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​メテオ・ガーデン

06. ハートブレイク<4>

 長いあいだ、うごけなかった。

 かたわらにいる大トカゲの黒い眼に気づいたとき、エンジュは夜が明けたことを知った。

 かすかに残る星々のかげの下で、もう空は赤らんでいなかった。

 終わったのだ。

 いや、終わっていない。まだなにも。始まってさえ。

 のども、眼も、からからに渇いていた。けれどからだはうごいた。重石が取り払われたかのように、からだは軽かった。

 親友の背中に腰を下ろす。手綱をつかむと、なにもいわずともルルは歩きだした。そして、黒い穴のなかへと飛びこんでいく。

 大トカゲは黒い壁のなかを落下するように降りていく。黒い壁は、どこまで降りても黒い。鼻をつく焦げくさい匂いが、ここでなにがあったかを物語っている。イリルアンの人々を焼き尽くした女が、この焼け跡の先に待っている。

 それは不意のできごとだった。

 要塞を奥へ奥へとすすむエンジュは、黒い焼け跡のなかで煌々と輝くものをみた。

 眼だった。赤に近い、色の薄い眼が、闇のなかで細められていた。

「——マリオン!」

 全体重をかけてルルの手綱を引く。めったに声をあげないルルが苦しげに鳴いて、絶壁の途中で急停止した。危うく前のめりに飛びだしそうになり、エンジュはとっさに飛んだ。

 横穴にしがみつき、這いあがる。振り返ると、ルルが穴の中に顔を見せた。

「そこにいて」

 はっ、と息を吐きだす。もう一回。闇に目をこらす。その奥から——赤い瞳が、やってくる。

 早朝だというのに、まるで夕日のような。朝の光を知らない眼、夜空を照らす炎の眼。

 生まれながらの炎。なにもかもを焼き尽くすために生まれた娘。

 散らされた血潮が、彼女の宝石。

「眠れないの?」

 エンジュは問いかけた。「眠らないの?」

「両方」

 マリオンは答えた。闇の奥から、すべりでる。「わたしたちはそんなふうにはつくられていない。陽がのぼるとともに目覚め、陽が沈むとともに眠りにつくもののようには」

「わたしはいつも、いちばんいい寝床で眠るあなたを横目にみながら、寝屋を抜けだした」

「あのころは、自分が何なのか知らなかった。連れていかれるままティンダルに来て、ティンダルであなたの父親に求められるまま戦った。眠れといわれたから眠った。でも、わたしたちは本来そんなものではない」

「わたしとあなたは」

 エンジュは問いかけた。「同じなの?」

「だとしたら、なに?」

 マリオンの表情は変わらない。かすかに口角をあげ、夕陽の瞳を細めたまま、エンジュを見ていた。

 エンジュだけを。

 この残忍な女は、ずっとエンジュだけを見ていたのかもしれない。エンジュが、ティンダルが焼けて以来マリオンを追ってきたように。

「だとしたら」

 エンジュは返した。「あなたとわたしがちがうものだと証明する」

「その必要はないわ。わたしたちは同じであり、ふたり」

 ふたりの手足からつながる蛇が、同時にその頭をもたげた。「それゆえに、敵なのよ」

 にらみあい、徐々に距離をつめていく。

 ある一瞬のために。

 積み重ね、はりめぐらせていく。見えない糸と見える糸、鋼の蛇八匹がその瞬間を待っている——ふたりの少女がこの世界に生まれ落ちて偶然与えられた同じ武具、その片割れによって滅ぼされた人々に伝承されてきたアルバ・サイフ。

 エンジュの右足が、最初に風を切る。

「——マリオン!」

 刃がぶつかり、薄闇に火花が散った。戦いを見守る大トカゲの眼に、紫の光がよぎる。

 一の刃が防がれても、二の刃がある。二の刃が防がれれば、三、四の刃が。それが〈草の海〉を支配した戦士の一族ティンダルの戦い。そしてそれは、攻める少女だけではなく、防ぐ少女も同じだった。ティンダルとティンダル、アルバ・サイフとアルバ・サイフの戦いにおいては、計八枚の研ぎ澄まされた刃が飛び交い、どちらがいつどちらを咬み殺すかわからない。

 ——このときのために。

 マリオンと戦うために。これまでのすべてがあった。

 エンジュは舞う。ティンダルの刃と、ティンダルの挙止。エンジュの蛇は、マリオンを殺すときを待っていた。

(いま目覚める)

 ——今、はじまる。

「やっと……!」

「それはこちらの言うことよ」

 マリオンは右手を軽くうごかす。軽くうごかしたようにみえて、一の刃は大いにうねり、大トカゲの尻尾のように岩穴をないだ。岩はあっさり切りとられ、破片が飛び散る。マリオンとアルバ・サイフにかかれば簡単にうがたれてしまう岩だが、破片が硬く鋭利なことに変わりはない。飛び散った破片は、新たな刃となってエンジュに襲いかかる。

「!」

 腕、足、顔と、細かい破片がエンジュを傷つける。しかし、エンジュはかまわず飛んだ。マリオンの放つ蛇の口のなかへ。破片は無視し、アルバ・サイフの刃だけを、ひとつ、またひとつと跳ね返す。避けることをしなかった岩壁の破片が、少女の血潮を散らす。

(受けられる)

 ——マリオンの刃を、受けられる。

 それは、エンジュにとって新鮮な驚きだった。長年、勝てるわけがないと思っていた。ティンダルが血と火に覆われた日、マリオンはエンジュのまえに圧倒的な存在として立っていた。戦うということすら思いつかずに、ただ呆然とするしかなかった。

 けれど、あのころ拒否していた戦いに慣れてみれば、正面からマリオンと拮抗できる。

 マリオンは、エンジュとちがうものではない。同じ場所に立てる。

(立ちたくない)

 そう強く思うと同時に、喜びも感じる。(ずっと、ここに立ちたかった)

 ——そのために、……しても。

 独白は、四枚の刃で切り裂かれる。自分の四枚の刃で、みずから切り裂く。厚い岩壁ごと、両断する。焼け焦げた壁が落ち、穴のむこうに蟻の巣の深部がのぞく。

 ふたりの少女は跳ね、駆ける。深淵の奥深くへ、飛びこんでいく。闇のなかで弱い光もを反射する鋼の糸を、ひたすらに張りめぐらせていく。罠にかかるのは、自分か、敵か。みずからをも追いこんでいく、血ぬられた蜘蛛の巣。

 アルバ・サイフはアルバ・サイフで防ぐしかない。エンジュは他に何ももたない。刃はもちろん、鋼の糸に手を出そうものなら、無事ではすまない。

 四枚の刃に対して、四枚の刃。マリオンに届かせるには、もう一枚、刃が要る。

 それは、マリオンとて同じだ。

(わたしたちの戦いを、終わらせるのは)

 マリオンと、視線が交差する。赤い眼が、ふいに細められた。

 その唇から、出た言葉は——

 

 ——ザイウス

 

 自分でも、よくわからなかった。エンジュは唐突に、その場でくずおれた。

 からだは軽かった。軽いと思った。しかし、うごけない。うごかすことができない。からだの各部分をつないでいた糸が、切れてしまったかのようだった。

 

 ——ザイウス・パンタグリュエル

 

 黒く焦げついた岩の冷たさと匂いを、近く感じた。気がつくと、エンジュは岩肌にもたれかかっていた。

「……あなた、が」

 握りしめる砂とてない、無情な岩肌が、爪先をかすめる。「あなたが……!」

「わたしが?」

 蠱惑的な唇が、笑う。「わたしが?」

「あなたがザイウスを、ここに連れてきた。あなたと帝王が。ザイウスを罰するために」

「そう?」

 赤い瞳が、エンジュを見下ろしていた。「あなたを逃がした裏切りは、本来なら極刑も当たり前よ。こうしてここに派遣したのは、挽回の機会を与えたかったから。帝王は、何か名目を与えてでも、パンタグリュエルを生かしたかったのよ」

 マリオンは攻撃しようともせず、エンジュを見ていた。

「パンタグリュエルを殺したのは……このイリルアンの空気穴に落としたのは」

 エンジュは、目をみひらく。

 迷うことなく、崖の上でからだの均衡を崩した男。

 

 ——あなたは、私の星。

 

「パンタグリュエルがあなたに殺されることを選び、その望みどおり、あなたはパンタグリュエルを殺した」

 奇妙に息苦しかった。息を吸い、からだを動かし、目の前にいる敵を倒さなければいけない。それはわかっていたが、膝に力が入らない。

「それだけよ。わたしと帝王はなんの関係もない」

 筋肉という筋肉が根こそぎ奪われたかのように、立ちあがることもできなかった。

 息を吸おうとしても、吸えない。黒い岩壁が、急速に圧迫感をもってエンジュの目に映った。からだをうまく使えない。戦いに慣れてからは、あれほど自由に跳べていたというのに、また昔に戻ってしまったかのようだ。ティンダルでくすぶっていたあのころに。

 

 ——あなたの涙が、私の王冠の石。……

 

 ぽつ、と目の前の岩に滴る。また一滴。

(生きていてほしかった。それがあなたの望みじゃなくても)

 先ほど枯れ果てたはずの涙が、エンジュの戦う力を奪い、あとからあとからわきだしてくる。

 ザイウスは、エンジュはただ通りすぎ去っていくといった。ユーダは、エンジュは遠からずもっと遠くに行くといった。フリッツは何かを告げようとして、何も言わなかった。

 おそらく、今は誰も生きてはいない。

(うごけない)

 一歩も、すすめない。

 マリオンに手が届かない。すぐ目の前にいるのに。

 闇のなかの赤い瞳に、手をのばす。彼女はほほえみを浮かべたまま、何もしようとしなかった。

 エンジュの指は、マリオンの頬に触れた。

 ひやりとした。

「わたしを、殺さないの」

「楽しめもせず、終わりにするのはいや」

 マリオンはほほえみのまま、断言する。「絶対にいや」

「わたしの苦しみが、あなたの娯楽ということ?」

「そうよ。あなたはまだ何も知らない。知って苦しむの。それが必要よ。知って苦しみ、そのあとで喜びを知る。

 喜びを知ったあなたを、わたしは絶望の淵に叩き落として、終わりにする。

 だけど——わたしたちは終わらない。終われない。わたしたちにできるのは、『区切る』ことだけ」

「あなたは何を知っているというの……?」

 エンジュはにらんだ。「あなたは……だれ?」

 マリオンは答えなかった。

 代わりに、大勢の足音が響いてきた。岩穴の奥にかすかな光がともり、その奥から光の群れが近づいてくる。光はまずマリオンをとらえ、闇のなかにその姿を浮かびあがらせた。

 穴の奥から顔を出した若いメサウィラ兵が、薄闇の中の赤い瞳と金の髪を見て、反射的に痙攣した。

「王女殿下! そんなところで何を……いえ、それよりも先刻パンタグリュエル将軍が」

 マリオンの微笑が消えた。

「下手人はそこに。ティンダルの生き残りだ。すみやかに捕らえよ」

「は? ティンダル?」

 言いながら、兵士は松明をかざす。

 しかし、そこには黒焦げの岩壁しかない。

「帝王の親友を殺した娘だ。捕らえて帝王にさしだせ」

 要塞を包囲せよ、とマリオンは命じた。

​To be continued.

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