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​精 霊

第二部 ラージャスタン・アグラ宮殿編

第14話「鐘が鳴る」(4)

「驚きました、本当に。貴女が影姫でいらっしゃるなんて」

 プリエスカの留学生と別れたあと、オースティンはアレンとライラを連れて自室に戻った。

 当然マーリも一緒に来たがったが、あの場で唯一正真正銘のマキナ皇家たる娘には外婿などよりずっと多くの制約があるらしく、ツォエルに却下された。

「アレンさまには、面目次第もございません」

 ライラは深く低頭する。「わたくしのような者が、恥知らずにも皇女殿下を装ったなど。どうか、あのときのことはお忘れくださいませ。わたくしのことは、ただ、ライラ、とお呼びください」

「あれが貴女の務めなのでしょう。お見事でした。謝っていただく必要はないと思いますが」

 アレンはくすりと笑った。乳兄弟がこのように自然体でいられる言語は、トゥルカーナの東言(とうげん)だ。

 オースティンは、故郷の言葉をひどく懐かしく聞く。少年公子はラシュトー大陸内のあらゆる言語に精通しており、言語的にはラージャ語のみの生活でもまったく支障ない。それでも、懐かしい気持ちに変わりはなかった。

 故郷懐かしさのあまり、オースティンはマーリの名を借り、トゥルカーナに戻っていたアレンと、ラージャスタンに嫁いだ従妹姫アンジューをアグラ宮殿に呼び寄せた。アンジューはすぐ宮殿入りしたが、アレンは一度は命令を拒んだ。オースティンがプリエスカの留学生たちの「友人」になることができれば、自分でアレンを迎えにいける——というのが、皇帝との約束だった。

(ことはうまくいった、ということか)

 留学生たちの身に何かが起きるはずの休戦記念日の儀式は、終わった。

 あの日、実際何があったかは、オースティンにはわからない。わかるのは、シフルがクレイガーンの器もつ妖精によって起こした「事故」のせいで、留学生の行動制限が強化された一件だけ。

 皇家の人間が、ムリーラン宮内で一生閉じこめられるように。プリエスカの留学生たちも、ここに囲われた。

 アグラ宮殿に忠誠を誓う慈善園生たちからさえも、今や火(サライ)の結界で隔てられている。園児たちの絶対の忠誠ほどに、宮殿は園児たちを信用していないということだろう。子どもは子どもなのだから、当然といえば当然か。

「でも、謝ってくださるところが貴女のすばらしさですね」

 何かと引き換えに呼び寄せた懐かしい乳兄弟が、今、ラージャスタン式の袴を着てにこやかにしている。

「ぼくに嘘をついたことを、申しわけないと思ってくださるのですね。貴女にそこまで思っていただけるなんて、もったいないことです」

「アレンさま、どうか、わたくしをそのようにおっしゃるのはおやめください」

 ライラは心底困った様子で、アレンに乞う。「わたくしは、あなたさまをたばかっただけの卑しい女です」

「それは困りました」

 と、アレンも言う。「ぼくにとって、もはやラージャスタン皇女殿下は貴女以外のかたではありえないのですが」

「お戯れを……」

「きっと、ぼくがばかを言っていると、貴女が叱られてしまうんでしょうね。やめます。やめますが——」

 アレンは、皇女でも何でもない少女をまっすぐに見た。

「貴女の行動を目の当たりにして、ぼくは初めて貴国を信じてオースティン公子殿下をおまかせしようと思いました。これは本当です」

 そしてこれからも、貴女を信じるからこそ、貴国を信じることができるのです、と告げた。それから、

「どうか末長く——」

 深く深く、腰を折る。

 先ほどからの要請をまるで無視したアレンの行動に、ライラは改めて言葉を失っているようだった。困る、というより、呆気にとられた、というふうで、少女は自分にむかって下げられた後頭部を見やっていた。

 ややあって、ライラは、納得したというよりあきらめた風情で、少しだけ笑みを浮かべる。

「思っていたよりずっと、強引なかたですわね、アレンさまは」

「アレンと」

 乳兄弟はまだまだ引くつもりがない。

「では、わたしのことはライラと。この点は、わたしも引き下がりかねます」

 とうとう、少女は肩をすくめた。

「ライラさま……ライラ。ぼくは妥協も知る男ですよ。ご安心を。そうでなければ、恥知らずにも、婿入りした主君の婚家になど呼ばれてきません」

「は?」

「アレン。安心しましたわ。こちらこそ、末長くよろしくお願いしますね。……ではそろそろ、わたしは失礼いたします。アレンは、オースティンさまとごゆっくりなさって」

 ライラは軽く頭を下げると、ひらりと袴の裾をひるがえし、部屋を出ていった。オースティンは、出会ったころ、まだ影姫だと知らなかったころの彼女に感じた軽やかさを、しばらくぶりに感じていた。場をさっと吹き抜けていく、一陣の風のような。

 その彼女を取り戻させたのは、アレンのまなざしだった。アレンはまだ、彼女が出ていった扉をみつめている。似合いもしないラージャスタン式の袴を着こんで、オースティンの部屋にたたずんでいる。

 放っておけば、いつまでもライラのおもかげを追い求めそうな乳兄弟の様子に、オースティンはつい、

「僕じゃなく、ライラに会いに来たらしいな」

 と、つぶやく。

「はい?」

 振り返るはしばみ色の瞳に、かわいげなど、かけらもない。「オースティンさまあなたねえ、ぼくがライラに呼びだされてラージャスタンに来たとでも思っているんですか?」

 ちがうでしょ、あなたが! ぼくを呼んだんでしょ、しかも本来の掟を覆させてまで外国人の下僕をアグラ宮殿の最奥に入れさせたんでしょ、あなたが! トゥルカーナ史上初でしょうよ、婚家でここまでワガママ放題やりたい放題してるのは。それはライラではなく、あなたなんですからね。そう言い放ったアレンは、少しの照れもなく、懐かしい、かつての通常運転だった。

 オースティンは、自然体で説教しつづける少年をしばし見守ったあと、天井をあおぐ。このごろは見飽きてきた、砂岩づくりの天井を。

「聞いてます?」

 アレンが、背のびしてオースティンの視界を阻んできた。

「……」

 オースティンはしばし発声できずに、口を薄く開けたまま動作を止めていた。「……あのな」

「はい」

 オースティンは、息を吸い、ひと息に言った。

「——話したいことは山ほどあった気がするのに、おまえがいきなり来るから、何を話したかったのか思いだせない」

「……そうですか」

 ふ、と懐かしい乳兄弟は笑う。

 トン、と踵を床に落として、アレンは何歩かあるいていき、それからくるりと振り向いた。

「大丈夫。そのうち思いだすでしょう。これから、時間はいくらでもありますからね」

「そうかな」

「そうです」

 アレンは力いっぱいうなずいた。

 今、この乳兄弟のことがひどく懐かしいのも、そのうち消えてなくなるのだろうか——とオースティンは思った。これから、このアグラ宮殿で長い年月をアレンと過ごして、幼いころのように一緒にいることが当たり前になるのだろうか。

(それなら、これはこれで、よかったのか)

 けれど、今の自分はもう、トゥルカーナでアレンといたころの自分とはちがうのだと、少年は内心気づいていた。そして、アレンもまた、同じなのだと。

 

 

  *  *  *

 

 

 カーン、カーンと、鐘はいつまでも鳴りやまない。まるで、警告するかのように。

 もう十分だ、わかっているから止めてくれ、とユリスが思っても、高らかに、勝ち誇るように、鐘は鳴りつづけた。

 カウニッツの言ったことが、鐘の音とともに頭の中でこだましている。普段は人より落ちついている友人の、不安げな横顔。ユリスは、自分の指先が冷たくなっていくのを感じた。それと同時に、自分の不甲斐なさも。シフルとセージがラージャスタンに旅立つや壊れた友情、頼れる友人が不安げにしているだけで平静を失う自分。

(だけど、仕方ないだろ……こんなこと、初めてなんだから)

 今の十七歳以下は「平和ボケ」した世代だと、いったい誰が言いだしたのだろう。あれは、そうとう意地の悪い連中だと思う。

 自分たちだって、好きでこの時代に生まれてきたのではない。生まれる場所も時代も、自分では選べない。好きで「休戦」中のプリエスカに生まれ、好きで召喚学部に進学して精霊召喚を学んだわけではない——ただ、選択しなければならないタイミングで出会ってしまっただけだ。

(わけもわからずこんな選択をしちまうところが、『平和ボケ』なのかねえ……)

 ユリスは、はは、と薄く笑った。至近距離で鐘の音に煽られながら、グレナディン大聖堂の正面玄関に入っていく。

 カウニッツとともにAクラス生の席についた。敷地内にいた学院生たちはほぼ一番乗りで、他はまだ教会関係者しか集まっていない。会話を交わす気にもなれず押し黙るユリスとカウニッツの周囲で、学生たちはそわそわと耳打ちしあっては、静かに待つよう教授たちに注意されていた。

 やがて、外で馬車の音がして、続々と王侯貴族たちが到着した。Aクラスに入ってから顔だけは見知っていた人々が、今日は妙に気忙しい。彼らも、しょせんユリスたちと同じ穴のムジナだ。

 会衆が聖堂内を埋めても、鐘は一向に鳴りやまなかった。やや間を開けて、厳粛な面持ちの兵士たちが列をつくって入場してきた。鐘の音と人々の視線を浴びて、兵士の列をくぐってきたのは、一人の男。

(あれが、プリエスカの国王……)

 通常、大聖堂の礼拝に国王が参列することはない。少なくともユリスは、Aクラス昇級以来、一度も王冠を頭上に戴く男を見たことがなかった。

 覇気のない、よくいえば優しげな、中年にさしかかりつつある男が、側近たちに囲まれて赤い絨毯の上を進んでくる。着席していた貴族たちがいっせいに立ちあがり、ユリスたちも遅れてそれに倣う。王は無造作に手をあげた。王が貴賓席に座り、会衆も再度席に着く。

 あれほどやかましく鳴り響いていた鐘が、ぴたりと止まった。余韻すらなく、静けさは急激に訪れた。その中心に、シャリバト大司教がたたずんでいた。

 老人は、ためらうことなく口をひらく——たとえ、その言葉が、ユリスなら発することを恐れるようなものだったとしても。

 平常時の礼拝の呼びかけと同様に、老人は朗々と発声した。長年にわたり元素精霊教会という組織の中で熾烈な争いをくりひろげ、それに勝ってきた人物だから、重大な言葉であっても役目として淡々と実行に移せるのだろうか。あるいは、内心は大いに揺らいでいるのだろうか。ユリスにはわからない。

 その第一声を聞いたとき、ユリスの頭は真っ白になった。

 予想はしていた。でも、まさかそんなことにはならないだろう、という甘い期待があった。しかし、そんな甘さは斟酌されることなく、厳然たる決定は「平和ボケ」した世代の一人たる少年に突きつけられた。

 それと同時に、怒りに近い感情が少年を貫いた。こんなこと、あっていいはずがない。これは甘さでもなんでもなくて。

「——カリーナ先生!」

 礼拝が終わって解散していく会衆の中に、助教授の後ろ姿をみつけて、思わず駆け寄った。振り返った助教授の顔は、見たことがない蒼白だ。

「何?」

 いつもと同じような口調で、しかしそこにはっきりと質問を拒否する響きがあり、ユリスは二の句を継げなくなった。冷たいまなざしに、かろうじて「何でもありません」と答え、足早に群集を離れる。

 聖堂のかげでひとりになって、ようやく人心地ついた。けれど、心のざわつきは治まらない。治まるわけがなかった。

「ユリス。……大丈夫か?」

「カウニッツ……」

 近づいてきた友人の肩に拳を押しつけ、ユリスは一度言葉を呑みこむ。

「いいんだ。俺も同じだから」

 年長の友人はこの状況でもなお、穏やかな目で言った。彼が大人びているのは、彼が学生の中で年長だからではなく、他の大人と比べても十分に「大人びて」いるのだと、ユリスはこのとき理解した。

 けれど、彼は落ちついた見た目をしているだけで、決して内心が落ちついているわけではない。しかし、ユリスは今、その見た目に甘えたくて仕方なかった。

「……っ、なんでだよっ……」

 どうしようもないとわかっていて、ユリスは吐きだした。「ラージャスタンにはシフルたちがいるのに、わかっていて踏み切ったのか? 国が受けた屈辱、メンツってのは、あいつらの命より大事なことなのか……?」

「……」

 ただ吐きだしたいだけの問いかけを、カウニッツは黙って受けとめる。

「なんで……」

「なんで、なんだろうな……」

 静かな黒い眼で、カウニッツはそれだけをつぶやいた。二人の学生のやり場のない問いが、人知れず大聖堂の陰影に呑みこまれる。それを聞く者は、二人の学生自身のほかは誰もいなかった。

 

 

 その日、王国歴一三五年第二の火(サライ)の月二十一日、プリエスカは元素精霊教会の名の下に隣国ラージャスタンに宣戦布告した。

 名目は、過日のラージャスタン国内における休戦記念日の儀式において、プリエスカを代表して参加していた留学生四名に対し、アグラ宮殿がある「屈辱的な振るまい」を促したことだった。プリエスカの留学生に屈辱を与えることは、ひいてはプリエスカという国そのものを辱めることに等しい。

 ましてや、儀式を通して「プリエスカがあたかも、ラージャスタンの征服を受け入れた国々のうちの一国であるかのように演出し内外に示した」とあっては、プリエスカとしては黙認は不可能。よって、この日をもって十七年にわたる休戦状態を解除し、再び戦いの火蓋を切って落とさんことを、ここに宣言する——と。

 シャリバト元素精霊教会司教は、グレナディン大聖堂のヴォールト天井の下で、バラ窓から注ぎこむ荘厳な光を全身に浴びながら、国王を含む全プリエスカ国民に対して高らかにそう告げた。

 それは、短かったような長かったような十七年間の平和な時代が、たしかに終わった瞬間だった。

 

To be continued.

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