精 霊 呪 縛
第二部 ラージャスタン・アグラ宮殿編
第15話「名前のない感情」(2)
「《おはようございまーす》!」
午前中の光がさしこむ講義室へ、シフルは飛びこんだ。
朝餉もそこそこに、メアニーを急かしてやってきたので、まだ誰も来ていない。背後から追いかけてきた少女女官と、少し離れてついてきたラーガだけだ。
セージの件にアマンダの件と、問題は山積みなのに、メアニーの言葉どおりすべて吹き飛んでしまった。シフルは意気揚々と長机の中心に席をとる。真ん中はシフルの定位置だ。特に今日は、絶対にルッツやメイシュナーに邪魔されたくない。
起床直後からシフルの様子をつぶさに見てきた青い妖精は、満面の呆れ顔である。何に浮かれているかを思えば気に食わないこと甚だしく、ときどき呆れ顔と渋面が切り替わっていた。
(見てろよ、ラーガ!)
声には出さず息巻いていると、アレンが顔を出した。
「《シフル》? 《まだ始業までは時間がありますが》……《今日はずいぶんやる気ですね》?」
「《もちろん》!」
講義をとりしきるトゥルカーナ出身の少年も、暑苦しく気合いをみせるシフルに引き気味だ。
「《すみませんシフル、始業前に簡単に清掃しますから》」
《もしよければ一度お部屋に戻られては》と言いかけたアレンに、
「《オレもやる》!」
「《ええ》……?」
固辞するアレンを押し切り、くすくす笑う担当女官と渋面の妖精にはかまわず、シフルは気合いをそのまま清掃にぶつけた。机を拭いたり塵を集めたりするうちに時間になって、他のメンバーも集まってきた。相変わらず沈鬱な表情のセージには、さすがにおかしな振る舞いをしかける気になれなかったが、努めて明るくあいさつする。
遅れてオースティン一行が到着すれば、用意万端。シフルはアレンにむかって挙手した。
「《それで、どなたなんですか》? 《妖精の扱いを教えてくださるっていう先生は》」
うきうきと尋ねると、
「《はーい! わたしでーす》」
同じく、少女が挙手した。シフルは固まった。
「《わたしです。わ・た・し》」
メアニー・イーリはにこにこと自らを指さす。
「……?」
てのひらで少女を示しつつ、シフルは首を傾げる。少女は自分を指さしたまま、うなずいてみせる。
沈黙の応酬が続いたあと、
「《ダナン君、もうあきらめれば》?」
と、メイシュナー。
「……《ええええー》……」
「《失礼しちゃいますねえ》」
言いながら、むしろ楽しげなメアニーだった。次に、彼女は思いきり胸をそらす。「《考えてもみてくださいよ。このアグラ宮殿の豊富な人材の中から、わたしが選ばれたってことなんですよ? わたしが! ラージャスタンでいちばんの妖精使いであり精霊使いだってことなんです》」
《わたしに教われること、光栄に思うべきじゃないですか?》とも断言する。たしかにその主張は一理あった。求める教えを受けられれば、別にがっかりする必要もないのだ。
しかし、なぜか脱力した肩に力が戻らない。
(なんかこう……全然知らないことを、知らない人から教えてもらえるかと……)
そこまで考えて、はたと気がついた。今、日に日に窮屈になっているのがシフルたち留学メンバーの状況だ。そんな中、セージは休戦記念日の行動を悔やんでいる――それがどんな結果につながるかは、シフルにもわからない。
学習の機会は引き続き与えられ、ムリーラン宮書庫の蔵書をいくらでも読み漁ることができる。留学自体が無意味になったわけではない。けれど、閉塞感が強まっているのは否めず、新しい先生に新しい教えを受けることで現状が打開できるというような、そんな期待が自分の中にあったのだ。
はーっ、とシフルは息を吐いた。
(勉強して結果が出れば、楽しかったのにな)
楽しいばかりではいられない状況になりつつある。もちろん、ラージャスタン留学の可能性が示されたときから、そんなことはわかっていた。留学後の自分がおかれる境遇を考えて、募集に応じなかった学生もたくさんいただろう。
(結局、想像できていなかったってことだ)
言葉で理解したつもりになっていただけで、自分の身に起きるだろうことをひとつひとつ考えられていなかった。ツォエルが自分を選んでくれたときの飛びあがるような万能感で、すべてが吹き飛んでしまった。
思えば自分は、目の前の関心事に気をとられて、他の全部を見ないようにしていたのかもしれない。シフルは、たった今まさにそれを実践したばかりなだけに恥じ入った。
それでも過去が戻らないなら、やれることをやるしかない。
「《それじゃあ》」
シフルは顔を上げ、赤い髪の少女を見据えた。「《よろしくお願いします。メアニー先生》」
「《ご理解が早いようで助かりますね》」
少女は得意げに口角をあげると、部屋の空間にむかって手をさしのべた。「《始めます》」
《出てきて、ツィラン》。少女が呼びかけると、そこから女の腕がにゅっと飛びだした。次に、メアニーにちょっと似ている赤い頭と、尖った耳。おかしな色と尖った耳は妖精(エルフ)の外見的特徴だ。
穴から這い出るように、女の妖精は講義室に降り立った。服装は、アグラ宮殿の一般女官と同じ赤い袴。
「《おはよう、メアニー……眠いんだけど》」
開口一番言い放ち、あくびをひとつ。長いまつげをしばたかせながら、一同を見渡した。席順に、マーリ、オースティン、ルッツ、セージ、シフル、メイシュナー。それからシフルの背後にいるラーガ。赤い妖精がひゅっと息をのんだのが聞こえた。
「《眠気が消えたよ。これはこれは》」
ラーガはいつものように宙に浮かびながら、ふん、と鼻を鳴らした。ツィランと呼ばれた妖精も、とりたててへりくだる様子もない。元素精霊長に近い存在という説のある子供ではなく成人女性の器だが、かなり位が高いのかもしれない。
「《どうすんのコレ? すっごいメンツなんですけど~》」
ツィランはへらへらと笑いながら、主(あるじ)を振り向いた。
「《そりゃそうでしょ。ここがどこだか忘れたの? 前に言ったじゃない。英雄の子孫であられるオースティンさまと、精霊使いの学校から留学生が来るって》」
メアニーはごく親しい間柄の相手に対する口ぶりで、妖精に答える。
「《いんや~すんごいねえ。こんなメンツの中で仕事してんのメアニー? つかアタシのおかげか》」
《アッハッハ》と豪快に笑う。《ちょっとツィラン、ちゃんとして》と、メアニーもいつになくたじたじだ。
(これは、この妖精の位が高いというより)
「《お目にかかるのは初めてですねえ、空のおかた? おや、あなた……それにあなたも、大変美しい。近々死ぬ予定はありませんかね? そろそろ器を変えようかと思って……今なら高位の妖精として、死後、永遠に近い命を約束しますよお?》」
ツィランはまずオースティンに、次いでライラに声をかけてから、すたすたとマーリに近づいていき、いきなり頬をなでた。皇女は悲鳴をあげたが、赤い妖精は一切かまう様子はなく、おもしろそうにルッツをみつめる。ルッツはひどく居心地が悪そうだった。
セージとメイシュナーをちらりと見やったあと、最後にシフルにまじまじと注目した。
「《アッハハ! ここなら平気なんですよねェ~精霊王さまの呪いに近づいても! 愉快愉快》」
「!」
笑い声を立てた拍子に思いっきり唾が飛び、シフルは顔をぬぐう。
(位が高いとかじゃなくて、個性かな……)
と思ったが、さすがに初対面の妖精に対して口にはできない。ましてや、このツィランはメアニーに仕える妖精。シフルの頭の中には、ときどき表情を暗く変えるメアニーの横顔が、忘れがたく残っていた。
今はおくびにも出さず、メアニーは、こほん、とかわいらしく咳払いする。
「《そんなわけで、これがわたしに憑く火(サライ)の妖精、ツィランです》」
「《どうぞよろしくぅ〜》」
「《気が抜けるからちょっと黙っててくれる?》」
実際のところ、まったくもってそのとおりだった。シフルが講義用に意識を研ぎ澄ませようとしても、ツィランのひと声で気勢が削がれてしまう。
「《ともかく! 話を進めます。要するにこのツィラン、驚くなかれ、なんと! このアグラ宮殿の結界を担う総元締めの妖精なんですねー!》」
《パンパカパーン!》と、ご丁寧に何かの楽器の物真似つきで、メアニーは言い放つ。
「……え?」
「……は?」
「は?」
その場にいた留学メンバー四人中三人が、いっせいに固まった。
「《はい! かの国の言葉は禁止でしたね! お忘れですか? よろしくお願いしますね》」
「いやいやいや……《はぁぁぁぁぁ》?」
それは三人同時の、前半は現代プリエスカ語、後半は王の言語(ルグワティ・ラージャ)の反応だった。
そして、あとには沈黙。プリエスカからの留学メンバーはもちろん、ラージャスタン側メンバーの大半も黙ってしまった。大半、つまり一名を除く。
「《それでメアニー、それが何? 留学生のみなさんも、どうしてそんなに驚いているの?》」
ひとりだけ、圧倒的な天然を誇る皇女マーリが、沈黙を破った。普段ならシフルもそれなりに天然ではあるが、プリエスカで受けてきた留学カリキュラムのおかげで、今回は彼女と立場を異にすることができた。もっとも、立場を同じくしていたほうが、幸せだったかもしれないが。
(あのうそれ、オレたちが聞いていい話なんですか?)
という質問は、喉から出かかったものの、声にはならなかった。アグラ宮殿の結界については、ラージャスタンにおける最重要機密といっても過言ではないはずだ。もしシフルたちがプリエスカの密命を受けていて、アグラ宮殿での破壊工作を命じられていたら、どうするつもりなのだろうか。むろん、自分に憑く妖精に振り回されてどんどん窮屈な状況に追いこまれているシフルは、そんな密命など受けてはいないけれど。
(でも、そっかー。結界を張っていたのはメアニーか。どうりで……そりゃあ、いつもラーガをそばにおいておくように言われるわけだ。なるほどね)
ただの客人が聞くにはあまりにも内部機密だが、おかげで今までのもろもろが腑に落ち、少し安心もした。やはり、何もわからずに想像だけをむやみに膨らませている状況というのは、それなりにストレスを感じる。たとえ、最悪の結論だったとしても、結論が出ないよりはましなのではないか。最悪の状況だとしたら、あとはよくなるだけ、というふうに考えることもできるのだから。
(そう。最悪の状況だったしても)
シフルはかたわらの少女をちらりと見やる。
彼女だけがまるで表情を動かさず、声も発していない。彼女の生き生きとした黒い眼は、どこを見るでもなく、伏せられたままだった。
今、彼女にとっては何もかもどうでもいいことなのだ。
——火蓋を切ったのさ。……
(自分を責めないでほしい、なんて言えないけど……でも……)
シフルは螺鈿飾りの施された長机の上においた手を、ぐっと握りこんだ。
To be continued.