メテオ・ガーデン
06. ハートブレイク<3>
男は岩壁のうえにたたずんでいた。大柄なからだを甲冑とメサウィラ風のマントで包み、大剣を胸の高さに掲げたまま、微動だにしなかった。
顔の大きな傷が、星と火とに照らされて光ってみえる。一見きびしくみえるが、もの静かでやさしいまなざしは、今もそのままだ。けれど刺すように鋭い眼の光は、エンジュは一度も見たことがなかった。
ルルは壁のうえに降り立つ。エンジュは自分のからだの重みから解放され、ルルの背中の上で体勢をととのえた。
「あなたを待っていた。このイリルアンの構造上、あなたはここをのぼってくると思った」
「ザイウス。お願いです。わたしのまえに立たないで」
あなたを倒さなければいけなくなる——エンジュはその言葉をのみこんだ。
けれど男は、いわずとも理解したというように、大剣の鞘を払う。星の光を浴びて輝く刃は、あまりにも見事で、男がどれほど権力者のそば近くにいる存在かを如実に示していた。
「私は帝王の尖兵だ。帝王の名代であるマリオン王女のもとに武装してむかうあなたを、放っておくわけにはいかない」
「マリオンはわたしの敵です。マリオンと戦う。わたしはそれだけで生きている。だから」
「マリオン王女があなたのすべてだとは、私には思えない。あなたは……」
ザイウスは口をつぐんだ。確固たる意志をもって掲げられた大剣が、わずかにたじろいだ。
「……わたしは?」
暫時、ザイウスから答えは返ってこなかった。
沈黙が二人を包み、岩山のむこうでくりひろげられている戦いの喧噪が、近くに感じられた。
「あれは、あなたのための陽動か」
ザイウスは明らかに話題を逸らした。
「そうだと思います」
「あなたはあれを望んでいない」
「でも、わたしには彼らをとめられません。わたしはわたしの行くべきところへ行く。彼らは彼らのしたいことをした」
「私も同じだ」
「だめです」
少女は頭を振る。「あなたは生きてください。セレステが悲しむ。あなたはわたしたちに巻きこまれないで」
そう言ったとたん、はっと息をのむ。自分はいま何を言ったのか。
「わたしたちに巻きこまれないで」? 「わたしたち」——わたしとマリオン? ……
「おかしなことをいう。あなたと王女が同じものだとでも?」
「……」
エンジュは答えられなかった。
なぜ自分がそんなことを言ったのか、わからなかった。たしかにマリオンとは同じ場所で生まれ育った。かたやメサウィラの王女として生まれ、奴隷として放逐された娘。かたやティンダルの一の戦士の子として生まれ、その義務から逃れようとして一族から疎外された娘。ふたりの娘は別々の場所で生まれ、同じ場所に来て、決別した。
しかし今、エンジュはマリオンを求めて追いかけていく。マリオンもまた、あの日エンジュに言ったのだ。
「……ものごとのはじまりから、わたしたちは敵同士だと」
「王女があなたにそう言ったのか?」
「わたしにも、意味がわからなかった」
——そのように、わたしはつくられたのだから。ねえ、逃げなさい。あの歌を知る限り、あなたは追われる。逃げて、逃げて、どこまでも逃げて、もっと強くなりなさい。強くなったあなたを——わたしが殺すわ。……
「今は、わかる気がする」
「王女とあなたはちがう。断じてちがう」
ザイウスは言い切った。ザイウスにはわからないとエンジュは思う。エンジュとマリオン、この世界でふたりにだけわかること。
「あなたには見えるか? このイリルアンが」
彼にしては大仰に振りあげられた手が、背後を示した。そこには、深い縦穴がひろがっていた。
岩山の中心に、あたかも穿たれたかのような、深い縦穴がある。底は見えない。
「あなたは、このことを知って、ここにのぼってきたのではないのか」
「ただ目の前の岩壁をのぼっただけです」
「どうしてそんな命をむだにするようなことを——いや、それはいい。これは通風口、この岩の要塞の命綱だ。イリルアンは深く掘られた蟻の巣の要塞。しかし、空気を循環させるための仕組みがなければ、人間は生きられない。その要がこの通風口」
「黒い……?」
エンジュは見たままを口にした。深い穴は、壁が黒かった。穴の中にはところどころ明かりがともされていて、岩壁自体が黒いのだとわかる。
「……マリオンが……?」
その名前を、ぽつりとつぶやく。ザイウスが見せたがっているのがこの黒い壁なのだとしたら、誰がこの場所をこのようにしたのか。
「王女とあなたは、たしかに似ているところがある。イリルアン攻略時、王女も真っ先にここにのぼってきた。ここから中に、火を投じた」
「——」
「イリルアンが陥ちるまで、そんなに時間はかからなかった。ひとりの生存者も残さずに、イリルアンはメサウィラに下った」
脳裏にあのティンダルの光景がよぎる。血にまみれた花嫁衣装と、火を放たれた家々。
「王女は残忍で、アルキスさまがお目にかけるにはまるで値しない。あなたとなど、断じて同じではない。あなたは、やさしいから傷つく」
そう言って、ザイウスはほほえんだ。「私を傷つけることで、あなたは傷つく」
「どうして笑うの?」
「どうして? うれしいから笑うんだろう。セレステはいつもわかりにくいというが、私もうれしければ笑う。うれしいほどのことは、そんなに多くない」
「わたしが傷つくのが、うれしい?」
「そうだ」
男はふたたび大剣を持ちなおし、エンジュにむけた。「あなたはただ私を通りすぎ、去っていく。ほんのひっかき傷だとしても、傷があるあいだは、あなたは私を忘れないだろう。この機を与えてくれた王女とわが帝王に感謝する」
「やめて。わたしはあなたに生きてほしい」
「それは私の望みではない」
次の瞬間、男が崖のうえで躍動した。
みずからの足もとすらかえりみない一撃だった。エンジュも飛んだ。
「セレステはどうやって生きていけば? つまらないことのために、あの子を放りだすの?」
「妹は賢明だ。私よりもずっと。どうすれば生きていけるか、妹は知っている。願わくば、あなたが私を通りすぎたあとも、友人としてふたたびわが家を訪ねてくれることを。妹も、きっとあなたの力になるだろう」
——どうして?
(どうして、あなたたちは)
視界の端に映る赤い空。
せめて、その炎の熱を感じられたらよかったのに。しかしそれは、遠い戦火の名残でしかない。
「どうして?」
と、男は言って、まだ笑っていた。
「簡単なこと」
重すぎる剣は、エンジュのような身軽な戦士には、遅すぎた。振り払われた刃は、空を切り、風となって少女を煽るだけだった。
「あなたは、私の星」
あ、というつぶやきが、少女の口からもれる。
「あなたの涙が、私の王冠の石」
きっと、下で戦っている者にとっても、同じなのだろう——そう付け加えた男の手をつかんだのは、とっさにのばされた少女の手ではなく、アルバ・サイフから放たれた鋼の糸。
命をつなぎとめるのではなく、断ち切る糸。
ほほえみのまま、黒い穴の底へ吸いこまれていく。
「いやっ……」
一瞬で。永遠に失われる。
ひとたび失われたものは、決して帰らない。
(泣くことぐらいしか、できない)
世界から、音が消えた。
To be continued.