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Regina 第1章 恩義という名の剣を掲げて

第3話 喧噪

 翌日、学院は祭前日の休校で、寝過ごした月佳は昼ごろ街へ出た。

 祭は本番よりも準備期間のほうが楽しいというがまさにそのとおりで、街じゅうが異様なまでの活気に満ちており、見ていて飽きなかった。ディアークは今日は、祭前日にもかかわらず、棒術の稽古のためにメーヴェ六将軍のひとりアルバイン将軍の道場を訪ねている。それで、月佳は珍しく単独行動だった。

 菓子職人が飴細工をつくる様子や、奇妙な衣装を着て街を闊歩する俳優などを眺めて目を楽しませつつ、月佳はある場所をめざしていた。アン=リエ舞踊団のテントである。先日おとずれたとき、気風のよい団長アン=リエがまた遊びにおいでと言ってくれたので、お言葉に甘えて本番直前の舞台裏をのぞきにいくつもりだった。

(邪魔になるようならすぐ帰ってもいいし、エルテナと遊んでもいいな……。そういえばリュン=リエさんはどうなったのかなあ。すごい剣幕だったけど)

 テントのある広場は、案の定、大騒ぎだった。踊子、大道具係、さまざまな人々が緊張をみなぎらせて右往左往している。しかし、緊張は緊張でも、どうも本番前の緊張とはちがう緊張のように見えた。月佳は首を傾げる。

「クラウディナ! クラウディナ! リュン=リエ!」

 誰かが叫んでいる。あの声は団長の声か。

 クラウディナこと月姫(ツキノヒメ)に何かあったんだろうか? リュン=リエさんまでも? 思いあたるのは、クラウディナが皇帝に指名されて舞を献上する件だが。

「月佳!」

 幼い声が自分を呼んだ。振り返ってみれば、月姫クラウディナの弟、エルテナであった。

「エルテナ、何かあったの?」

 言い終わらないうちに、エルテナは月佳にしがみついた。

「どうしたの、エルテナ? クラウディナとリュン=リエさんは?」

「兄ちゃんとリュン=リエはいなくなっちゃったんだ」

 エルテナの涙が服にしみていく。

「どうして?」

「兄ちゃんはリュン=リエが好きで、リュン=リエも兄ちゃんが好きだったんだ。それなのに、皇帝が兄ちゃんとリュン=リエを引き離そうとして、だから、どこかに逃げちゃったんだと……思う」

 月佳はクラウディナの美貌を思いだしていた。月佳はあの日、化粧した彼と素顔の彼との両方を知ることができたが、どちらも彼は美しかった。白粉でより白くなった肌に、映える紅。あの彼も妖艶だったけれど、化粧など施さなくても彼の美貌は明らかであり、むしろ素顔の彼のほうが涼しげですらあって、いずれの彼も見る者を魅了する。

 月佳も彼の美しさをまえにすると、引きこまれそうになった。初めて彼を直視したときには興奮したものである。しかし、会話するうちに彼の冷めた内面が徐々に見えてきた。リュン=リエの騒ぎで、彼にとって彼女以外のすべてが色褪せたものであることもわかったし、なまじ月佳など高貴な生まれだと思われていたから、一線を画すどころか、すぐ隣に座りながらも遠巻きにされ、嘲られてさえいたような気がする。苦労を知らない貴族の娘のくせに、と。

 でもそれも、今となってはどうでもいいことだ。彼がいなくなった。皇城に召されることになったがために、姿を消した。エルテナの話からしても、彼らの行動は想像に難くない。駆け落ちしたのだ。それも、メーヴェ皇帝の支配の及ばぬ土地に。だとすると、ツィリマハイラがもっとも確実な線である。長年の敵国だから、メーヴェからの亡命者なら迎え入れるに相違ない。

 そうだ、きっと彼らはツィリマハイラにいる。あるいは、今まさにむかっている。今日この日にこれだけ騒ぎになっているのだから、失踪は今日の今日おこったのだろう。いちばん近い国境でも馬を走らせて半日はかかり、彼らに馬などあるはずがないから、まだ国境にはたどりついていないと考えるのが自然だ。

 月佳は自分の仮説をほぼ確信していた。今ごろ彼らは変装でもして、国境へと歩みを進めているのだ。

(でも、クラウディナとリュン=リエさんはツィリマハイラに行ったわ、なんてエルテナに言えない)

 何しろツィリマハイラは敵国であるから、メーヴェ人にとっては遠い国なのである。おそらくエルテナも、ツィリマハイラを近くには感じてはいないだろう。そこに愛しい兄と姉のような存在の少女が行ったと知れば、どんなに嘆き悲しむだろう。月佳はこれ以上、エルテナの泣き顔を見たくなかった。ひとりよがりだとわかっていたが、どうしても自分の仮説を打ち明ける気になれなかった。

 彼女は、ぽん、とエルテナの頭をなでた。彼は月佳を見あげてきた。

「大丈夫。月姫もリュン=リエさんもまだ、そう遠くには行っていない。まだメーヴェに、エトルリア市内にいるはずよ」

「本当に? どうして?」

「だっていなくなったのって昨日の話なんでしょう? これまでの時間で市外に出るなんて無理だもの。ね、エルテナ、一緒に探そう。きっと見つかるから」

 エルテナは少なからず月佳の主張に疑いを抱いたらしかった。この言い分ではエルテナを説得することすら無理だったか、と月佳は後悔した。しかしエルテナは、少し考えたあとで、うん、とうなずいて月佳から体を離した。

 が、とたんに彼の手は不安げに震えはじめた。月佳は気づいて、彼の手をとる。あたたかさに触れ、不安な手は探し求めていたものを見つけたかのように。懸命に月佳の体温を感じようとし、強く握り返してきた。それでもまだ、彼の手は小刻みに震えている。月佳はエルテナが不憫であった。

 普段なら、その体温はクラウディナやリュン=リエなのだ。そう思うと月佳はエルテナが哀れになり、二人を恨めしくも思った。けれど彼らの思いにも共感できる。皇帝の黒い欲望のために愛しあう者同士が引き裂かれるなど、あってよい話ではない。

 とはいえ、今の月佳の同情はひたすらにエルテナにあった。もしも二人の失踪が原因で舞踊団に何かあったら、彼だけは救いたい、と思いもした。

 月佳はエルテナの手を引いて市内を歩きまわった。傍目に見れば暗中模索しているのだが、これこそが月佳の意図であった。

 本気で二人を発見したければ、国境に行くべきなのだ。もちろん、月佳は二人が発見されないことを望んでいるわけではない。エルテナが哀れでならないからだ。けれど、二人が発見されることを望んでいるわけでもない。なぜなら、月姫クラウディナ、彼の妖しい美貌は人心を惑わす。だから、彼の存在によって、ただでさえ暗愚な皇帝がいよいよ手もつけられない暴れ牛になる気がした。

 だんだん日が暮れてきた。一度はぐずるのをやめたエルテナの目に、再び涙が浮かぶ。

「兄ちゃんも、リュン=リエも、オレをおいていったんだ。オレを捨てたんだ」

 けなげなエルテナが愛おしくて、月佳は彼を抱いてなだめた。エルテナも月佳にすがって泣いた。ヘイゼルグラント邸近くのスラムの一画に、姉と妹――クラウディナの弟なだけあってエルテナも女らしい美貌をもつ――のような二人の姿があった。

 エルテナに慰めの言葉をかけながら、ふと、月佳は何者かの視線に気づいた。どこかで感じたことのある視線だった。ディアークではない。彼よりもずっと、鋭い視線。

「誰?」

 月佳の声に、エルテナは泣きやんだ。あたりは静まりかえっている。月佳はエルテナを離すと、自分をみつめる視線をみつけだそうとした。

 案の定、近かった。すぐそばの壁の陰で、月佳を見ている。

「隠れているつもりか。出てこい」

 月佳は凄んだ。

 すると、壁の陰から少年が現れた。

 ディアークでもなく、学院の同級生でもなく、今までで誰よりも月佳を驚愕させたであろう――少年であった。

 いうまでもなく、きのう月佳を悪漢から救いだし、自身も似たような行為に及んできた、あの少年である。

 なぜか、彼がここにいる。またしても月佳の目の前にいる。月佳は唖然とした。

「やっぱり、気が強い」

 少年は相変わらず飄々としている。

「なんでお前がそこにいる」

「偶然だよ、まったくの偶然。この近くに用があったんだ」

「エルテナ、行こう!」

 月佳は焦っていた。少年の強さを知っている。昨日はディアークのお陰で逃れることができたものの、また襲われれば逃れられないかもしれない。彼女はエルテナを促した。しかし少年は月佳を逃さなかった。周囲を見まわしてみれば、なんと自分は少年によって袋小路に追いこまれているではないか。どうして二日連続でこんなことに、と月佳は天を恨んだ。

「なあ、あんた名前はなんていうんだ? 俺はカイって呼ばれてる」

「誰がおまえなんかに名のるか」

 月佳の刺々しさに、エルテナがおびえはじめた。月佳はかまわない。

「おい、そのガキおびえてるぜ?」

 少年――カイと名のった――のほうが、エルテナを気づかっていた。エルテナは少年を、涙を浮かべた目で見あげた。少年はエルテナに笑顔を見せる。それだけで、どうしてかエルテナは安堵をみせ、少年に笑みを返した。月佳にはそれが少し癇にさわった。

「ガキつれてるときぐらい愛想よくしてくれてもいいんじゃないか?」

「相手による」

 月佳は、自分をあんな目に遭わせた張本人が、次の日の夕方には飄々と名のってみせたり、子供に笑顔を見せたりしているので、ますますいらだった。

「このガキ、あんたの何?」

「おまえには関係ない」

「困ったね。こっちはぜひ関係したいってのに」

「はあ?」

 この少年には呆気にとらされてばかりいる月佳だった。

「俺はこの世の美人という美人を見てきたけど、あんたみたいなのは珍しい」

「わたしもおまえのような人間は初めてだ。で、結局、おまえは強姦魔か、わたしの恩人か、どっちだ」

「そりゃあ、あわよくばあんたを俺のものにしたいな。だけど、体だけもらっても満たされないってのはよくわかってる。ウチに反面教師がいるからさ。だから、あんたを本当に俺のものにするには、あんたを俺に惚れさせる必要がある」

 月佳は自分がどういう事態におかれているのかわからなくなってきた。なんで昨日は強姦しようとした人間が、今日は恋愛沙汰らしき話題を振りまいているのか。それでそもそも、どうしてこの少年は自分をものにしたいなどと言うのか。月佳は混乱しはじめた。

 そういえば、今はクラウディナたちを探していたのだ。思い立つと、月佳は少年をすり抜けて行こうとした。やはり少年は月佳を逃がさなかった。

「あなた、いったい何なの?」

 月佳はここで初めて少年の顔を真正面から見た。昨日の印象どおり、爽やかな風貌をしている。容姿だけ見れば、決して嫌悪の対象ではない。

「やっと態度が軟化したな。『強姦魔』は返上できたってことか? で、単刀直入にいうと、俺はあんたが気に入った。ちょうど、あんたの対極みたいな女たちに辟易してたとこだったのもあるけどね。女のくせに大男相手に蹴りはかますわ、この俺様の舌は噛むわ……お前みたいな女は初めてだ。ぜひ俺のほうを向かせたい、ってとこかな。ところで、昨日のあの男、恋人か?」

「ディアークのこと? ちがうわ。でも、大好きな人よ」

 月佳は混乱した頭で口だけ動かしていた。この少年の唐突すぎる言動についていけない。一方、月佳の背後では、相変わらずエルテナが涙を浮かべている。目の前で繰り広げられるやりとりを、わけもわからず眺めていた。月佳の生返事に、少年は、ふうん、とつぶやいて、

「どうやら混乱しているようだから、目ェ覚まさせてやるよ」

 いきなり、月佳にキスをした。

 目が覚めたことにはちがいないが、当然、次の瞬間に月佳は少年を殴りつけていた。怒り心頭し、言葉もなく少年の横を通りすぎようとしたが、少年はすぐに体勢を立てなおし、いまだに月佳を逃がそうとしない。

「いいかげんにしてよ! わたしは人を探さなくちゃならないんだから! あなたの冗談につきあってる暇はないの!」

「名前、教えろよ」

「月佳! こっちはエルテナ! ……通して!」

「月佳、エルテナ、誰を探してるんだ?」

 問いかけられて、エルテナは少年を見る。

「兄ちゃんとリュン=リエがいなくなっちゃったんだ。あ、兄ちゃんはクラウディナっていうんだけど」

 すがるようなまざしで、エルテナは言った。

「クラウディナ? リュン=リエ?」

 少年は何かを思いだそうとしているようだった。月佳はそれを見て、何も知らないくせに期待させるだけ期待させて失望させようとしているのだ、と高を括る。しかし少年は、アン=リエ舞踊団の踊子と、団長の娘のことか、といった。エルテナは彼に飛びついた。

「クラウディナとかいう踊子は、皇帝がたいそうお気に召してたそうだ。皇帝はこれまでの皇室にいなかったくらいの変態振りを発揮していらっしゃる。男の体を持つあの踊子を妾に加えるとかおっしゃるんだから、正気の沙汰じゃない。おおかた、そのクラウディナとアン=リエの娘はできてたんだろう。クラウディナが皇城にブチこまれる前に亡命したんだろうな。行き先は十中八九ツィリマハイラ。メーヴェから亡命するならあそこが一番だ」

「どうしてそんなこと、あなたが知ってるの?」

 思わず月佳は尋ねた。舞踊団の関係者でもなさそうなのに、事情に詳しすぎる。

「カイだよ」

 少年は目を細めた。

「カイ、どうして。あなた、いったい何者?」

「そういう情報に通じたやつってのがどこにでもいるもんさ」

 カイが言い終わるか終わらないかのうちに、エルテナは駆けだしていた。両目に大粒の涙をたたえて。月佳は、彼の悲痛な泣き声に、二人がツィリマハイラに行っただろうことを悟らせてはならなかったのだと思いだした。月佳は、エルテナ、と叫んだ。一途な幼児の足は止まらなかった。月佳も走りだす。

 カイが、わけがわからないという様子で、おい、と呼び止めるので、月佳は走りながら怒鳴った。

「エルテナは本当に二人が好きだったのよ。二人が遠い場所にいると知ったら悲しむに決まってる。あなた、無神経だわ」

 カイもあとを追ってきた。月佳に追いつくと、カイは言った。

「だけど、それを教えないでどうするつもりだったんだ? 二人はまだエトルリアにいる、近くにいる、と嘘をついて、ごまかしとおすつもりだったのか」

 月佳は一瞬、言葉につまったが、ややあって、そうよ、と返す。

「嘘でも、二人は近くにいると思わせたほうがいいと思ったのよ。エルテナを傷つけたくなかったの。それなのに、あなたは……ねえ、もう、ついてこないで」

 カイはむっとした顔になる。

「アンタのしようとしたことは確かに優しいよ。でも、嘘は何だってつかれると傷つくだろうが! たとえ優しい嘘でも、俺は嘘は大嫌いだ! どんなときでも嘘だけは使わない!」

「それはあなたの信条でしょ! わたしやエルテナに押しつけないで。それで、どっちにしろエルテナは傷つくっていうなら、わたしはどうすればよかったの」

 月佳はにじみでる涙をぬぐった。カイはそれを見ていた。見るんじゃないわよ、とばかりに、少女は少年をにらみつけた。少年は肩をすくめる。月佳は、きのう少年に何をされたかなどすっかり忘れ、彼とともにエルテナを追いかけた。さすがにクラウディナの弟なだけあって、幼くても足がはやい。しかも街はパリリア前日の喧噪だ。人ごみの中をするりと通り抜けていく小さいエルテナに対し、月佳とカイはひどく難儀した。ときおり二人はエルテナの名を呼んだ。エルテナは振り向きもしない。もっとも愛していた二人に裏切られた幼い少年の揺らぎを思うと、月佳は胸を痛めた。

 商店街のさなかで、エルテナは誰かの足につまずいて転んだ。彼は地に伏し、大声で泣き叫んだ。愛する兄と、その恋人の名を呼んだ。刹那、喧噪は静まりかえり、哀れみを誘う幼い少年に、祭の準備に奔走する大人たちの視線が集中した。彼が倒れたまま起きあがらないので、月佳とカイはエルテナに駆け寄った。そして次の瞬間には、また喧噪が戻っていた。

 月佳はエルテナを慰めた。カイは黙ってそんな彼女をみつめていた。そのうち、エルテナは泣き疲れて眠ってしまった。カイはすすんでエルテナを背負うと、月佳とともに舞踊団を訪れ、眠る幼児を引き渡した。

 それから二人はもときた路を引き返した。

「今日はありがとう」

「いいよ。下心があるんだから」

 月佳は小さく笑う。少年が月佳の歩調に合わせてくれていることからしても、彼の心根は優しい、と少女は理解した。

「そういう笑い方はいいな」

 カイはしみじみと言う。「ウチの親父の愛人たちは、笑いたくもないくせに、親父を喜ばせて宝石もらうために笑ってみせるんだ」

「カイの父君はどんな方なの? ずいぶんお金持ちみたいだけど」

 カイは口を開きかけ、いったん考えなおすように閉じてから、もういちど開いた。

「最悪なやつだよ。愛人はものすごい人数だし、下らんことにない金使うし。すげー甲斐性なしのくせして」

 月佳は、この年頃の少年によくある父親への反発なのだろうと思った。二、三人の愛人がいて、骨董収集の趣味でもあるという程度の話だろう。

 わたしの義父上に比べたらかわいいものよ。そんな言葉が脳裏をよぎり、それを急いで打ち消した。たとえ男色趣味があろうとも、恩ある人には変わりない人にむかって、このような悪口は控えるべきだ。

 それにしても、彼が姓を言わないということは、彼の話からしても、一見ぼろに見える服がよく見るとそこそこ上質なものであることからしても、カイは少なくともスラムの住人ではなく、生活ぶりに陰りはなさそうなので、生家は評判の悪い商家か何かであるとの想像がついた。そうとわかれば、自分も黙っておくのがいいだろう、と月佳はこの話をやめた。

 月佳が質問をやめると、今度はカイが尋ねてくる。

「なあ、おまえはどんな男が好きで、どんな男が嫌いだ?」

(結局、カイの話題は下心ばかりか)

 月佳は思わず吹きだした。

「優しい人が好き」

「単純だな。参考にもならない! まさかディアークとかいうやつのことじゃないだろうな。じゃあ……、こんな男はどうだ。容姿端麗、眉目秀麗、頭脳明晰にして剣術等武術全般に長け、一見強引かつ傲慢だが内面には深い思いやりの心を秘めている。王者の器を持つ」

 いよいよ月佳は本格的に笑いだした。少年が自分の話をしているのは見当がついたが、こんなにも自信過剰なのはどうしたことか。しかも自ら王者を名乗るとは――、一介の商人の息子にちがいないのに。

「何がおかしい」

「カイがおかしい」

「俺は大まじめだ」

 どこが、と言って、手を口にあてて忍び笑いする少女。カイは彼女の手首をつかんで引き寄せると、またしても唇を奪った。月佳も、それを求めていたわけではないものの、今度は嫌な気はしなかった。

 今度は突き飛ばさないのか? と問いたげに笑うカイにむかって、月佳は微笑む。

「唇とか体とかを奪うだけじゃあ満たされないんでしょう? それなら早くわたしを夢中にさせて」

 もうヘイゼルグラント邸のそばまで来ていたので、月佳はそういって去ろうとした。月佳が走りだすと、少年は急いで彼女を呼び止めた。

 彼女が振り返ると、黄昏時を過ぎた暗闇のなか、青銀の髪が、沈みかけた三日月の光を受けてきらめいた。肩のうえで切り揃えられた髪は、わずかな動きにも大きく揺れて、きらめくのである。同じ色の大きな瞳を、長いまつげが縁どっている。また、肌も月光を受けて白磁のようだ。少年は少女の姿に一瞬みとれて、それから我に返ると、次はいつどこで会えるか、と尋ねた。

「わたしはこの近くに住んでるわ。あなたもこのあたりなら、偶然会えるかもしれない」

 少年は月佳の返答に満足しなかった。

「月佳! 明日のパリリア、一緒に見物しよう」

 住居も知らぬ、姓名も漠然としか知らない相手と、もういちど偶然会えるかどうかなんてわからない。少年は、月佳と偶然会うなどしたくなかった。確信をもって、彼女と会いたかった。これから先も、ずっと。カイは、自分がなぜ月佳に惹かれたのか、自分でわかっていない。それでも、彼女とまた会いたい、会いたくてたまらないと思う。

(明日はディアークと約束したんだけど)

 月佳は月佳で迷った。カイに対する嫌悪感はどこかへ行ってしまった。この強引な少年に惹かれているふしがあるのを、自分で否定できない。だからさっきのような言葉――自分を夢中にさせてなどという――がついて出たのだ。でも、ディアークとの約束は先約だ。約束を反古にするのは嫌だし、ディアークとも祭をまわりたい。

 少女が答えずにいると、

「明日、正午、エトルリア中央広場で待ってる」

 カイは仔鹿色の髪を揺らして走り去った。どうやらこのあたりに住んでいるわけではなかったらしい。月佳も決断を下せぬまま帰路についた。

 帰りが遅かったので、門番をしていたディアークに叱られた。昨晩のこともあって、彼は月佳が心配でならなかったのである。月佳は彼の説教を聞きながら、彼に想われる自分を幸せだと感じた。

 そして棕櫚もまた、月佳を待ちかねていた。今日も皇太子が彼女に会いにきたのだと言って、幸福を振りまき月佳にそのときの様子を物語ったが、それは街中を走りまわって疲労困憊した義妹の右耳から入って左耳から抜けていた。

 その夜は早く床についた。今日も義父はディアークといるのだろう。これも、なんとかしなければならなかった。今日は今日のことで奔走してしまって忘れていた。

 月佳は床の上で思案を巡らせたが、しばらくして眠りに落ちた。

To be continued.

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