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​精 霊

第二部 ラージャスタン・アグラ宮殿編

第13話「その手をとって」(4)

「シフル! ——」

 静寂の空の下、セージの声が響きわたる。「シフル、どこ?」

「《お静かに、セージさま。儀礼中ですよ》」

 メアニーに制止され、セージは口をつぐむ。一瞬だった。セージが、エルドアの滅亡を題材にした寸劇に見入っていた一瞬のあいだに、近くにいたはずのシフルは影もかたちもなくなっていた。

(何の気配も感じられなかった! 何の気配も! この私が)

 強いていうなら、このホラーシュ地区全体に漂う独特の空気だ。なんらかの異様な気配というなら、それがそうだった。だが、それはもちろん昨日の早朝に休戦記念日の儀式が始まってからずっと続いているもので、エルドアの石碑のまえで特別に感じたわけではない。しかしシフルはエルドアの石碑のまえで消えた。

「《何か私語をされてましたね》」

 メアニーはさらに声を落としてつぶやいた。「《私語を注意しようとして振り向いたときには、シフルさまはもういませんでした》」

「《相手は》?」

「《……わかりません。そこまでは。わたしの知っている精霊の気配ではなかったです》」

 少女たちは途方に暮れる。いっそ、ラーガがシフルに同行したままだったなら、そもそもこんな問題は発生しなかっただろう。しかし、一般大衆がラーガの存在に気づくことを危惧した宮殿側から、休戦記念日当日に限り同行の義務を解除されていた。よって、昨日ムリーラン宮を出た時点から、妖精はシフルのそばにはいない。

「《妖精のいない一瞬の隙を突いてさらわれるとか、さすがシフルだよね》」

 例によって楽しげなドロテーアを、セージはにらみつける。

「《そこまでおもしろがるなら、何が起こっていたかつぶさに見届けていたんだろうな、ドロテーア》?」

「《それは残念ながら》」

「《肝心のときにこそ活躍してほしいものだな》」

 何か知っている可能性があるとすれば、キリィだろう。彼女なら何かしら想像がつくはず。しかし、

「《申しわけないですけど、今は儀礼が優先です。セージさま》」

 メアニーが再度制止した。《この件はもう連絡してありますから》のひと言で、周囲の園児は心得て、ふたたび杖で地面を打ちはじめる。

(まずは儀式を終わらせないと)

 セージは明るくなりつつある空を見あげてから、周囲の動きにならう。丸一日の疲労は、シフル消失の衝撃でどこかに飛んでいった。

(あともう少しで長い一日も終わり)

 儀式二日めの夜明け空の下、ドン、ドン、という音が響く。(終われば、好きに探しにいける)

 行進はいよいよ終盤にさしかかり、気のせいだろうか、終わりにむかって少し急ぎ足になっているようだった。セージの焦りと同期するように、行列は可及的速やかに最後の儀式へと進んでいく。

(最後の——)

 セージは列の先頭が、見覚えのある宗教建造物に吸いこまれていくのを見た。(あれは)

 早朝の曖昧な光の中で、それは夢の中の風景のようにそびえたっていた。

 思わず、近くにいるドロテーアとメイシュナーに視線を投げる。メイシュナーは戸惑いの目を返し、ドロテーアはいつもの不敵な微笑で肩をすくめた。

 二人の背後からは、銀色の髪の少年がすいと現れ、三人に先んじてその建物へと向かっていく。

「《何をしてらっしゃるんですか——ツォエルさん》」

 シフルの姿をした女官が、セージを振り返る。

「《ご不快はお察しいたします》」

 セージの好きな少年は、こんなふうにあでやかに笑わない。「《やむを得ない措置とお考えくださいませ》」

「《わあ、ツォエルさま、さすがですっ》」

 メアニーが、ツォエルの横で飛び跳ねた。「《お気づきでしょうけど、このホラーシュはラージャスタンの中でも特殊な空間なんです。そうとう上級の精霊じゃないと、このあたりには近寄れません。ここで炎の力を借りて他人を装える精霊使いなんて、宮殿でも三人といないんですよ》」

(なるほど、さっきから感じていた妙な雰囲気は、そういうこと)

 セージは納得しながらも、あまり愉快ではなかった。この場所の特殊性に、自分の才能が負けているように思えたのだ。おまけに、そのせいですぐそばにいたシフルを見失ったのである。

 ——私が、シフルを守る。

 シフルがアグラ宮殿で特に目をつけられていると気づいて、セージはそう誓った。けれど。

(守れてない)

「……《わかりました》」

 今はとにかくこの場をやりすごして、シフルを探しにいく。ツォエルはうなずき、留学生三人に先んじた。

 見覚えのある宗教建造物——それは、グレナディン大聖堂に似た礼拝堂だった。理学院でAクラスに入って以来、毎週そこに通っていた。学院生でグレナディン大聖堂の礼拝に参加できるのはAクラス生だけだったので、それはプリエスカでトップクラスでいることの象徴でもあった。

 いま目の前にあるのは、大聖堂を小ぶりにした風情の礼拝堂だ。規模こそちがうものの、建築様式はプリエスカのものとまったく同じ。セージは一瞬自分が今どこにいるのかわからなくなり、周囲を見まわした。少し離れたところに、先ほど寸劇を見ていたエルドアの石碑が見える。もちろん女官に質問したかったが、シフルの外見をしたツォエルは、早足に通用口をくぐっていってしまう。

 内部も、規模こそグレナディン大聖堂の半分以下とはいえ、浮遊感を覚えさせる高いヴォールト天井も共通、祭壇の上に設置された《セスタ・ガラティア(四つの力)》も同じだった。四大精霊の力の均衡を表す、プリエスカの元素精霊教会の象徴である。

 慈善園生の列は、いっせいに着席した。シフルの皮をかぶったツォエルも、いつもの彼のようなためらいは一切みせず、同時に腰を下ろす。セージたち留学生三人もあとに続いた。

 礼拝堂内は、しんと静まり返った。そこに、朗々たる第一声が響く。

「——讃えよ」

 聞きまちがえようもなく、それは現代プリエスカ語だった。

「讃えよ——」

 司教役の男が、なまりもないきれいなプリエスカ語でもう一度いう。「世界を創造せし者、世界を破壊せん者を。我らを焼き滅ぼす者、我らを潤し生かす者を。我らに力を与える者、我らを無力にする者を。……」

 司教役の手には、プリエスカでシャリバト精霊大司教が詠唱していたものと同じ讃美詩篇の本がある。セージはいやな予感がして、隣に座っているツォエルに視線を投げた。ツォエルは、はっきりとうなずいてみせる。

(これは——)

「我らが及ぶところを知らぬ偉大なる力、四大元素精霊。火(サライ)、水(アイン)、風(シータ)、土(ヴォーマ)……若人よ。かの者を讃えよ」

「はい」

 反射だった。大司教の呼びかけに応えて、四人の学生が席を立つ。これは、理学院Aクラスでの、長いあいだの習慣だったのだ。

「火(サライ)、汝は——」

 そう口を切ったのは、見慣れた黒髪の、背の高い学生ではない。ちがう意味では見慣れた学生ではあったけれど。

「——我らを焼き滅ぼし、我らを復活せしめる精霊。願わくば、汝が炎の永遠(とこしえ)にあらんことを。汝なくしては、我らは朽ちるのみ」

 彼はこの役割を担うことを強く望みながら、まだ許されていなかった。

「切に、我は汝を讃えよう」

 灰青の瞳をした少年は、何の感動もなく、淡々とその役目を遂行する。少年の姿をした女官が讃美詩篇の暗誦を終えるや、赤い光が花火のように弾けた。

 ——火(サライ)の光。

 その属性の精霊に愛される者が精霊を喜ばせると、現れる光。シフルがゼッツェを吹き鳴らしたとき、火(サライ)たちが赤くまたたいた、あのときの光よりもっと圧倒的な質量だった。おそらくツォエルは、アグラ宮殿一の精霊使いなのだろう。

(でも)

「水(アイン)、汝は——」

 セージは口をひらいた。空気がかすかに振動したのを、肌に感じる。「我らを潤し我らを生かす精霊。願わくば、汝が流れの永遠(とこしえ)にあらんことを」

 汝なくしては、我らは滅ぶのみ、切に、我は汝を讃えよう、とセージはしめくくる。と同時に、青い光がスコールのように礼拝堂に降り注いだ。プリエスカでも見慣れた光景だった。

(水(アイン)、ありがとう)

 この特殊な場所にも、水(アイン)はセージのために来てくれた。この地の精霊がみなツォエルのものというわけではない。

「風(シータ)、汝は——」

 セージが言い終えれば、今度はドロテーアの番だ。あとは、グレナディン大聖堂での流れと同じである。ドロテーアも風(シータ)にこよなく愛されているから、緑の光がやってこないはずがない。《土(ヴォーマ)を讃える若人》であるメイシュナーは、光を散らせたことは今まで一度もないが、土(ヴォーマ)にそこまで反応される召喚士はプリエスカでは報告されていない。それほどにむずかしい属性なのである。

 よく知る礼拝をひととおり最後まで終えて、一行はまた列になってプリエスカ風礼拝堂をあとにした。外に一歩出た瞬間から、ふたたび慈善園生の列は地面を杖で打ちはじめる。ドン、ドン、という、すでに手にも耳にも染みついたリズム。

 今度の行進は長かった。今まで歩いてきた道のりを、逆回転で進む。今度は儀式はなしで、ひたすら宗教建造物から宗教建造物へとめぐり歩いていく。

 あたりがすっかり明るくなったころ、行列はとうとうホラーシュ地区を出た。常緑樹に囲まれた街道を宮殿にむけて歩いていたとき、先を進むツォエルが振り返り、

「《メルシフル殿が発見されました。ご安心くださいますよう。宮殿にてお待ちです》」

 と、そのシフルの顔でささやいて、行列に戻った。あくまでも、この場にシフルがいて儀式を遂行しているということが重要らしい。

 セージは安堵する一方で、何か得体のしれない不快に胸が覆われているのを感じていた。何かを見落としている——何かを。

 慈善園の列は濁ったジャムナ川の岸辺で各自小舟に乗りこむ。ツォエルがシフルの顔で手をさしのべてくるのが小憎らしい。が、そんなことはおくびにも出さず、セージは少年の手をとる。やわらかな感触で、どこかひんやりとして、シフルの手とは全然ちがった。火(サライ)の力によって表皮を操作しても、実体は変わらないようだ。

 水路の途中で、シフルの銀色の短い髪が豊かな亜麻色の髪に変わり、少しだけセージを振り返ったのは美貌の女だった。女はするりと手をほどき、そのまま一行を先導していく。

 見慣れた庭園群を通過し、サイアト宮の宴の間に入った。歓迎の宴のときと同じ場所だ。奥行きのある部屋にとてつもなく長い絨毯が敷かれている。あのときは皇帝とラージャスタン貴族と留学メンバーだったが、今回は慈善園生全員が絨毯の両側に並ぶ。絨毯の上には、山盛りのごちそうの皿が用意されていた。

「《我らは炎より生じ、炎のうちに滅さん——》」

 先頭の生徒が暗誦を始める。「《——炎こそ創り主、創り主は炎。創り主たる炎よ、我らが皇帝を嘉(よみ)したまえ。我らの国、我らの故郷、皇帝のおわしますところ、ラージャスタンに栄えあれ!》」

「《ラージャスタンに栄えあれ!》」

 セージたちも慈善園生とともに唱和した。宴のおりと同様ラージャスタン史物語が始まり、背後からツォエルがすばやく巻物を渡してきた。以前暗誦した箇所なら覚えていたが、前回とは人数もちがい、担当箇所もずれてくる。最初ほどの意地も感慨もなく、セージは渡された巻物をただ読みあげた。疲れ果てたドロテーアも、ごちそうを前にして度を失ったメイシュナーも、それに続いた。

 儀式は終わり、歓声とともに慈善園生一同はごちそうにありついた。長い一日が終わったのである。

 留学メンバーではいちばん体力があると自認しているセージではあるが、さすがに箸で口に米を運びながら寝落ちしそうになった。ドロテーアは箸にすら手をつけずその場で突っ伏していたし、メイシュナーは獣もかくやという勢いで米をかきこんでいる。

(シフルは大丈夫かしら)

 気がかりではあったものの、すでに無事だと聞いていたのもあり、疲れで思考が長続きしなかった。ぼんやりしたままムリーラン宮の居室に戻り、ベッドに倒れこむと、こんこんと眠った。それはセージが、何も気にせずに深い眠りにつくことができた、最後の夜だった。

 翌朝、熟睡したあとの爽快感とともに目覚めたセージの頭に、ひらめいたことがある。

 あのプリエスカ風礼拝堂と、元素精霊教会そのままの礼拝が執り行われた意味を。そして、自分たちが——いや、自分がとった行動の意味を。

 ひゅっ、と音をたてて、少女は息を呑みこんだ。からだを流れる血が、一瞬にして凍りついたようだった。

 ——時間は戻らない。

(もう、取り戻せない)

 ただ無邪気に精霊召喚士をめざし、好きな少年と一緒に留学を満喫していたころには、戻れない。

 杞憂であればと願った。しかし、一連のできごとには必ず意味がある。自分たちの留学は、最初から高度に政治的な問題だった。留学生募集の話があったときから理学院生はみなそれを危惧したし、カリーナ助教授も留学希望者の意思を曲げさせようとさえした。

 プリエスカとラージャスタンは、自分たちが生まれる直前まで戦争をしていた。今は束の間の休戦、束の間の平和である。ささやかな綻びですら、それを破るのはたやすい。

 ——綻び。

(それは……私が、)

 

 

  *

 

 

「時姫(ときのひめ)さま、シフルが戻されました」

「ん、そうか」

 銀の髪の女はうなずくと、ティーカップをテーブルにおいた。オースティンも何杯めかの紅茶に飽きはじめたころで、本題さえすんでしまえばさほど会話する内容もなく、だんだん気づまりになってきたころだった。

「帰っていいよ」

 長椅子の反対側に座った女は、短く告げる。オースティンは何も言わず立ちあがり、青い髪の妖精について出ていった。

 来たときと同じように、トゥルカーナの森を進む。もしかすると、この森を行けばサンヴァルゼ城に戻れるのではないかとも思ったが、そうはしなかった。自然と足がラージャスタンに向かった。途中からラーガと手をつないで暗闇の中に入った。

〈ここだ。シフルが今いるのは〉

 ラーガはそう言うと、無表情のままオースティンの手を離す。みるみる小さくなる、自分に似た顔を眺めながら、少年は黙って落ちていった。あれほどの激しさで時姫やラーガにくってかかった自分がまるで別の生き物かのように、今は静かだった。それこそ病魔が払われたかのようだった。

 なぜ、自分は彼らやクレイガーンをあれほど憎んだのか。解放されたような感覚もあったが、ひどく心もとないような感覚もある。心を満たしていた何かが抜け落ち、空っぽになったような。

 前触れなく地面はやってきて、オースティンはしたたかに背中を打った。うめきつつからだを起こすと、たしかに目の前にシフルがいる。

「《ああ、シフル》」

 銀の髪の少年は目を丸くした。「《何か知らんが、大丈夫か? 儀式の途中だったのだろう? まったく精霊界の連中ときたら、こっちの状況なんかかまったもんじゃない——》」

「オースティン!」

「《オースティンさまッ?》」

 悲鳴に近い少女の声があがり、オースティンは現実に引き戻された。

 シフルの隣に、マーリがいる。ライラではなく、本物のほうだ。留学生たちと本物のほうのマーリは、会ったことがあるのだったか? 留学生に接触する役目は、影姫のほうだった気がするのだが。

「《マーリ? お騒がせして申しわけない。ちょっと事情がありまして……。では、ここは》」

 今いる狭い部屋には、三人の少年少女のほかに、もう一人いた。すぐそこにいる紫の瞳の男を見て、それから再度シフルを見て、血の気が引いた。

「《わが息子よ、潔斎中に姿を消したと聞いていたが、無事で何よりだ》」

 男は快活に、じつに親しみ深く、オースティンに声をかけた。

「《……皇帝陛下》」

 

 

  *  *  *

 

 

 ——妖精がほしかった。

 初めてあの青い妖精が、シフルと話しているのを見たときから。

 アマンダはひと目で、シフルがあの青い妖精に助けられてラージャスタン留学を射止めたのだとわかった。《Aクラス四柱》の一角を崩しての合格には、彼だけがもつ特別な力があったのだ。

 力を与えたのは、シフルの母親である《時姫(ときのひめ)》。本名は、ベアトリチェ・リーマンという。

 図書館で貸出カードを見たとき、アマンダは混乱した。五百年以上前に理学院召喚学部の研究者だった人物が、シフルの母親と同じ名前。それに加え、四大元素にはない空(スーニャ)の妖精の存在、さらには空(スーニャ)と対になるような「《時》の《姫》」の存在。知らないことばかりだった。

 今までの常識が通用しない知識の数々を前にして、アマンダはすぐに優等生らしく考えるのをやめた。わからないことを考えるより、成果を出すことのほうが大事だからだ。

 成果とは何か。

 ——シフルの空(スーニャ)のような特別な力を、アマンダも手に入れること。

 けれどアマンダは目下、六級精霊までしか召喚できない。妖精といえば一級ないし二級の上級精霊であり、一説には元素精霊長に近い存在ともいわれている。今のアマンダには遠い世界だった。もちろん、シフルの妖精以外は見たこともない。

 だけど、とアマンダは思う。

 ——ベアトリチェ・リーマン。

 同姓同名の他人という可能性は考えないことにして、ベアトリチェ・リーマンという五百年以上前の人物が、本当に十六年前にシフルを産んだのだとしたら。彼女はいま《時》を司る存在《時姫》で、空(スーニャ)をも従える権限をもっているのだとしたら。

 もしかしたら、ベアトリチェは《精霊王》なる存在と出会ったのではないか?

『精霊王に関する考察』はベアトリチェの晩年の著である。アマンダが調べたところによると、元素精霊教会出版から発行禁止の判断が下りたあと、ベアトリチェは失踪。そのまま生死不明となり、記録に残るベアトリチェの人生はそこで終わる。

 しかし、本当は終わっていなかったのではないか? ベアトリチェは、自分がその存在について主張し、ついに教会から認められなかった《精霊王》と出会い、《時》《空》の力を与えられたのではないか。

(そうだとしたら)

 と、アマンダは思う。(私も、ほしい)

 妄想でもかまわなかった。今はそれだけが糸口だった。

『精霊王に関する考察』を書いたベアトリチェ同様、アマンダも想像に想像、類推に類推、仮定に仮定を重ねて、精霊王に会うにはどうすればいいのか模索した。精霊王への執念だけがそのときのアマンダを動かしていて、理学院の授業のことも、元彼アレックスのことも、他のすべてを頭から放逐してのめりこんだ。

 あるとき、妖精についての研究書を読んでいたアマンダは、《妖精憑き》と呼ばれる、妖精を付き従える召喚士——つまりシフルのような——は、妖精を名前で支配するのだと知った。召喚士に支配されることを望んだ妖精が、みずから名前を与えるように要求することもあるのだという。またある妖精は、もともと名前をもっている。またある妖精は、自分の器である人間が生前使っていた名前をそのまま使う。真名つまり本当の名前と、別に通称をもっている場合もある。

 ただし、名前を言い当てたからといって、妖精を使役できるわけではない。偶然名前を口にしただけで支配されていたら、さすがに大変だ。あくまでも、妖精みずから使役されることを望まなければならない。そうすれば、名前によって妖精と召喚士はより強く結びつく。

(もしも。もしも、だけど)

 アマンダは想像する。(もしも私が、精霊王の名前を言い当てて、精霊王が私に力を貸すことを望んでくれたら、私は精霊王を使役できる?)

《精霊王》なる存在が、妖精か、実体のない精霊か、それはわからない。けれど、実体をもたない精霊は不安定で、確固たる器を求めて世界を流れていくのだという。その末に力を得た精霊だけが、美しい器を手に入れ、妖精になる。そうなると、万象を統べる《精霊王》が、器をもたないままありつづけるとは考えにくい。

 ——精霊王は妖精。

 アマンダは断定した。

(私が、精霊王を使役できたなら)

 自信はあった。

 精霊は人の心である。アマンダは、人の心を手に入れることがどんなにたやすいことなのか、よくわかっていた。なぜなら、人の心は究極的には単純であり、かつ簡単に揺らぐものだからだ。少し揺さぶりをかければ、簡単に傾くものだからだ。アマンダのかわいらしいといわれる容姿も、その助けになる。

 ただし、傾かせたあと永遠に自分のものにする、というのは簡単なことではない。そこまでアマンダは不遜ではなかった。

 一瞬でいい。

 一瞬だけ、精霊王の心を自分に傾かせればいい。アマンダはそう考えた。

 あとのことは、よく覚えていない。アマンダはひたすら、精霊王のことを念じながら名前を唱えていた。家族の名前から始めて、一般的な名前、少し珍しい名前。聞いたことのある名前を、口にしつづけた。そのどれかが、精霊王の名前であることを祈って。

 空腹も感じず、いつまでも名前を唱えていたとき、気づくと目の前に白い手が浮かんでいて、アマンダを手招いていた。

 迷わずに、彼女はその手をとった。

 

 

 無我夢中で、アマンダは玉座の少年に訴えかけたのだと思う。

 気づいたときには眠りこんでいて、話し声が聴こえたような気がして目を覚ました。

 どうして眠っていたのかは、よく思いだせなかった。眠る前に話していたはずの少年も、目の前にいない。ひどく眠くて、アマンダはもう一度眠ろうとした。しかし、からだを横たえようとして、アマンダは悲鳴をあげかけた。

 かたわらに見知らぬ少女がいた。

 彼女は静かに眠っている、ように見えた。少女は一人ではなかった。見まわすと、周囲にはたくさんの少女が倒れており、みな安らかに眠っているように見えた。

 自分も含めて、十代らしい少女ばかりだった。全員が金髪である。真っ白な空間のなかに、捨てられた人形のように横たわる無数の金髪の少女たち。否が応にも、アマンダは自分がそのなかの一人なのだということを理解せざるをえなかった。

 アマンダは結局、悲鳴をあげなかった。声を出してこの空間をつくった本人に気づかれた場合、どうなるのか。

 ——私は力がほしいの。ベアトリチェみたいに。

 やはり同様に金髪の、少し年上の女に連れられて、アマンダは玉座の少年に引き合わされた。

 ——ベアトリチェを知っているのですか。

 少年は、少しおもしろがるような表情で、そう返してきた。不自然なほど天井にむかって高くのびた、玉座の下で。

 ——ベアトリチェと同じものを望むなら、ベアトリチェと同じにならなければいけない。

 ベアトリチェと同じ精霊人形となって、わたしを喜ばせるためだけに存在する気があるのか、と少年は尋ねた。脈があると思ったアマンダは即答した。そういうふうにはっきりいう男は過去にいなかったけれど、実質そういう考えの男はいくらでもいた。だから、簡単だ、とアマンダは思った。次の瞬間、眠りに落とされるなどとは、考えてもみなかった。

(本当に、言葉どおりなんだ)

 アマンダは倒れている少女たちのさなかで、そう理解した。(たぶん、精霊王の気がむいたときだけ起こされて、精霊王を喜ばせるために呼ばれる。私はそういう女の子たちの一人になった)

 精霊人形、と少年は言った。人形。ぞっとしたが、それを望む男は珍しくない。けれど本当に言葉どおり人形にしてしまう男なんて、そういない。

(でも、それなら今、なんで私は起きたの?)

 アマンダは息をつめて、今いる真っ白な空間を見渡した。まるで夢の中のように、ディテールのない場所。眠る少女たちだけが、現実的なディテールをもっている。ドアもなく、床もなく、壁もあるのかないのかわからない。少女たちとその陰だけがある。起きて動いているのは、アマンダだけだ。

 いや、ちがう、どこからか話し声が聴こえている。この話し声に、アマンダは目を覚ましたのだ。

 アマンダは、果てがどこかもわからない不思議な空間を、かすかな話し声をたよりに歩いた。音の出どころを探るのは、この場所ではまったく困難だった。あちらから少し聴こえたかと思うと、今度は反対側から聴こえたりする。まるで、自動的に移動する窓があるかのようだが、目に見える窓があるわけではない。ただの白い空間なのだ。

 けれど、

 

 

〈——あんたはオレたちの敵だ。ビーチェのことを好き勝手言うな!〉

 

 

 怒りに満ちて、その声ははっきりとアマンダに届いた。

 

 

 ——シフル! ……

 

 

 ひどく懐かしい。

 最後にまともに話したときも、彼は怒っていたのだった。

(アマンダ……、頼むから言ってほしい)

 今とちがって、静かな声だったけれど。(オレはそれは信じたくないから。だから、言ってほしいんだ)

 それでもアマンダは何も言わずに、ひとりこんなところへ来てしまった。

 あのときアマンダが「秘密」を伝えることができていたら、少なくとも今たったひとりでこんな場所にいないですんだだろうか。

〈……シフル〉

 アマンダはためらいがちに声を出す。音が空気中を渡っていかないような、頭の中だけに響いているような、奇妙な感覚。

〈シフル!〉

 できる限りの大声で叫んだ。けれどやはり、この空間はアマンダの声を吸いこんでしまう。

〈シフル! ……〉

(届かない)

 シフルには、自分の声は届かない。どんなに叫んでも。

 

 

〈——アマンダ!〉

 

 

(……返ってきた)

 シフルが、声に気づいてくれた。

 急激に、この夢のような空間が、現実味をもってアマンダに迫ってくる。

 アマンダは弾かれたように立ちあがった。シフルが誰かを詰問している声が、遠くで聴こえたり、近くで聴こえたりをくりかえす、その出どころをみつけだそうとした。しかしどれほど右往左往しても、声がずっと近づいてくるということはなく、近づけば必ず遠ざかる。

(シフル……)

 やがて、まったく音は聴こえなくなった。と同時に、凄まじい眠気がアマンダを襲った。彼女は理解した。これもまた、精霊王の意思にすぎないのだと。精霊人形たるアマンダは、自分の意思で目覚めていることさえできない。

 大きな疑問と、刺すような怒りは、一瞬にして遠ざかった。

 アマンダはその場に倒れ、他の金髪の少女たちとともに、ふたたび眠りについた。

 

To be continued.

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