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​メテオ・ガーデン

06. ハートブレイク<6>

 広漠たる天空を、星が墜ちていく。無数の星が。

 墜ちていくのは、無数の命。あのなかに、誰がいようとかまわない。星は輝き、やがて墜ちる。それは世界の理。

 ——ただひとつの星だけが、わたしの光。

 どこまでも幸福な吐息。生まれてから一度も感じたことのない安堵。

 水路を流れる水の音。馥郁たる果実の香りをふくんだ風。まぶたの色を透かす光。

 満ち足りた朝だった。

「——」

 その人の名前を、呼んだと思った。けれど、自分のなかにそれにあたる言葉がないと気づいて、エンジュはうたた寝から醒める。

(朝?)

 エンジュは、勢いよく身を起こした。

 夢をみていたのだと思っていた。〈星々の庭〉の夢を。すべてをうち捨て、夢のなかの人にすべてをゆだねて、安心しきって眠りに落ちた。

 夢のなかでみる夢。ここはまだ夢なのか、それとも現実なのか。

 そう思うと、忘れ果てたはずの血の臭いが、鼻腔によみがえった。エンジュは怖気をふるう。しかし眼前にあるのは、醜悪な現実とはあまりにほど遠い、うつくしい朝の情景だった。

 いつもの夢は、満天に星をたたえた静寂の夜。けれど今、この庭におとずれているのは、平穏そのものの明るい朝だった。水音も夜とは異なる響きをもち、あたりじゅうから小鳥の鳴く声が聞こえてくる。穏やかさに包まれている。

(あの人は、どこ?)

 エンジュは上着を羽織り、裸足のまま歩きだした。

 東屋からのびる階段を降りていく。周囲を見まわしながら、この庭はこんなふうだっただろうか、とエンジュは思う。

 夜の風景は、いつも変わらなかった。静かな星空の下にひろがる果樹園と、交差するいくつもの水路。流れる水だけが、さらさらと音をたてていた。

 なぜかエンジュは、知らない場所にいるような心地がした。夜が朝になっただけ、ただそれだけとは思いながらも、不安に駆られた。階段を降りる足は徐々にはやまり、満たされた思いは冷え、足もとはゆらいだ。最後の一段を踏みはずして、エンジュは倒れこんだ。

 名前も知らない。昨夜、すべてを受け入れてくれたあの人が、心細いエンジュをなぐさめてくれた人が、誰なのかわからない。

「——どうした」

 男の声がした。

 思いのほか低い声に、エンジュは弾かれたように顔をあげる。

「転んだのか? 膝に血が」

 はっとして、エンジュは膝を手で覆った。「大丈夫だから。おいで。水はいくらでもある」

 血のついた手を膝からひきはがして、男はエンジュを水辺へ導く。こちらにむけている背中は広い。

 ——こんな人だっただろうか。

 ともに夜を明かしたはずなのに、まるで知らない人のようだった。しかし男は、エンジュの手を当たり前のように引き、水路ぎわに座らせた。

 自身はためらいなく水路に入る。骨ばったてのひらに水を汲み、エンジュの膝に水をかけて、血と砂を洗い流してくれた。かすかにひりつく膝が、エンジュにここが現実だと伝えてくる。

 エンジュは自分の手をみつめ、次の瞬間、叫びだしそうになった。

 爪のあいだに、赤くこびりついたもの。それは、現実でエンジュ自身がなしたことの痕跡だった。

「大丈夫だ」

 男はほほえむ。この笑みだ。エンジュはふたたび、からだが安堵に包まれるのを感じる。

 やはり、この安らぎはこの人がくれたものなのだ。自分はこの人にすべてを預け、この人はすべてを受け入れてくれた。大丈夫。これからは、ひとりじゃない。

「洗ってあげるよ。おいで」

 さしだされた手を、エンジュはとる。男——青年はエンジュを抱きあげると、水のなかに下ろした。エンジュが羽織っていた上着を、男は石畳のうえに放る。

 からだの中からふわっとしたものが巻き起こり、エンジュは困ってしまった。

「どうした?」

 男はまた尋ねる。

「……恥ずかしい」

 エンジュは至近距離にある男の瞳をみつめながら答えて、いっそう恥ずかしくなった。このやさしく柔和な人を血で汚してしまいそうで、いたたまれなかった。

「汚れたら洗えばいい。髪も洗おう。大丈夫、支えているから」

 エンジュはされるがまま、髪も男の手に預けた。男が水のなかで丁寧に髪をほぐしていく。自分がどれほどの血をまとっていたのか、見当もつかない。けれど、男の手で洗い清められれば、もとの自分に戻れるような気がした。

 男の手を感じながら、エンジュはまぶたを下ろした。水の流れは思ったよりぬるく、この男があたえてくれたあたたかさにも似ていた。

「泣いているのか」

「はい」

「なぜ?」

「うれしくて……。あなたの手が、やさしくて」

 知らないものばかり、この人がくれる。「このままずっと、ここでこうしていたい」

 もう戦うのはいや、とつぶやいたエンジュに、そうか、と男が相づちをうつ。

「ならば、そうせよ」

「? ……」

 自分自身が口にしたことであるのに、言下に肯定されると却って引っかかった。

 エンジュは男を見る。エンジュの頭を支え、エンジュを見下ろす男の顔は、エンジュからは影になって見えにくい。

 男の顔かたちをとらえようとして、エンジュは手をのばす。のばした手を、男は力強く握りしめた。

「そなたは戦わなくていい。私が戦う」

「——」

「私がそなたを守ろう。そなたはただ、私のこの庭に住まい、望みのまま幸福に生きよ」

「あなたの……庭?」

 男がいっている意味をわかりかねて、エンジュは尋ねる。

「そうだ」

 男はエンジュを抱えあげる。小さく悲鳴をあげて男の首にすがりついた少女に、男は愉快げな笑声をたてた。

 水路から上がり、エンジュが羽織っていた上着で少女を包むと、少女を抱いたまま階段をのぼっていく。

「見よ」

 小高い丘の上にある東屋から、その庭園のすべてを一望する。

 その庭は、東屋からつづく階段を中心に、縦横無尽にはしる水路からなっていた。

 見たこともないほど緑の濃い木々や深紅の花々、たわわに実をつける果樹たち。けれど、庭の果てはすぐそこにあった——庭は高い土塀に囲まれていた。

 その外に荒涼たる大地があることを、エンジュは知っていた。

「これは、私が〈星々の庭〉に似せてつくらせた庭。そなたはその闖入者というわけだ。もちろん——私とて、そなたが現実にあらわれて、血まみれで倒れていたのを見たときは、信じがたかった。探し求めていた小鳥が私の手のなかに飛びこんできたのだから」

「これは現実?」

 男の饒舌を遮り、エンジュは問う。現実だ、残念ながら、と青年がまた声をたてて笑う。

 ——この人じゃない。この人は、あの人じゃない。

「ちがう」

 あの人はもっと幼かった。少年のようだった。エンジュを抱きあげられるほど、たくましくはなかった。

「ちがわない。私たちは〈星々の庭〉の夢で出会った。あれは私だ」

「ちがう」

 あの人は、こんなにおしゃべりではなかった。あの人は儚く、真実をたしかめたら消えてなくなってしまいそうだった。だからこそ、あの人のほほえみには、歌があった。

「そなたが思う私は、もっとやさしかった?」

「ちがう」

 この人の手はやさしく、エンジュに安堵をくれる。でも、あの人とはちがう。

「そなたが思う私は、もっと線が細かった?」

「そう……」

「そなたの見た私は、まだ少年だった。少年のころの私を、私が夢みたがゆえに」

 青年は語る。木々を走り抜ける風の匂いを浴びながら、エンジュは彼をみていた。

「少年のころは何も知らなかった。わが星の宿命も。見知らぬ兄弟たちが幼くしてひとり残らず追放され、ほとんどが無残に死んでいったことも、人々の上に君臨する孤独も。——友の裏切りも」

 エンジュははっと息をのむ。からだを離そうとしたが、青年はエンジュを支える手に力をこめる。

「何も知らずに、駆けまわって遊んでいた。友はそんな私を、少し距離をおいてみつめていた。その友の目が、私は好きだった。あるとき、木登りしていて滑り落ち、枝で傷つこうとした私を友はかばい、代わりに傷を受けた。あの顔の大きな傷が、私は好きだった」

 青年の腕のなかで、少女は震える。痛い、ともらすと、すまないと言って手をゆるめた。

「あのころの柔和でやさしい私が、私は好きだった。しかし、何も知らない少年のやさしさのままでは、私は生きられなかった。私は夢の中でだけは、やさしい私でいたかった。現実には決して許されなかったから。そなただけが、私がなりたい私の姿を見ていたことになる。そのうつくしい眼で」

「わたしはうつくしくなんかない」

 エンジュは世にも美しくつくられた庭をみながら、目に涙をたたえる。「あなたもみたはず。わたしは血にまみれている。わたしの手は、あなたの……」

 エンジュは言葉を継げなかった。

 わたしはあなたの——あなたはわたしの——。

「そなたの手は、私の友の血で」

 言葉を継いだのは、目の前にいる男自身だった。

「……あなたの手は、わたしの故郷の血で」

 ふるえる唇で、エンジュは続けた。

「そなたの手は、私の兵たちの血で」

「あなたの手は、友人になってくれた人たちの血で」

 ——汚れている。……

 エンジュはもう逃げなかった。青年の腕のなかにおさまったまま、自分の足で地面に降り立った。

「夢のなかだけでもうつくしくいたかった、あなたの気持ちがわかる」

「私たちはわかりあえる。夢みたようにうつくしくはいられなくとも」

 エンジュは青年の袖を引く。青年はうなずいた。

「ザイウスのことが好きだった。わたしはあの人に何もできなかったけれど、あの人はやさしくて、それがつらかった」

「それはいつから?」

「一緒にいた時間はほんの少しだけ」

 青年は、ほほえんだ。

「私は生まれたときから。生まれたときからずっとそばにいて、なんでもしてもらったのに、柔和な少年でいられなくなったとき、ザイウスには帝王として以外何もしてやれなくなった。そなたを樹上城内に捕らえておきながら逃がしたと聞かされたとき、もはやザイウスを生かす道は、やがて死ぬ道しかなかった。ザイウスが、逃がした娘を殺すより、自分を殺すほうを選ぶことはわかっていたから」

「セレステを助けてくれる?」

「セレステは私の妹も同然だ」

 エンジュは、青年の頬に触れた。夢のなかで禁忌のように白かった横顔は、今、エンジュの目の前でエンジュをまっすぐにみていた。

「ザイウスの代わりに、わたしがあなたのそばにいる」

 少女は告げる。「——アルキス。わたしの故郷の仇、わたしの友人の仇、わたしの——」

 

(……恋)

​To be continued.

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