アイン)のドームの中に肩を滑りこませた。ドームの中心に立つと、背筋を伸ばし、進行係を見据える。

《四柱》のうちメイシュナーとはあまりしゃべったことがないが、これまでの少ない機会には見たこともない真剣なまなざしだと思った。誰も彼も、ここに残った者は真剣なのだ。真剣に、行けるところまで行きたいと考える、本来の意味での学生。その真摯さもまた、Aクラスの《四柱》たる所以。

(オレもその中にいて、そんなやつらと争うんだ)

 たとえ四人のなかに食いこめなかったとしても、それは誇りになるだろう。シフルはそう肌で感じた。肩の力がすっと抜けていった。

「始めなさい」

「はい」

 メイシュナーは進行係の合図とともに、右手二本、左手三本の指を立てた。「土(ヴォーマ)よ、今、おまえの力を求める。おれのもとに来い」

 五級土(ヴォーマ)召喚——。シフルは、気むずかしいと評判のあの土(ヴォーマ)で、五級もの精霊を使役するのを見たことがなかった。シフルが覚えている限り、Bクラスのときにカリーナ助教授が八級土(ヴォーマ)を呼んでみせたぐらいである。扱いがむずかしすぎて、教授陣でも土(ヴォーマ)を得意とする者は稀有なのだ。

(あ)

 シフルはかすかに地面が揺れているのに気づいた。(地震……!)

 いくら教壇に水(アイン)の結界が張られているとはいっても、影響されているのが床下では何の意味もなさない。同席者たちはどよめいた。当初かすかな揺れに過ぎなかったものは、徐々に激しい横揺れとなっていく。

 最初にランプが転がり落ちて割れた。落ちるランプがなくなったあとに、老人たちから次々と座席から振り落とされた。学生とて無事ではない。反応の速いロズウェルたちは椅子の背もたれにしがみついてことなきを得たが、

「わ、わ、わ!」

 反応の遅いシフルはといえば、学生でただ一人、床に投げだされた。シフルが今にも床を滑っていきかけたとき、ロズウェルがとっさに風(シータ)を呼びだして、彼女——風(シータ)は一般に女性とされる——に押し戻させたので、かろうじて醜態を見せずにすんだ。

 そこで地震はやんだ。シフルはロズウェルに礼をいって席に戻り、気をとりなおしてメイシュナーを見た。

 次に彼が呼んだのは水(アイン)だった。水(アイン)の五級を自分のまわりに輪のように漂わせ、同時に風(シータ)の六級を召喚する。涼やかな水音がしてしぶきが飛び、水(アイン)のドームに吸収されていった。

「火(サライ)、おれに力を貸してくれ」

 いよいよ最後である。指は左右あわせて五本。彼の身長ほどの炎が燃えさかり、消えていく。火(サライ)が完全に消え去ったあとで、メイシュナーは、以上です、ありがとうございました、と頭を下げて教壇を降りた。同席している教会関係者から、健闘を讃えて拍手が贈られた。

「なかなかやるな。《四柱》の名に恥じない学生だ」

「四属性をいずれも平均的に使いこなせるとは、貴重な子だね。なんといっても、土(ヴォーマ)を五級まで使いこなせるというのが大きい」

(なるほどな)

 シフルはうなずいた。メイシュナーは、ロズウェルやルッツのような決め手をもたない代わりに、どの属性であっても五、六級なら確実に召喚できるとアピールしたのである。特徴がないという特徴を生かした、優れた試験戦略といえよう。

 それに、やはり土(ヴォーマ)の地震はすごかった。土(ヴォーマ)がそう簡単に人の手に落ちないのは、土(ヴォーマ)は人に対して与える影響が強く、その力もまた手に負えないものであるからという噂があるけれど、五級であれだけの揺れが起こるのだ、それも納得できる。

 シフルが再び考えごとに没入していると、隣にいるルッツが後頭部を小突いてきた。

「シフル」

「んー? 何?」

 シフルは呑気そのものの返事をした。ルッツは、シフルを挟んでむこうのロズウェルと顔を見あわせると、これみよがしに肩をすくめる。それでもなお、シフルが思案をめぐらせていると、

「次。メルシフル・ダナン」

 進行係の声が厳然と響く。

「——あ」

 冷水を、浴びせかけられたようだった。「……はい」

 メイシュナーの分析に夢中で、自分も試される側だということを忘れていたのである。シフルは《四柱》それぞれの呆れ返った顔を見て、大あわてで席を立った。勢いのあまり、何もないところでつまずきかけて、このうえ同席者たちの苦笑を誘ってしまった。シフルもつられて、気まずく頬をゆるめる。が、笑ったとたんに、自然と緊張が解けていった。と同時に、少年の内側を試験に独特の静かな興奮が満たしていく。

 ——よし。

 つまずいたのは純然たるアクシデントだが、悪くない。シフルは居ずまいを正し、教壇に向かった。もうつまずかないように、足もとを確かめつつ壇上にあがる。猫目石をまたいで水の膜をくぐり、ドームの中心にたどりついた。

 シフルは水のゆらめきを通して、教室全体を眺めやった。どうやら、ドームの外側から内側を見るときより、内側から外側のほうが見えにくい。ここからだと、教授や《四柱》の顔も判然とせず、机や椅子も輪郭がぼやけてみえる。メイシュナーの起こした地震により壊れたランプも、いつの間にか拾いあげられて再び灯がともされたようで、やわらかな光があちこちに点在していた。

 外はすべて曖昧。だから、刺さるような視線も感じない。

(思う存分、やれる)

「さあ、始めなさい」

 物音もだいぶ遮られていたが、進行係の声はよく聴こえた。

「はい!」

 シフルは意気ごんで答える。力強い返事とともに、右手三本、左手二本の指を立て、利き手を振りかざした。

 そして、胸のうちで確認する。

 精霊召喚のこつは、精霊を喜ばせること。

 思いだせ。どうしたら、火(サライ)が喜んでくれるか。——

 

 

(うれしい)

(ありがとう)

(オレも、好きだよ——火(サライ))

 

 

「——火(サライ)の子らよ」

 シフルはひとつひとつの言葉をはっきりといった。眼を閉じて火(サライ)のいる空気を肌で感じ、眼を開ける。それから、勢いよく手を降り下ろした。

「——オレに、力を貸してくれ!」

 確信があった。

(来てくれる)

 シフルは目の前の空間を、じっとみつめる。(おまえたちはきっと、オレを助けてくれる——)

 まだ火(サライ)は発現しない。

 が、ふいに拍手が聴こえた。どうしてだろう? 不自然だ。まだ——呼べてないのに。

 だけど、おかしい。頭の上が熱かった。そんなに、頭に血がのぼっているのだろうか?

 シフルは水(アイン)の壁に顔を近づけて、外の様子をうかがった。手を叩いているのは、教授陣の中にいるカリーナ助教授。シフルが首を傾げてみせると、彼女はにっこりと笑い、おかしげに自分の頭上を指さした。上を見ろといっているらしい。

「?」

 シフルはいわれるままに上を向いた。「……あ?」

 目の前が、真っ赤に染まる。

「——」

 シフルは、二の句が継げなかった。

 あろうことか、火(サライ)は、シフルの頭上で燃えていたのである。まるで、必死の少年をからかうかのように。大きな五級火(サライ)の炎。

 こんなことは前にもあった。クラスで六級召喚を披露させられたときだ。

「……わかってるよ、火(サライ)」

 シフルはかろうじて言った。「『おまえ』なんだろ? また」

 試験のときに出会い、礼をいうため呼びだしたときに初めて話をした火(サライ)。Aクラスに入ったあと、六級火(サライ)を召喚したときに再び出会い、その際に会話によってシフルは学説を覆すことになった。

 彼女は何度も力を貸してくれた。これは四度めの出会い、力を貸してもらうのは三度め。

〈うふふふ……〉

 頭上で燃えていた炎が、シフルの目の前まで降りてきた。〈また会えました。シフル〉

「うん。うれしいよ。来てくれてありがとう。おまえ、また階級上がったんだな。すごいな」

 シフルは優しい声で語りかける。「でも今、また時間がないんだ。今度会ったときには、おまえとゆっくり話ができたらいい」

〈ええ。そうですね。そうできたらいい〉

 炎がちりちりと火の粉を飛ばす。笑っているのかもしれなかった。

〈うふふ。楽しみにしています。では〉

「ありがとうな」

 シフルは手を振る。頬があたたかかった。うっかり、今が選抜試験の最中であることを忘れてしまいそうだった。シフルは力いっぱい自らの頬を叩き、緊張感を蘇らせる。

(よし、次だ。次は——五級うまくいったから、四級火(サライ)だ!)

 シフルは指を左右二本ずつ立てた。合わせて四本。四級は一度も挑戦していないが、この調子ならうまくいくかもしれない。

「火(サライ)の子らよ。オレに力を貸してくれ!」

 シフルは利き手を高らかに上げ、一気に振り下ろした。

(頼む、火(サライ)!)

 もう一度、助けてほしい。あの火(サライ)でもいい。もう一度やってきて、力を与えてくれたなら。

 シフルはぎゅっとまぶたを閉じた。

「——」

 そっと、まぶたを開けた。

 そこには何もいなかった。ただ、変わらぬ空間があり、そのむこうに水の膜があるだけ。

「あ——」

 失敗したのだ。三回のうち、一回めは五級火(サライ)召喚に成功し、二回めの四級火(サライ)は呼びだせず、残るはあと一回。あと一回で、シフルが「より高い級の精霊をより確実に召喚できる」精霊召喚士なのだと、試験官にアピールせねばならない。

 シフルの頭がすうと冷えていく。絶望の温度だった。いや、後悔の温度かもしれない。なぜ、わざわざ四級に挑戦してしまったのだろう。まだ試してみてもいないというのに、成功するはずがないではないか。

(次……次は? 何にしようと思ったんだっけ?)

 シフルの頭はもはや真白だった。人の試験を見もせず、考えあぐねいたはずのシフルの作戦。何かをアピールするために、三回めには何をやるんだと、決めていたはずだった。しかし、どうしても思いだせない。動転していることはわかっていたが、わかったところで冷静に戻れるわけでもない。次で終わりなのだ。

 それに、生半可な階級の精霊ではだめだ、とシフルは思った。仮に精霊の階級の平均で選ぶとしたら、二回めに何も召喚できなかったことは、大きな失点になる。これまでの三人は、三人とも三回すべて召喚に成功しているし、このまま無難な路線で五級火(サライ)を呼んだとしても何にもならない。

(オレは負ける)

 ついに、その言葉が脳裏をよぎった。(いっそここで棄権したほうが、かっこうはつく)

「どうした? 早くしなさい」

 進行係がシフルを急かしてくる。「それとも、試験を辞退するかね? そうなれば、自動的に最後の一人エルン・カウニッツが留学の権利を獲得する」

 ざわめきが、水(アイン)の壁を通して遠くに聴こえた。みんなはいったいどんな思いで自分を見守っているだろうか? ルッツは、こんなものか、というところだろう。カリーナ助教授はきっと、ここまでね、と。カウニッツは顔にも口にも出さないが、内心喝采をあげている。メイシュナーはよくは知らないがカウニッツの友達だ、彼と一緒に喜ぶのだろう。

 そして——ロズウェル。

(ロズウェル、は……)

 シフルはその名前に、この期に及んで負けずぎらい魂が呼び覚まされるのを感じた。(いやだ。いやだ。あいつには負けたくない)

 ギリギリでも、あいつのめざす場所についていく。あいつが走り去ろうとしても、——かぶりついてやるんだ!

(大きな、力が欲しい)

 シフルはひとりごちた。(一回の失敗をものともしない大きな力)

 今だけでいい。今、この手のなかにその力があれば、自分はとにもかくにもロズウェルの足にしがみついて、ついていける。あとはどうなってもいい。どうしても今、力が欲しい!

 シフルは天井を見上げた。そのとき急に降ってわいたある考えに、弾かれたのだ。が、シフルは再びうつむいた。少年は躊躇していた。それは、とんでもなく卑怯なことではないのか?

 進行係が、今度はやや怒気をこめて告げる。

「メルシフル・ダナン! 二度めの警告だ。早く召喚しなさい。三度めの警告で失格とする」

 迷っている暇はなかった。

「——空(スーニャ)!」

 それしか手段は残っていなかった。少年は、どこかにいて自分を観察しているのだろう彼に届くよう、声を振り絞って叫んだ。

「空(スーニャ)、来い! 今こそ、力を貸してくれ!」

​To be continued.

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