top of page
​精 霊

第二部 ラージャスタン・アグラ宮殿編

第14話「鐘が鳴る」(3)

「《本日より、慈善園での学習は中止させていただきます》」

 朝食後、留学メンバーは一室に集められ、ツォエルからそう告げられた。

 のちにメンバーのあいだで「講義室」と呼ばれることになるその部屋は、後宮ムリーラン宮の片隅にあって、書庫からもほど近い利便性の高い場所にあった。ただでさえ広大なアグラ宮殿、そのごく一部であるにもかかわらずやはり広大なムリーラン宮であれば、徒歩十分は「近い」の範囲内である。

 美しい螺鈿飾りの施された長机は、十人が横並びに座っても余裕がある長さで、シフルたちはここに十分すぎる間をあけて座らされていた。背後には庭園がひろがっており、ときおり小鳥の歌声が響いている。この部屋に足を踏み入れたとき、キサーラが《うぐいすの庭》というのだと教えてくれた。

「《何か問題が起こったんですかね》?」

「《不測の事態でございまして》」

《もちろん、わたくしどもといたしましても、今後とも園の生徒たちと切磋琢磨していただきたかったのですが》と、ツォエルはメイシュナーにむかって言う。

「《お入り願えますか》」

 今しがた自分たちが入ってきた扉を振り返ると、そこにオースティンが顔を出した。部屋に入ってこようとして、誰かに腕を引っぱられたオースティンは、その誰かにむかって《大丈夫ですよ》と声をかける。

 少年公子の腕をとったのは、その妻である皇女マーリ——ただし、留学メンバーの中で顔を知っているのはシフルだけ。現れた見知らぬ少女、それも見知った少女に少しだけ似ている少女を、他の三人は怪訝そうに見た。

 次に現れたのは、今度こそ見知った少女だった。しかし、いつもとは服装がちがう。紫の袴は、ツォエルたちと同じ《五星》女官のもの。

「《皇女殿下の身代わり——ですか》」

 真っ先にセージが声をあげた。

「《はい。申しわけございません》」

 紫の袴を着た少女は、どう表情を取り繕えばいいのかわからない様子で、かすかに苦笑していた。「《わたくしの本当の名はライラ・イーリと申します、セージさま。みなさまも……何と申しあげたらいいのか》」

「《簡単なこと》」

 ツォエルが言葉を継ぐ。「《こちらにおわす本物のマーリ皇女殿下は、本来はありとあらゆる外部の目を避けてムリーラン宮の奥で守り通されるべきおかた。しかし、こたび……》」

「《そこのシフルが、ばったりマーリと会ってしまったというわけだ》」

 オースティンが受けた。同時に、留学メンバーのうち三人が《は?》と叫び、残る一人であるシフルは身を縮こまらせる。

「《本来、ブリエスカの留学生が触れることは許されないアグラ宮殿の秘密に、シフルは触れてしまった。謹慎なんぞですんだのは幸運だったな》」

「《ま、シフルの妖精ならそりゃ可能だろうけどね》」

 ルッツは呆れたように肩をすくめた。「《能力があるのと、実行するのとは大ちがいってやつだよ》」

「《人を犯罪者みたいに言うなよ》! ルッツ!」

「《いや実際、犯罪者なんでしょ、本当は。一か月の謹慎ですんだのが特例でしょ。普通ありえないよ、そんなこと》」

 ルッツはいつもの調子で言い立てる。本物の皇女マーリが、初めて見るのだろう少年同士の無遠慮なやりとりに目を丸くしていても、まったくおかまいなしだ。

「《本当はとっくに死んでるはずだった、ちがう? シフルのこと初めて会ったときからずっとおもしろいと思ってたけど、ここまでとはね。さすがの俺も想像できなかったよ》」

「……《ダナン君てさ、無自覚トラブルメーカーじゃね》?」

「《メイシュナーに言われたらおしまいだよ》!」

「《はあ》? 《どこが》?」

「《そういうとこだろ》! ……あっ? ん?」

 あまりにも不本意すぎてとっさに反論したものの、思い返してみれば反論できる状況ではないことにシフルは気づき、愕然とする。今回のことは妖精の扱いに慣れていないがための予測不可能な事故としても、そもそも精霊王に会いにいくことは自分で決めたことだし、袴づくりの補習のため単独行動して刺客に襲われたし、オースティンに時姫(ときのひめ)のことをしゃべって懐刀で脅されたし——思い返せば、宮殿入りして以来トラブルの連続、しかもだいたいは自分の行動が原因だ。

「《ルッツとメイシュナーのこと、まじ迷惑なトラブルメーカーだと思ってたけど、ラージャスタン来てから完全に逆転してる》?」

「《失礼な。俺は別にトラブルを『つくってない』よ? まわりが勝手に反応してトラブルを『つくる』んだ》」

「《それもトラブルメーカーだと思うけどね》」

 ルッツの反論に、セージが言い返す。メイシュナーが、ははっ、と笑う。

「《ロズウェルに言われるほうがヤバいだろ》?」

「……《は》?」

 セージは剣呑な目をメイシュナーに向けた。あーやばいやばい、という顔でメイシュナーは自分の口を塞いだが、目はどう見ても笑っている。この場に女官たちがいる以上、セージがいつものように精霊をけしかけることはできないとわかっているからだ。

「《ともかく》」

 セージは切り替えた。「《皇女殿下の身代わりを表に出しているということを、慈善園の生徒たちに知られてはならないということですね》」

「《おっしゃるとおりでございます》」

「《では、私たちはどこで学べばいいでしょう。ブリエスカの支援で留学している以上、私たちはラージャスタンで学んだものをブリエスカに持ち帰るのが使命です》」

「《それについては、ご心配めされませぬよう》」

 ツォエルはそう言って、これからの留学生活について説明する。今後、留学メンバーの生活圏はムリーラン宮内に限定される。とはいえ、ムリーラン宮にはラージャスタンの知識のすべてともいえる書庫があるし、ムリーラン宮だけでも十二分に広大な敷地がある。加えて、今後は皇女夫妻が受ける教育をともに受けることができるという。

「《こたびのことは、不測の事態といえば不測の事態……なれど、皇女殿下ご夫妻のお話相手に、というのが留学の本来の目的でございますから、なるようになったともいえましょう。ですから、ダナン殿》」

「《はい》っ!」

 呼ばれて、シフルは直立不動の姿勢になる。ツォエルは微笑んだ。

「《こたびのことはお気に病まれますな。貴殿には比類なき力がおありです。せっかくの稀なる力に不当にたがをはめることは、われわれの本意ではございませぬ。その力を活かして、皇女殿下ご夫妻を十全にお守りいただければよろしいかと》」

「《はい! それはもう》……」

「《ご希望の妖精使いの心得につきましても、近々専門の者をムリーラン宮に招く予定です。引き続き、心ゆくまで学ばれるとよろしいでしょう》」

「! 《はい。ありがとうございます》!」

 シフルは思わずガッツポーズになった。妖精使いの心得と聞いて、天井付近に浮かんでいた当のラーガは不愉快げに舌打ちする。しかしラーガがどう思おうと、シフルにとってこれは喫緊の課題なのだ。いつもラーガの好きにさせたら、人間社会では年中無休で犯罪者であり、生きてはいけない。完全にコントロールするのは不可能とはいえ、ラージャスタンの妖精教育にも興味がある。

(行動範囲がムリーラン宮だけ、か)

 そんなの全然OKだ、とシフルは思う。広いとはいえ一室にラーガとメアニーとで一か月ものあいだ閉じこめられていたことを思えば、なんてことはない。セージもいるし、ルッツもメイシュナーも、オースティンも他の女官たちもいる。なんなら本物の皇女と偽物の皇女だっている。皇女夫妻はシフルたちにとっていわば「同級生」だ。数は少ないが、最低限ラージャスタンに来ただけの「現地人との交流」はできる。

「《シフル、うれしいわ! これからずっと、となりに座って一緒にお勉強できるのね! ブリエスカのいろいろなこと、教えて頂戴ね? ああ、こんなすてきなことになるのなら、もっと早くシフルに忍びこんできてもらいたかったわ!》」

「《忍び》……《こんだ》……?」

 セージが怖い感じに目を光らせる。シフルは思いきり頭を振った。

「《いや、ちがうって》! 《事故》! 《事故だから》」

「《え、ちがったかしら?》」

「《いえ、ちがいませんけど》……《ちがうから》!」

「《どっち?》」

 セージの声色は暗く低い。

「《ラーガが適当なところに出口を開けたら、そうなりました》っ!」

「忍びこんだ」も「事故」も、まごうことなき事実なのである。だから、悪気なく妙なボキャブラリーを駆使するマーリ皇女を、強くは止められない。

「《なるほどね》」

 納得したかのような口ぶりで、なのにセージの目は真っ黒だ。もともと黒目がちな瞳が魅力的な彼女だが、この黒さはそういう類いのものではない。

「《妖精使いの心得が必要というわけだ。ツォエルさん、その授業は私も出席してかまいませんか? 興味があります》」

「《もちろんでございます》」

 ツォエルは快諾する。「《人が一生のあいだに妖精に遭遇することはそうあるものではありませんが、精霊召喚学を学ばれているみなさまにとっては重要な主題のひとつかとお察しいたします。それに……メルシフル殿がある日突然、妖精使いになられたように、セージ殿とていつその資格を与えられるかわかりますまい》」

「《それはそうかもしれませんね》」

 さも戯言のように微笑むツォエルと、応じるセージ。何回見ても怖い組み合わせだ。セージはおそらく、彼女に憑く妖精キリィのことをほとんど誰にも明かしていない——もしかしたら、自分だけかもしれない、ともシフルは思う。しかし、ツォエルはあたかも秘密を知っているかのようであり、セージはセージで、仮にそうだとしてもしらばっくれるつもりだろう。

(……知られたら最後、オレみたいになるから!)

 面倒。本当に面倒だ。シフルは内心ため息を吐く。セージの気持ちはよくわかる。だがもう遅い。

 ラーガに関しては、アグラ宮殿入りして以来、少々こじれすぎた。おかげでラージャスタンにおける妖精使いの心得なるものに触れる機会ができそうなのは、怪我の功名ではあるのだが。

 ——だんだん、身動きとりづらくなってる気がする。

 しかも、ラーガはもちろん、留学メンバー全員を巻きこんで、だ。少なくとも慈善園で生徒たちと交流しながら学習する機会については、確実にシフルが奪ってしまった。

 もうこれ以上何かやらかしたくない、と強く思うが、強く思えば思うほど心が萎縮しそうである。

(とにかく、学べることは学ぼう)

 自分にいま残されている選択肢から、できることをする。方針として考えられるのは、それぐらいだ。とりあえず今は、セージの秘密をシフルが知っているのを悟られないこと。

 美しく恐ろしい女官の退紅色の瞳が、少年にとまる。少年は目を逸らすことも、軽い笑みを返すこともしかねて、一瞬固まった。当然、その蠱惑的なまなざしは、わずかに細められた。ここまでくると、微笑は最強の武器か防具といった趣きだ。

 セージが微笑みのまま少年に目を向けたとき、ツォエルはまた唇をひらく。

「《つきましては、みなさまにご紹介したいかたがございます》」

 女官が《お入りくださいませ》と声をかけると、《はい》と少年の声で返事があった。

「《……はあッ?》」

 間髪入れず、叫んだのはオースティンだ。さっきまでは涼しい顔をしていたのが、一気に頰を紅潮させている。

 かたわらのマーリ皇女は目を丸くした。留学メンバーの視線も、狼狽する皇女婿に集中する。

「《僕は聞いてないぞ、ツォエル・イーリ!》」

 ほほ、と女官頭は笑みをこぼす。

「《われらが皇帝陛下の思し召しでございますゆえ、ご容赦を》」

「《サプライズかよ!》」

「——《何を騒いでいるんです、オースティンさま。みなさんの前でみっともない》」

 部屋に入ってきた少年は、開口一番、オースティンをたしなめる。

 肩の上で切りそろえたおかっぱ頭の少年は、はしばみ色のやさしい瞳で一同を見渡した。わけても、マーリ皇女の影である女官ライラをじっとみつめ、ゆっくりと会釈する。

 挙動のひとつひとつが丁寧で、目の前の一人ひとりを気づかうような少年の態度に、シフルはひと目で好感を抱いた。

 少年はシフルたちと同じ白い袴の上下を着て、全員にむかって頭を下げた。

「《アレン・クラヴァールと申します。以後、よろしくお願いいたします》」

「《アレン殿は婿殿(ムストフ・ビラーディ)の乳兄弟で、故国ではお小姓として勤められたおかたです。婿殿のたっての願いで、このたびアグラ宮殿にお越しいただきました。宮殿にとっては大事なお客人でもありますが、アレン殿のご希望で、今後は留学生のみなさまと皇女殿下ご夫妻の仲介役としてお手伝いいただきます。みなさま、どうぞお見知りおきを》」

 ツォエルの紹介を受けて、留学生四人は丁重に礼をした。相手が丁重だから丁重に返しただけなのだが、当のアレンはあわてたふうに頭を振る。

「《みなさんどうか、そんなにかしこまらないでください。ぼくはただの平民の雑用係です。皇家のかたがたと同じに扱っていただく必要はありませんので》……」

「《——遅い》」

 いきなり、オースティンが言った。

「《はい》?」

 アレンと名のった少年が、皇女婿を振り返る。

 しばらくぶりの主従の再会、らしい。シフルたち一同は、あまり自分たちには縁のない状況に、わけもなく静かに見守ってしまう。

「《遅いと言った》」

 アレンは、少し遅れて自分が言われたことを理解した、というように苦笑する。もしかしたら、ラージャ語でオースティンと話すのは初めてなのかもしれない。

「《本当はもっと前にファテーブルに着いていたんですが、宮殿でお手伝いさせていただくにはラージャ語を習得する必要がありまして……。知ってのとおり、あいさつぐらいしかできなかったものですから、郊外の別宮に滞在して稽古をつけていただいたんです。ぼくは優秀な生徒じゃないので、先生からお許しをいただけるようになるまで時間がかかってしまいまして》」

「《半年で認められたのですから、十分にご優秀かと。アグラ宮殿、特にムリーラン宮内で奉仕する者は、一部の例外を除き、正統の王の言語(ルグワティ・ラージャ)を発声できなくてはなりませぬ。それは誰にでもできることではございますまい》」

「《いえ、そんな》……」

 明らかに、ツォエルのいう例外は自分たち留学生のような気がしたが、聞かなかったことにする。考えてみれば、シフルたちの留学はすべてが例外、例外づくしの試みだ。すべての掟を死守していたら、そもそもこの留学は始まってすらいない。まあいいや、とシフルは流した。

「《そんなことはどうだっていい》」

 主人たる少年はといえば、小姓のそんな苦労をひと言でぶったぎる。「《僕は、遅い、と言ったんだ》」

《はい》? とまたアレンは答えた。

「《——遅すぎる!》」

 オースティンはくりかえした。「《僕の小姓なら、僕に呼ばれればすぐ来るのが当然だろうが! それが言うにこと欠いて、半年間語学研修してただと? そんなものは三週間で始末してこい、バカなのかおまえは? 『英雄の現身』たる僕の小姓なら、そもそも最初からラシュトー中の言語に通じていてしかるべきだろうが!》」

「《あーっ、そんなこと言います》? 《言っちゃいます》?」

 今の今まで丁寧だったアレン少年が、一気に仮面を脱いだ瞬間だった。「《オースティンさまあなた、ぼくに一緒にラージャスタンに来い、言語は自分ができる、とまで言ったの忘れたんですか》?

《っていうか、そこまで言って大騒ぎしてたくせに、皇女殿下をひと目見たらてのひらを返して、ぼくを振り返りもせず宮殿に入って》! 《そうかと思えば、やっとトゥルカーナに帰れたと思ったらまたすぐ迎えをよこして、ラージャスタンで仕えろとか》! 《勝手にもほどがありますよ》!」

「《あー……、わかる》」

 思わず、口を挿んで同意を表明してしまうシフルだった。アレンははたと止まり、シフルを見る。

「……《わかります》? 《失礼ですが、あなたは》」

「《ブリエスカ王立理学院の留学生、メルシフル・ダナンです》」

 アレンが自分のほうにやってきたので、シフルはとっさに立ちあがり、さしだされた手を握り返す。

「《最近オースティン……さまと関わってるんですけど、身勝手な言動に驚かされることがあります》」

「《そうなんですよ》! 《オースティンさまは勝手なんです。こっちの苦悩も苦労も知らないで、毎度毎度思いついたときに思いついたことを言って。矛盾とか考えないですからね。ぼくらサンヴァルゼ城の下の者が、どれだけ振り回されてきたことか》」

「《言うだけならいいんですけど、やりますからね。こうなると、行動力があるのもちょっと考えものですよね。自分本位の行動力で、あとさき考えずに思いきった行動に出ますから、周囲はびっくりしますよね》」

「《婚家でも、ですか》……《そうですか》」

 アレン少年は、万感をこめてシフルの手を握りつづける。シフルも一緒になって、握りあった手をぶんぶんと振る。

「《おい……》」

「《トゥルカーナでもそうだったんですか》?」

 口を挿もうとしたオースティンを無視して、シフルは尋ねる。

「《もちろんそうです》」

「《まあ、そうですよね。そういう人なんですかね》」

「《おい、おまえたち……》」

「《乳兄弟として、育てかたをまちがったとは思いたくないんですが》」

「《あー。だけど、本人の素質もあるでしょうから、アレンさんの責任ってわけじゃ》」

「《やーめーろー!》」

 オースティンは飛びあがり、共感しあう少年二人の手を手刀でぶった切った。

「《アレンと呼んでください。敬称も敬語も要りません。さっきも申しあげたとおり、ぼくはしがない平民なので》」

 アレンはシフルの手を再度握る。

「《じゃ、こっちはシフルで》」

「《シフル、今度ゆっくりお話ししましょう。オースティンさまのいないところで》」

「《ぜひ》」

 こうして、トゥルカーナ公子被害者友の会というべき少年二人の話はついた。

「《今後は宮殿での学習については、こちらのアレンさまが統括なさいます》」

 少年たちのやりとりを黙って見守っていた女官頭は、静かにうなずく。「《何かあればアレンさまに。それでは、みなさまの留学が今後も実り多きものとなることを、心よりお祈り申し上げます》」

 皇女とその影たる少女、それに他の留学メンバーが必死で笑いをこらえていても、女官頭の口の端はぴくりとも動かなかったのは、さすがは《アグラ宮殿の蛇》といったところだった。

 

To be continued.

© 2022 by Kakura Kai / このサイトはWix.com で作成されました

  • Twitterの - ブラックサークル
  • Instagramの - ブラックサークル
bottom of page