精 霊 呪 縛
第二部 ラージャスタン・アグラ宮殿編
第15話「名前のない感情」(1)
声がきこえるほうへ。
いつも、それだけを思っていた。その声が何であっても、誰であっても、一向にかまわなかった。選ぶ権利など、与えられたことは一度もない。本能的に自分を呼ぶ声がきこえるほうへ、盲目的に自分を求める声がきこえるほうへと、歩きつづけた。
この世界に光はない。声は自分にとって、光などではなかった。単に、自分に対して何かを要請している存在というだけだった。要請がある以上は、最低限、生命を維持できるだけの糧は与えられる可能性が高い。それすら与えられない可能性も同じくらい高かったけれど、それも単なる「世の常」。
少女――ライラは、幼いときからそれを知っていた。泥の川でも、水は水だと。どんな水も流れ去る。同じ水は再び巡ってこない。
少女が知らなかったのは、
――では、本当に……すべて、おまえではないんだな……!
――美しいと思う。おまえを美しいと思う。
澄んだ水は、光は、この世界にあるということ。
それは、泥水にまみれたはずの心身をも、一瞬で洗い流すということ。
「みなさま、おはようございます」
彼らが「講義室」と呼ぶ部屋――本来は《花鳥の間》という――に入り、ライラは声をかけた。席についていた学生たちがまなざしをあげる。
「おはようございます! ライラさん」
元気がよいのは、銀髪と赤髪の少年二人。
「おはようございます」
落ちついているのは、黒髪の少年少女。そのうちセージ・ロズウェルとは、他の学生より接点が多く、親しみもある。
しかし今日、彼女はあいさつしただけで視線を落とした。《ホラーシュ詣(もうで)》が終わってからというもの、彼女の眼に光はない。
彼女はすでに囚われた。アグラ宮殿という広大な牢獄、ライラ自身も人生の時間の半分以上を囚われている牢獄に。
気の毒なのは、彼女がこの牢獄に気づいてしまったことである。気づきさえしなければ、他の囚われた貴族たちのように、幸福な客人でいられた。気づいてしまったから、彼女は不幸な罪人となった。
知性も洞察力も、与えられた場所によっては不幸のもとだ。プリエスカ王立理学院の学生である彼女にとって、やはり元いた学院こそがふさわしい場所だろう。
(セージ、あなたは見せてくださる?)
泥川の真っ只中で、まだ見ぬ明るい場所を。オースティンと、かつて英雄クレイガーンと呼ばれた妖精が、ライラに見せたように。それとも、泥の中であがく者に光を見せられる者こそが《英雄》と呼ばれるのだろうか。
だとすると、オースティンを《英雄》と呼び、クレイガーンを英雄に祀りあげた人々は、ライラよりずっと鋭敏な感覚をもつのかもしれない。彼らは決して疑わず、迷わない。彼が《英雄》を思わせる美貌をもっているというだけで、臆面なく彼を《英雄の現身》と呼ぶのだから。ライラ自身は、かつて汚濁の中をさまよった過去から、その元凶、母国トゥルカーナの公子たる少年を試みたというのに。
思いだすと、指が震える。近づいてきた馬車に気づきながら、矢で鹿を追い立てたときのことを。そして、明らかに人の足音だと気づきながら、弓引いたときのことも。
(なぜあんなことをしたのか、今はわからない)
けれど、迷わなかった。皇女の命令は、オースティンの顔を婚儀前に見てこいというもので、あの事故はもちろん含まれない。セージと森で出会ったのも、まったくの偶然。どちらも一歩まちがえれば大変なことになっていた。わかっていて、迷うことなく矢を放った。
(わたしの心は……)
ライラは今、《五星》女官として、講義を受ける少年少女を微笑みながら見守っている。今ふたりは生きて目の前にいる。ひとりはいまだ知らず、もうひとりは何かに気づいて。もう元には戻れない。ライラはそれでも、奇妙に穏やかな気持ちで彼らを見ていた。
(わたしの心は……何を望むのか)
――わたしの心は、どこにあるのか。……
そっと、心臓をおさえる。心臓はまだ動いている。心臓は器官で、心そのものではない。心は、いずれ死んで精霊となって器を離れたとき、初めてあらわになる。
それが道理である以上、心はここにあるはずだ。それなのに、心のありかが、自分にはわからなかった。泥水に浸かりすぎ、両目はもう力を失ったのかもしれない。心をなくした心臓は、ただの空っぽの機械だ。
「――ライラ?」
新しく同僚になったばかりの少年が、はしばみ色の瞳でライラをのぞきこむ。
「アレンさま」
「アレンです」
とっさに敬称をつけて彼を呼んでしまい、律儀に訂正された。
「アレン。失礼しました」
「オースティンさまから、このごろご体調が芳しくないとうかがっております。講義をすべて見届ける必要もないでしょうから、お部屋で休まれては?」
アレンは小声で言う。今、室内では、精霊研究の大家である初老の婦人が、人類と精霊のかかわりについて講義していた。彼女の張りのある声により、使用人たちのやりとりは学生たちから聞き咎められなかった。
「ご心配をおかけして。でも、大丈夫です」
「そうですか?」
「わたしはこう見えても、アグラ宮殿女官の頂点《五星》の一員にございます。ただ見ているだけのお役目など、わけないことですから」
我ながららしくない言い分に、ライラは内心笑ってしまった。最近トゥルカーナからやってきた公子の小姓には、ライラのような人間にもそうさせてしまう誠実さがあった。きっとこの少年にかかれば、ライラのような下僕ですら姫君のように大切にされてしまうのだろう。実際に自分も、姫君として振る舞っているのだけれど。
しかし、宮殿に姫君はひとりでよい。ついでながら、ライラのような人間は姫君として扱われるに値しない。ましてや、この誠実な少年に大切に扱われるなど。彼はラシュトー大陸随一の宝石オースティンにかしずく存在であり、泥の中で生きてきたライラを同じように扱われては困る。
「どうかご心配なく」
「わかりました。でも、何かあればいつでもおっしゃってください」
ライラはうなずき、講義風景に目を戻す。学生四人は言うに及ばず、オースティンもマーリも真剣に聞き入っていた。真剣に聞き入りながら、ときおりかたわらのオースティンや学生たちのほうを気にしているのは、マーリだ。マーリは他人と同室で教育を受けた経験がなく、新鮮なのだろう。
自分は皇女マーリの影、皇女マーリは自分の光。それと同時に、マーリと自分ほどかけ離れているものもない。自分は泥水の中で生まれ育ち、マーリは泥の中の堅固な鳥籠の中で、周囲が清いと考えるものだけを与えられて育った。マーリと自分は、同じ場所にいて、世間には同じ存在とみられながら、まったく異なる存在だ。けれど。
オースティンや学生たちをまぶしく眺める皇女の心が、ライラにもよくわかる。ライラも、自分が今この場所に立っていることの不思議に打たれ、つい所在なく空間を眺めやってしまった。
講義に集中しているセージ、シフル、ニカ、ルッツ。興味深げに耳を傾けているオースティン。ときに聞き入り、ときにちらちらと周囲をうかがうマーリ。講義室全体に気を配りつつ、ときおりオースティンを見守るアレン。
そのすべてをまぶしく見やると、最後に必ずアレンから視線が返ってきて、会釈と微笑がむけられる。アレンに微笑まれると、ライラは、自分自身もまたまちがいなくここにいるのだということを、否が応にも実感させられる。
一瞬、頬に熱がのぼり、どうしていいかわからなくなる。
(どうして今、わたしはここにいるの?)
歩いても歩いても、泥水に浸かっていた足。あの足は他でもない自分のものであり、過去は消えない。けれど今、自分の足はやわらかい布靴に包まれて、乾いた、塵ひとつない砂岩の床の上に立っている。学びだけに専念することを許された異国の少年少女を、何も恐れることなくただ見守っていられる。なんの要請もない、ただ与えられるだけの微笑すらむけられる。
なんという場所に、自分は立っているのだろう。
(こんな場所にいられるだなんて、考えたこともなかった。ほんの少し前までは)
しかし、いつまでもこの場所にいられるわけではないと、ライラは理解していた。
セージの沈鬱な横顔。それが、これからを象徴するすべてだ。
ライラはこの瞬間を惜しむように、再度、講義室を見渡した。講義室の外の庭で、小鳥が鳴いた。
* * *
このごろのセージは、伏目がちである。
シフルが知っている彼女は、いつでも黒目がちな瞳に強い光を宿していた。出会ったころの人を寄せつけない鋭い光にせよ、友達になったあとのいたずらっぽい光にせよ、強い意志のある光にせよ。
彼女はいつもまっすぐに相手を見据えて、冷静な判断を下す。そんな彼女を象徴するように、セージはいつも靴を高らかに鳴らしてさっそうと歩く。迷いも惑いも、彼女の辞書にはない。
しかし、
「セージ、食べないの?」
「――」
空になった自分の器をおいてシフルが声をかけたとき、一瞬だけ彼女の眼に光がさした。
バルコニーに出された食卓の上には、手つかずのおかずが八皿もおかれている。鶏肉のあんかけも、菜葉の油炒めも、みんなセージのために用意された品々だ。一方、シフルの前の八皿はいずれも空であり、食べかすしか残っていない。
「最近セージ、あまり食べてないよな」
「よかったら、シフル食べる? 私はおなかいっぱいだから」
鶏肉の皿を押しだして、セージは力なく微笑む。一瞬だけ眼に戻った光は、もう引っこんでしまった。固辞したが、彼女は皿をこちらに追いやったまま、戻そうとしない。結局、手つかずのまま、ほとんどの皿は下げられていった。
「ごめんね、心配かけて。でも大丈夫。いつもちゃんと食べてるから、一日や二日食べなくても」
彼女はそう言って小さく笑ったが、普段よく食べている彼女だから心配なのだ、とシフルは思う。
今まで、どんな状況下でも彼女はずっとぴんしゃんしていた。シフルが寝不足でふらふらしていても、ルッツが乗り物酔いでふらふらしていても、メイシュナーが空腹でいらいらしていても、彼女ひとりは常に平常心だった。よく食べ、よく眠り、いつでも適切に行動した。
そんな彼女がものも食べず、しかもこの調子だとあまり眠っていないのだろう。目元にクマこそないが、力のない眼をしている。
(こんなセージ、初めてだ)
シフルがまじまじみつめていると、セージは視線をはずした。こんなのも、まったく彼女らしくない。
(いつもなら、絶対なんだかんだ、からかってくるところだろ?)
「元気出せよ」も「何かあった?」も、もう朝餉をとりながら何度も訊いている。必ず彼女は、大丈夫、何でもないよと答える。あれほどいつも安定している彼女が、何もなしにあんなふうになるわけがない。おそらく、前に彼女が調子を崩したのは、以前話してくれた理学院での「事件」のあとぐらいか。信じていた親友オコーネル・ドルスワが離れていったあと、彼女は孤独を深めた。
――孤独か。……
(今は、オレがそばにいるのに)
彼女は今、ひとりで何かと戦っている。何か――それはまちがいなく、シフルが不在のあいだに起こった。
(……オレがいない期間、長すぎ……っ)
かえすがえすも、シビュラに戻る場所を指定しなかったことが悔やまれる。あれさえなければ、休戦記念日の儀式の終盤はともかく、その後一か月の謹慎はしないですんだ。そうしたら、その「何か」が起こったとき、セージのそばにいられたかもしれない。もしかしたら、一緒に乗り越えることだって。
(もしかしたら、なんて、バカげてるんだけどさ)
一瞬、時姫(ときのひめ)に時間を戻してもらえば、などと考えてしまい、シフルは頭を振った。こんな身勝手で、影響力の強い力を行使するだなんて、考えるだけでもよくない。ましてやシフルは時(へムダ)を司る元素精霊長の息子なのだから、なおのこと。
(だけど)
シフルの脳裏に、休戦記念日前のセージとの朝餉の風景がよぎった。
――ねえ、シフル。これからは、もっと気をつけて。
彼女の冷静な忠告すら、シフルには懐かしかった。今はただ、何も言ってくれないセージだった。
とはいえ、だ。シフルが不在のあいだでも、あるていど目撃者はいる。どうすることもできないかもしれないが、材料ぐらい集めておいてもいいだろう。
その日、夕餉を終えてオースティンたちと別れたあと、シフルはメアニーに頼んで個別訪問した。
まずはひとりめ、メイシュナー。
「ロズウェルが元気ない、ねえ」
赤毛の少年はシフルを自室に迎え入れつつ、大あくびする。「あーまあ、そうかもな。どっちでもいいけど」
「どっちでもいいって、おまえな」
「ダナン君とちがって、こっちは特に仲よしこよしじゃないもんで」
メイシュナーは肩をすくめる。「でもまあ、まちがいなくあいつにしちゃキレはないな。おれとしちゃ、今ぐらいでちょうどいいけど」
はは、とシフルは苦笑する。何か彼女を怒らせるような発言をしては、「キレのある」彼女によって水(アイン)の水球に何度となく閉じこめられたメイシュナーだ。これぐらいの関心度合いが自然だが、たった四人の留学仲間なのにあんまりな気もする。
「とにかくさ、何か知らない? オレがいないあいだに何か起こったりとか」
「ダナン君がいないときって言ってもな。別に普通に慈善園通ってただけだし。ダナン君が出てくるまで、講義室行きの話もなかった。ロズウェルもいつもどおり。おれとロズウェルと猫野郎の三人じゃ、楽しくおしゃべりする仲じゃなし。適当に行って、適当に別れるだけで。あ、ダナン君といえば」
「なに?」
シフルは身を乗りだし、メイシュナーに迫る。メイシュナーは「近っ」と言って同じ距離だけ後退する。
「あれは笑ったわ。ダナン君がいきなり消えたとき。休戦記念日の」
「それだ!」
シフルはまた迫った。メイシュナーはさらに引き、寝台に背中から飛びこんで、手足をのばした。シフルも寝台に腰かける。
「ダナン君に化けたんだよ」
「……オレ?」
寝転ぶメイシュナーを、シフルはのぞきこんだ。
「ツォエルさんが。で、元素精霊教会式の礼拝をやった。前にカウニッツがやってた《火(サライ)を讃える若人》を『ダナン君』が。あとは、おれらがプリエスカでやってたとおりに」
「《若人》……」
かつて、シフルの目標は火(サライ)召喚でAクラス一位になって《若人》役を手に入れることだった。メイシュナーの親友カウニッツが、Bクラス脱落前に務めていた役目だ。しかし結局、それを実現するより早く留学が決まった。
「じゃあ、もしオレがいたら、オレが《若人》をやってたってこと? オレ、いきなり言われても台詞とか覚えてないんだけど」
「それならそれで、助け舟出すつもりだったんじゃね? 知らんけど。プリエスカ式礼拝の用意があるなら、精霊大典ぐらいあるだろ」
とにかく、シフルが若人の役目を果たさなければ儀式は回らなかったということか。それで、火(サライ)を使った変身を得意とするツォエルが、姿を消したシフルに代わって役目を果たしたらしい。
「なるほど。いや、なるほどなのか……?」
そもそも、なぜ休戦記念日の儀式でプリエスカ式の礼拝を執り行う必要があるのだろうか。キナリーの歴史講義で習ったはずだ。休戦記念日の儀式は、ラージャスタンが過去に征服した国々の信仰を再現し、戦乱の犠牲者を悼むもの。シフルの知る限り、プリエスカないしロータシア帝国は、過去に一度もラージャスタンに敗れていない。
「深い意味があるわけじゃない、ってこともあるか……? ただの親睦目的で、オレたちになじみ深い礼拝をやってくれた、みたいな……」
「さーなあ」
メイシュナーがあまり興味もなさそうに応じる。「だけどさ、おれらとしちゃ、目的がどうあれ、あの場じゃやる以外なかったな。何か訊ける状況じゃなかったし、腹もへってたし、足もガクガクだったし。何でもいいからさっさと終わらせようとしか考えてなかったね」
めぼしい話題が出尽くしたところで、次の部屋へ。
「《まあ、シフルさま》」
やさしい微笑みとともに顔を出したのは、少女女官キサーラ・イーリだ。
「《こんばんは。ルッツはいますか》?」
「《待ってたよシフル。どうぞ入って》」
《ちょうど話をしたかったんだ》と猫の眼を細めて、ルッツはシフルを歓迎した。
「《お茶をお願いします》」
「《かしこまりました》」
頭を下げ、女官は部屋を出ていった。残ったのは、プリエスカの少年たち二人だけ。
「さあて」
ルッツはごきげんでソファセットに先導した。「聞かせてよ、シフル。皇帝と皇女の部屋に飛びこんだときのこと」
ルッツが上機嫌な時点でいやな予感はしていたが、案の定である。金の瞳が好奇心によってやたらと光り、目がくらんだ。
「だから前も言ったとおり、ラーガが気まぐれにオレを連れていって、適当なところに戻されてああなったんだよ」
ルッツとメイシュナーに用意したいいわけである。面倒な細部を避けて説明すれば、そうとしか言いようがない。それはそうと、今日ここに来たのは、あまり人に知られたくない事情を開陳するためではない。
「今日は、オレのほうに訊きたいことがあるんだ。最近セージが元気ないだろ? 何があったかルッツ知らない?」
「ロズウェルね。それはそうだろうね。気づかずにおけば被害者でいられたのに、あの様子だとたぶん気づいたんだろうね。気づいたらもう加害者だよね。手遅れだよ。でも、理学院で優秀でも、しょせんは田舎娘だな。賢くなりきれてない。それで、シフルはどうして儀式中に消えたの? あの場所に何か意味あるの? 君の妖精と何か関係ある?」
――情報量……!
一度に回答と質問がたたみかけられ、シフルは混乱する。
(えーっと……セージが田舎……じゃなくて、加害者? 被害者? あの場所っていうと)
「ああ、ごめんごめん。一度に行きすぎた。ひとつずつ行こう。どうしてシフルは、休戦記念日の儀式の最中にいなくなったの?」
「どうしてって、言っただろ、ラーガが」
「嘘」
ルッツはにっこり笑って一刀両断した。「君の妖精は、あのとき君のそばにいなかった。もし来たんだとしたら、あの特殊な《場》が乱れる。でも、《場》は乱れなかった。来たのは、あの《場》を乱さないモノだ。つまり、あの《場》を支配する存在か、その関係者だね。あれは儀式中、最後の石碑だった。ラージャスタンが最後に征服したのは、エルドアだっけ?」
(あーもー、よくわかってんな)
「えーっと」
「ごまかそうとしてもムダ。それに、君と俺の関係でごまかさなくてもいいじゃない?」
どういう関係だよ、とは思ったものの、今そこを議論しても仕方ないので聞き流した。
「オレがいま話したいのはそんな話じゃなくて、セージの話」
「それなら、これ以上何も教えてあげない」
ルッツはまたまたにっこり笑う。わかっている。ルッツはこういう人間だ。残念なことに、彼はバカではないし、どこまでも利己的だ。
「情報交換すりゃいいんだろ」
「そのとおり」
「エルドアの最後の王は、今の精霊王だ。エルドアの石碑のある一帯は、精霊王の領域なんだ。精霊王のことは、知らなきゃ自分で調べてくれ。……とにかく、オレは精霊王の正妃だった女の息子なんで、精霊王に呼ばれた」
「……は!」
ルッツは金の瞳をみひらいたまま、広角を異様にあげる。
「その顔やめろ。怖い」
「ああ、ごめんごめん。あんまり予想を超えてきたもんだから、うれしくってさ」
「ルッツは喜ぶだろうと思ってたよ。だから言いたくなかったんだけど」
遠回しなものいいをする気にもなれず、シフルは思ったことをそのままつぶやく。
「そっか、そうなんだね……ずっと気になってたシフルの《異質》はそれか。そんなの、さすがに想像できっこないよ。シフルも妖精と人間のハーフとはね……」
「……いや? オレもそのへんの定義はわからないけど、ハーフってのはちがうと思うぞ。親父は知ってのとおりビンガム市長でただの人間。オレの母親も、もともと人間だったのが精霊王の妻になったんで、妖精じゃない」
「へえ、そうなんだ」
心なしか、ルッツのテンションが下がった。そんなに人を特殊な出自にしたいのか。ただでさえ呪いなど受ける身なのだから、せめて人間同士のあいだに生まれたい。
「それで?」
ルッツはテーブルに肘をつき、横目にシフルを見やる。「精霊王と話したんでしょ、どうだったの? そもそも、精霊王の目的は何?」
(ルッツは精霊王を知ってるのか)
もちろん、ビーチェの著作は学院生なら誰でも借りることができるので、ルッツが知っていてもおかしくない。それにもしかしたら、アマンダがシフルの図書カードを見た可能性が高いように、ルッツも見たかもしれない。
(ま、今はそれはどっちでもいいか)
「別に、つまらない雑談しただけだよ。やっぱり精霊王なんてやってる元?人間だし、どこか価値観がかけ離れてたな」
「力をもつっていうのは、そういうことかもね」
思いのほか、まっとうなコメントが返ってくる。
「ああ、そうだな。たしかに万象を支配する力なんて、わけわかんなくなっちゃいそうだな」
(だからって、アマンダや他の女の人たちの人生、棒に振っていいわけじゃないけどな)
「――それで、セージはどうしたんだ」
再度、静かに尋ねると、ルッツはにっこりと笑った。
「火蓋を切ったのさ」
「火蓋、って?」
「火蓋は火蓋だよ。戦いのきっかけをつくったってとこかな。だけど、別にロズウェルが悪いわけじゃないよ。ただ、気づかずに巻きこまれた。あるいは、流れに逆らえなかっただけ。バカだよね、素直にラージャスタンを恨んでおけば楽なのに、自分のせいだと思ってる」
傲慢なんだよね、自分だけはまちがいを犯すことはないと思ってたんじゃないかな? と付け加える。
「ちょっと待ってくれ。いってる意味がよくわからない」
「シフルにだって、責任はないさ」
ルッツは断言する。「シフルはたまたま、あの場にいなかった。火蓋を切って落としたのは、アグラ宮殿だ。シフルがいなかったから、代わりに自分で切ったというわけ」
「代わりに……って」
――ツォエルさんがダナン君に化けたんだよ。で、元素精霊教会式の礼拝をやった。前にカウニッツがやってた《火(サライ)を讃える若人》を『ダナン君』が。あとは、おれらがプリエスカでやってたとおりに。
いましがたメイシュナーに聞いた話が、脳裏をよぎる。
「ツォエルさんがオレに化けてたって。で、礼拝したって聞いたけど……」
正解、とでもいうように、ルッツはますます目を細める。
「順番どおりならシフルが負っていたはずの責任を、ロズウェルが負ったってわけ。水(アイン)は火(サライ)の次だからね。でももちろん、そのあとで俺も『バ』カも続いたんだけどね。連帯責任だと思っておけばいいのに」
「いや、ちょっと……待てよ」
シフルは、ためらいがちにルッツを見やる。平然と、軽やかにしゃべりつづける猫目の少年が、急激に得体の知れない存在かのように思えてきた。
「本当に、休戦記念日の儀式で礼拝したのがまずかったっていうなら――まずいのを知ってて、ルッツは《若人》やったのか?」
「さあ、どうかな」
知っていた。ルッツという少年は、こういう人間なのだ。
シフルは、再び口をひらいた。
「ルッツはセージのこと、そんなに嫌いなのか?」
「は?」
猫目の不遜な少年は、少しだけ固まった。
「へ?」
「は?」
予想外の反応に、シフルも首を傾げる。ルッツはルッツで、半ば笑った顔のまま、目をみひらいて固まっている。
「ルッツはセージのこと嫌いなのか? って」
「……一度言えばわかるよ」
ルッツは手をあげて制止した。固まった表情をほぐすように、もう一方の手で眉間をさすりながら。
「ルッツは礼拝やるのがまずいってわかってて、セージを止めなかった。そういうことだろ。セージが苦しむのわかってて、止めなかった。それって、セージが不幸でもかまわないってことじゃん? それか」
そうとう嫌いな相手でないとできない所業だと、シフルは思う。「心底、無関心か、だな」
「さすがに心外だな」
ルッツはすでに平常心を取り戻していた。「一応、こう見えてロズウェルとはそれなりに付き合いが長いんだよ。君よりもね」
「だから不思議なんだろ」
「不思議? 君は案外、俺を善良だと思ってくれてるね」
「それほどでもないけどさ」
実際、初めてルッツと話したときから、言葉と手段を選ばない怖さを感じている。しかし、セージ相手だと少しちがうような気がしていた。あるいは、セージが毎回うまくかわしていただけで、今回はかわし損ねたということか。
「俺とロズウェルは、理学院で比較的近くにいた。比較的、だよ。それだけ」
これまた、不思議な断言だった。わざわざ断言する必要があるのか、シフルにはわからなかった。別にシフルもルッツも、セージの彼氏でもなんでもない。ルッツに至っては、友達かどうかすら微妙だ。
(なんでもない……けど)
シフルは、セージに元気がないのは、とてもいやだった。セージの気がかりが全部なくなって、また彼女のはつらつとした靴音を聴かせてほしかった。ラージャスタン特有の布靴も、砂岩の廊下も、足音をすっかり吸収してしまう。
(こんなことなら、プリエスカにいたほうがよかったのか? 毎日必死になって勉強して、いつも無我夢中でいられた)
そこまで考えて、シフルは頭を振る。だめだ。シフルは精霊王の呪いを解くために何か試みるだろうし、セージもルッツも理学院の授業に新鮮味を感じなくなっていた。
どちらにしろ、なんらかの打開策を求めて行動に出ていたはずだ。何度過去をやりなおしても、シフルたちは必ず今の選択をする。
(過去には戻れないんだ。時姫の力で摂理を変えない限りは。これから何ができるか、だ)
「それで?」
ルッツは、ん? とつぶやく。「別に嫌いなわけじゃないセージが今、苦しんでる。ルッツはどうするつもりなんだ?」
「どうもしないよ」
静観するね、と猫目の少年は返した。「苦しんでるのはロズウェルの勝手。そんなに長く国家規模の責任なんて負えないから、いずれ開き直る。苦しみは自然に終わるよ」
(セージの苦しみを、ルッツも感じてるんだな)
と思う一方、国家規模の責任、という言葉にひやりとした。これからいったい何が起こるというのか。
「ほんとに国家規模で何かが起こるとしたら、そう簡単に開き直れるもんか」
「話が大きすぎるからこそ、開きなおるしかないんだよ。さもなければ、潰れるしかない。罪悪感で自分が潰されるぐらいなら、あきらめるほうが楽。シフルも、ロズウェルに潰れてほしいとは思わないでしょ?」
「――」
シフルはいよいよ言葉を失った。休戦記念日の儀式でプリエスカ式の礼拝を執り行うことが、それほど深刻な事態を招くというのか。
――火蓋を切ったのさ。……
「……本当に……?」
おそるおそる、再び口をひらく。
「さあ、どうかな」
また、この答えだった。「信じるも信じないも、シフルの自由」
ロズウェルに訊いてごらんよ、どうして落ちこんでいるの? これから何が起こるの? ってね。と、ルッツはいつものように金の猫目を細めてみせる。最初からそうだ、ルッツの瞳は美しさよりも不気味さが勝っていた。ユリスは絶対にルッツへの警戒を解かなかったっけな、と、シフルは思いだす。
脳裏に、理学院で四人楽しく過ごしていた日のことが蘇った。が、頭を振って追い払う。
「《お待たせしました》」
やさしい微笑とお茶一式とともに部屋に戻ったキサーラを、シフルはまっすぐ見ることができなかった。
ルッツの部屋からの帰り道、つかず離れずついてくるラーガを、シフルはちらりと見やった。ラーガはきっと、この先シフルたちに何が起こるかを知っている。
ランプを掲げて先導するメアニーが、にっこりと笑った。
「《気がかりは晴れたんですか? シフルさま》」
「《はい》」
心にもない返事をしながら、シフルは朝がた大丈夫だと言い張ったセージの白い顔を思いだしていた。大丈夫じゃなくても、大丈夫だと言うしかないときが、誰にでもある。けれど、
(セージには、もう大丈夫って言わせたくないな)
笑っていてほしい。開き直りでもいいから。いや、よくはない。すべての問題を解決して、心から笑ってほしい。そしてまた、あの活発な靴音を聴かせてほしい。
――それが、オレの思うセージだ。
(でも、セージが思うセージは? 他人が思う自分の姿なんて、他人の勝手、オレの勝手じゃんか)
「《うーん》……」
そこでつい本音が出てしまうのが、シフルという少年である。
「《まあ、人生いろいろありますよっ》」
突然、メアニーが腕に抱きついてきた。「《大丈夫です、明日にはそんなの吹っ飛んじゃいますから》」
「《なんでいちいちくっついてくるんですか》」
「《あら? 知りたくないんですかぁ?》」
にやりと笑って、腕を離す。《じゃあ別にいいんですけどー。明日になればわかることですから》と言って、すたすたと歩いていく。
もやもやが吹き飛ぶほどのいい話。正直、少し暗澹とした気分になっていたシフルは、誘惑に負けた。
「……《知りたいです》」
「《へーえ、そうですか》」
さらににやつくメアニーに、シフルは腕をさしだした。まるで人身御供だ。
(うう、恥ずかしい)
と思う間もなく、嬉々として腕に飛びついてくる。何度やられてもまったく落ちつかないのだが、こんなことにもいずれ慣れるのだろうか?
なぜか無性にセージに申しわけないような気もする。彼女が危機を迎えているときに、女の子に腕をさしだそうとは。
《あのですねえ》と、耳までも要求された。《はいはい》と、シフルは女官の口に耳を寄せる。
「《明日の予定ですが》」
「!」
シフルは目をみひらく。
得意満面のメアニーの表情が、火(サライ)の灯りの中に浮かびあがった。
To be continued.