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​精 霊

第二部 ラージャスタン・アグラ宮殿編

第11話「やわらかな檻」(3)

 ムリーラン宮での生活が始まったその日、シフルは一週間ぶりにオースティンと会った。

 その夜は、シフルたち留学メンバーが後宮に移ったことを記念して、夫妻とメンバーだけのささやかな宴がひらかれることになっていた。シフルにしてみれば、命を狙われた翌晩に記念も何もあるかという気がしたが、《気がすすまないようであれば、お部屋で食事してもいいそうですよー?》とメアニーに先手を打たれては、負けずぎらい心が刺激されて承諾するほかなかった。

 喜々とするメアニーによって、シフルは衣装部屋に連れこまれた。そこには、シフルのためにあつらえられたラージャスタン式衣装が山と積まれており、どれを試着してもぴったり、色もシフルに似合うものばかりだった。初日に寸法を測ったのは、日常着の袴をつくるだけでなく、この山を築くためでもあったらしい。メアニーは次から次へと衣装をシフルに合わせた。

「《シフルさまがうらやましいですー、皇帝陛下や皇女殿下のお衣装をつくっているお針子たちに、こんないっぱいつくってもらえるなんて!》」

 少女女官は色とりどりの袴を見比べつつ、力いっぱい言った。「《お針子たちもみんな慈善園出身なんです。中でも針子長は、慈善園時代からそれはきれいな黒袴をつくっていたって有名なんですよ。休戦記念日用の、いまシフルさまもつくっているあれですね》」

「《そんな、うわさになるぐらい》?」

「《はい、それはもう。なんたって、ただ袴を縫うだけなら、その人には簡単すぎて時間が余っちゃうんですって。だから余った時間を使って、袴に刺繍を施したそうなんです。黒袴に、ちょっとだけ光沢のある黒の糸で、すごーく細かい刺繍を。ファテーブルで乾季のはじめに咲く大輪の花があって、ガブーアハというんですけど、裾に黒いガブーアハがいっぱい咲いていたって! それを着たその人が、どんなにきれいだったかって、いまだに語りぐさなんですよ!》」

 なるほど、黒い袴に黒い花とは、言われただけでイメージがふくらむ。同じ学校で学んでいるのに、片や伝説の黒袴、片や袴のかたちにすることにさえ教師の手を借りなければならない黒袴とは。次元がちがいすぎて、うらやましがったり悔しがったりすることもできない。《そのときの袴が女官の目にとまって、卒業後はお針子になって例外的な早さで針子長になったんです》ともメアニーは語った。

「《あっ、これ!》」

 メアニーは白い袴を引っぱりだす。「《これがガブーアハです》」

 ただの白い袴かと思いきや、よく見ると白い布地に微細な刺繍が施されている。光にあてる角度を変えてみると、その優美な大輪の花が浮かびあがった。隠れた色というべきものを秘めた、美しい袴である。シフルは自分のためにつくられたことなど忘れ、ただ袴の美しさに驚嘆した。

「《ね、これにしませんか?》」

「《へ》?」

「《へ、じゃないですよ。いま何してると思ってるんですか。シフルさまが宴に出るための衣装選びなんですからね! ガブーアハなら、季節の先どりでしゃれてますし、白い糸だから上品です。ねっ、これに決まりッ》」

「《ええー》!」

 シフルは目の前に示された袴を見やる。なんとも美しい白袴。白袴は日ごろ着ていて、このごろはそれにも慣れてきた感があるけれど、これは似て非なる代物だ。なんというか、次元がちがう。部屋のベッドにも申しわけないと思ったが、これは自分のためにあつらえられただけに、ますますそうだった。だいたい、男が、花の模様の袴? 針子の仕事には敬意を表したいが、生理的に受けつけない。

「《えっと》……《他のは? オレにはちょっと厳し……》」

「《はあー? 何いっちゃってるんですか! くりかえしますけど、これはこの世でただ一人、シフルさまのためにつくられたものなんですよ。シフルさまが着なかったら、ただのゴミです! そんなこと許されると思ってるんですか?》」

 もとから赤に近い彼女の両目が血走る。メアニーはシフルにとってはいつも怖い存在だが——「怖い」メアニーでもくっついてくるメアニーでも——、平時に増してすごい形相である。

 それにしても、シフルが着なければゴミ、という点が少年をちくちくと刺した。サイズもデザインもシフルのためにつくられ、シフルが着なければ捨てられていくだけの服たち。

「《あー》……《着ます。はい》」

「《よろしい!》」

 そうして支度を整えられ、ご機嫌の少女女官につれられて、シフルはムリーラン宮内の小食堂に向かった。

 先にいたルッツとメイシュナーも、シフル同様に飾りたてられて皇女夫妻の到着を待っていた。ルッツは金の瞳をひきたたせるような黒いシンプルな袴、メイシュナーも赤い髪と灰色の瞳に合う藍の袴と、こちらもそれぞれの魅力を活かしてめかしこんでいる。

 続いて、セージがツォエルとともに入ってくると、少年三人は、おー、と感嘆の声をあげた。彼女は深い赤の袴に薄絹を羽織り、小さな真珠がたくさん連なった首飾りを何重にもかけて、淡い光を帯びている。どちらかというと軽装だったマーリ皇女を思うと、彼女こそラージャスタン皇女のようだ。

「《似合う》?」

 セージも楽しげに、その姿を少年たちに誇示してみせる。

「《よくお似合いですよ、お嬢さま》」

 と、珍しく戯れ言めくのは、ルッツ。シフルもしきりと首を縦に振った。

「《うんうん、すげー似合ってる》!」

「《それで黙って大人しくしてるんなら、いうことねーけどな》」

 メイシュナーはにやにや笑う。セージは明らかにいらだったが、いつものように水(アイン)を使ってメイシュナーを黙らせることもできず、口を一文字に結んで席につく。

「《みなさま、マーリ皇女殿下、ならびにムストフ・ビラーディ・オースティンのおなりでございます》」

 ファンルーのひと声で、四人は椅子から立ちあがる。

 ラージャスタン第一皇女たる少女マーリと、その婿オースティンの登場だった。夫妻のそばに女官の姿はなく、夫妻はふたりだけで部屋に入ってきて、そろって優美に礼をした。シフルたちも深々と頭を下げ、女官の合図で着席する。

(こりゃ、マジで人員不足かな?)

 少年は、ちらりと皇女婿たる少年を見る。あの一件以来、彼とは会っていなかった。一度キサーラに尋ねたところ、謹慎中だと言っていた。あれだけのことをしでかしたのだから、当然といえば当然だろう。

 彼と目が合った。

 せっかくなので、通じるかどうか定かではないが、目で念を送ってみる。するとオースティンは、《英雄の現身》らしく、美しい微笑を浮かべてみせた。

(ん? なんだありゃ)

「《メルシフル》」

 オースティンが声をかけてくる。「《それに、セージ、ルッツ、ニカも。きっかけはどうあれ、ようやくみなとこの宮で会えたことをうれしく思う》」

「《うれしく思う、って》」

 思わず、思っていたことがこぼれた。ファンルーが凄みのある笑みを向けてきて、あわてて口をつぐむ。

(なんかよそよそしいな……まあ本来当然か)

 少年公子とただの学生が距離をつめてつきあうなんてことは、本来あってはならないことなのである。まして今は、皇女と女官の面前。

「《ありがとうございます、ムストフ・ビラーディ。いただいた部屋も服もすばらしいです》」

 シフルはあたりさわりのない内容を丁寧に述べた。ファンルーは満足げにうなずく。使い慣れない丁寧語に口が引きつりかけた点については、見逃してくれたようだ。

「《お気に召されたなら何よりですわ。メルシフルさま》」

 シフルの言葉を受けて、皇女マーリがやわらかく答えた。「《今後はわたくしたち、お隣同士ですわね。そうそう、ブリエスカの理学院は、学生寮での共同生活だと聞きます。ムリーラン宮を、学生寮のように思っていただけたらうれしいのだけれど》」

「《こんな豪華な学生寮はありません、殿下》」

 今度はルッツだ。「《さすがに、女官付き、前室や専用の浴室のある学生寮は、ブリエスカにはありませんね。ラージャスタンのことは存じませんが》」

「《ちがいない》」

 オースティンは笑った。「《皇女殿下は学生寮など見たことがないんだ。許してやってくれ、ルッツ》」

「《あら、ばかになさいますの、旦那さま》」

 皇女は軽く頬をふくらませる。「《でも、今日からここは学生寮なんですから、今日からわたくしも学生寮の一員。ラージャスタン史上はじめて、学生寮で暮らす皇女ですわ。そうでしょう?》」

「《確かに》」

 メイシュナーも遠慮がちながらくつくつと笑みをこぼす。「《それなら俺たちは、皇女さまと寮生活ですよ。理学院にいたころには考えられんかったなあ。いただいた部屋も驚きですが、これもすごい話です》」

「《いや、過去には理学院にも王族や皇族がいたことがあると聞く》」

 セージが続けた。「王族」はプリエスカ「王国」のコルバ家、「皇族」はその前のロータシア「帝国」ゼン家を指す。

「《私たちも、運がよければ理学院で王族にめぐりあうこともできたはず。それよりも、ほら》」

 彼女はオースティンに笑いかける。「《ラシュトー大陸の『伝説』たるおかたと、いま食事していることのほうが驚きです》」

《あらセージ、わたくしとの寮生活には興味ないっておっしゃるの》と、マーリ。セージはそれに対して軽やかに返事し、場はなごやかな笑い声に包まれる。

「《ともかく、ここでぐらい、くつろいでほしいものだな》」

 と、オースティンが言った。「《慈善園では、生徒たちと同じ訓練の一部を受けると聞く》。この中でぐらい、気をつかわずに、思うぞんぶんプリエスカ語でしゃべってもかまわんぞ」

 僕もマーリも、現代プリエスカ語のやりとりに支障はないのだから——もちろん、支障はないから支障があるということもあるがな——と戯れ言めく。

 小食堂に沈黙が落ちた。留学メンバーはお互いに顔を見あわせ、少年公子の冗談に応えない。ルッツさえも、オースティンの視線を受けて、肩をすくめる。

「どうした?」

「《ムストフ・ビラーディ》」

 口をひらいたのは、《アグラ宮殿の蛇》たるツォエルだった。「《お言葉ですが、それはなりませぬ》」

「それ、とは?」

 ラージャ語での諫言に、わざわざ現代プリエスカ語で答えるあたり、この少年公子もたいがいである。しかし、ツォエルは甘くない。

「《ここムリーラン宮は、われらが皇帝陛下のおわしますところ、ラージャスタンは皇都ファテーブル・アグラ宮殿の中枢の中枢でございます》」

 と、女官はわかりきったことを告げる。「《いつ皇帝陛下ならびに皇女殿下のお耳に触れるかわからないこの宮のなかで、異国の言葉を使うことはまかりなりませぬ。皇帝陛下と皇女殿下のお耳に入るべきは『皇帝の言語』ルグワティ・ラージャのみ。どうかご理解くださいますよう》」

《留学生のみなさまにも、すでにそのことはお願い申しあげました》とも女はいった。

 今朝がた、女官の言った「お願い」がこれだ。ムリーラン宮で生活する限りは、いかなる状況下であろうと、ラージャ語以外使ってはならないという。

 シフルたちとしては、ラージャスタンへは留学に来ているのであり、留学生同士で仲よく過ごすために来ているわけではない。よって、ラージャ語以外使用するなというのももっともであり、ムリーラン宮の性質上理解もできる。また、アグラ宮殿入り後しばらく経っており、ラージャ語の能力からいっても支障はなかったので、四人は承諾した。

(だけど、オースティンがそれ知らなかったのか)

 それがシフルにはなんとなく引っかかった。オースティンは外国出身の婿とはいえ、マキナ皇家の一員にはちがいない。それが、ムリーラン宮の方針をわかっていないということは、少年公子のある種の孤立を意味しているように思える。

 つまり、

 ——オースティンは、《アグラ宮殿の蛇》にとって「客人」にすぎないのか。

(皇女さまとは仲よさそうだけど……)

 とはいえ、そういう問題でもないのかもしれない。この「秘密主義」のマキナ皇家にとって、外国人の婿であることは、たとえ《英雄の現身》であろうとも、根深い問題なのかもしれない。

「《……そうか》」

 オースティンはぽつりと答える。「《まあ、いい。わかった》」

「《恐れ入ります、ムストフ・ビラーディ》」

《悪かったな》と留学メンバー全員に声をかけて、オースティンはシフルを見た。

 そのまなざしに、距離感はなかった。あの日、暗闇のなかで感じていたような親密さがまだ残っていた。けれど、どこかひどく不安げなまなざしでもあった。シフルは思わず、微笑みを返していた。なぜだろうか、オースティンの不安な顔は見たくなかった。

 しかし、オースティンは笑い返してはくれなかった。たぶんできなかったのだろう、とシフルは思う。が、それでいて少年は、皇女婿の不安の中身までは察することができなかった。

 あたりさわりのない会話だけをくりひろげた食事が終わり、一同は解散した。オースティンは皇女とともにすみやかに退室していく。シフルも書庫が気になっていたので、小走りに部屋を出た。すると、

「《——メルシフル・ダナンさま》」

 背後から呼びとめられた。メアニーである。

「《これから、『五星』筆頭ツォエル・イーリより、メルシフル・ダナンさまにお話がございます》」

 と、彼女は告げた。「《どうか、私ども『五星』一同をお部屋にお通しくださいますよう》」

「……《え》? 《話》?」

 とっさのことに、返事をためらう。しかし、長くためらうことは許されなかった。

 ファンルー、キサーラ、そしてツォエル。低頭するメアニーの背後から、《五星》の面々がやってきた。そして、揃ってシフルに刺すような視線を注ぐ。

 その中でひとり、ツォエルだけが笑みを浮かべているのだ。

「《よろしいですか、メルシフル殿》」

 ツォエルは念を押す。少年は、首を縦に振っていた。

 

To be continued.

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