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​精 霊

第一部 プリエスカ・理学院編

第1話「負けずぎらい」

 ただ、精霊たちの名を想えばいい。

 火(サライ)、水(アイン)、風(シータ)、土(ヴォーマ)――世界を構成する四大元素精霊の、属性であり分類上の定義でもあり、同時に個々の彼らをいいあらわしもする――大切な名前を。

 人はいずれの力を借りるときも、属性の精霊すべてが共有する単純な名のみを胸に懐き、偉大な力を使役するにふさわしい真摯な心で、そっと彼らを呼べばいい。そうすれば、きっと彼らは喜んで召喚に応じ、人にその力を示してくれる。――王国暦七八年発行、ラメッド・セファリーム著『召喚学入門』にいわく。

 少年は扉を叩く前に、頭の中でその一節を反復した。入門書にありがちなさも優しげな文章の、実際のところの真偽のほどや実用性はともかくとして、彼はそれを信じている。

 いや、今はそれを頼みにするほかない、といったほうが正確である。才能のあるなしは自分ではわかりようがないが、「真摯な心」ならばなんとか持ちあわせがあるのだった。

「失礼します」

 意を決し、少年は部屋に踏みこんだ。殺風景な試験場が、冷ややかに彼を迎え入れる。正面の長机には、彼の運命を握る試験官たちが雁首を並べていた。そのうちの一人が、おもむろに口を開く。

「名前と学籍番号を」

 少年は深く息を吸い、それから吐きだした。

「メルシフル・ダナン、学籍番号一四八六です」

「ダナン君、さっそくだけど始めましょうか」

 担任のカリーナ助教授が告げた。「あなたの試験は――そうね、火(サライ)を。火(サライ)の七級精霊を召喚してもらいます」

「はい!」

 シフルは意気ごんで返事すると、右手三本、左手四本、合計七本の指を立てた。試験官の合図を待って、右手を高く掲げ、

「火(サライ)の子らよ――」

 次の瞬間、勢いよく振り下ろす。「――オレに力を貸してくれ!」

 

 

   *

 

 

 少年は広場に飛びだした。

 足が地面から離れんばかりなのを何とかおさえ、シフルは友人の姿を探す。広場は試験後特有の興奮じみた空気に包まれており、そこで憩う学生たちは、やれ問何ができなかっただの、やれ問何は悪問だの、やれあの教師の顔は怖いから面接試験はやめてほしいだのと、思い思いに試験の感想を述べていた。

 シフルは軽やかな足どりで広場を横断し、噴水そばのベンチにいる友人をみつけた。

「ジョルジュ! ジョルジュっ!」

 駆け寄ると、ジョルジュは力なく手を振った。

「……よお、シフル。お疲れさん」

「なんだジョルジュ、ダメだったのか?」

「放っとけよ。あー、シフルは実技何だった? 火の精霊(サライ)か? 水(アイン)?」

 うきうきと隣に腰を下ろしたシフルに、ジョルジュは嘆息がちに訊く。

「オレは火(サライ)だった。もー完っ璧! 〇・五秒で来てくれたよーん」

 試験がうまくいけば食事もうまい。シフルは布袋からサンドイッチをとりだすと、大口を開けてかぶりついた。

「シフルって妙に運いいよな」

 対するジョルジュは、サンドイッチをかじる口もとも上品である。「俺なんて、いちばん気むずかしいというかの土の精霊(ヴォーマ)だぜ」

「来てくれなかったわけ?」

 無言でうなずく友人に、シフルはふうんと相槌をうってから、

「オレも土(ヴォーマ)呼ぶの苦手ー。でもまあ、運も実力のうち。次がんばれよ?」

 と、手厳しいひと言でもって刺し抜くのだった。ジョルジュは少し傷ついた様子だったが、たった一か月のつきあいでもある程度は相手の性格を把握しているらしく、カップの紅茶とともに飲みこんだ。

「だけどさあ、シフル、筆記も完璧って言ってたじゃん」

 カップから口を離し、ジョルジュは尋ねた。「ひょっとして……、受かっちゃう? Aクラス」

「むろんだ」

 シフルは迷いもためらいもせず即答した。そのうえ、

「ただし――」

 と、訊かれてもいないのに補足する。「――『《やつ》と同じ最短期間で』の合格だ!」

 ここを抜かすと全然ちがうだろ印象が、と力説もする。ジョルジュの呆れにも頓着しない。自信があるものはあるんだ、嘘はつけない、といわんばかりに、少年は目を輝かせる。確かに、自分の試験の結果というのは自分である程度わかるものだが、ここまで堂々と主張する学生はあまりいない。

「《やつ》ってあの……《鏡の女》?」

 聞き返す友人に、

「そう! セージ・ロズウェル」

 シフルは長母音に過剰なアクセントをつけて言う。

「なんでシフルってそんなにあいつを気にするんだ? 気でもあんのかよ」

 友人の憶測に、シフルは肩をすくめる。母親譲りの銀髪が揺れ、灰がかった青の瞳がおかしげに光った。

「オレがそんな叙情性あふれる感情をもって《やつ》を見てると思うか?」

「いーや」

「わかってんなら訊くなよ。――純粋なる競争心ゆえの敵視だ!」

 少年は、拳を握りしめて息巻いた。

 

 

《セージ・ロズウェル》、通称《鏡の女》。シフルのライバルにして、「理学院召喚学部最後の天才」の呼び声高い少女である。

 彼女の伝説は独学による満点入学達成に始まり、数々の私闘における勝利とそこから生じた多くの退学者、最短期間でのAクラス昇級達成、一部の教師からの偏愛などによって彩られていた。彼女は現在もAクラスの頂点に立ち、学生たちの畏怖の対象となっているという。

 シフルが彼女を知ったのは、同じく満点入学を達成したときのことだった。父親に反発して家出した彼が、憎き父親とちがう路線という理由だけで召喚学部を選択したところ、たまたま居合わせた女教師が教えてくれたのだ。

 それがシフルに火をつけた。以来、セージ・ロズウェルは心の好敵手となった。シフルは怒濤の勢いで初級(エレメンタリー)クラス、Dクラス、Cクラス、Bクラスと、毎月の昇級試験のたびに駆けのぼり、今日ついにロズウェルのいるAクラスに挑戦したのである。

 これまでにも最短期間でBクラスに昇級した者なら少なくない。だが、Aクラスの壁はそれ以下のクラスとは段ちがいで、そうした学生の多くがここで初めての挫折を経験する。

(だけど、さっきの試験もいつもどおりに上々。オレは受かる。絶対に受かる!)

 シフルは、胸のうちが確信に満ちているのを感じた。こうした状態になったときで、思いちがいだったことは一度もない。

「でもさあ、よかったよな、シフル」

 ジョルジュはサンドイッチを口に入れつつ言う。「Aクラスに入ったって言えば、さすがに家の人も許してくれるだろ?」

「それはないな」

 シフルは食事を終え、包み紙を折りたたむ。「あの親父、法学部じゃなきゃ絶対許さない。必要なのは後継ぎであって、どんなに権力があっても教会じゃダメなんだ」

「だけどさ、何度か学院にビンガムのおえらいさんが訪ねてきたって話だぜ? それってきっとシフルの親父さん関係だろ。話しあう気があるんじゃないのか」

「ないね! あるわけない」

 シフルは思いきり頭を振った。「連れ戻して今度は監禁する気だったんだよ。あのクソ親父!」

 初級(エレメンタリー)クラス担当教諭から父の部下の訪問を告げられたときほど、学院の不輸不入権に感謝したことはない。シフルはその一件を思い起こして、ひとり身震いした。

 理学院は元素精霊教会に付属する組織だが、かつて対ラージャスタン戦争に貢献した功績からプリエスカ国内で絶大な権力を誇っており、学院自体がひとつの国家のようになっている。よって、一度そこに入りこんでしまえば、外部の勢力は手だしできなくなるのだ。そういうわけで、政治権力者であるシフルの父親にも、理学院から息子を引きずりだすのは不可能なのだった。

「軟禁だってもうごめんだ! なあジョルジュ、おまえ軟禁されたことある? 家の中は自由に動けるんだけどな、玄関のところにゴツい男が二、三人控えてて、外に出ようとすると『お通しできません。お父さまのいいつけですので』ときたもんだ!」

「まあまあ、落ちつけよ、シフル。今は自由の身じゃんか」

「――そう、自由!」

 シフルは灰がかった青の瞳をきらめかせ、大げさな身ぶりでその輝かしい言葉を表現した。「自由に好きな勉強して! 好きなものめざせて! なんてすばらしいんだ!」

 少年の演技がかった物言いに、周囲の学生が振り返る。ジョルジュが、恥ずかしいからやめてくれよ、と懇願しても、シフルは止まらない。

「クソ親父! 今に見てろよ。オレはおまえよりえらくなって帰ってやる! 手始めにAクラス昇級はいただきだ!」

「……」

 気の毒な友人はそこで沈黙した。広場で憩う学生たちは、シフルたち二人を見て笑いをもらしたり、あるいは試験の出来が悪かったのか恨みがましい目つきでにらんできたりした。シフルは周囲の視線などおかまいなしに、希望と自信をみなぎらせてぐっと拳を握る。

 そのとき、広場に硬質な鐘の音が響きわたった。普段は午後の授業開始の合図であり、今日の場合は試験結果発表の合図でもある。シフルとジョルジュはどちらからともなく、発表だ、とつぶやき、ベンチを離れた。

 小講堂にはBクラスの学生全員が集まっていた。試験結果の発表は、掲示板に貼りだされるのではなく、一切の匿名性を欠く口頭での発表である。しかも極めて明瞭に名前をあげてくれるので、理学院を学び舎とする学生たちのなかには、そのことを気に病んで辞めていく者もいるほどだ。

「ねェ、今度はどう? 合格しそう?」

「ダメ! たぶん脱落ー」

 学生たちは発表を目前にして、そんな不毛な会話を繰り広げている。小講堂は一種の興奮状態にある学生たちのうめきで埋め尽くされていた。

「ハーイ、静かに!」

 そこに、ひときわよく通る女の声。威厳のある声というわけではないが、彼女が今ここにいるすべての学生の運命を握っていると思えば、おしゃべりな若者たちが口を閉ざすには充分だった。教壇に彼女が現れると、小講堂は静まりかえった。

(待ってました、カリーナ助教授!)

 シフルは身を乗りだす。

「今からクラスを発表します。二度は言わないから注意して聴きなさいね」

 少年をはじめとするBクラス生一同は、固唾をのんで彼女に注目した。「さて、まずは総評を」

 カリーナ助教授は、長い亜麻色の髪をかきあげて微笑する。彼女らしい、真意のみえない笑顔だ。

「今回は全体的に、非常に! 平均点が低い。何しろ初級クラスの退学者は十四名! このBクラスではCクラス落ちが二十四名! それに対しAクラス入りはたったの三名!」

 小講堂はどよめいた。「はあ……、情けないったらないわね! では今から、Cクラス行きとAクラス行きの者を発表します。他の者はBクラスに残留。いいですね」

 助教授の表情の陰影は暗い。学生たちは不安を隠せず、そわそわと耳うちしあう。

「Cクラス!」

 次々と名前が発表されていく。絹を裂くような悲鳴や、断末魔といってもいい叫びがそこここからあがった。いまだ名前を呼ばれない者は、並々ならぬ緊張に胃を押さえている。

 以上二十四名、と助教授が区切るや、あちこちで安堵のため息がもれた。

「続いてAクラス。アマンダ・レパンズ、ユリシーズ・ペレドゥイ、……」

 今度は助教授の顔に光が射している。「――メルシフル・ダナン。以上三名」

 ――よっしゃ!

 シフルは内心喝采をあげた。

「クラス替わった人は、校冠の石をとりにきてね」

 カリーナ・ボルジアは丸い石が大量に入った箱を持ちあげる。その中の石は緑、一方、助教授の左手に三個だけ大事に握られている石は青だ。つまり、銀の校冠にはめる石はクラスごとに異なる。理学院の関係者は、教授陣も含めて校冠着用が義務づけられており、カリーナ助教授の額にも紫色の石が光っている。

「明日からは各自新しいクラスに出席するように。Aクラスは一クラスしかないからいいけど、ご存じのようにBは五クラス、Cは十クラスあるから注意して。それぞれの教室の入口に名簿があるから確認するようにね。以上よ」

 カリーナ助教授は、石入りの箱を教壇の上に置いた。「では、解散」

 学生たちはいっせいに立ちあがり、座席をたたんで出ていく。ある者は不満を述べつつ、ある者は苦笑しながらも残留を喜びつつ。シフルもやがて席を立った。Aクラスの青い石をもらいに行くのだ。

(Aクラスの青い石)

 シフルは弾む心をおさえながら、教壇を目指した。(カリーナ助教授の手に三個しか握られてない青い石、理学院のなかで四十個しかない青い石、そして――)

 カリーナ助教授の前にAクラス行きの三人が並んだ。シフルの他に金髪の少女と、要領のよさそうな印象の少年がやってきた。ともに昇級を決めたアマンダ・レパンズとユリシーズ・ペレドゥイだろう。

 助教授はまずペレドゥイを手招いた。彼の校冠からBクラスの赤い石をはずし、青い石をはめこんだ。

「ペレドゥイ君、よかったわね。三年目にしてAクラス!」

「はい、ありがとうございます」

 ペレドゥイはどこか申しわけなさそうに頭を下げた。続いてカリーナ助教授は、レパンズに手をのばす。

「レパンズ君。あなた、今のところAクラス二人めの女学生よ」

「じゃあロズウェルさんと二人? すごい、なんだかえらくなったみたい!」

 レパンズは明るい水色の瞳を細めて笑った。彼女のまわりには、晴れやかな空気が生じている。

「ふふふ、そうでしょ。……さて、ダナン君」

 ――そして、やつも着けてる青い石、だ!

 シフルは姿勢を正した。カリーナ助教授の手が校冠に触れるのを、頬を紅潮させて待つ。

「私が四か月前に言ったこと、覚えてる?」

 そうささやいて、助教授は微笑んだ。

「はい。もちろんです」

 赤い石が助教授の手のなかに落ち、青い石がその指に握られた。

「宣言どおり、どの石とも一か月のつきあいだったわね」

「はい」

「本当に、とんでもない負けずぎらいだったのね、あなたは」

「はい!」

 かちりと音がして、青い石はシフルの校冠におさまった。少年は口の端をあげ、同じように笑う助教授にいたずらっぽいまなざしを向けた。

「――オレ、負けん気だけで理学院入ったようなものですもん」

 

 

 ビンガム市立学院の担任に呼びだされたのは、そう昔の話ではない。

 試験のたびに優秀者として名をつらね、しばしば一位の賞を獲得していたシフルに、期末試験の直後、担任が声をかけてきた。この学院は君には低レベルすぎる、王都にある理学院の推薦入学試験を受けてみるのはどうか、と勧める老教師に、シフルは父親が許さないからと一度は辞退した。

 が、教育者はあきらめなかった。それこそシフルの顔を見るたび説得を試み、ついにシフルの心を動かす手段を発見したのである。

 ――理学院には君よりもできる子がいっぱいいるよ。

 というのがそれだった。

 よくよく考えるまでもなく、それはまったく非戦略的で明快な勧誘の言葉であり、たいそう子供じみている。シフルが本当に父親の顔を立てる少年だったなら、だからどうした、と言うだろう。しかし、シフルは親にいわれるがままの少年ではなかった。父親の母校である市立学院を離れなかったのは、父親と対立してまで学校を移る必要を感じなかっただけのことである。そしてその必要は、老教師の言葉のうちに見いだされた。

 ――理学院には全国から秀才が集まってくるんだ。その中にはきっと、君『より』も頭のいい子や、君『より』も知識と教養にあふれた子がたくさんいるにちがいない。それなのに君は、今のまま、何の成長もなくていいのか。

 それで、本当にいいのかい? 単純ながら要点を押さえた口説き文句に、シフルは知らず引きこまれていた。

 決断は、迅速に下された。

(オレは今のままじゃ井の中の蛙なんだ。そんなのイヤだ)

 ――オレはもっとみんなに認めてもらいたい。大海の鯨になるんだ。そのために、オレ『より』できるやつと戦いにいく。オレは、――誰にも負けない!

 そう決めてからはもっと早かった。ビンガムと王都グレナディンは距離があったので、受験については父親を説得し、翌々日には汽車で王都へ向かった。その日のうちに採点された試験の結果は満点、特待生の資格を獲得するとビンガムにとんぼ返りし、父への反発心から召喚学部を選択したことで両親と言い争うことになった。

 結果、三日ほど軟禁されたが、ビンガムが休戦記念祭のにぎわいに包まれた日、シフルは汽車に乗りこんでグレナディンへの逃亡に成功する。車内で会った地元の人に理学院の近くまで送ってもらったあと、からくも学院に駆けこみ、シフルは父親の手から放たれた。

 そのおり、たまたま教官室で出会ったのがカリーナ・ボルジア助教授、Bクラスの担当教諭である。

 ――聞いたわ。家出したんですって? 満点入学でビンガム市長の坊ちゃん。

 あいさつもそこそこに、ばかにしたように言い放った彼女は、休戦記念日の祝いの酒に酔っていた。

 ――どうして、そうまでして召喚学部に入りたかったの。

 彼女の問いに、シフルは困惑した。女教師が酔っていることは百も承知だったけれど、質問自体はまったく正当である。

(前の学校の先生が……、ここにはオレよりできるやつがたくさんいるって言ったから、ここに来たくて……、それから)

 シフルは賢明な返答ができずに歯噛みした。それに、どんなにいいわけしたところで、シフルに召喚学部そのものへの関心がないことに変わりはないのだ。シフルはただ担任の勧めに従っただけ、井の中の蛙で終わりたくなかっただけ、父親に反抗したかっただけなのである。

(父と似たような人生は送りたくなかった。だから、人にいばり散らす立場になる階段の法学部ではなくて、どちらかといえば補佐する立場に――召喚士になるための階段である召喚学部を選んだ……のだと思います)

 あからさまなこじつけだった。自分でも、何を言いたいのかわからない。

(……本当は、よくわかりません)

 彼は結局、素直に本音を告げた。滑らかに嘘をつけるほど、小賢しくも器用でもない。(父のようになりたくない理由も、召喚学部を選んだのも)

 ふうん、とカリーナ助教授はつぶやいた。

(とにかく君は特待生ですから、親御さんの援助は不要です。君のいう召喚士の階段に踏みだせます。だけど)

 どんなに勉強ができても、精霊というものはわがままで、気に入った人間のところにしか来てくれません。そう簡単に得られる技能ではないのよ、いえ、そもそも技能といっていいのかも疑問だわ――。カリーナ助教授は、そうひとりごちるように言う。

(才能が必要なの。何よりも)

 カリーナ助教授のいわんとするところは理解できた。これまでは故郷で市長の息子として優遇され、ぬくぬくと暮らしてきた身だ。そんな人間が、父親に反抗するためだけに選ぶ学部として、召喚学部は適当ではない。

 精霊に選ばれなかった場合には挫折が待っている。精霊に愛される才能がなかったら、どんなに努力しても詮ない。よって、それ相応の覚悟が必要なのだ。気軽に選ぶべき学部ではないのである。

 しかし、シフルはそれで考えを改めたわけではなかった。助教授の発言には例の言葉が含まれていた――必要以上にシフルを鼓舞してしまう言葉が。

 シフルは強く言った。

(『より』って言葉を使われたら、オレは引き下がれません)

 とたんに、カリーナ助教授の顔が笑みに変わった。シフルはひどく面食らう。

(なるほど、君は単に負けずぎらいなのね)

 目が覚めた気がした。いわれてみれば、その言葉ほど今の自分に一致する表現はない。カリーナ・ボルジアは、目をぱちくりさせている少年を見て、優しく微笑んだ。どこか意地悪げでもある。

(じゃあ、新学期からこの学院の一員となる君に、先生が激励の言葉を)

 カリーナ助教授は立ちあがった。シフルは、急に彼女が自分を認めてくれたことを不思議に思いつつ、自分をみつめる眼を見返した。

(君は優秀な学生よ。前の学校でもぶっちぎりだったみたいだし、試験の結果もそうだけど、君自身そうした資質があるわ。きっとここでもトップクラスになれる)

 シフルは、カリーナ助教授の眼が、またも意地悪げにきらりと光るのを見た。

(けれど、しょせんトップクラスはトップクラス。『トップ』とはちがうわ)

 助教授の挑むようなまなざしと言葉に、シフルは負けじとにらみをきかせた。

(この名前を覚えておくことね。満点入学後、最短期間四か月でAクラスにあがった学生の名前)

 その学生は、いま理学院のなかで特に天才と名高いのだと、助教授は断言した。ふつう研究者というものは、自分の研究に勤しむほうに重点をおき、学生に対しては講義はしても関心はもたない傾向にあるというのに、こうして彼女が一人の学生に注目せざるをえないあたり、その学生の並々ならぬ実力がうかがえた。

 さらにカリーナ助教授いわく、その人物は初等学校さえない辺境の出身で、独学で満点入学を達成したという。しかも、ただ勉強ができるだけの学生なら、精霊召喚の実習が始まるBクラス以降は成績が振るわなくなるというのに、その人物は変わらず好成績を残しつづけた。その人物は、古参の学生たちを押し退けて上級クラスに入った。他の学生たちも、決して世間では凡才にはとどまらない優秀な学生たちなのに――理学院の外では秀才と誉れ高かった学生たちなのに、それでもその人物は彼らの追随を許さない。

 おまけにその人物は、教養科目全般や精霊召喚の実技のみならず、剣術や舞踊などにも優れ、多才ぶりを見せつける。その人物の存在から自信を喪失して理学院を去った学生たちも少なくない、とまでいう。

(すごい子よ。たぶん――君『より』も)

 と、とどめのひと言を付け加えたあとで、カリーナ・ボルジアはその名を口にした。

 

 

 ――その子、セージ・ロズウェル君というの。

 

 

(……それならオレは、セージ・ロズウェルには負けません。オレだって最短期間でのAクラス入りくらい、やってみせます)

 シフルはその場で宣言した。あとでいいわけできないように。死にもの狂いで努力できるように。

 それからは、その学生――《セージ・ロズウェル》を目標に据えて、走ってきた。

 

 

 ――大海の鯨になるために、負けてなんかいられない。

 試験勉強に疲れたとき、シフルはいつもそう自分に言い聞かせた。

 ――でも、どうしてオレは大海の鯨になりたいんだ?

 体調を崩しているときは弱気になるもので、そう自問したこともあった。

(みんなに認めてもらって一目おかれて、それに何の意味がある。そんなの、親父のやってることと変わらないじゃないか)

 ようやく元気になったあとで、シフルはこう答えを出す。

 ――それでも、何もしないで誰かに導かれるよりはいい!

 広場に飛びだし、太陽の光と冷たい風を身に受けて、思いきりからだを伸ばし、前にもうしろにも誰もいないことを思う。少しだけさみしくて、でも何より自由で、シフルは確かにどこかへと向かいつつある自分を、うれしく思うのだ。

 

 

  *  *  *

 

 

 広場のむこう、海に面した小高い丘の上にその場所はあった。

 石段を駆けのぼり、頂上にたどりつけば、そこは展望台である。崖の上に古びた大理石の手すりがあって、そこから前を見渡すと、目の前に一面ヤーモット海がひろがっていた。夕方を見計らって展望台に来たなら、それはみごとな日没と赤きヤーモット海を見ることができる。遠い昔、海を渡ってラシュトー大陸にやってきた今のプリエスカ人が、陸にあがってすぐのこの場所を開拓した理由がよくわかる。この場所ほど夕焼けの美しいところはない。少なくとも、シフルはそう思う。

 だからシフルは、暇さえあれば、趣味で嗜んでいる民族楽器ゼッツェを携え、展望台に来る。試験でストレスがたまっているとき、疲れたとき、ひとりになりたいとき、ここに来ればなんとかなった。

「うーん」

 シフルは肩をほぐした。二週間ほど机に向かいっぱなしだった少年のからだは、あちこちで小気味のいい音をたてた。ひととおりストレッチをすませると、ゼッツェをくわえる。ゼッツェはプリエスカの伝統的な木管楽器で、たて笛を太くしたようなかたちをしていた。優しい音色と安価で手を出しやすい点、習得の難易度が低い点でポピュラーな楽器である。

 シフルは軽く息を吹きこみ、楽器をあたためた。それから思いきり息を吸い、吐きだす。ポー、とやわらかな音が響きわたった。

 とたんに激しい頭痛に襲われて、シフルは頭を抱える。管楽器は練習を怠ると酸欠に陥るのだ。試験期間の一週間、準備期間の一週間、むろんゼッツェの練習どころではなかった。昇級試験は毎月実施されるので、練習できる期間がそもそも月に三週間弱しかないうえ、暇はおのずからできるものではなく、なんとか捻出するものだった。

 Aクラスに上がってもそれは変わらない。上のクラスをめざすことはなくなるが、今度は席を保つ努力をしなければならない。秀才揃いの理学院では、気を抜けば転落など一瞬である。いくら脱落は一度にひとクラスだけといっても、いったん落ちはじめると坂道を転がる玉に等しい。それで初級(エレメンタリー)クラスまで落ちてしまえば、あとには退学が控えている。

「がんばんなきゃなー」

 シフルはひとりごちた。《セージ・ロズウェル》という目標がなかったとしても、学院生である限りいつも綱渡りの状態なのだ。楽器に本気でかまけることなどできない。けれど、シフルはゼッツェの楽しみを知っている。

(さて、何か吹くか)

 シフルはゼッツェを持ちなおした。精霊讃歌、ロータシア民謡――プリエスカは古くはそういう名の国だった――、流行歌、古典音楽。ぱっと旋律が浮かんできたのは、精霊讃歌の第四番だった。精霊讃歌とは、プリエスカの国教たる通称「元素精霊教」のおしえに基づいた讃美歌である。四番といえば、礼拝から婚礼にいたるまで幅広くうたわれる、誰もが知っている歌だった。

 シフルは息を吸う。ゆっくりと吐く。確かな指で、音階を決める穴を押さえていく。そこから曲が流れだす。音楽があふれだす。万象の根源――火水風土の四大元素精霊を讃える、敬虔なる思念によって編みだされた音楽が。柔和で優美、どこか甘やかな音色が、夕焼けの理学院に響きわたる。

 空気がかすかに震えている。シフルは芸術畑の人間ではないし、ゼッツェの名手というわけではなかったが、その曲自体の起源を思えばそんなふうになるのも不思議ではない。また、シフル自身の生いたちにも理由があるのだが、そのときの彼はまだ知る由もなかった。

(気持ちいい――)

 シフルは恍惚とした。自分が紡ぐ音楽に、大気に浮遊する者たち――精霊――がこぞって反応し、空気を揺さぶっているのだから、むりもない。しかも彼は今、試験後のウキウキ感で満杯の状態だ。

(気晴らしは展望台に限るね)

 そう実感しているシフルは、試験週間を除き、ほぼ毎日同じ時間、暇をつくってはこの場所に通っている。というのは、理学院は全寮制のため、一日中同じような顔ぶれと顔をつきあわせていると、言いようのない閉塞感に襲われるのだ。

 それで、特に試験後の夕方などは、危うく我を失いかけて、乱心としかいいようのない行為をはたらく学生がときおり現れる。シフルも一度その並々ならぬ童顔ぶりから目をつけられるはめになり、頭のネジがゆるんだ学生たちの餌食となりかけたことがある。以来、そういった雰囲気の場はことごとく避け、なおかつ童顔を隠すためだけに本来は用のない眼鏡を着用している。

 そんなわけで、シフルが展望台にやってくるのは、いらだちの募った学生たちから避難するとともに、自分の鬱憤も発散しようという試みだった。その試みは、今のところ大いに成功をおさめている。何しろ、試験疲れを癒せるだけでなく、ここで新しい友人に出会うことができた。いや、正確には「出会って」はいないのだが、シフルは《彼》に対し一方的な友情を抱いている。

 ふいに、シフルの音楽に変化がおとずれた。

(今日も来たな)

 シフルの胸が弾む。(やっぱりゼッツェは二人以上で吹くものだよなっ)

 少年は、さらに意気揚々とゼッツェを吹き鳴らす。

 讃歌は基本的に二部合唱である――高声部と低声部でハーモニーを奏でる。そのとき、シフルのなぞっていた主旋律に、誰かが低声部を加えたのだった。ゼッツェの寂しげでさえある音色は、もはや二人分あわさって合奏のにぎやかさだった。

 すると、空気中の精霊たちはいっそうの喜びを示してくれる。周囲で光の粒がちらちらと点滅しては落ち、消えていった。とはいえ、当のシフルは演奏に夢中で、ちっとも気づいていない。

 精霊讃歌第四番は、あっという間に終わってしまった。シフルは、押し寄せる頭痛にめまいを覚えた。くっそう痛い。本当に、練習は怠けるものじゃない。手すりに寄って頭を垂れる。少し楽になった。

 が、思いだしたように少年は顔をあげる。振り返り、広場を見渡した。

 せわしなくあちこちを見まわしたが、探している人物は見当たらなかった。毎回毎回、彼が練習している最中に、どこからともなくゼッツェの音を乱入させる人物。たいていはシフルが高声部を担当しているため、かの人物はシフルとの合奏を楽しむかのように低声部に入ってくる。

 広場には、まばらに人がいた。移動中の教授や、何やら愛を語りあっている様子の男女、所在なく散歩している学生、じゃれあいはしゃぎまわる女学生。しかし、ゼッツェを携えた人物はみつからない。シフルは校舎の近くや窓の中まで注視したが、陰に入られたらみつけようがない。

 結局、みつけられなかった。

(誰だか知らないけど、どうせなら顔向かいあわせてやったほうが楽しいぞー?)

 シフルは悔しい気持ちでつぶやき、激痛のはしる頭を抱えて広場への階段を降りていった。まだ見ぬ友人の姿かたちを思い浮かべ、いつか《彼》と向かいあわせでゼッツェを吹く日を夢みながら。

 

 

 寮の自室に帰ると、シフルと入れ替わりでBクラスに入る学生が、荷物片手に待ちかまえていた。寮もクラス別であり、クラスが上がるにつれて生活レベルも上がっていくので、それもまた学生たちの原動力となる。

 シフルの荷物といえば、ゼッツェとごく少数の服、それにトランクだけだった。家出のさいは落ちついて準備する余裕がなかったため、余分なものは何もない。まさに赤貧洗うがごとしだ。教科書も、部屋ごとに配布されているものを使いまわすのが理学院の伝統である。

 シフルはほぼ身ひとつでBクラス寮を出て、Aクラス寮にむかった。といっても、Aクラスはわずか四十名しかいないので、Bクラス寮と同じ棟にある。

 階段を昇ってAクラス寮にやってくると、掲示板の貼紙で部屋番号を確認した。一緒に昇級したユリシーズ・ペレドゥイと同室である。見れば、Aクラスの紅二点――《セージ・ロズウェル》とやはり一緒に昇級したアマンダ・レパンズとが同室で、シフルたち二人の部屋の真上だった。女子寮男子寮の区別がないのも、理学院の伝統である。

 ドアの名札を確かめ、シフルは新しい自室に入った。いくらでも手足をのばすことのできるベッドや、涼しさを感じるまでに広々とした空間に、少年は目をみはる。広い。四メートル四方の二人部屋、Bクラス寮とは段ちがいだ。

(さすがはAだよなあ……)

 シフルは改めて喜びを噛みしめた。改めて感謝の思いがわいてきた。時の運、いわんや試験官たち、いわんや面接試験のときの火(サライ)に。

「さっきの火(サライ)――」

 両手合わせて七本、指を立てる。この指の数が召喚する精霊の階級にあたり、数が少ないほど階級が高い。階級が高いほど気位も高く、半端な召喚士では姿を現してはくれない。そしてBクラス通過の最低条件が、七級以上の精霊召喚である。ただし、精霊は属性によって性格に特徴があるとされ、火(サライ)は比較的呼びやすく土(ヴォーマ)は呼びにくいといわれているので、シフルの合格には時の運が大いに関わっていたといっていい。

「頼む。もう一回来てくれ」

 そう言って、手を振り下ろす。

 その仕種は単なる合図である。言葉も呪文の類いとは異なり、別段こだわらなくても問題はない。人によっては無言で召喚する者もいる。ただ、言葉にすることによって「その精霊を呼びだす」イメージがつかみやすくなるらしく、何らかの言葉とともに精霊を召喚するのが一般的である。中には、その言葉に惹かれてやってくる精霊もあったり、召喚士の容貌が好みなので現れる精霊もあったりして、精霊を召喚する方法には基準や決まりというものがない。個性の表れるところである。

 シフルの声に応えるようにして、周囲の空気が赤みを帯び、徐々に収縮していった。変化の中心で、小さく破裂音がする。現れたのは、ごくわずかな種火だった。シフルの目の前に、頼りなく浮かんでいる。

 彼女――一般に火(サライ)は女性とされる――が試験のさいに召喚した火(サライ)と同一の存在だという確証はなかったものの、少年はそのたゆとう存在にむかって微笑み、

「さっきはありがとな! 火(サライ)のおかげで、オレ、Aクラス通ったんだ! ほんと、ありがとう」

 と、心から礼をいった。

 すると、

〈あなたの役に立てて、私もうれしい……〉

 と、控えめな返事があった。

 遠いところからかすかに聞こえる声は、他のことに気をとられていれば聞き逃していたかもしれない。それでも、まちがいなく少年の感謝に対する反応だった。

 彼女はあの火(サライ)なのだ。大気に浮遊し、常に流動しているはずの精霊が、自分の近くにとどまっていた! シフルはうれしさに、頬を紅潮させる。

「うんッ! ありがとな!」

 小さな炎に、手をのばす。小さくても炎は炎、熱く実体がないので触れようがないけれど、シフルは両手で火(サライ)を包み、撫でるようにした。

 愛しい存在――。最初は、精霊そのものへの思い入れなんてなかったのに、今はとても愛しい。以前、話しかければ応えてくれることに気づいてからは、いっそうだった。彼らと一緒に生き、彼らの力を借りる仕事――精霊召喚士になりたい。そう思ったのは、つい最近のことなのだけれど。

 種火は消え失せた。シフルは手を振った。

 直後、ユリシーズ・ペレドゥイが扉を開けて部屋に入ってきた。

「おっす」

 シフルは新しいルームメイトに、にっと笑ってみせる。

「おーっす。ペレドゥイだよな? よろしく」

「ああ、よろしく頼む」

 ペレドゥイは人懐こい笑顔で、握手を求めてきた。シフルは彼の手を握り、ぶんぶんと振る。それでシフルの上機嫌がよく伝わったらしい、ペレドゥイが、何かいいことでもあったのか、と尋ねてきた。

「合格させてくれた火(サライ)を呼んで、お礼をいったんだ。そしたら、オレの役にたててうれしいって言ってくれた!」

 シフルは目を輝かせて説明する。

「へー、そんなことあるんだ。今度俺もやってみよっと」

 ペレドゥイは興味深そうにうなずいて、部屋を見渡した。「こりゃ、えらく広いなー。うっわ見ろよダナン、洗面所ついてるぜ! Bと待遇ちがいすぎ」

 ベッドを転がり、あちこちをのぞきこんで、そのたびにペレドゥイは歓声をあげた。シフルは相槌をうちながら、彼について部屋を見てまわる。

「うおー、いたれり尽くせり! 高級ホテルかよ、ここ! 召喚学部Aクラス卒業だと、元素精霊教会の首脳がボロボロいるからなー、今から優遇しとくってわけだ」

「なるほどね」

 首脳、といわれて父親への反抗心が沸きたったが、かの人物との勝負を思って気を落ちつかせる。

(この際、親父のことは忘れよう)

 シフルは自分を戒めるように決意する。(オレがいるのはここであって、親父のてのひらの上じゃない。親父のことなんか気にしてたら、ロズウェルにいつまでたっても追いつけない)

「さっき階段でレパンズさんみかけたよ」

 ペレドゥイが思いだしたように言った。「どうも、すぐ上の部屋らしい」

「ああ、そうだな」

 ――この板の上に《やつ》がいる。

 シフルは天井を見上げた。近い、とても。《やつ》の存在は、今となっては手に届く。

(待ってろよ。オレは、絶対負けない)

 シフルはまた、拳を握りしめた。

 

 

 翌朝、シフルとペレドゥイは揃って部屋を出た。

 新しい一か月のはじまりである。同じクラスに引き続き居座る者にも、下のクラスに降格してしまった者にも、上のクラスに昇格できた者にも。最上級たるAクラスへの昇級が叶い、気持ちが弾むのを止められないペレドゥイにもシフルにも、すべての理学院生に等しく、一か月後の昇級試験にむけて走る日々の、再三の訪れだった。

「あっ!」

 二人が階段に差しかかったとき、上から明るい声が降ってきた。「ダナン君! ペレドゥイ君! おはよー!」

 軽やかな足音とともに、少女が階段を駆け降りてくる。金の髪に水色の瞳の、二人と同じくAクラスに昇級したアマンダ・レパンズだ。

「おーっす」

「おはよ」

 三人はあいさつを交わす。昨日まではお互いしゃべったこともなかったのに、不思議と仲間意識が芽生えていて、自然に笑みがこぼれた。

「ダナン君って遠くから見てもひと目でわかるねー」

「あー、わかるわかる。女顔だし、小せえし」

「……」

 三人はそんな冗談さえ言いあい、笑いあった。同じように成功した仲間で、まだ一ヶ月も始まったばかり、劣等感も優越感もない今だからこそ、何の屈託もなく言葉を交わせる。

 ――今日からはお互い、仲間で、ライバルだ。

 でも、今しばらくは同じ意識をもつ、ただの仲間――。それだけのことが、シフルには妙にうれしかった。

「それにしても、やっと今日の日が来たって感じ?」

 レパンズは大きな瞳を輝かせて言う。「二年の下積みを経てようやく! トップ・オブ・理学院! Aクラス!」

「俺は三年だし」

 と、つぶやくはペレドゥイ。シフルは声には出さず、四か月だし、と付け加えた。今だけは、誰が先かなどということは忘れたかった。三人は談笑しながら廊下を進み、それぞれの思惑を胸に、行き交う学生たちの流れにまぎれて食堂へと歩き去った。

 寮の廊下には誰もいなくなった。こののち朝食の時間が終わるまで、廊下を行き交う者はほとんどいない。

 だから、《彼女》は現れた。

 最後の学生が食堂の扉を開けた瞬間、《彼女》は廊下に立った。その瞬間が来るまでは存在しなかったが、その瞬間がくるやいなやその姿はあった。

 濃青の髪の女――いや、女とも男ともつかない容貌である。どちらかといえば女に見える、そういう顔だった。長い髪と長い睫毛のせいで女のようだが、それにしては上背があり、異様さが漂う。

 奇妙なのは容姿だけではなかった。《彼女》のまわりは、どういうわけか景色が揺らいでいた――あたかも炎のそばのように。

「……そろそろ、ですか」

 女はつぶやいた。そして、次の瞬間には再び消え失せた。

​To be continued.

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