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​精 霊

第二部 ラージャスタン・アグラ宮殿編

第1話「英雄の子ら」(1)

 幼いころは、何ひとつ呪っていなかった。

 己の血も、最初から定められた運命も、すべては当たり前のことであり、とりたてて騒ぎたてなくともよかった。大人になる前に祖国を離れなければならないのも、将来の自分にあらかじめどこかの国の姫君が用意されているのも、他国を見物できるだとか、もしかしたらその娘はとてつもない美姫かもしれないとか、そういった楽天的な考えに結びつけることで、簡単に受け入れた。

 呪うことを教えてくれたのは、腹ちがいの姉である。

 それからというもの、世の中すべてが呪わしく、己の血も定められた運命も、いわんやそれを告げてきた姉も、全部を疎んだ。疎み、厭い、きらい、憎み抜いて、そのすえにあきらめた。そのほうが楽だったからである。

 楽な生きかたを覚えると、もはや拒む必要はなくなった。何もかもを受け入れた。自分にとって、あらゆる世界は昏く、それでいて容易に流れ去るものだった。

 ——ただひとつの、例外を除いては。

 

 

  *  *  *

 

 

「——オースティンさま」

 遠くに小姓の声を聞いて、少年は顔をあげた。

 だが、返事はしない。わずかにいたずらっぽく、灰がかった青の瞳を細めただけである。

「オースティンさーまー」

 もう一度、小姓が少年を呼んだ。小姓はまちがいなくこちらに向かってきている。オースティンは床に寝転がるのをやめ、音をさせないように立ちあがると、椅子に腰かけて背筋を伸ばした。本棚から適当な本を一冊とり、膝の上に開いて神妙な表情をつくる。

 オースティンは軽く息を吸いこんだ。

「ここにいる、アレン。何ごとだ」

 小姓が、力いっぱい扉を開け放つ。薄暗かった書庫に、昼間の光が惜しみなく射しこんだ。オースティンはまぶしさに眼を細め、

「はー、またしても書庫でしたか」

 やれやれとばかり息をついて部屋へ入ってくる少年に、

「何ごとかと訊いている。アレン」

 と、冷ややかにいう。「早くしろ。読書の邪魔だ」

 さも迷惑そうに本を閉じ、椅子の上で足を組んでみせる。それを見たアレンは、呆れを隠さない顔で歩み寄ってきたかと思うと、いきなりオースティンの椅子を蹴り飛ばした。突然の攻撃に、足を組んでいたオースティンはとっさに反応できず、椅子ごと床に倒れこんだ。

「なーに、乳兄弟のこのぼくの前で、えらそうに公子さまぶってんですか、あなたは」

 そう言うアレンは、はでな音とともに主君が床を転がっても、頓着する様子はない。「だいたい、あなたにとって読書なんて、ただの暇つぶしでしょうが。さあ立って!」

 アレンはふてぶてしくオースティンを見下ろした。

「ついでに、ぼくのその服返してくださいね。いくら楽っていっても、大公閣下の第三十一子たるあなたが、そんな安物着ちゃあいけませんよ」

 まったく、オースティンさまは尊い血筋の一員としての自覚がないんだから、とひとりぼやく。転がり落ちた主君に手を貸そうとも思わないらしい。一方のオースティンは、落ちた際に打ちつけた頭をさすりつつ、ゆっくりと身を起こした。

「……アレン」

「はい?」

 低い声で名を呼ぶと、返ってきたのは至極お気軽な答えである。オースティンはにやりと笑った。

「侍従のくせに、主人に対する態度がなってないな?」

「……あれ、ひょっとして、お怒り……ですか?」

 アレンは笑ってごまかしつつ、一歩一歩あとずさる。オースティンは不自然な笑顔を浮かべ、どこからともなく革の鞭を取りだすと、胸の高さに掲げた。

「仕置きをくれてやる。そこに直れ」

「えっ、いやですよ。ぼくとオースティンさまの仲じゃないですか……、ねえ?」

「問答無用」

 いうなり、鞭をしならせる。アレンは悲鳴をあげて逃げだした。オースティンは不気味な笑みをもらしながら、それを追う。狭い書庫を、少年二人が走りまわった。あっさりとアレンを行き止まりに追いつめて、オースティンはいっそうほくそ笑む。ラシュトー大陸において、《英雄クレイガーンの現身》と名高いその美貌で。

 そこに、女が駆けこんできた。

「何じゃれてるんですか!」

 彼女はノーラ——アレンの実母にしてオースティンの乳母、トゥルカーナ大公の住まうここサンヴァルゼ城で女官長を務める女である。「アレン、用事はお伝えしたの? さあ公子、急いでお着替えを」

「は?」

 オースティンはアレンを羽交い締めにしつつ聞き返す。

「あっ」

 そんなつぶやきをもらしたアレンは、どうやら忘れていたらしい。「ああ、そうそう。公子、大公さまがお呼びですよ。……ラージャスタンの件で」

「ふん、なるほど」

 オースティンはうなずくと、アレンを解放する。「わかった。では、着替えるとする。手伝ってくれ」

 かしこまりました、と侍従母子はひざまずいた。トゥルカーナ公国大公である父親にあいまみえるとき、日ごろは気のおけない間柄である乳兄弟や乳母との関係は、突如として公的な色を帯びる。それは昔からの習慣であり、オースティンは何ら異和感を覚えることなく切り替えることができた。

 トゥルカーナ公子として、小姓から盗んだ服を着て大公に謁見などしてはならない。トゥルカーナ公子として、小姓とふざけあったあとのたるんだ気分で大公に謁見などしてはならない。たまたま先祖返りした容貌に生まれたがために《英雄クレイガーンの現身》と讃えられる者として、相応しくない挙動を公式の場に持ちこんではならない。

 数々の義務は、仮にも支配者一族の人間として、当たり前なのかもしれない。けれど、トゥルカーナ大公一族のそれは、一般的な王侯貴族のそれとは異なっていた。

 およそ五百年前の公国成立以降、トゥルカーナは何度か他国と剣を交えた。しかし、トゥルカーナは一度たりとも勝利をおさめたためしがない。精霊の力を駆使して大陸を救った英雄の国でありながら、戦下手だったのである。

 が、それにもかかわらず、トゥルカーナは今なお存続している。言い換えれば、存続させられている。根強い信仰対象である英雄クレイガーンの国は、常に存在していなければならず、英雄の血筋を他国に提供して、その国の支配者が民衆の支持を得るために貢献せねばならない。

 それゆえ、トゥルカーナ大公一族に生まれた子供は、大公位の後継者を除いて、ほぼ全員が諸国に嫁いでいく。女であれば皇帝や王の妃に、男であれば王女皇女の婿になる。むろん選択の余地はない。打診があれば一も二もなく承諾するばかりである。そうすれば、戦下手で、少々貴石の鉱山があるにすぎない資源の乏しい国が、他国の守護と支援にすがって生き延びることができるのだ。

 よって、これは英雄の子孫に生まれた者の運命だった。だから、オースティンは受け入れた。自分だけではない。英雄の血が流れる者すべての運命は、極めて公平に誰のうえにも降りかかる。

 オースティンが飾り扉の前に立つと、左右に控えていた従僕によって謁見の間へと通された。冠を戴き、盛装に身を包んだ少年は、大公たる父タルオロット三世の玉座までさっそうと歩いていき、その足下で首を垂れる。面をあげよ、と声をかけられて、初めて大公を直視した。

 大公はすでに齢七十を通過した老齢であり、今年十六になるオースティンは今のところ最後の子供にあたる。けれど、そのくせ枯れた老いの匂いを気取らせることがない。肌や髪のつややかさ豊かさは、周辺諸国の手厚い保護を思うぞんぶん享受してきた人間のもの。

 しかも、隣には妙齢の美女が侍っている。タルオロット三世には長年連れ添ったカッファとエミルシェンという二人の妻がおり、若き日の婚儀以来、その二人が交互に大公の子種を宿しつづけてきた。が、さしもの多産型婦人も齢五十をまわってはそう励むわけにもいかず、ここ十六年間英雄の子孫の数は伸び悩んでいる。そこで、新たに若い妻を娶ろうというのだった。

「大公閣下に四大元素精霊の祝福あれ」

 オースティンは決まりきったあいさつをした。「このたびは、つつがなくご縁を結ばれたとのこと。いち臣下として、お慶び申しあげます」

「なんだ、早耳なやつだな。つまらぬ」

 言葉のわりに、大公は豪快に笑った。「して、間者はどこの誰か」

「どこにでも噂好きの輩はおりますね」

 オースティンは平然と答える。「未来の大公妃にごあいさつしてもよろしいでしょうか」

「むろん。紹介しよう、スーサの御皇妹ユピーラ姫だ」

 父は、自ら妻の肩を抱き、玉座から降りてきた。ユピーラという名の、父とはどう見ても三十以上歳の差のある若い女は、かすかに頬を紅潮させながらも、皇族らしい毅然とした態度で手を差しだした。

 少年はその手をとると、軽くくちづけ、親愛の情をにじませて微笑した。

「お初にお目にかかります、未来の母上」

「——まあ!」

 とたんに薄く朱の差していた頬が、一気に顔ごと真っ赤に染まった。少年の手を跳ねつけたかと思うと、すねた子供のように頬を膨らませて、そっぽを向く。タルオロット三世が、どうした、と問いかけると、いきなり女は、

「不愉快ですわ!」

 と、叫んだ。「十も離れていない公子殿下に、母上呼ばわりされるなんて、よけいに歳をとった心地がいたします」

「ああ、それは失礼」

(二十四、といっていたか。じゃあ、八つちがいだな)

 オースティンはそ知らぬふりで笑みを浮かべつつ、そう思いだす。

「ははは、そなたの女心はよくわかるが、しきたりでな」

 父は腹を揺さぶって笑い、説明する。「子を産める妃が正妃の座に就くのだよ。正妃ともなれば、後宮の長となり、すべての公子の母、すべての妃の姉となる。十もちがわなかろうが、年下だろうが、そなたはオースティンにとっては母親にちがいない」

「存じております。さんざん教えられてきましたもの」

 ユピーラは大公の言葉を最後まで聞いてから、強く主張する。「それでも、です。いやなものはいやなのです!」

 顔から火を噴いて怒る女に、オースティンは苦笑するしかない。

「では、何とお呼びすれば、機嫌を直していただけますか?」

 少年がやわらかく尋ねると、彼女は甘えたような目つきをして、

「ユピーラとお呼びくださいな」

「わかりました。非公式の場では、そのように。母上」

 オースティンは承知して、横目に父を見た。大公は間の抜けたことに、近く母子となる二人のやりとりを、微笑ましげに見守っているだけである。少年としては、大公に不満がなければ、女の要望を受け入れることに何ら問題はない。

「何度もいわせないで! 母上ではなく、ユピーラですわ」

 オースティンの言葉に、女の不機嫌がぶり返した。「ほら、試しにお呼びになって。もう二度と、その悪いお口が、私を母上などと呼ばないように」

「……ユピーラ?」

 オースティンは、促されるままに名前を口にした。

「ええ、そうですわ。もう一度」

「ユピーラ」

 ——ユピーラ。

 少年の脳裏に、過ぎた日の己の声がよみがえる。

 ——ユピーラ。……

 その女の名を呼ぶのは、初めてではない。

 すでにオースティンは、何度となく口にしていた。

 

 

(オースティンさま)

 あの夜、アレンが前触れなく来客を告げた。(オースティンさま、大公閣下の新しいご正室……スーサの御皇妹ユピーラ皇女殿下が、公子との面会を申しこまれてますけど)

 彼いわく、スーサ皇女はどうしてもオースティンに会いたいと、熱心に訴えているのだという。大公には秘密の、お忍びの来訪だ。オースティンはそれで、大公がついに年老いた正妃カッファを引退させ、若い娘を娶るのだと知った。本来なら第二妃エミルシェンの位を繰りあげるべきだが、彼女はカッファと同年齢で、やはりこれ以上の出産は期待できない。十六年も新しい公子が増えなければ、トゥルカーナの事情としては当然の措置である。

 アレンは大公の妻となる女の訪問に、気がかりな表情を隠さなかった。

(なんか……、あやしくないですか? だって、大公閣下には内緒なんですよ)

 オースティンは小姓のいわんとするところを理解して、嘆息する。けれど、彼にはどうでもよかった。大公は七十過ぎの老いぼれで近年まぬけに磨きをかけていたし、オースティン自身も近々外国に出ていくことになっている。さほど困ったことにはならない。

 そうおざなりに答えると、アレンは呆れていたが、主の決定にあえて反対はしない。公子がよいとおっしゃるならぼくはいいんですけどね、たまには筋を通したほうが身のためですよ、と一応の忠告をし、スーサ皇女を部屋に迎え入れてから、部屋をあとにした。

(ごきげんよう、オースティンさま。ユピーラと申します。近々、あなたの母になる者ですわ)

 あでやかに微笑む皇女は、薄物一枚というとんでもないかっこうだった。

(お初にお目にかかります)

 少年はトゥルカーナ公子として、自国を支援してくれる大国の皇族に対し、礼を尽くす。(まったく、初耳ですよ。大公閣下がこのような美しい姫を——)

 しかし、ユピーラは公子のあいさつを最後まで聞くことなく遮った。そうですわね、あなたにとってはそうかもしれません、でも私は以前からあなたを存じあげておりましたのよ、とひとりごちて。

(あなたのお噂は大陸中にとどろいておりますもの。『黒曜の髪、大理石の肌、曇り空の瞳、その声は春雨のごとく……英雄クレイガーンの現身』と)

 スーサ皇女は熱っぽく語る。(けれど、そんな漠然とした噂だけではありません。以前、ニネヴェ女王の晩餐会のおりにお見かけいたしました。……声をおかけすることは叶いませんでしたけれど……、オースティンさまは、いつも大勢の人に囲まれていて……)

 切々と述べながら、さも悔しそうに眉を寄せる。オースティンは会話の作法として相槌をうつべきか迷ったが、どうせユピーラはこちらの努力には気づくまい。

(それ以来、私はあなたをお慕いしていたのです)

 女はさっさと核心に入った。(けれど私は、ひと月後にはあなたの母となる身。私を哀れと思し召しましたら、どうかお願いです、その前に一度だけ——)

 ひと息に言い切って、彼女は潤んだ瞳でオースティンをみつめる。男がどうすれば揺さぶられるのか、わかってやっている顔だ。

 実のところ、オースティンは過去に同様の女に幾度か遭遇しており、今さら新鮮な感動はなかった。しかし、拒んだ場合の女の行動は数種類に及び、たいていの場合ろくなことがないと経験上わかっていたので、無碍に追い返そうとは思わなかった。面倒は少ないほうがいい。

(年上はおいや?)

 と、訊いてくる女に、

(いいえ、別に。十程度なら問題ありません)

 と、淡々と返す。ユピーラは気分を害した様子だったものの、作戦を中止するつもりは毛頭ないようで、失礼ね、まだ二十四よ、とささやいて、少年の首に腕をまわしてきた。

 そうして、その夜は更けたのである。

 あれから一週間も経っていない。オースティンは父親に呼びだされるにあたり、一応はあの夜の一件を危惧した。普段どおりの冷静さであいさつを交わしたとき、背中に冷たいものが流れていくのを感じないでもなかった。

 が、こんなふうにあからさまなやりとりをしていても、大公は新しい家族の団欒とみなしているようである。まったく、寄る年波とは恐ろしいものだ、まぬけな人間をいっそうまぬけにしてくれる、とオースティンは密かにつぶやいた。大胆な行動を起こしておきながら、嘘のひとつもつけないこの女もこの女だ。せめてもう少し慎ましやかだったなら、父以外の者にも悟られずにすんだものを。

 少年が、なんだかんだと絡んでくるユピーラに応対しつつ、すばやく目をやると、謁見の間に侍している者のほとんどが、どことなくいづらそうな顔をしていた。知らぬは大公ばかりなり、というわけだ。

「さて」

 オースティンはいいかげん女が煩わしくなり、話題を変えた。「それで、ご用は何でしょうか。ラージャスタンの件とうかがっておりますが」

 大公と公子の会話が始まると、ユピーラはわきまえて引き下がっていく。このあたりは、腐っても皇族の一員だ。彼女はタルオロット三世の隣に寄り添って、品よく唇を閉じた。

「おお、それよ。忘れていた」

 大公は実際思いだした様子で、口をひらく。オースティンはやれやれと肩をすくめながら、表情には出さない。

「用件がふたつある。ひとつは、ユピーラ姫との婚儀の日程が決まった。三週間後、姫のお生まれになった水の日に執り行う」

「祝着至極に存じます」

 そうなれば、ユピーラの振るまいも少しはおさまることだろう。

「ふたつ、そなたがラージャスタンに向かう日どりが決まった」

 オースティンは、曇り空の瞳、とうたわれる眼をみひらく。「今週の風の日、すなわち三日後である」

 三日後——。

 突然の通達に、オースティンは返す言葉もなかった。

 少年は呆然と父親をみつめ返す。さしもの大公も、オースティンの戸惑いには理解があるようで、美しく整えた顎ひげをしきりに掻いていた。場の気まずい空気を変えたのは意外にもユピーラで、深刻な面もちで大公に説明を求める。

「そなたらが驚くのもむりはない。私も、それはあんまりななさりようではと、先方にお伝えしたのだが」

「聞き入れられなかった、と」

「まあ、そなたには悪いが、そうだ。ラージャスタンとの縁談は、皇位継承者の婿になるという破格のもの……」

 タルオロット三世は弱り切ったふうで頭を抱えた。「ラージャスタンとの約束を破棄し、プリエスカの王女やニネヴェの公爵家からの申し出に乗り換えるという手もないではないが、ラージャスタンは古き大国。かの国との強いつながりは、我がトゥルカーナにとって有益である」

 プリエスカはしょせん新興国であるし、しかも打診のあった王女は先々代国王の孫、王家の中枢からは遠い。また、ニネヴェには女王の婿として、オースティンの従兄であるアウラールが入っており、今さら絆を深める必要もなければ、公爵家令嬢と皇位継承者の皇女では、条件において比ぶべくもない——と大公は述べる。

 ラージャスタンの伯爵家には、ニネヴェ女王婿アウラールの妹であり、オースティンの従妹にあたるアンジューが嫁いでいるものの、伯爵家程度では弱い。望まれるのは、マキナ皇家そのものとの揺るぎない絆である。ラージャスタンは皇帝と皇家が絶対的な権力をもつ国家で、貴族にはさほど発言権がない。

「わかりました」

 オースティンはようやく返事をした。「請われれば、参るのみです。ですが、なぜ突然? つい先日までは、マーリ皇女殿下の即位を待って婚礼を執り行うと」

 ラージャスタンのしきたりでは、即位と結婚は同時に行われるものだと聞いている。オースティンの疑問に、大公は深いため息をついて応じた。

「姫だ」

「は?」

「そのマーリ姫が、おまえをひと目見たいとぐずるので、特別に婚礼を先にすると」

 少年は開いた口が塞がらない。

「現皇帝は齢六十二。いずれにしても、我が国のような掟がない限り、あと数年経てば譲位と相なり、晴れて予定どおり婿とり……となったのだろうが」

 傾いた大公の頭から、冠がずり落ちた。「何しろ現皇帝一家は親一人子一人でな、大事に甘やかされて育てられた姫なのだよ。わがままも、通されぬことがないという」

 すまない、私にはどうすることもできん、とこぼして、冠を直す。オースティンは平静さを取り繕って頭を下げながら、わがままで国の伝統を変える皇女の、女にしばしばみられるはた迷惑な力強さに、めまいを覚えていた。

 

 

「恐るべしマーリ皇女殿下……ですね」

 アレンは手際よくマントにブラシをかけて、クローゼットに片づけた。

「しかし皇帝も甘々ですねえ。いくら皇女が英雄に瓜ふたつと評判の公子を早く見たいと望まれたからって、伝統を覆してまで叶えてやるとは」

 クローゼットの扉を閉じ、きちんと鍵をかける。「おかげで公子はいい迷惑ですよ、まったく……、って」

 歯に衣着せず、言いたい放題ぼやいた小姓は、はたと止まる。おそるおそる、背後で同様にオースティンの盛装一式を片づけている母親を振り返った。

「……三日間で、公子の荷物全部まとめろと?」

「ああ、それなら」

 ノーラは仕事の手を休めずに答えた。「あちらの国には、ほとんど手ぶらで行くそうだよ」

「手ぶらぁ? じゃあ何ですか、この大量の服とか、装飾品とか、ぜんぶ廃棄するんですか?」

「公子の持ち物なら、喜んでもらってくれる人がいくらでもいるだろうさ」

 彼女は当然のように返した。「婿入りする以上、むこうの色に染まらなきゃならないからね。お召し物も、むこうの衣装をあつらえるそうで、持ち物はほとんど着ていく服だけでいいようよ」

 アレンはオースティンに目をやった。彼の主はくだんの決定によほど衝撃を受けたらしく、昼間から寝台で怠惰に過ごしている。アレンはそんな主に近寄っていき、じゃあ公子、お気に入りのものを選びましょうか、と声をかけた。

「それぐらい許されるでしょうしね。どの本にします? 絵? 指輪? 言ってください、出してきますから」

 オースティンは無気力にアレンのほうを向いた。アレンは微笑んで、

「なんでしたら、その服さしあげます。いわゆる餞別ですね」

 オースティンはようやく起きあがり、シャツの裾を握りしめる。

「ああ……、これはもらっていく」

 目をあげ、すぐに伏せた。「アレン、おまえの服は軽くてあたたかい。僕の服よりよほど」

 アレンは目を細めて、オースティンの顔をのぞきこむ。

「あまりその服ばかり着ないでくださいよ、公子? 先方の用意したものも着ないと、失礼ですからね」

 少年公子は素直にうなずいた。

「この服の他に僕が持っていきたいものは、ひとつだけだ」

「そりゃ荷が軽くていいですね、何でしょう」

 アレンはさっそくとりにいこうと、踵を返す。

「僕とともに来い」

「はいはい、宝物庫ですか? 書庫ですか?」

 小姓は軽やかに返事をして、扉のほうへ歩いていく。扉を押して外に出たあとで、いつまでたっても主がついてこないのをいぶかしみ、扉の隙間から顔をのぞかせた。

 オースティンは大儀そうに前髪をかきあげ、小さく嘆息した。

「——ラージャスタンへ」

「……」

 アレンは一度あけた扉を静かに閉める。「ぼくはラージャ語をたしなんでおりません」

「婚約の成立した三歳のころから習っているだろう。プリエスカ語も中世ロータシア語も使える。ラージャスタンへも、カルムイキアやサーキュラスへも、プリエスカにだって行ける」

「それは公子です」

 アレンはうつむいた。「ぼくにはむりです」

 オースティンは寝台から立ちあがり、アレンの正面に来た。乳母はいつのまにやらいなくなっており、トゥルカーナ第三十一公子の居室には、乳兄弟の二人だけがたたずんでいる。

「僕がおまえの口だ」

 と、オースティンは言った。「おまえは僕の手足になれ。そうでなければ、誰が僕の身のまわりの世話をする」

「アグラ宮殿には、膨大な数の女官が詰めていると聞きます。それも、才色兼備、文武両道で、おまけに優秀な精霊使いともいいますね」

 アレンは目を逸らす。「ぼくを雇ってもいいことありませんよ。だいたい、後宮入りを許される男は、皇帝陛下と、皇女のご夫君となられるあなただけです」

「知ったことか」

 オースティンは切り捨てた。「僕は請われて赴くだけだ。《英雄の血》をくれてやれば、それでむこうは満足だろう? くだらん掟まで守らされる筋合いはない。ただでさえ、今回はむこうの意向に迷惑を被ってるんだ。おまえも、黙ってついてくればいい」

「むりなものはむりです」

 アレンは頑として拒んだ。オースティンはさすがにむっとする。アレンは平然としたもので、身を翻して窓辺に寄った。日は暮れかけており、室内は徐々に暗くなりつつある。小姓はカーテンの紐を解き、西日を遮った。部屋は影に覆われた。

「トゥルカーナが生き残ってこられたのは、なぜだとお思いです」

 闇のうちから、アレンが問いかける。

「それを僕に問うか、アレン」

「僭越は承知のうえです」

 小姓ははっきりした口調で返してきた。「あなたは、大切なことを忘れておいでだ」

 アレンの顔は、陰になっていて見えない。

「《英雄の血》だろう」

 オースティンは密かに息をつく。「それ以外にない」

 アレンはかすかに笑ったようだ。気配で伝わってくる。

「それはもちろん。でも、それだけですか?」

「……」

 言いたくなかった。

 いったら、アレンは来ない。オースティンはひとりで行かなくてはならない。

 アレンは答えを示さなかった。が、オースティンは理解しており、アレンとて主が理解していることを知っている。乳兄弟の少年は黙ってランプの覆いを外した。火(サライ)、公子の部屋を明るくしておくれ、とささやくと、小さな炎がランプの芯を燃やしはじめた。アレンの顔が、火に照らされて浮かびあがる。

 オースティンには、実際どうだってよかった。ラージャスタン皇女も皇帝も、プリエスカもニネヴェも他のあらゆる国も、求めているのはオースティンであってオースティンではない。自分を呼ぶ人間の多くが、自分を伝説上の人物の名で呼ぶということ、彼らにわかるだろうか。呼ばれているのは己ではないのに、応えなければならないのは己である。その不可解さを、わかっているのだろうか。

 そんな連中に、どうやって信頼を寄せればいいのだろう。弱小国家としての恭順を最大限に示し、彼ら以外の誰にも頼れないのだというけなげさを表現し、逆に彼らの信頼を勝ちとるには、いったいどう振るまえばいいのか。今までと同じに嘘をつくしかないのに、常に死にながら生きなくてはならないのに、どうやって生きていけよう。

 けれど、アレンがただひとり、自分を自分の名で呼ぶならば、きっと生きていける。どこででも誰がいても、生きていける。

「アレン」

 小姓は足早に部屋を出ていこうとしている。オースティンはすかさず呼び止めた。

「……おまえは? どう思ってる?」

 アレンは足を止めた。部屋に静寂が落ち、二人のいずれも身動きをしない。ランプの火だけがゆらゆらと揺れている。

「もしも、大公閣下と皇帝陛下と皇女殿下がお許しになるのなら——」

 彼はぽつりと言った。「——ぼくは、公子が泣いていやがってもついていきますよ」

 つぶやきを残し、小姓は公子の居室をあとにした。廊下のむこうへ、彼の控えめな足音が去っていく。

 

 

 トゥルカーナ第三十一公子オースティン・カッファの運命は、その誕生の瞬間に決まった。もっというならば、誕生が予定されたときには、すでに決められていた。

 より具体的に決定されたのは、ラージャスタン皇帝ザーケンニ七世の第一皇女マーリがこの世に生を受けたおりである。オースティン生誕を機にトゥルカーナ側に通知された打診が、彼とめあわせるべき娘を確保できたことによって、決定事項となった。オースティンは幼いころから、ラージャスタンに婿入りするのだと言い聞かされて育った。

 五百余年の時は、たった五十年間の伝説を風化させるのにも足りない。

 六百年前、ラシュトー大陸戦乱の時代。そのころ大陸全域において、前触れなく魔物たちが狂いだした。伝承では、国同士のいさかいが数多の精霊棲まう原生林や原野を破壊したことが、四大元素精霊長の怒りを買ったのだといわれているが、実際のところは誰にもわからない。

 魔物とは妖精の一種である。精霊は実体がないと《安定》できず、《安定》を得るために獣や人、草花や木の死骸に宿借りする。精霊の宿った器——それを妖精と呼ぶ。魔物は獣を器とする妖精の通称であり、虎であれ熊であれ馬であれ、たまたま《美しく》遺骸を残した獣には精霊が居つく可能性があるという。

 魔物は、生きている獣とは決定的なちがいをもつ。まず、器のうちにとどまっても彼らは精霊、その属性の力を駆使することができる。また、多少なりと人間臭さのある精霊は、獣になってもその性質を失わない。つまり魔物は、たとえ肉体が虎であっても、本能的に人や他の獣に襲いかかるようなことはないし、補食することもないのだ。彼らはただある場所に棲息し、獣らしい生活を楽しんでみたり、ときおり人に関わってみたりする。人をいたずらに傷つけたり、意味もなく助けたり、魔物の多くは実に気まぐれである。

 その魔物たちが六百年前、突如として狂いだした。

 彼らは抑えがたい衝動に駆られたかのように、人や村を襲った。人々は突然の変貌に戸惑い、そのあとで恐怖した。魔物たちの爪と牙から逃れようと、村や農園を放棄し、堅固な城壁のなかに飛びこんだ。戦に駆りだされていた兵士たちも、我先に戦場を離れ、続々と城内へ逃げこんだ。

 戦乱は予想だにしなかった事態によって終息した。人々は国家間の争いを中断し、代わりに魔物と戦うことになったのである。

 が、結局のところ、人は無力だった。いくら軍を組織し必死の抵抗をしても、世界の礎たる精霊を前に、人々は儚く命を散らすばかり。この時期、ラシュトー全土の人口は激減する。魔物による殺戮、遺体の腐敗による疫病の蔓延、城壁内に籠って田畑を放置したことによる生産力の低下——すべてがラシュトーの人々の死につながった。

 およそ五十年後に登場したのが、精霊の愛を一身に受けた英雄クレイガーンである。まだ少年だった彼は、魔物たちの発狂と同様に前触れなく、けれどさっそうと現れ、次々に病魔を払っていった。彼と対峙した魔物は、例外なく正気を取り戻し、また元どおりの気ままな生活へと帰っていく。

 見目麗しく、王よりも皇帝よりも民を救いだすクレイガーンを、ラシュトーの民が熱烈に慕ったのは、むりからぬ話である。

 当時、彼の出身地であるトゥルカーナは、スーサ帝国の一地方でしかなかった。が、クレイガーンが大陸全土の掃除を終えて戻ってくると、故郷は彼を王にという民の声であふれかえっていた。一介の農民であることを理由に辞退するも、スーサ皇帝直々に土地を譲られては断れない。皇帝の養子となり、支配者にふさわしい出自を獲得した彼は、トゥルカーナ地方の統治者となって独立国家を打ちたてる。

 ただし、統治者は王ではない、とクレイガーンは宣言する。君臨するのではなく、民の僕あるいは友として仕えよう、と。それでは民の気がすまないと、彼の近くで建国を手伝った者たちは、クレイガーンに報いるせめてもの手だてとして、彼の故郷の村と周辺一帯を新公国の首都に定め、クレイガーネア《クレイガーンの都》と名づけた。さらに、統治者たるクレイガーンの住まいにと、サンヴァルゼ城を進呈する。

 そうして、トゥルカーナ公国初代大公クレイガーンは誕生した。

 いや、するはずだった、というべきである。初代大公クレイガーンは大公一族の系譜にその名が刻まれるのみで、実際に即位はしなかった。

 戴冠を前に、クレイガーンは忽然と姿を消したのである。

 人々は嘆いたが、どんなに嘆いても英雄は帰らない。彼の代わりに、クレイガーンの物心もつかない息子ティナンが大公位に就いた。ティナンの母親に関しては、記録には残っていないが、ティナンはクレイガーンによく似ていたという。

 事実上の初代大公ティナンは、親政開始後には名君と呼ばれたものの、にわかじたての公国の弱体化は早かった。人々に熱意があっても、国内の資源の少なさはどうにもならない。産業部門、軍事部門といわず、あらゆる方面に不慣れな新興国家は、各国にありがたがられているうちはよかったが、それが薄れてくると、あっという間にとるに足らない弱小国家と認識されるようになる。

 狂った魔物がいなくなり、すべての人々に共通する敵がいなくなったことで、各国は元どおりの対立関係となった。再び大陸に戦乱の時代が訪れ、国土獲得をめぐる戦が頻発しだしたころに、致命的な世評。トゥルカーナの命運は、さっそく風前の灯火だった。

 しかし、政治の世界では軽んじられても、トゥルカーナに対する民の憧憬は消えない。伝承は親から子へと語り継がれ、行方をくらました英雄はいっそう美化されていく。そんな民衆の思いは、トゥルカーナが諸国のあいだで形勢不利となると、即座にそれぞれの国の民衆が統治者に反発することであらわになった。

 国をかたちづくるのは民であり、支配者は彼らを掌握できない限り君臨しつづけることはできない。ラシュトー諸国は、すっかり民衆に根づいてしまったクレイガーン崇拝を重くみて、トゥルカーナを名目上の盟主とした《英雄同盟》を結成する。加盟諸国は、英雄の建設した国家を守り、存続させなくてはならない。トゥルカーナの存続により、英雄クレイガーンは永久に生きる。——そういう趣旨の同盟だった。

 建て前は基本として、とうぜん重要なのは本音である。こうした同盟を築くことで、トゥルカーナの民衆人気にあやかろうというのだった。《英雄同盟》には、スーサ帝国、ニネヴェ王国、カルムイキア帝国、ラージャスタン帝国という錚々たる顔ぶれが結集する。クレイガーン人気に手を焼いていたのは、どの国も同じだった。

 トゥルカーナはついに永続を許された。ラシュトー五大国中の四国が手を結ぶことで大陸全土の情勢は安定し、結果として戦も終わった。民衆は、一度のみならず二度も、クレイガーンが平和をもたらしたのだとみなす。またしても英雄の呼び声は高まり、伝説はさらに鮮やかなものとなる。このとき、英雄の失踪後五十年ほどが経過していた。

 それから、五百余年の時が流れている。けれど、英雄崇拝は他の信仰に淘汰されることがない。スーサなど、当初は打算的な加盟だったくせ、現在は中枢を含め国家全体をあげて英雄を信奉している。《英雄同盟》結成時、ばかばかしいと近寄らなかった大国ロータシアは、百年ほど前に滅んだ。ロータシア帝国にとってかわった新興プリエスカ王国も、大陸における自国の発言権のため、《英雄の血》を欲する。

 オースティンは、何もかもをあきらめても、先祖だけは呪いつづけた。クレイガーンがいなければ、クレイガーンが精霊に愛されなければ、子孫のオースティンも一介の農民でいられた。ただのオースティンとして生き、《クレイガーンの現身》として、妙な詩を背負って生きる必要もなかった。

 ——オースティン……。

 女の呼ぶ声がする。

(オースティン)

 父の妻となる女が、上目づかいにみつめてくる。無限のやわらかさを秘めたからだが、白いリネンの上で息づいていた。

(オースティン)

 女の唇がわずかに動く。(私の、……英雄)

 ——オースティン。

 姉は乱暴に扉を閉める。

(私、いやなの。あんな男の妻になるなんて)

 姉はいまだ幼い自分を抱きしめた。(私、好きな人がいるの。結婚なんてしたくない)

 姉上、おかわいそうに。そう言って、姉の背中に手をまわす。

 すると姉は、いきなり自分の肩を濡らしはじめた。驚いて身をよじり、あとずさる。真正面から見た姉の眼に、涙の筋がくっきりと浮かびあがっていた。

(おまえよ、オースティン)

 私は、世界で一番おまえを愛しているの——。

 それは、突然の告白だった。そして、

(オースティン、私を哀れに思ってくれるなら、)

 それを契機に、これまで匂わせもしなかった情念が、堰を切ったように姉のなかからあふれだした。(世界でもっともおまえを愛している私を、愛して)

 カルムイキアの豚に汚される前に、おまえが愛して——。

 そのときはまだ幼く、意味がわからなかったが、反射的に頭を振った。ひたすらに姉が恐ろしかった。けれど、姉は止まらない。自分の頬に手を添えて、なおこいねがう。

(愛しているの、だから、)

 姉はくちずさむ。その呪わしい詩、自分にとっては呪いに等しい詩を。

 ——黒曜の髪、大理石の肌、曇り空の瞳、春雨のごとき声の、……

 

 

(私の、クレイガーン)

 

To be continued.

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