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​精 霊

第一部 プリエスカ・理学院編

第5話「動きだすとき」(2)

 寮の自室の前に立つと、中に灯りがついている。ユリスはすでに帰っているらしい。それもそのはず、図書館で調べものをしているうちに時間は飛ぶように過ぎていったとみえ、日はとっぷりと暮れていた。

「ただいま」

 シフルはそっと扉を開ける。

「ん」

 ユリスは勉強机に向かっており、こちらを見なかった。先日から、シフルとユリスとアマンダのあいだにはぎくしゃくした空気が流れている。ユリスとアマンダはそれでも行動をともにしているようだったが、シフルの自惚れか、あまり楽しそうではなかった。

 シフルはキリィの一件以降、自分のことで精いっぱいだった。自分の才能のこと、今後のことが頭を埋め尽くしていて、正直、二人のことはどうでもよかった。しかし、ロズウェルによって解決への第一歩が提示されてみると、ようやく目が覚めた。やっとまわりが見えてきたようで、急に二人を傷つけたことが悔やまれた。

(謝るかな……)

 シフルはユリスの背中をみつめる。彼は作文の課題を授業中に終えられなかったようで、必死に文章をつづっていた。ときおり思案顔になって、適当な表現を探している。思いついて、数行書く。それを繰り返したあと、何やら考えこんでいたが、今度はどうしてもみつからない。きょろきょろと机のまわりを見回したが、探しものは見当たらない。

「ホラ」

 シフルは、ベッドの脇に転がっていた辞書を差しだす。

「……ああ、サンキュ」

 ユリスは振り向くことなく辞書を受けとって、絞った声で礼をいう。

 シフルは作文ノートをのぞきこむと、さりげなく尋ねた。

「あとどれぐらいで終わりそう?」

「あと十行で終わらせないと規定オーバー。まあ、なんとかなるだろ」

 ユリスは取り澄ました顔で答える。

「ふーん。それじゃあさ」

 シフルは暗がりのなかで、くるりと回ってみせた。「それ終わったら、ワルツの練習つきあえよ。ほら、今度《ワルツの夕べ》前だからワルツのテストあるじゃん? オレひっかかりそうなんだよね。ひっかかったら居残り特訓だろ? 絶対イヤだからさー」

 ユリスが、ノートから目を離し、シフルのほうを振り返った。口は山型に結ばれて、それなのに目は笑っている。

「ダメ?」

 シフルはしてやったりと笑い、もうひと押ししてみた。しょせんこいつはお人好しのユリス、ぎくしゃくした状態になんか耐えられないのだ。

「……バカじゃねえの」

 ユリスはついに、顔面の筋肉を震わせながらつぶやいた。「おまえのワルツの相手なんて、絶対イヤに決まってんだろ。足は踏むわ、足は蹴るわ、足はひっかけるわ」

「ふーん、そんなにイヤじゃしょうがない。じゃ、アマンダに頼もうかなー?」

 シフルはスキップしつつドアに向かう。「ついでに《ワルツの夕べ》にも誘っちゃうぞー?」

「おッおまえ、それは卑怯だ! 待てよ!」

 ユリスは勢いよく立ちあがり、シフルを阻止しようと飛びかかる。シフルは彼の突進をひらりとかわすと、喜劇役者のように大仰な振るまいでドアを開けた。そこにはちょうどよくアマンダがいて、シフルはそのまま彼女の手をとった。

「え? え?」

 驚くアマンダの腰に手をまわし、ワルツの姿勢をとる。ズンチャッチャ、ズンチャッチャ、と宮廷音楽を声真似で表現し、シフルはステップを踏んだ。彼のへたくそなリードでも、アマンダは徐々に状況をつかめてきたらしく、一緒に歌い踊りはじめた。彼女がホルンのソロを歌いながら女性役を務め、シフルが弦楽器による伴奏のつもりで歌いながら男性役を務める。

「おい。おまえら……」

 楽しそうに踊る二人に、ユリスが恨めしそうに声をかける。アマンダは満面に笑みを浮かべ、

「ね、ユリスも踊ろうよ!」

 と、手を差しのべた。

「え……、と」

 ユリスは面食らい、でも仲間に入りたいようで、ためらいがちに手を出す。それをアマンダが迷いなくとり、三人は輪になった。三人でワルツというのはむりがあったものの、一回弾みがついたものは止まらない。シフルもアマンダも宮廷音楽風の伴奏を歌いつづけたし、ユリスも一緒になって声を合わせたから、変則的なワルツもどきというべきおかしな踊りになって、彼らは回った。

 三人は笑って、回って、笑った。体力が尽きるまで回りつづけた。下の階の学生にどなりこまれると、少し反省したあとでまた思いきり笑った。誰も、先日のことには言及しなかった。深刻な顔をして話しあうよりも、笑いあうほうを選んだ。

 

 

 翌日から、三人はまた行動をともにするようになった。

 教室で三人一緒にいる姿を見て、珍しく笑いかけてきたのはロズウェルである。

「これはまた、三人そろってえらく元気になったものだな。もちろん、例の本はもう読んだんだろうな、ダナン?」

 うしろの席に座り、皮肉っぽくもおかしげに言う。シフルは宿題を忘れた子供のような笑顔で、背後を振り返る。まだ全然読んでいないというと、彼女は呑気なものだといって肩をすくめた。自分でもそう思うので、シフルも彼女に倣って肩をすくめる。

 解決手段を見いだせたかもしれないと考えただけで、変に前向きかつ呑気になってしまった。それでユリスたちと仲直りする気になったし、改めて召喚士をめざす気にもなったのだ。だから、悪くない。前向きなのは悪くない。あきらめない限り、時間はいくらでもある。

「ひょっとして、あんたに心配かけたのかな。いろいろと」

 シフルはロズウェルの机に頬杖をついて、吹っ切れた穏やかさでつぶやく。彼女もまたシフルを真似て頬杖をつくと、黒い眼を細めた。近くで見ると、彼女の瞳の妙に美しいことに気づかされて、シフルはさっと目を逸らす。

「むろん、それはね」

 しかし、ロズウェルはシフルの目の逸れたほうにわざわざ顔をもってきた。再びシフルの視界に彼女の容貌が入りこんだが、今度は逸らさずにみつめてみる。

 ——なんだ。優しい瞳の色、してるんだな。

 と、シフルは何とはなしに思った。

「大切な《好敵手》だからな」

 ロズウェルが、さらりとそう言う。

「え——」

 シフルが頬を紅潮させると、

「二度とはいわないよ」

 と、彼女は微笑んだ。シフルは開いた口が塞がらなくなって、次の瞬間ぐっと拳を握りしめた。

 ——がんばる。

(いや、絶対絶対がんばる! オレはどこまでだってがんばれる! ロズウェルのこと、ちゃんと追っかける——!)

 シフルは改めて決意した。

 セージ・ロズウェルと、好敵手として対峙しつづけること。才能があろうがなかろうがAクラスに留まりつづけること。元素精霊教会所属を許されるぐらいのものをみつけるまで、卒業しないこと。それこそ二十歳をすぎても、たとえ父母から帰ってこいといわれても。

 自分のめざす道を走りつづける。ロズウェルと一緒に走りつづける。その過程のなかで、必ず《精霊王》の呪いを解く。そしていつか《精霊王》の存在を暴き、世に証明することができたなら、それはきっと偉大な発見となるだろう。《精霊王》の存在は、ほとんど知られていないのだから。そうすれば、おそらく教会にとって自分は不可欠の存在となる。

(『呪い』じゃないんだ)

 シフルは視点を変えてみて、その落差にはっとした。(《精霊王》に呪われているのは、オレぐらいのものじゃないか。言い換えると、《精霊王》を追い求めるのはオレだけ、《精霊王》に近づけるのもオレだけなんだ)

 ——おまえの血に流れるのは、愛情だ。

 と、妖精も言っていたではないか。《彼女》の正気については疑わしいものがあるけれど、あの言葉を信じるならば、なるほど「愛情」というのは適当である。愛情は恵みであり、祝福だ。理学院のなかで唯一シフルだけが未知の存在《精霊王》に肉薄できるのだとすれば、それは「呪い」というよりむしろ「祝福」といえる。

 ——知りたい。

 誰も知らないことを。

 ——見たい。

 誰も見たことのないものを……!

 シフルは胸に手を当てた。心臓は激しく脈打っており、そこから次々と送りだされる血潮が少年の熱を高めていく。シフルは静かに深呼吸して、根源的で衝動的な欲求を鎮めなければならなかった。すでに教壇には教師が立っており、少年の高ぶりをよそに淡々と授業を進めている。

(早く)

 シフルはなんとか教科書に集中しようとし、その一方では急激に芽生えた欲求を抑えきれずに、左手で右手の手首を握りしめた。左手は利き手ではないが、それでも強い力で右手首を締めつづけたので、授業が終わって教師がAクラス教室をあとにするころには、痣になってしまった。

 シフルは勢いよく立ちあがり、そのまま通路に出ようとした。足もとがふわふわしていて、普段以上に注意力に欠けている。それで、机の足に思いきり右足の小指を打ちつけた。

「やだシフル、大丈夫?」

 アマンダが驚いて声をあげる。

「何やってんだよ、バッカだなー」

 ユリスは笑っている。

 そのどちらにも、シフルは反応しなかった。はねまわりたくなるほどの激痛にも、かまってはいられない。シフルは眼に涙を浮かべながら、通路の端まで走った。教室のドアにたどりついたところで振り返り、

「オレ、今日、用事あるから昼は別に食べる!」

 と、大声で告げて、疾風のごとく走り去る。

 必要以上の声量となったひと声に、Aクラス全員が反射的に振り向き、「またあいつかよ」という顔になる。アマンダは釈然としないながらも、「がんばってねー」と少年を送りだし、ユリスはなすすべもなく手を振るのみ。ルッツはどことなく察したふうで微笑み、測ってか測らずしてか火付け役となったセージ・ロズウェルを見る。

 ロズウェルはルッツの視線を受けて、ゆるやかに席を立った。ルッツはすかさず、彼女に歩み寄る。

「何したの?」

「別に大したことはしてない」

 彼の問いに、ロズウェルは何でもなさそうに答えた。

「嘘ばっかり。きのう腑抜けだったのが、昨日の今日であんなに元気になるわけがない」

 ルッツは即座に言い返す。「俺知ってるよ、ロズウェルはシフルにとって特別なんだ。だから、君の言葉は何であれ四大精霊の思し召しになる」

「知ってるなら説明は不要だろう」

 ロズウェルはそう言うと、ルッツのかたわらを通りすぎた。彼がなおも食い下がると、おもむろに振り向いて、

「ひょっとして……、うらやましいのかな? ドロテーア」

 彼女にはありえないほど、にっこりと笑った。いやみというよりは、冗談でもいっているふうで。

「はあ?」

 ルッツは怪訝な声をあげる。しかし、ロズウェルはそれに答えを与えることなく、さっさと教室を出ていった。あとに残されたルッツは、呆然とたたずむしかない。

 セージ・ロズウェルは無表情で冷淡な天才。その彼女が、何の皮肉もなくただうれしそうに笑うのも、冗談らしい冗談をいうのも、これまでにはなかったことだ。それこそ何かの冗談のようである。

「うらやましいって……」

 ルッツは金の瞳を細め、口の端をかすかにあげた。「……どっちが?」

 答えはない。答えるべき人は、ふたりとも彼の前から去っていったあと。ルッツはふっと息を吐くと、教室を出ていった。教室にはまだ学生たちが残っており、昼休みらしい明るさに満ちていた。

 

 

 シフルは配給所で受けとった昼食を抱え、全力疾走でAクラス寮にたどりついた。Aクラス寮はBクラス寮棟の上階を占めているため、シフルは五階まで一気に駆けあがらねばならない。自室のドアの前に立ったとき、シフルは息も絶え絶えだった。

 懐から鍵をとりだすと、ドアを開ける。息を切らしながらも、ベッドに倒れこむことなく、自分の机へ直進した。

 机の上には本が四冊積んである。本の題は『精霊王に関する考察』、きのう図書館でみつけてきた本だ。シフルはそれを情熱的に見いだしたくせ、けっきょく昨晩はユリスとアマンダとの仲直りに時間を費やしたため、目次に目を通すことさえしなかった。二人との友情が復活したのはいいけれど、《精霊王》の呪いを解けなければ本末転倒。そのまま友情のみにかまけていけば、いつかあらゆる意味で二人と離れなければならなくなる。

(オレは不利な条件を背負ってる)

 不利な条件であるとともに、ちがう視点からみれば有利な条件でもあるのだが、何もしなければ不利な条件のままである。(心残りがなくなったんだから、もう横道に逸れてる暇はない。オレは《精霊王》の存在を暴いて、絶対にロズウェルや二人と同じ精霊召喚士の道を歩むんだ!)

 シフルは椅子に座って、まずは全四巻中の第一巻を見た。

 改めてみると、ずいぶんと粗末な装丁である。ぱらぱらとページをめくってみれば、中はなんと手書き原稿そのもの。表紙の題字はかろうじて活字だが、多くの保存図書のような上質な布表紙でもなければ、金文字でもない。五百年前といえば、印刷技術の黎明期にあたるので、仕方ないといえば仕方ないのだろうが、大陸に印刷技術をもたらし、普及させた元素精霊教会出版にしてはこれはおかしい気がする。

 裏表紙を返して、シフルはなるほどと納得した。「出版禁止」の赤い判が、妙に鮮明に残っている。五百年前に押印されたものとは思えないほどくっきりとしており、まるで教会と学院の強い意志を示すかのようだ。——《精霊王》など存在しない、教えにまちがいはないのだと。

 そう考えると、先日のシフルによる学説破りは、教授陣に黙殺された可能性もあるわけだ。ヤスル教授は教授ながら二十代という若輩、もちろん教授陣のなかでは最年少である。若さは理想と革新を求め、老いは伝統と安寧に固執する。シフルがどんなにがんばっても、何が真実なのかわかりきっていたとしても、教会に受け入れられる日はこないかもしれない。

(何はともあれ……)

 シフルは表紙をめくった。(オレは《精霊王》を知らないわけにはいかない)

 シフルは本文を読みはじめる。手書き原稿をそのまま製本してある『精霊王に関する考察』は、著者が直接文字をつづったものなだけに誤字脱字がときおり見受けられたし、活字に慣れた世代であるシフルには異和感もあったが、著者ベアトリチェ・リーマンの字は不思議と読みやすく、すぐ内容に入りこんだ。

 それはまったく未知の世界で、精霊召喚学にこうした見地が存在したなんて、この本に触れるまでシフルは考えもしなかった。もちろんシフルは召喚学の深さに気づいてはいたけれど、その深みがどういうところにあり、どういう人たちによって追求されているのかは、召喚学歴若干五ヶ月弱の彼には計り知れない領域だった。

 序文を読んだだけで、シフルは呆然と顔をあげた。彼のまわりの空気が、にわかに変貌してしまったような気がした。

 その空気の心地よい冷たさを、シフルはしばらく味わった。冷たいと思うのは、興奮のために彼の頬が上気しているからにちがいなかった。

 それからは止まらなかった。序文の問題提起の時点で著者ベアトリチェ・リーマンの論文の虜となったシフルは、恐るべきはやさでページを繰っていった。

 きりの悪いところで予鈴が鳴った。シフルはあと一ページ、あと一行、と先に進もうとしたが、これで成績を落として落第でもしようものなら、これも本末転倒である。シフルはしおりを挿み、ともすると再び本を開こうとする手を押さえ、手つかずの昼食を持って部屋を駆け出た。

 走りながら、サンドイッチを口のなかに詰めこんだ。廊下の途中でヤスル教授を追い越し、教室に滑りこむ。ユリスとアマンダをみつけて、彼らの隣に席をとると、次にセージ・ロズウェルを探した。

 シフルは高ぶった気分を深呼吸で落ちつけると、極力さりげないふうでロズウェルに話しかけた。

「ロズウェル」

 彼女も何やら読書中だったが、おもむろに目をあげると、わけ知り顔で微笑んだ。

「お疲れのようだな、ダナン」

「……別、に」

 寮から教室にかけての中距離走のせいで、息が切れる。シフルはまた、深く息を吸い、吐いた。

(あの本は、すごいんだ)

 シフルは伝えたい言葉を頭のなかで整理した。(書いてあること、みんなオレの知らないことばかりなんだ。うまくいえないけど、とにかくすごくて、世界が変わったみたいだった。それで……、)

 ——それで?

 シフルはそこまで考えて、はたと止まった。それで、何だ? それで、ロズウェルに何を伝えたいんだ。

 少年は、彼の発言を待つロズウェルを見た。

(こいつはオレの好敵手。『敵』だ。その『敵』に、オレはいったい何を)

「ダナン?」

 シフルが思いあぐねていると、ロズウェルが小首を傾げた。黒いきれいな瞳が、シフルをまっすぐにみつめてくる。

 シフルは、自分の顔の温度が急激に上昇したのを感じた。

 次の瞬間、

「……ロズウェル!」

 いつものようにびしっと彼女を指さした少年は、いつもどおりに言い放った。「オレは、おまえには負けない!」

 ロズウェルは一瞬おかしげな表情になったが、すぐにそれをおさめると、やはりいつもどおりの高慢な笑みで、

「望むところだよ、ダナン」

 と、答えるのだった。

 シフルはそのまま踵を返したが、顔はむろん赤い。しかも内心は、意味のない宣戦布告をしたことに対する混乱でいっぱいいっぱいである。確かに彼女に伝えたいことがあったのに、どうして自分はそれを言うどころか、飽きもせずにあんな発言をしたのだろう。

 ちょうどヤスル教授の到着となり、シフルは自分の席に向かった。どうやら一部始終を見守っていたらしいユリスが、

「おまえ、あれ、趣味だろ?」

 と、呆れ顔で言う。アマンダは笑いを押し殺している。シフルは二人に対してぐうの音も出ず、混乱と困惑と後悔に苛まれながらも、Aクラス残留のため黙々と授業に打ちこむしかなかった。

​To be continued.

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