メテオ・ガーデン
05. 夢の庭にて<3>
「王女が遠征する」
そのうわさは、唐突にエンジュのもとにもたらされた。
ティンダル殲滅で功をあげ、帝王の兄弟たちのなかで唯一〈メサウィラの黒ぶどう〉の身分を脱して一族に戻った王女マリオンは、ティンダル同様、帝国にとっての重大な目の上の瘤であるイリルアン要塞の討伐を命じられたという。
イリルアン要塞は堅固で峻険な岩山を、太古の昔から莫大な時間をかけて掘削し、一個の城砦として人が居住できる状態にまでした人智の驚異だった。
エンジュはそのうわさを、一座に新たに加わった男から聞いた。男はメサウィラの属国クアドガの出身で、王宮で剣舞を披露する舞子だったが、王女の寵愛から逃れて芸人一座に逃げこんだのだという。
「重いったらない。国つきの嫁き遅れなんてよ」
男はその王女から、メサウィラ王女遠征の話を聞いたと言った。
メサウィラでは、帝王は決して自らの一族を信じない。王族とは、絶対権力者である帝王の座を相争う敵同士であり、奴隷として追放された王族が〈黒ぶどう〉としての使命を果たして帰還し、迎えた帝王が約束どおり彼らに安寧を与えたとしても、機があれば敵を消そうとするのが当たり前だった。
帝王アルキスは、王女マリオンにイリルアン討伐の指令を与えた。帝王の願いは、王女マリオンがイリルアンの岩山深くにもぐり、二度と樹上城へ帰らないことである。さらにいえば、イリルアンと王女が衝突して、どちらも痛手を負うのが望ましい。
蛇が互いの尻尾を食いあうメサウィラ帝王家だが、今の帝王は、
——かわいらしいところもある。
と、クアドガの王女は笑った——と、男もまた笑声をたてた。
なぜなら、帝王アルキスは、王女マリオンの補佐として、親友の将軍ザイウス・パンタグリュエルをつけたからだ。
「……ザイウス」
たき火を囲みながら、エンジュが落としたつぶやきに、だれも気づくことはなかった。一座はみな、その日の興行の成果でしこたま酔っていた。
「なぜだと思う? 自分のもうひとつの心、あるいはたったひとつの良心ともいえる男を、なぜアルキスは死に追いやるも同然の戦場へ送ったか?」
「どうしてなのぉ? なんか切なーい」
踊り子たちが口々に尋ねる。
「そこがアルキスのかわいさよ。ザイウスは、なんらかの失敗をしたんだ。ほかの人間がやったら処刑まちがいなしの重大な裏切りだったらしい。アルキスもさすがに目の前が真っ白になるぐらい怒ったそうな。しかし同時にアルキスは許したかったんだ。ザイウスを失いたくなかった! 誰ひとり信用できない宮廷で、この世界でたったひとり大切に思う男を、法だからと即座に処断してしまうことも、許すこともできなかった」
「純粋な男なんだね。だからこそ怖くもあるわけだけど」
「でも、そんな純粋さなんてのは、陰謀渦巻く宮廷では笑い話にしかなんねえ。ザイウスに対する中途半端な処断は、メサウィラにいやいやついてるクアドガみたいな弱い国のあいだですぐに喧伝されて、今じゃ一部にアルキスが未婚で後継者もつくってないのは……ってな尾ひれまでついて広まってるわけだ」
エンジュは、いつものようにユーダから押しつけられた杯を干し、たき火の輪を離れる。
ユーダは返された杯に、ふたたびぶどう酒を注いで一気にあおり、
「イリルアン、俺らも行くからな」
「はぁ? 何いいだすんだよ? やばいことになるってあれほど」
エンジュは振り返る。さっきまで話していた新入りが素っ頓狂な声をあげた。エンジュは黙ってユーダをにらんだ。
「行くからな」
「反対しても来る気でしょう」
「エンジュもわかってきたな」
ユーダはおせっかいに命を賭けているらしい。リアンもそのきらいがあり、ユーダを止めようともせずエンジュを見る。一方、騒ぎはじめたのは、最近ユーダが手を出したという楽器担当の女だ。
「ユーダあんた、あたしの何なのよ! エンジュとあたしどっちが好きなの?」
「どっちが好きとかいう問題じゃないんだよ」
エンジュはその場をあとにしようとしたが、女は見逃さなかった。
「待ちなさいよ! あんたひとの男を死に追いやって、どういうつもり?」
「反対したってユーダもリアンも聞かない。わたしにはやるべきことがある」
「ひとりで行きなさいよ」
「ひとりで行く」
「ひとりじゃ行かせねえ」
エンジュの即答に、ユーダの声が重なる。
「よけいなお世話」
「よけいなお世話でけっこう。エンジュの意思は関係ない。俺らは俺らで好きにする」
このやりとり、すでに何度くりかえしたかわからない。
一座の仲間になったときから、エンジュはユーダかリアンとたびたび言い争ってきた。エンジュはすでにあきらめている。あきらめがつかないのは、ユーダの女だ。
「ふざけないで!」
女は立ちあがり、ぶどう酒が入った水がめをひっつかんだ。ガイが悲鳴をあげたが、激した女がやることはひとつしかない。
「いやぁー!」
ガイの女々しい叫び声とともに、水がめの中身がぶちまけられた。エンジュは頭からぶどう酒を浴びせられて、全身を赤く染める。
ユーダは女の頬を張る。女はその場で泣きだし、リアンがそれをなだめつつ天幕へつれていった。
「ガイ、ごめんね」
エンジュは謝る。ガイは水がめをうらめしげにのぞいていた。
「風邪ひくぞ。着替えてこいよ」
ユーダはふたたび腰を下ろした。ガイがなんとかかき集めたぶどう酒に手を出そうとして、手を叩かれる。
「いま着てるのが替え。あとは洗濯中」
ほかの服は、昨日すべて別の赤に染まった。
「あほか。着替え貸してやるから、俺の天幕こい」
「着替えって、ターシャの? いやがるでしょう」
「貸すったら貸すんだよ」
「リアンのでも、ノルマのでも、セディのでもいいんじゃ……」
ガイの言葉を無視して、ユーダはエンジュの手をとり、ひきずっていく。エンジュは気づかわしげなガイに手を振り、大人しくついていった。
明らかに勝手を知らない様子でターシャの衣装箱をかきまわすユーダを、エンジュは眺めていた。
赤く冷たくなった服を脱ぎ落とす。何度洗っても、何度でも赤く染まってしまう。
「なんだこりゃ? 下着か? どうなってんだよあいつの服」
ぼやきながら衣装箱を探る男の、となりに立った。
「ねえ、どうして?」
「どうしてって俺が訊きてえよ、なんであいつの衣装箱は今すぐ使えそうな服がない……」
ユーダは派手な彩色の布を手にしたまま、動きをとめた。
となりにいる少女の色の白さ。
ただ、手首には、そこにあるのが当然というように少女のからだになじんだ、決して消えることのない赤黒いあざがある。足首にも、同じものが。それは、少女の生きてきた人生そのもの。
あざの原因である武具は、何度はずしても、くりかえし少女の手足を苛む。少女の人生ではからずも流される血潮のように、少女のからだを染めている。
「どうしてユーダはそこまでしてくれる? わたしは何も返せるものがない。自分自身しかない」
「……風邪ひくっつってんだろうが」
絞りだすように答えたユーダは、衣装箱に勢いよく手をさしこみ、布をひっぱりだした。
「もうこれ羽織ってろ」
そう言って、少女をマントで覆った。メサウィラ風のマントは、ターシャが貴族の客から贈られたものだろう。胸の前できっちりと紐を結び、これでよしとばかり、ユーダはエンジュの肩をマント越しに叩いた。
「ターシャ怒りそう」
「怒るならそこまでの女だ」
「ひどい男だね」
「ひどいのはおまえだよ、どう見ても」
ユーダはため息をついて、天幕の入り口をあける。おまえの分はもうねえよ、とガイの酔った声がかかった。
「うるせー、今度みてろよ。……エンジュ、おまえは遠からず、もっと遠くに行く。俺たちは一緒には行けない。俺たちはここで生きていく人間だからな」
「?」
「おまえがターシャみたいな女なら、話は簡単だった。でも、そうじゃない。俺たちは俺たちが行けるところまで、おまえを手伝う」
「そんなことする必要……」
「俺も、こうみえて踊り手だ。リアンも。だから、気にするな」
ユーダは天幕を出ていった。入り口の垂れ幕がふたたび閉まり、外の騒ぎは遮られた。静寂の中に、エンジュひとりが残された。
To be continued.