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​精 霊

第二部 ラージャスタン・アグラ宮殿編

第12話「祝祭前夜」(1)

 オースティンは、ライラが閉めようとした扉を、堪えきれず自分の手で閉ざした。

 たん、と冷ややかな音をたて、扉が少女の姿を遮る。扉が閉まるまえに少女は一瞬こちらを見たが、何もいわず、足音は遠ざかっていった。

 ——ムストフ・ビラーディ(婿殿)。

 アグラ宮殿に巣食う蛇が、少年を呼ぶ。

(お言葉ですが、それはなりませぬ。——どうかご理解くださいますよう)

 脳裏に女の声が忌々しい響きをもって蘇るや、少年は自分の手を壁に叩きつけた。

 けれど、なんとか深呼吸して寝台に横になる。手はしびれていたが、血は出ていない。いつぞやのように、何度も打ちつけるほどの激情はなかった。そんな真似をしても痛いばかりで何の解決にもならない、そう思うぐらいの打算は今の少年にはある。

 こんなことは序の口だ。これから起こることは、外国語を常に強いられる不便さなどより、はるかにプリエスカの留学生を追いこむことになる。

 さらにいえば、それはオースティンの関知しないところで実現されるにちがいない。プリエスカの留学生たちとの宴の席で、ツォエル・イーリの言葉に接したとき、少年ははっきりとそれを悟った。宮殿は留学生をおびき寄せるための餌としてオースティンを利用するだけで、オースティンに真意を明かすことはない。オースティンは、ただ自分の役割を果たせばよい。ツォエルが言ったのはそういうことである。

 ——どこまでも、ばかにしてくれる。

 オースティンは歯噛みしたが、その一方でどこか安堵している自分に気づいてもいた。留学生を追いつめるだろう何らかの企てに、宮殿はオースティンを関与させる気はない。ということは、オースティン自身は手を汚さなくてよいことを意味する。

 皇帝から最初に話があったときは、手を汚してもかまわないと思った。が、今はちがう。聡明な、尊重するに足る少女と、近くて遠い同胞。何も知らないうちにことが運ばれるというなら、それに越したことはない。

 しかし、あのふたりが追いつめられる日のことを思うと、目の前が昏くなってくる。凛とした黒い眼のサルヴィア、どこまでも幸福に浸かったような眼をしたシフルが、強制的に暗がりの中に引きずりこまれるとき、ふたりの眼に自分はどう映るのだろうか。落ちていくふたりを、ただ眺めているだけの自分は。

 ——オースティンって、すごいな。

 ランプ代わりにオースティンが召喚した火(サライ)を見て、目を輝かせていたシフル。あのときのまったき暗闇のように、光を失ってしまうのだろうか? それとも、どんな状況にあっても、変わらずにいられるだろうか?

(見せてくれ)

 オースティンはひとりごちる。(見せてくれ、シフル。おまえの強さがどれほどのものかを)

 ひたすら、無力だった。少年がトゥルカーナに生まれ落ちてからというもの、ずっと感じてきた無力は、今このときも少年とともにあり、これからも一生消えないように思われた。

 少年は頭から夜具をかぶり、その内で目をかたく閉じた。

 

 

  *  *  *

 

 

 少年は、暗闇の中にひとり、たたずんでいた。

(またこれか)

 と、シフルは思う。

 夢とうつつとのあわいで、闇の中に立たされるのは、これで何度めだろう。

 一切の光と音を断たれた恐ろしい世界も、毎度のことともなれば慣れっこになる。シフルは日常茶飯事の、望んでもいないがさほど面倒でもないものごとに対処する気持ちで、闇と対峙した。わかってるよ、どうせこのあと「出てくる」んだろ?

 

 

 ——メルシフル

 

 

(ほら、きた)

 遠くに、一点の白い粒。

 

 

 ——メルシフル。……

 

 

 少年は歩きだす。焦ることも逸ることもなく、そこに近づいていく。

 粒は徐々に大きくなっていき、その中心で何かがうごめいているのが見えた。ひらひらと自分を招く白い手だ。シフルは少し距離をおいて足を止めた。

 冷静に見ると、何ということもない、ただの色白の手だった。細い手首と指先は、やせていて頼りなく、それでいてふくよかさを帯びており——それが確かに、声のとおり、女のものであることを伝えてくる。それも、若い女だ。

 手は荒れておらず、大理石のようになめらかだった。家事の類いに従事しているとは思えない手である。たぶん妖精のようなものだと仮定すると、家事をしているかどうかを考えるなんて我ながらおかしかったが、それほど身近に感じられる距離にその手はあった。

(どっちにしろ、手があるってことは人間の器があるってことだ。いま中身がどうなってるか知らないけど、少なくともこの器は生きた人間だったことがある)

 いつか、この手が炊事をしたこともあったのだと、想像すると楽しくなってきた。怖い存在だとは、とても思えなかった。

 先日ラーガは、魅入られるからとシフルをこの手から引き離した。あれから何度か、この手を夢でみたが、

(もしかしてもう、魅入られているのかな? 怖くないあたり、手遅れなのかも)

 理屈ではそう考えつつも、理屈抜きのところではその手に惹かれるものがあった。じっとみつめているシフルを、ひたすら招きつづける、白い手に。

 この手をとったら、どこに連れていかれるのだろう? それに、そもそもどうしてシフルを連れていこうとしているのか?

 いったいこの手は、

 ——誰なんだ?

 知らず知らずのうちに、手をのばす。

 すると、シフルの変化に気づいたかのように、手は止まった。そして、すっとさしのべてきた。シフルが自らに応えることを、少しも疑っていない体で。

 ふたつの手が、重なる——

 

 

「《——やだー、シフルさまったら!》」

 

 

(え)

 とたんに、視界が明るくなった。

 と同時に、からだが圧迫されて、少年はうめく。

「お、重っ」

「《あー! ダメですよシフルさま。ブリエスカ語は禁止》」

「《あ、そうか。すみません、メアニー》」

 とっさに謝罪してから、少年は覚醒した。「……メアニー?」

「《はいっ。おはようございます》」

 目を開けて、シフルは仰天する。

 重いと思ったら、自分の上に女官がのしかかっているではないか。しかも、すぐ目の前に彼女の顔が迫っており、自分の右手はそんな彼女の手をしっかと握っている。

「うわッ!」

 シフルは手を離す。が、すかさずメアニーに、《えいっ》というかけ声とともに握りなおされた。

「《離してください》! 《つーか、離れて》!」

「《『離して』? ち・が・い・ま・す》」

 メアニーは赤に近い眼を妖しく細めた。「《シフルさまから握ってきたんですよ? お忘れになったんですか? わたしがちょっと天蓋の中の様子を見ようとしたらー、シフルさまがいきなりー》」

「《ええっ》?」

「《力づくでー、わたし、抵抗できなくて。悲鳴あげたんですけど、誰も助けにきてくれなくて。シフルさまはかまわず乱暴に》」

「……《それはさすがに嘘ですよね》」

 メアニーはつまらなそうに舌打ちしたが、

「《シフルさまから手を握ってきたのは事実ですもーん》」

「《本当に失礼しました》……《オレ、寝ぼけてて》」

 要は、あの白い手をつかんだつもりが、メアニーの手をつかんでいたらしい。それにしてもなぜメアニーが朝方に天蓋の中の様子を見にくるのか、まったく理解できなかったが、夢の中で手をとろうとしたことはよく覚えていた。

(何のつもりなんだよ、『手』!)

 シフルはメアニーの前で弱りながら、内心毒づいた。(何回もオレを呼んだくせに、いざつかんだらただの夢とか)

 誰だか知らないが、中途半端なことをしてくれる。あるいは、

 ——いま応じても、だめってことか。

 では、いつならいいのだろう。思案しはじめたシフルに、メアニーはわざとらしく咳払いする。

「《とにかくですね》」

「《へ》?」

 シフルの思考は強制終了させられた。

「《わたし、傷ついたんです》」

 気づけば、相変わらずメアニーは天蓋の中にいて、シフルの上にのしかかったままだった。

「《あの、そろそろ、どいて》」

「《傷ついたんです!》」

 少女は断言した。

「《すみません》……《その》」

「《だーかーらー》」

 メアニーはシフルの言葉を遮り、にんまりと笑う。そして、そろりと顔を近寄せてきた。「《償いが必要ですよね?》」

「え」

 状況が理解できずもらしたつぶやきは、使い慣れたプリエスカ語だった。

 ほくそ笑んだメアニーの顔が、見えなくなった。

 

To be continued.

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