精 霊 呪 縛
第一部 プリエスカ・理学院編
第2話「好敵手」
「メルシフル・ダナン、ユリシーズ・ペレドゥイ、アマンダ・レパンズ。立って」
教壇からの呼びかけだった。昨日までBクラス生だった三人は、あわてて立ちあがる。
「この三名が新しくAクラスに入った。いろいろ教えてやってくれ」
教師は手で着席を促すと、おもむろに自己紹介を始めた。彼はAクラス担当教諭、アルフォンソ・ヤスル――若くして総合精霊学の博士号を獲得し、そのさい運よく募集があって理学院教授陣に名をつらねるようになった、新進気鋭の学者である。研究者としては他に類をみないほど若く、多少才ばしった感のある人物だ。目尻の鋭さにそれがありありと表れている。
「まずは君たち三人のために、簡単なイントロダクションをするとしよう」
その言葉で、Aクラスの初回授業が始まった。
シフルは落ちつきなく教室を見まわした。Aクラスの教室は座席数四十、すり鉢状の階段教室である。人数のわりに広々とした空間がとられ、特に教壇と学生席との間隔は広い。教壇は床から一段高くなっており、円形の縁に沿って拳大の猫目石が並べられている。召喚実習のためのもので、猫目石に精霊を降ろして結界を張り、その中で精霊を召喚する。Bクラス教室にもあることはあったが、広さが段ちがいだった。
そんな些細な差すら、シフルを改めて奮起させるには充分だった。少年は一言一句聞き逃すまいと、神経を張りつめる。
「Aクラスの学習のメインは、第一に六級以上の精霊召喚、第二に二元素精霊の同時召喚、第三に二属性以上の力の融合になる」
ヤスル教授は平坦な口調で説明した。「口で言ったところで、新入りの諸君には実感しがたいことと思う。今から実際にお見せしよう。そうだな……」
シフルは身を乗りだした。
「ロズウェル。前に出なさい」
「――はい」
予想外のタイミングでその名が現れたので、シフルは瞠目する。すぐうしろ――ヤスル教授に対して冷静な声を返したほうを振り向けば、確かに彼女がいた。遠目に何度か見た、かの人物――心の好敵手《セージ・ロズウェル》。黒い髪に黒い瞳、表情の乏しい顔。
呼ばれて、彼女は席を立った。椅子がわずかに音をたてた。
――ロズウェル……!
あまりにも近くにいるので、シフルは異和感さえ覚えた。四か月というのはそれなりの時間だ。その間、ずっと名前のみを聞いてきた、また遠くで見ていただけの人物が、今やすぐうしろにいるだなんて、不思議としかいいようのない感覚だった。
が、彼女はそんなシフルになど気づかない。当然である。おそらく彼女はシフルの存在を知らない。そう思うと、シフルはひどく悔しい気持ちになった。そしてもちろん、そんな彼の地団駄も《セージ・ロズウェル》には知る由もないのだ。
彼女は、教壇を目指してゆっくりと歩いていく。硬質な靴音が響いた。
見れば、教室中が固唾を呑んで彼女を目で追っている。シフルは息を呑んだ。《セージ・ロズウェル》が学生たちの畏敬の対象であることは聞いていたけれど、実際に目撃するとまたちがう。自分が好敵手とみなそうとしている相手が、世間にはいかなる存在なのか――単に一目おくにとどまらない、畏怖に近い感情の混じった視線が、彼女に集中している。
ロズウェルは、円形に並ぶ猫目石の中央に来た。それを見計らって、ヤスル教授が指示を出す。
「まずは水(アイン)の結界、四級」
「はい」
声は、高くも低くもなかった。どうも意図しておさえているようだが、よく通る声だ。
「水(アイン)の子らよ、力を貸して。猫目石に宿りて、汝が手でこの身を包め――何ものにも冒されぬよう」
ロズウェルがそう言うや、それまでただそこにあっただけの五つの猫目石が、薄青い光を帯びだした。光はゆらゆらと流れでて、彼女を取り囲む。
最初のうち実体のない光にすぎなかったそれは、やがて水らしい流れと揺らめきの様相を呈した。ドーム状の水壁をロズウェルのまわりに築きあげ、水音をたてて動きを止める。
そのとき立てられた彼女の指は四本。つまり、四級水(アイン)召喚に成功したことになる。なるほど、これでは固唾を呑んで見守らざるをえない。シフルも拳に力をこめ、手に汗を握っていた。四級精霊なんて、呼んだこともなければ見たこともない。Bクラスで扱うのは七級精霊までで、それ以上は実演もしてもらえなかった。
そして今、こうして目の当たりにした四級精霊の力は桁ちがいである。Aクラス昇級試験のおりシフルが呼びだした七級火(サライ)など、ほんの小さな種火で、かわいらしいほどだ。それに比べ、今ここにある四級水(アイン)の、なんとたくましく強大なことか。水(アイン)のドームは少女ひとりをすっぽり覆い隠せるばかりか、彼女の倍もの大きさでAクラスの学生たちを見おろしている。
――オレより強い精霊が、やつの力になる……!
シフルは、現時点でのロズウェルとの力量差に慄然とした。敵わない。今のままじゃ、到底勝てない。もしかしたらカリーナ助教授をはじめとする教授たちや学生たちがロズウェルを過大評価しているだけで、今のままの自分でも勝つことができるんじゃないかと高を括っていたけれど、そんなことはなかった。
でも、
――オレが、ずっと今のまま変わらないわけがないんだ。いつか、きっと追いつける。
シフルはそうして、はじめの衝撃から立ち直った。
しかし、衝撃はそれだけでは終わらなかった。ヤスル教授は指示を出しつづけている。
「続いて火(サライ)六級、融合させるのは風(シータ)六級」
「はい」
ロズウェルはうなずき、左右合わせて六本の指を立てた。
「おいでなさい、火(サライ)の子ら――」
彼女が手をさしだすと、その前方で炎が起こった。彼女をも呑みこみかねない、巨大かつ激しい炎である。だが、召喚された精霊は召喚士を決して傷つけないという原則のもと、彼女の制服や髪は燃えることなく、むしろまったく無事なのが傍目で見ていて不気味だった。水(アイン)のドームのなかにごうごうと火炎があがり、その渦中に彼女が平然と立っているのだ。
さらに、彼女は呼びかけた。
「そして風(シータ)――我がため、火(サライ)にその力を注げ」
何らかの反応が起きる前に、学生たちのほうが歓声をあげた。いや、どちらかというと嘆声かもしれない。
そのとき、最初に召喚された火炎が目にみえて膨張した――しかし、膨張した、と認識するよりはやく、けたたましい音をたてて爆発した。結界のなかにいる召喚士はといえば、その衝撃を単なる突風として受けている。彼女の髪や服が風になびき、やがておさまった。
ところが、すぐそばで爆発を受けている召喚士が何ごともないというのに、結界の外には尋常でない影響があった。爆発した瞬間、地の振動は結界をやすやすと通過してシフルたちAクラス生へと伝わり、地面は揺れ、空気に震えがはしった。
シフルは総毛立って、呼吸もできなかった。ただ、穴もあくほどに彼女を――《セージ・ロズウェル》をみつめていた。
(すごい……)
それから、素直に彼女を讃えた。(これが融合した六級精霊の力。やつの……力か)
敗北感も覚えることができなかった。彼女の力は絶大だった。
周囲の学生たちも、ロズウェルの実演がすむと、堰を切ったように感嘆の声をあげる。
「スゲェ……!」
「さすがは《鏡の女》」
「ヤスル教授の技から精神まで、すべてイミテートしやがった!」
学生たちの興奮は止まらない。讃辞、驚嘆――
「まだ今年に入って二、三度しか、五級以上の精霊召喚なんて見せてもらってないのに!」
「やっぱロズウェルは別格だよなァ」
――それに、明白な諦め。……
ロズウェルが水(アイン)に礼をいうと、ドームは頂上から溶けていった。水壁を介さない彼女の姿が徐々に現れた。相変わらずの無表情で。
が、
「今は休戦中だけど、いずれまたラージャスタンとの戦争が始まれば、やつはプリエスカの最高の兵器になるよ」
学生の一人が何気なくそう言ったとき、ロズウェルの表情が変わった。その急激な変化に、シフルは反射的に緊張する。
ロズウェルは、声のしたほうをまっすぐに指さした。とたんに教室の空気が張りつめ、波紋のように静寂がひろがった。
「私は、人を殺すためには精霊を呼ばない」
静かな声だった。それで充分だった――彼女が怒りを表すには。教室は、呼吸の音さえ聞こえかねない静けさに包まれていた。
「冗談でも、私の力を戦争と結びつけるな」
凛とした黒い瞳が、学生の一人を刺し抜く。「私は――」
「ロズウェル!」
ヤスル教授がロズウェルの発言を遮り、彼女の腕を下ろさせた。「戯れ言だ。そう気を悪くするな」
ロズウェルは、教授、ですが、と言いかける。
「彼らは純粋に君の力量を讃えているだけだ。さあ、よくできたな。席に着いてよろしい」
「……はい」
教授に諭され、ロズウェルは小さく頭を下げる。こつこつと靴音をたてて、大人しく席に戻っていった。
「さて、新入り諸君」
教授は気を取り直してイントロダクションを締めくくる。「いま見たものは、君たちにもいずれやってもらうことになる。といっても、現在のAクラス生で、融合を実践できるのはほんの若干名……、三人の力に期待している」
それでは講義を始める、と教授は告げた。
けれど、教室のざわめきは当分やみそうにない。
(Aクラスの連中すら相手にならない力、理知的な振るまい――やつは、やっと会えたオレの好敵手だ!)
一部始終を眺めていたシフルは、やはり一方的にそんなことを思い、顔をにやつかせた。目標とする相手は、手が届かなければ届かないほどいい。追いつくころには、自分も強大な力を得られているはずだから。とらぬ狸の皮算用というものだが、無類の前向き思考は少年の性だった。
すると、
「『人を殺すためには精霊を呼ばない』? よく言うよな、まったく」
シフルの隣の机で、そんな中傷めいた言がささやかれた。少年は耳をそばだてた。
「オレの友達、あいつの水(アイン)に殺されそうになったんだぜ?」
「え、それ、本当かよ?」
それを耳にした周囲はどよめく。「なんでだよ。怒らせたんか?」
「それが……そいつ、そのとき退学させられたから、詳しくはわかんねーんだけどよ」
最後はそうして言葉を濁し、彼らはおさまった。『上級精霊理論』十ページを開いて、というヤスル教授の声により、教室はようやく静まった。
シフルは教科書をめくりながら、ひとり先ほどの言葉を反芻する。
(私は人を殺すためには精霊を呼ばない)
(冗談でも、私の力を戦争と結びつけるな)
彼女の激しい怒りと、
――あいつの水(アイン)に殺されそうになったんだぜ。
彼女への中傷――。
それが嘘か真実かは、知らないけれど。
正午の鐘が鳴っている。ヤスル教授はきりのいいところまで話すと、授業を切りあげた。
学生たちはいっせいにからだをほぐしはじめる。シフルも立ちあがり、ペレドゥイと連れだって教室を出た。廊下に踏みだしたところで、うしろから肩を叩かれ、二人は振り返る。
アマンダ・レパンズだ。相変わらず明るい空気を周囲に発散している。さらには、彼女がシフルとペレドゥイにむかって微笑んでみせたので、半径一メートル以内の雰囲気がいっそう晴れやかになった。
「ダナン君ペレドゥイ君、お昼一緒に食べよ! ねっ」
「おう!」
ペレドゥイは我先にと返事をした。
「あー……、じゃあさ――」
シフルはうなずいてから、そう言いかけた。同時にレパンズも、
「ねえ、それじゃあ――」
と言いかけ、
「ロズウェルも誘っていい?」
「ロズウェルさんも誘っていい?」
と、同じタイミングで提案した。二人は目を見あわせて、一緒になってぱちぱちとまたたく。それから、二人して笑った。
ペレドゥイは苦笑する。
「気が合うなおまえら」
「だってー」
いいわけをしたのはレパンズだ。「女の子二人しかいないんだから、仲よくしたいじゃない。ダナン君は?」
うーん、と一瞬考えてから、シフルは答えた。
「とりあえず話がしたいんだ」
「えー、なに? 何の話?」
「そりゃもう、宣戦布告」
こちらは即答だった。人さし指をびしっと立てて二人の目の前に示し、にやりと笑う。
「何それー?」
「何だそりゃ」
今度はレパンズとペレドゥイが同調した。シフルは鼻息を荒くして、
「そのまんま。オレはおまえには負けないぞ、というあの宣戦布告だよ」
二人はわけがわからないという顔をしつつも、おかしげに笑い声をたてた。
三人は、ようやく授業から解放された、明るいざわめきのある廊下を歩いていった。まずは昼食を受けとりに行かねばならない。理学院の食事は基本的に三食指定されているが、朝晩は寮の食堂で食事をとることが義務づけられ、昼は配給される食事を学内の好きな場所で食べていい。昼休みが始まったばかりの今、学生の人波は学内数ヶ所に点在する配給所へと流れていた。
「――あ」
むこうからロズウェルがやってくるのが見えた。単独で、やはり無表情である。すでに昼食をもらってきたとみえて、手には布の手提げ袋があった。昼食袋を受けとった学生たちの流れにのって、こちらに向かっている。シフルはタイミングを見計らって声をかけた。
「おーいロズ――」
「ロズウェルさん!」
シフルの声は野太い声によって遮られ、彼女には届かなかった。シフルは舌うちする。そればかりか、「昼食もらった組」の流れと、「これからもらう組」の流れによって、このまますれちがってしまいそうだった。仕方なくシフルは「もらった組」の流れに入りこみ、彼女を追いかける。ペレドゥイとレパンズも続いた。
シフルの声を阻んだのは、下品な印象の学生たちだった。どうも彼らは、ロズウェルに昼食の誘いをしているようである。複数名で彼女を取り囲み、揃いも揃って軽薄な口調でロズウェルに話しかけていた。
「うわあスゴーイ、ナンパされてる! 美人だもんねえー」
レパンズは感心している。確かに、彼女を容姿で分類するなら美人の部類だろう。顔もスタイルも適度に整っているし、黒目がちな瞳が魅力的だ。が、そこは天下の《セージ・ロズウェル》である。美人か否かという問題以前に、彼女を相手にするとどうしても劣等感を抱かざるをえないことから、それなりに高いクラスに所属するそれなりのプライドの持ち主ならば、ロズウェルに誘いかけなどしない。シフルは以前、同級生にそう聞いたことがある。
「毎日毎日、よく懲りないな」
彼女は例のごとくの無表情ながら、隠すことなく呆れ返っていた。「……私はひとりで食べるから」
予想どおりロズウェルは拒絶し、足早に歩き去った。人波を抜けて、廊下の角を曲がっていく。三人もまた、ロズウェルのあとについて流れから外れた。
「じゃっ、誘ってくるね!」
レパンズは走りだす。シフルとペレドゥイは、ひとりで食べたいとはっきり言っているのだから、これ以上誘ったところでどうにかなるものでもないという気がたいそうしていたが、二人に呼び止められるより早くレパンズは口を開いていた。
「ロズウェルさーん!」
うきうきと、孤高の人・ロズウェルに呼びかける。残されたシフルとペレドゥイは、曖昧に笑って顔を見あわせた。……レパンズさんって新鮮なやつ。……だね。と、そんなやりとりをしつつ、二人はレパンズが懸命に誘うのを遠巻きに眺めていた。ロズウェルは一応申しわけなさそうに、悪いけどひとりで食べたいから、と断る。とはいえ、やはり表情に変化はない。
「あいつって怒るしか表情ないのかね? 女相手でもあの断りかた、貼りついたような顔に変化なし!」
呆れたようにペレドゥイが言う。シフルは彼女が表情に乏しいことなどさして興味もなかったので、
「学院の校風合わないんじゃねえの」
と、おざなりに返す。でもフツーもう少し笑ってもいいじゃん、とペレドゥイは不満そうだ。どうも彼は、さっそくレパンズのことが気に入ったらしい。当のレパンズは、まったくしょげた様子など見せずに帰ってきた。
「ちえーっ振られちゃった! むー、残念」
「結果がわかってても挑むレパンズさんってすごいね……」
呆れつつ感心したような感想を述べたのはペレドゥイだったが、シフルもまた彼女の明るさには感動さえ覚えていた。かわいいというのは、こういう子のことをいうんだろう。
「うーん、仕方ない」
ともにランチという何気ない状況がつくれないならば……と、シフルはひとりごちる。「話、今してくるよ。先行ってて」
「あ、ダナン君っ」
シフルは急いでロズウェルを追った。彼女は早足で歩いている。もたもたしていると見失いかねない。機会を逃しかねない。
(話してどうなるってもんでもないだろうけど)
シフルは駆け足でロズウェルをめざす。(一応、存在ぐらいは覚えといてもらう)
「おい、セージ・ロズウェル!」
と、彼女の背中に呼びかけた。
すると、ロズウェルが振り返る――黒目がちの瞳が、まっすぐにシフルをにらんでくる。シフルはそのとき、彼女がいま自分と同じ場所にいることに喜びを感じながら、
「……あっと、ロズウェル、さん」
と、遅れて訂正した。
彼女の口が、開かれる。
「何か用、メルシフル・ダナン。昼食のことならレパンズに断ったけど」
(名前、覚えられてら)
考えてみれば、今月Aクラスに新しく入ったのは若干三名、それは当たり前でごく些細なことなのかもしれないけれど、シフルはうれしくて気が変になりそうだった。彼女の世界に自分がいる。自分の世界に彼女がいるように。
「あー、ちがうちがう。レパンズさんたち関係なくって、ごく個人的な用」
しかし、そんなことはつゆ悟らせず、シフルは冷静に返した。
「ああ、そう。とにかく早くして、さっさと昼すませたいから」
「うん……、悪いな」
(えーっと、どこから言うべきか)
シフルは少々ためらった。天才などと吹きこまれ、勝手に目標に仕立てていた人物をじっさい目の前にすると、どうしたらいいのかわからない。バカだと思われるのは絶対いやなのに、いい言葉が浮かばない。カリーナ先生に最初会ったときもそうだ、うまいこと言って流そうと思ったのに、うまいことなんて何ひとつ言えなくて歯噛みした。
(まあいいや、どう思われても)
シフルは開き直る。それでもまだバカとだけは思われたくないと、ためらいがちに話しはじめた。
「えっと……、オレって生来の負けずぎらいなんだけど」
なんてひどい直球だ。こちらをまたたきもせずに見ているロズウェルの視線が痛い。呆れられるだろうか。とんだまぬけが現れたものだと。
シフルは語りだす。親との対立、自分の性(さが)、カリーナ助教授との初対面のこと。ずいぶんとばか正直に話してしまい、説明を終えたときには恥ずかしさのあまり赤面した。
「ってわけで! あんたは四か月間オレにとって目標だった。でも、やっと同じところに立てたから、今度は好敵手! として見る」
二十分も続いたにもかかわらず、ロズウェルが黙って聴いてくれたのが救いだった。
「だから、あんたも一応オレのこと意識してくれよ。召喚士の卵として」
シフルは話を締めくくる。「――以上! 長くなってごめん」
申しわけなさに頭を下げると、ロズウェルはやっと姿勢を崩した。表情にかすかな笑みが浮かぶ。どことなく高慢な笑みではあったが、怒り以外で初めて見た表情だった。
「いや、かまわない。誰かが自分を目標に努力してるなんて、すごくうれしいことだ」
セージ・ロズウェルはいう。なんだ、思ったより普通じゃないか――と、一瞬シフルは思った。が、その判断が誤りであることを、少年はその場で痛感するはめになる。
セージ・ロズウェルは、さらに宣告したのだ。
「だけど、私に勝てる日がくるとは思わないほうがいいよ」
と――。
黒い瞳には確固たる自信の光、口もとには不敵な笑み。
「それでもよければ、おまえの勇気に敬意を表して、おまえを私の《好敵手》と認めよう」
こうして、ふたり――というよりむしろシフルの――戦いの日々が始まった。
(前言撤回だ)
シフルは模擬剣をかまえた。(全然、普通じゃない。あいつは普通じゃない。傲岸不遜にもほどがある……!)
「はじめ!」
剣術の教師が合図すると同時に、少年は踏みだした。
刃のない授業用の模擬剣を持って、彼に対するはペレドゥイ。先刻の一件いらい少年の目がすわっているので、人のいい彼はすっかり怖じ気づいていた。シフルの踏みこみに、ペレドゥイはとっさに一歩退き、突きだされた剣を自分の剣で受ける。
「なあ、ダナン、悪いことは言わないから、あいつライバル視するのはやめとけよ」
黙々と攻撃を繰りだすシフル、防戦一方で説得を試みるペレドゥイ。たかだか体育の授業だというのに、彼ら二人の周囲だけが不穏な空気を帯びている。
「俺、Aにあがったのは初めてだけど、学院生活長いからいろんな話聞いてるんだよ。これまであいつに挑戦したのはダナンだけじゃない……うあッ、手かげんしてくれよ、おい?」
情け容赦ない一撃が、ペレドゥイの腕をかすめる。が、ペレドゥイは器用にかわし、そのまま反対の胴を狙ってきた攻撃者の剣をも跳ね返した。先ほどから頭に血がのぼっているシフルの太刀筋は非常に明快で、逃げ腰のペレドゥイでも受け流すことができた。
「あいつ負かそうとして、何人も退学してる。自信失くしちまうって話」
「知ってるよ、そんなの」
昏い眼のシフルが答えた。「それよりも、だ。あれはまちがいなくオレへの挑戦、そうだよな? ――よし、来い、ロズウェル! 受けてたってやるッ!」
シフルは怒鳴り、模擬剣を力いっぱい目の前のペレドゥイに振り下ろす。
「うわーッ、ちょっ待てっ、ダナン!」
突如生じた対立の火の粉を浴びるはめになり、ペレドゥイは悲痛な声をあげた。
が、今にも打ちすえられようとしたそのとき、カン、という音とともに、シフルの模擬剣が体育室の中央へ飛んでいった。予想外の横槍に、九死に一生を得たペレドゥイも、目を覚まされたシフルも、呆然とその人物をみつめる。
セージ・ロズウェルの姿がそこにあった。
「見苦しいな。メルシフル・ダナン」
――ここで会ったが百年め!
「勝負だ! セージ・ロズウェル」
シフルは、ペレドゥイと自分とのあいだに立った人物、他でもない元凶――ロズウェルにむかって言い放った。彼女は学院指定の体操着を身に着け、木製の模擬剣を片手にさっそうとたたずんでいる。
「それでダナンの気がすむのなら」
「すまないね!」
シフルは即答した。「オレはあんたを追ってAクラスに入った。この数ヶ月、全部そのために費したんだ。それが、たった一回の試合で終わりだなんて、絶対許さない」
昼休みの初対面の際、歯に衣着せることなくずけずけと言われただけに、シフルのほうも遠慮しない。
「毎日、毎時間がすべて勝負だ」
「なんとまあ、あつかましい要求だな」
彼女は漆黒の瞳をさもおかしげに細める。「頼むから、期待を裏切らないでくれよ。満点入学、最短期間のAクラス入り、ビンガム市長のお坊ちゃんの……メルシフル・ダナン」
ロズウェルのひと言に、それぞれ剣試合を行っていた学生たちがいっせいに振り返った。複雑な感情が、新入りの少年に注がれる。満点入学だけでも学院史上そうないというのに、それ以上に価値のある最短期間でのAクラス入りと、切れ者政治家の息子という身分まで揃っているのだ。
「親父は関係ない」
シフルは吐き捨てた。前者ふたつの話が知れ渡るのは時間の問題だったから、かまわない。だが、その点に関しては聞き流せなかった。
「そうかな。ダナンにとってどうであれ、他はそうもいかないだろう」
ロズウェルはそれだけつぶやくと、おもむろに模擬剣をかまえる。
シフルもかまえの姿勢をとったが、釈然としなかった。いくら父がビンガム市の市長で、休戦協定以前の緊張時代の活躍から根強い人気があるといっても、自分にはまるっきり無関係だ。だいたい、召喚学部への進学は父の意向に反している。
「最初の勝負だ。セージ・ロズウェル」
今の言葉、訂正させてやる――。シフルは自らが研ぎ澄まされていくのを感じた。徐々に頭が冴えていく。こういう状態で試験に臨んだとき、シフルは失敗を知らない。
「お、おい、ふたりとも」
場から弾きだされたペレドゥイが、おろおろと制止する。が、止めようとしているのは彼ひとりだ。他の同級生たちはみな、腕を組んだり少し離れたところに座ったりと見物を決めこむつもりで、手だしする気は毛頭ないらしい。シフルは教師の所在を確認すべく体育室を見渡した。幸い、たまたま席を外している。
「ダナン君、ロズウェルさん、がんばってー!」
レパンズが華やいだ声をあげた。シフルはびしっと親指を立てて、意気ごみを表明する。
「ペレドゥイ、悪い、合図を頼む」
「わかったよ。ロズウェルも、本当にいいんだな?」
ペレドゥイが嘆息気味に引き受けると、彼女もうなずいた。「じゃ、これが落ちたら試合開始ってことで」
ペレドゥイは模擬剣を片手に掲げ、両者に示す。ふたりの視線が集まるのを待って、手を離した。
シフルには、その動きがたいそう遅く見えた――それが地に落ちる瞬間まで。その瞬間のくる前に、シフルはロズウェルに向き直り、剣を持つ手に力をこめた。
乾いた音が体育室に響きわたる。
シフルは踏みだした。
ロズウェルは動かない。受け身の体勢を保ったまま、勝ちにいくつもりか。
――ばかにしてる。
「真剣にやれよ!」
シフルは激しく打ちこんだ。ロズウェルはさも当然のようにその一撃を受け流す。
「真剣になるには理由が要る」
さらにシフルは模擬剣を振るったが、ロズウェルは余裕の体でかわしてしまう。「わかるな?」
「こっちに相応の実力が要るっていうんだろ!」
「そうだ」
言うがはやいか、彼女は剣を斜めに一閃させた。防御はすんでのところで間に合ったが、鋭く力強い一打によって、剣を握るシフルのてのひらに痺れがはしった。
思うように柄を握れずやきもきしている隙に、ロズウェルはもう駆けだしている。
「ダナン君!」
レパンズが観衆のなかから警告した。ロズウェルの攻撃がくる、それはいやというほどわかっていたが、受けようにも指が笑っている。そうだ、避ければいいんじゃないか――ようやくそう判断して急いで顔をあげたとき、すでに勝負はついていた。
頭に軽く触れてくる、冷たいもの。シフルは最初、それがいったい何なのか、理解することができなかった。
「勝者ロズウェル、だな」
同級生の一人があっさりと宣言する。とたんに学生一同は大いに息をつき、好き勝手に感想を述べはじめた。
「なんだ、真正面から勝負挑むくらいだから、自信あるのかと思ったよ。とんだ期待外れだな」
「まったく。これじゃ、恥かくためにやったとしか」
「息子がこれじゃあ、リシュリュー・ダナンも気の毒にな」
父親の名前が挙がったのには、シフルも思わず頬を熱くした。彼とて、こんな簡単に片がついてしまうとは想像していなかったのだ。試験前のような研ぎ澄まされた緊張状態を獲得した以上、ロズウェルが剣術をも得意とするとしても、勝つことだって不可能だとは思わなかった。少なくとも、今まではそうだった。
(あいつは今までの相手とはちがうってことだ)
シフルはうつむき、自分に向けられた嘲りをやりすごした。人前での勝負にこういう屈辱はつきものだ。しかし、満点入学と最短期間でのAクラス入りに加え、リシュリュー・ダナンの息子としても知られるシフルに対するそれは、思っていたよりもずっと厳しかった。もしもシフルがそういった条件を備えていなければ、今ごろ彼らはよってたかって敗者たる少年を励ましたろうに。
前者ふたつは悪くないことだから、妬まれても何ということはない。けれど、
(親父の息子ってのは、そんなにえらいことか)
と、シフルは思う。いっそこの場でリシュリュー・ダナンの家庭生活でも暴露してやろうか。あるいは華麗なる女性遍歴でも。
(そうしたら、どうなるかな。今度は、それなら息子が弱くても納得、とか言われるか)
シフルはだんまりを決めこんだ。するとロズウェルが、特に勝利を喜ぶそぶりもせず、無表情に剣を下ろした。
「ダナンは運動が得意ではなさそうだな」
「ああ、そうだよ」
シフルは正直に答えた。「運動はからきしだね」
「はあ? じゃ、なんで剣術なんかで勝負申しこむんだよ」
ペレドゥイが当然の疑問を唱えた。周囲の学生たちはといえば、すでにシフルから興味を失い、各々の試合に戻りつつある。シフルはまわりを見て、顔見知りのほか、彼自身に関心を抱いているらしい様子の若干名が残ったのを確認すると、ペレドゥイにむかって肩をすくめてみせた。
そして、
「そりゃ、勝負の機会を逃す手はないだろ? それが何であれ」
と、あっけらかんと言う。
これにはペレドゥイもレパンズも、残った数少ない学生も、呆気にとられるしかなかった。勝つ見込みのない勝負など、持ちかけるものではない。勝負とは、勝てる算段があるからこそ持ちかけるもの。ところが目の前の新入りは、そういった鉄則を無視している。勝者の階段をひた走ってきたエリート集団にとって、シフルのとった行動はにわかには信じがたいものだった。
「だってほら、十に一ぐらいは勝つ可能性もあるじゃんか。なあ、ペレドゥイ」
「そりゃ、まあ……」
ペレドゥイは言葉を濁す。十に一の勝利では、十に九は敗れ去らなければならないではないか。九回負けているうちに身も心もボロ布になりかねない。そうなったら、もはや勝負どころではない。
「ま、がんばれよ」
大人びた雰囲気の学生が、シフルの肩を軽く叩いた。「ダナンががんばって、『ロズウェル体制』に風穴を空けてくれることを願ってる」
「おまえって、おもしろいヤツだなあ」
続いてちぢれた赤毛の少年が、シフルの頭をぐりぐりと撫でていく。先ほど審判の真似をして、シフルの負けを宣言した学生だった。「それになんかカワイイしな。小さいねー、ダナン君」
「やめろよ、誰だよあんた」
その学生は、身長と顔を指摘されて不機嫌になったシフルににんまりと笑ってみせ、さらに彼の神経を逆撫でしようとしているのか、模擬剣で自分の首を切る真似をした。シフルがあからさまに不快げな顔になったので、大人っぽい学生のほうがその学生を小突く。それから、二人揃って歩き去った。
最後に残った学生は、シフルと目が合うとあでやかに微笑んだ。Aクラスにはロズウェルとレパンズしか女子が在籍しておらず、むろんその学生も男子なのだが、あでやか、という形容に相応しい顔かたちをしている。
それに、瞳が金色だ。まるで猫のような。
「あのバカと同じことを言うのはうれしくないけれど、本当、君はおもしろいね」
人間離れした美しい顔で、地の底から響く低い声で、少年はささやく。「もっとも、おもしろくなるかどうかわかるのはこれからだけど」
「どういう意味だよ」
シフルが聞き返すと、彼は眉ひとつ動かさずに答える。
「君が精霊に愛される人間かどうか、ということだよ。いくらおもしろいからといって、無能な人間は相手にできないな」
言い切って、少年もシフルを離れていった。
シフルは目をみひらく。彼の言葉を反復した。
――オレが、精霊に愛される人間かどうか。……
「才能ある人間は、才能ある人間を見いだせる」
かたわらで、ロズウェルがつぶやいた。
「本当に私をうち負かすつもりなら、まず今の三人を追い抜くことだよ。三人の名前は、エルン・カウニッツ、ニカ・メイシュナー、それに」
最後の一人を、彼女はとりわけ強調した。「――ルッツ・ドロテーア」
さりげなく褒められたような気がしつつも、そのときのシフルの脳裏には金の瞳をもつ少年の言葉がめぐっており、聞き流してしまった。
(オレは精霊に愛される人間なのか、あるいはそうでないのか)
すでに、セージ・ロズウェルとの最初の勝負に惨敗を喫したことも忘却の彼方である。成績が優秀であるにもかかわらず、シフルの頭はひとつの事項しか許容できない単純構造なのだった。
(もしも愛されなかったら――)
少年は、挫折した己の姿を思い描いてみる。
精霊召喚の才がないとわかれば、きっとビンガムへ帰らねばならなくなるだろう。精霊召喚学に携わる者は、召喚士だろうが教会の司祭だろうが、はたまた机上での研究に終始しそうな学者でさえも、精霊召喚の才能に恵まれているべきなのだ。何といっても理学院関係者には、前のプリエスカ・ラージャスタン戦争時に並々ならぬ活躍ぶりを示した功績がある。
よって、才能がなければ召喚学部に所属する意味はない。かといって、今さら父の意向に従って法学部に転部するつもりもない。まして、父のもとには帰るのはまっぴらごめんだ。
――負けられないことが、たくさんある。
シフルは拳を握りこんだ。
*
《彼女》は待っていた。
海辺特有の塩からい風が吹きつける。《彼女》の長い髪が、風に弄ばれてうねった。が、《彼女》は身じろぎもしなかった。濃青の髪がその視界を埋め尽くしても、《彼女》のまなざしはただ一点のみに向けられている。
階段――、およそ七百年前の学院創設以来、学業に勤しむ学生たちの憩いの場となりつづけている広場から、海辺の展望台へと至る階段。この場所を訪れる者はみな、そこを通らねばならない。《彼》とて例外ではなかった。《彼》は週に五回ほど展望台にやってくる。今はまだ新しい一ヶ月が始まったばかりだから、今日もおそらく来るだろう。
「待ちかねましたね」
《彼女》は誰もいない空間に語りかけた。「いよいよです。見ているだけというのは、つらいことなのですね。俺もひとつ学びましたよ」
もっとも、それは何者かに強制されたのではなく、《彼女》らが自らの意志で課した掟だったのだけれど、よもや破る日がこようとは思わなかった。彼らは必要以上に我慢強くなりすぎていたし、何よりも《彼》の安穏な生活をすすんで壊すことなど考えられなかったのだ。――《彼》が、よりにもよって理学院召喚学部への編入を決めるまでは。
「血は争えないのですね」
《彼女》はつぶやき、静かに目を閉じた。耳もとで海風がうなりをあげている。しばらくのあいだ風に身を委ねていたが、やがて、長い睫毛に縁どられたまぶたをあげた。
「メルシフル」
《彼女》は、階段を昇ってくる人物に目をやった。「メルシフル・ダナン――」
その人物は、《彼女》を見て明らかに驚いていた。大きな瞳をさらに大きくして、《彼女》の姿に見入っている。
銀の髪、灰青の瞳、縁なし眼鏡、理学院召喚学部Aクラス生の校冠。まちがいない。《彼》だ。
――いや、まちがいようがない。この顔。いつも見守ってきた少年、あの人によく似た子供。
《彼女》は《彼》につかつかと歩み寄る。《彼》がとっさに退いたのにも、頓着しなかった。
「あんた、誰?」
少年はいぶかしげに尋ねてきた。「なんでオレの名前知ってんだよ。……あんた、まさか、親父の――? どうしてこんなとこまで入りこんでる? 学院内はいかなる外部の干渉も受けないはずだ。あんたは不法侵入になる。それでも力づくでオレをビンガムに連れ戻すっていうなら、しかるべき対応をさせてもらうぜ? 学院が相手じゃ、さしもの親父も勝ち目なんかない」
《彼》の言葉が徐々に攻撃的になっていく。しかも流れるようにしゃべるので、なかなか口をはさめない。
「さあ、どうする?」
ようやく、《彼》は《彼女》に答えを求めてきた。
「勘ちがいするな」
《彼女》は淡々と言った。「俺はリシュリュー・ダナンとは何の関係もない」
《彼女》の返事に、《彼》はあからさまに安堵していた。むりもない。メルシフルは長いあいだ父親に束縛されてきた。はっきりそうと知ったのは理学院入学を志してからだろうが、それまでにもある程度の閉塞感は覚えていたはずだ。現に、幼い日の《彼》がそれらしいことをつぶやいていたのを、《彼女》は記憶している。
「じゃあ、誰なんだよ」
続いてメルシフルは、同じ問いをもう一度した。
《彼女》はまっすぐに少年を見て、そして告げる。
「俺は、おまえの母親の使いとしてやってきた者」
少年の灰青の眼がみひらかれた。「おまえが望むならば、おまえに力を貸してやる。途方もなく強大な力、誰にも負けない力を――」
風が、二人のあいだを駆け抜けていった。しきりに揺れる《彼》の銀の髪は、夕日の朱に染まっている。
――あの人がここにいても、きっと同じように赤くなるだろう。
と、《彼女》は思った。赤く輝く太陽に照らされたあの人の髪は、どんなに美しいことか。
「……もうすぐです」
《彼女》はメルシフルに聞こえないよう、ささやいた。かすかな声はうなる潮風に呑みこまれて消え、困惑に彩られた少年の耳に届くことはなかった。
To be continued.