メテオ・ガーデン
06. ハートブレイク<5>
なかば落下しかけながら、エンジュはルルの首にしがみついていた。
腕に力が入らない。そのくせ、力を奪うばかりで何の役にもたたない涙が、次から次に頬を伝い、深い穴の底へ吸いこまれていく。
(ザイウス……ユーダ……フリッツ)
何もできずに、ただ奪った。
それなのに、戦えない。奪った先に行きつく場所だったはずのマリオンをまえに、力が出ない。
それなのに、まだ生きようとしている。メサウィラ兵の到来を察知するやいなや飛びこんできたルルに、立てもしないのにすがりつき、こうして岩壁を駆けのぼっている。
(まだ何もしていない)
気を抜くと楽になろうとする腕を、エンジュは叱咤した。(何もしていない。何をすればいいのかも、わからない)
ザイウスたちは、知っていたのだろうか。エンジュが何のために生きていて、どこへ行こうとしているのかを。
けれど、彼らにそれを訊くことはできない。
「ルル。もう少しだから……」
大トカゲはエンジュという荷物を背負って、一歩一歩岩肌を踏みしめるように進んでいく。
ザイウスの最後の表情がエンジュの脳裏によぎり、一瞬、手を離しそうになった。だが、終わるわけにはいかなかった。
最後のひと息とルルが跳びあがり、要塞の頂上に立った。あたりは明るくなっており、イリルアンの周囲を見渡すことができた。
どこまでも広がる、〈草の海〉。
曇りの朝のやわらかく湿った風が、あたりを包んでいる。
ここで立ち止まることができたら、どんなに楽だろう。しかし、降りなければならない。またひとり、見えないものを探しにいく。指先に、ルルが頭で触れてきた。
「そうだね。ルルとふたりだね。……一緒にいてくれて、ありがとう」
ルルの背に飛び乗った。トカゲは急峻な岩にむかって飛び、跳ねながら滑り降りていく。岩山のふもとにいる兵士たちが、滑走してくる大トカゲに気づき、騒ぎだす。
一斉に、矢が放たれる。エンジュの指示がなくとも、ルルはその巨大だが柔軟なからだをくねらせ、巧みに矢をかわしていく。矢の雨のなか、エンジュは地上に舞い降りる。
降り立った場所から、歓声とも嘆声ともつかぬ声が起こり、直後、切り裂かれた人々が地に伏した。声はどよめきに変わり、次いで悲鳴に変わる。
(死なないで)
今はただ——叫びたいだけなのに。(死なないでほしかった)
しかしからだは動く。
——簡単ね。……
あの日、マリオンは笑った。
わかりたくないのに、わかってしまう。
耳に届くのは、自分の呼吸の音だけになった。吐く、吸う、吐く、吸う。右手を前へ、左手を振りあげる。億万人が敵であろうと。手足をうごかす、それしかできない。
吐く、吸う、吐く、吸う。悲鳴に意味なんてない。ただそこにあった気配を、エンジュは消し去る。それをくりかえす。
もう充分に殺した。それなのに、もっと、と何かが騒ぐ。
(ティンダルの血なのか)
エンジュは駆け、飛んだ。(マリオンと「同じ」だからか)
メサウィラの隊列を分断し、切り捨てる。ひとつの隊を葬ったあとは、また別の隊へ。
(もっと。もっともっともっと)
「……いや」
エンジュは喧噪の外でみつめている黒い眼の親友を、振りむいた。「いや。冷まして——」
大帝国たるメサウィラは、次から次へと新たな隊を投入してくる。昂ぶりを冷ます間もなく、エンジュは戦いの渦にひきずりこまれた。抜けだすことも許されずに、渦の中心でエンジュは舞いつづける。トカゲの眼は、相も変わらず揺らがない。
いつまで舞いつづければ、許されるのか。どれほど血を流せば、終わりにできるのか。
気がつけば、追いかけてくるものさえいなくなり、血の海のなかで四枚の刃を引きずって歩いていた。鋼の糸は放たれたまま、白銀色に光る刃は、血にまみれて、なお曇らず。
「……神々の御世、」
エンジュは切れ切れに、口ずさむ。
広漠とした天空を、星が、墜ちていく。無数の星が。
——わたしが殺した、人たちか。それとも、はじめから決まっていたのか。……
命数の尽きた星が、空を去る。
それは、世界の理。
エンジュが殺さなくても、わずかな日々のあいだ燃焼し、やがて墜ちていっただろう星々が、いまエンジュの手によって墜ちつつある。
それは、エンジュたちにとってごく簡単で、些細なこと。
エンジュたち——エンジュとマリオン。疑いようもなく、ふたりは同じもの。たまたま宿った場所が異なっていたから、ちがうというだけで。
(いや。怖い。ちがう)
腹の底から叫ぶ。
叫んで、エンジュはあの場所にいた。
見知った水路沿いを、ふらふらと歩いた。夢のなかのエンジュは、自分で手を下した大勢の血をまとってはいない。何もかも最初からなかったかのように、からだは軽かった。けれど、渇きと熱は夢のなかに来て強くなったようだ。
(あの人がいる。ここにいる)
そう思うと、気がはやった。
同時に、もう歩きたくない、という気持ちも強かったが、それよりもエンジュのなかから責め立ててくるものの力が、はるかに勝っていた。
果樹園を吹くやさしい風の匂いも、今はまるでわからなかった。あたりに散乱した血と肉の臭いが、夢のなかにまでついてきているように思えた。
夢をみても。血塗られた化け物。
——ちがう、と。
そう言ってほしかった。
東屋のなかで、その人が水面をみつめているのを目にしたとき、エンジュは駆けだした。
「また会えたね、エンジュ」
やわらかな言葉。
とたんに、足がもつれる。エンジュの様子に気づいてか、少年は水路を離れてこちらにむかってくる。少女は両足を叱咤して走っていく。
倒れこんだ少女を、少年は受けとめた。
戦士でも踊り子でもない少年の肩は薄く、しかし少女の重みにたじろぐことはなかった。少年の首をかき抱き、エンジュは叫ぶ。
「……冷まして、冷まして!」
彼が誰かなど、どうでもよかった。
彼が身にまとう歌だけ。欲しているのは、それだけ。
To be continued.