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​精 霊

第一部 プリエスカ・理学院編

第5話「動きだすとき」(3)

 シフルは勉強の合間に『精霊王に関する考察』を読みすすめた。

 序文においては著者ベアトリチェ・リーマンの幼いころからの疑問が述べられ、本論ではそれに関する仮定が列挙されている。いかに筋が通っていようとあくまでも仮定、実証されていない以上、鵜のみにすることはできないが、ベアトリチェ・リーマンのいかにも誠実な、どんなひっかかりも放置しておかない緻密な記述は、たとえシフルが妖精に直接その存在を告げられていなかったとしても、信ずるに値するものだろうと思われるのだった。

 シフルは暇さえあればこの本を読んだ。ユリスやアマンダとは、読みたい本があるからと断りを入れたうえで別行動をとっている。よって、朝起きたら朝食前に読書、礼拝後の休み時間に読書、授業の合間の五分間に読書……という調子になったシフルの日々は、勉強と読書の二色に染め分けられた。

 授業の勉強をしているとき以外のシフルの頭には、常にベアトリチェ・リーマンがいる。このころのシフルの半分は、ベアトリチェ・リーマンが占めているといっても過言ではなかった。

 ある日、とうとう夢にまで見た。『精霊王に関する考察』を読み耽りつつ寝入ってしまったシフルの夢は、本の記述にあった、ベアトリチェ・リーマンの学生時代のできごとだった。

(《セスタ・ガラティア(四つの力)》——)

 女教師は学生たちに、黄金製の教会の象徴を示した。世界の構成を表すそれは、必ず礼拝堂のいたるところに掲げられており、シフルも知っている。

 むろん五百年前の人物の顔など知らないので、なぜかベアトリチェはロズウェルの姿を借りていた。当時のベアトリチェの担任という人物は、女教師という共通点だけでカリーナ助教授にすり替わっている。

(上が火(サライ)、下が水(アイン)、右が風(シータ)、左が土(ヴォーマ)。まわりの輪は、私たちの住むこの世界を、中央の交差は力の均衡を意味しています。この世界は、四大元素精霊の力に支えられて成り立っているのです)

(先生! あの——)

 講義に耳を傾けていた学生のなかから、一人が挙手した。ベアトリチェ・リーマン——というより彼女の役を演じるロズウェル——である。

(何かしら、ビーチェ)

 教師が発言を許すと、ベアトリチェは起立し、

(ちがうんです)

 と、強く言い切った。(《セスタ・ガラティア》はまちがっているんです。本当の世界はそれには表現されていません)

 カリーナ助教授の姿をした女教師は眉をひそめる。

(何を言っているの、ビーチェ)

(先生、聞いてください。まちがった学説がまかり通っているのは、私には我慢ならないの)

 ベアトリチェは席を離れ、教壇に近づいていく。女教師がたじろいであとずさると、少女が代わって《セスタ・ガラティア》の前に立った。

(確かに世界には四大元素精霊がいる。だけど、それだけでは世界は成り立たない)

 学生たちはざわめいた。教師は顔色を変えた。ベアトリチェはかまわず、話を続ける。

(考えてもみてください。例えば、死や生は? 時は? 火水風土の元素だけでは説明のつかない事象が、世の中にはたくさんあるでしょう)

 もはや、誰も彼もが沈黙し、ベアトリチェの弁に聞き入っていた。(世界は四元素では足りない。世界にはそれ以外の元素精霊もいるはずです。そして、数の多くなったものたちを統率し、バランスを保つには——)

 ベアトリチェは聴衆のほうに向き直る。みな息を呑んだ。

(——人間と同じ、支配者の存在が必要になります。精霊もまた、意思もつものですから。つまり、全精霊の王たるものがいて——それを便宜上《精霊王》と呼ぶとして、)

 少女は《セスタ・ガラティア》の四精霊の力の均衡——交差点を指さすと、軽く叩いてみせた。(彼はここで世界を支えているのです。精霊たち自身ではなく、彼こそが世界の支柱なのです)

 そうして、ベアトリチェはその論によって聴衆を圧倒した。しかし、最初に彼女が《精霊王支柱説》を唱えた翌日、ベアトリチェは放校処分を通達される。彼女は弁解も許されず、地元の学校をあとにした。

 ——真実を手に入れた。

 確かに、そう思ったのに。……

 夢から覚めたシフルの頬が、濡れていた。

 ベアトリチェの悔しさと憤りは、彼のものだった。真実を受け入れない人々。真実よりも安寧の永続を願った、偽り多き人々。それまで信じてきた人というものの理想像は、根底から覆された。伝統と真実と、いったいどちらが重いというのだろう。

 シフルは夢と気づいて涙をぬぐった。本の上に突っ伏して眠っていたのである。表紙によだれがたれていたのを、あわてて袖で拭きとった。

 きっと朝なのだろう。カーテンの隙間から、薄く日が射している。見れば、同室のユリスはまだ寝ていた。

(まるで中毒だな、こりゃ)

 シフルは肩をほぐす。気だるさが全身に残っており、眠った気がしない。

(なりゆきで読んだけど、本当におもしろい論文だった。ベアトリチェ・リーマンが想像する《精霊王》ってのも、だいたいわかったし)

 それに、もっとはっきりわかったことがある。この本は《精霊王》が存在すると仮定して世界を読み解いた、いうなれば推測一辺倒の本である。著者は実際には《精霊王》に出会っておらず、どの仮定も実証されていない。つまるところ、《精霊王》がまったく未知の存在であることに変わりはないのだ。

 ベアトリチェ・リーマンは《精霊王》たる存在との邂逅を熱望している。しかし、この論文を上梓しようとした時点では叶っていない。

(困ったなー……)

 すなわちこの本には、《精霊王》の呪いを解く手がかりは何ひとつなかった。(そりゃ、資料を見ただけでどうにかできると思ってたわけじゃないけど、こうも足しにならないんじゃ)

 シフルは弱り果てたが、なぜかそうした問題とは裏腹に気分は前向きだった。好奇心はあらゆる悪条件を克服するのかもしれない。ベアトリチェ・リーマンの興味深い論文に触れたばかりの少年の心は、新たなものに遭遇した喜びに満ちていた。

 シフルは朝のうちに残りのページを読み終え、午後の授業が終わったところで返却に行った。

 ついでに、今度は「ベアトリチェ・リーマン」という著者名をたよりに目録をあたってみる。意外にも、彼女の著書は百件を下らなかった。『精霊召喚学史事典』を参照すると、名のある学者としてベアトリチェ・リーマンの項目がある。あの夢に出た彼女の体験や、『精霊王に関する考察』の異端的な内容を思うと、とてもではないが学会や教会に認められる研究者には見えないのに。

『精霊召喚学史辞典』に掲載されたプロフィールによると、彼女は理学院召喚学部Aクラス出身であり、卒業後に研究室入りして総合精霊学の方面において多大なる功績を残したらしい。

(じゃあ、地元の学校を放校になったあと、学院に編入したのか。……へえ、一生を独身で通して、生涯研究に没頭……、六十二歳のときに——失踪? うわあ、キツそうな人生)

 そのとき、ふとシフルの目に止まったのは、ベアトリチェ・リーマンの生まれた年だった。

 ロータシア暦一六一年。すると、失踪したのはロータシア暦二二三年になる。

 ——『精霊王に関する考察』の出版年と同じ。

 シフルは覚えずうなった。実に奇妙な符合ではないか? 幼いころに生じた疑問を、六十二歳のベアトリチェ・リーマンが人生の集大成として論じきった、そののちの失踪とは。

(出版禁止くらったせい……か)

 と、シフルは思った。

 探し求めてようやくみつけた真実を否定され、悲しみに打ちひしがれた老婆が、五百年前にいたのだ。……

 それから、ベアトリチェ・リーマンの他の著作数冊を借りて、シフルは図書館を出た。『四大元素精霊の発生——火(サライ)起源説の研究』などといった、彼女の時代から五百年を経た今となっては王道ともいえる研究の論文集で、《精霊王》に言及する気配など微塵もないものばかりだったが、『精霊王に関する考察』を著した、同じ彼女の論文なのである。何か手がかりがみつからないとも限らない。

(もしみつからなくても、ゆっくり探せばいいじゃないか)

 と、シフルは自分に言い聞かせる。(焦る必要なんてどこにもない。じっくり資料を読んで、呪いを解く鍵を考えて、精霊召喚の実習もちゃんとやって、また精霊と話ができるかどうか試してみて、……やれることはいっぱいある)

 焦らなければ、努力はいくらでもできる。努力のひとつひとつが、《精霊王》に近づく一歩となり、ロズウェルに追いつく一歩にもなり、精霊召喚士をめざす一歩にもなる。

 ——歩きつづけていれば、なんとかなる。

 シフルは本を抱える腕に力をこめた。少年のかたわらを通りすぎていく秋の風とは裏腹に、その腕と指先は熱い。だからシフルはよけいに風の冷たさを感じて、身をすくませた。まだ秋に入ったばかりとはいえ、夕方にもなれば肌寒い。

 もうすぐ、秋休みなのだ。シフルが理学院に入学してから、最初の長期休暇。

(オレは何度、ここで休暇を迎えるんだろう)

 途方もない時間の果てに、待っているのは何だろう。それは、単なる《終わり》にすぎないものだろうか? それとも、何らかの意味をもつものだろうか。

 ——すべては、オレ次第。

 足を動かしつづけるのは自分しかいない。他の誰も、シフルになど興味がないのだから。自分の生きる意味を見いだせるのは、自分だけ。

 シフルは徐々に冷たくなりつつある風のなかを、寮に向かって歩きつづけた。今はただ、冷たい風と指先の温度が、シフルがここにいるということを証していた。

 

 

 いくつもの校舎を越え、杉並木を通り過ぎると、寮が見えた。寮は手前から順番にA・Bクラス寮、Cクラス寮……とつらなっており、下のクラスになればなるほど校舎から遠くなる。これも学生たちを奮いたたせるための、学院側の例のやり口である。

 A・Bクラス寮の前には、学生全体への告示に使われる掲示板が立っている。学院ではクラス単位での告示が大半のため、使用される機会はあまり多くないのだが、シフルが通りかかったとき、なぜか掲示板前は黒山の人だかりだった。

(なんだ?)

 シフルも、人だかりの近くまで来て足を止める。小柄な彼は、必死で学生たちの谷間から頭を出した。どうやら、掲示板の中央に貼られた告知が、学生たちの関心の的らしい。

(くだんの《ワルツの夕べ》かな? ……いや、あれは恒例だって聞いたから、わざわざ人だかりなんてできないよな)

 シフルは、視界の妨げになるので度の入っていない眼鏡をはずし、眼を凝らした。白い紙に黒インク、ヤスル教授あたりが書いたらしいなげやりな字で、それは書かれていた。

 

 

〈留学生募集

 

 定員  四名

 条件  属性不問の精霊五級以上の召喚。以上の条件に適う者であれば、クラスや学部は不問。

 留学先 ラージャスタン帝国・アグラ宮殿

 出発  来春予定

 

 備考  火(サライ)の国ラージャスタンにおいて皇宮警護の任に就き、当地で実戦学習する。応募者は秋学期から出発にかけて、ラージャ語文法・会話、ラージャスタン史、大陸史、護身術等の特別カリキュラムを受講のこと。なお、応募者多数の場合は選抜試験を実施する。〉

 

 

「火(サライ)の国……?」

 シフルは、限りなく現実味のない単語の羅列に、口をあんぐりと開けた。「皇宮……、実戦学習……?」

「何だこれ。マジかよ」

「ねえ、留学先ラージャスタンって、冗談でしょ?」

 周囲の学生たちも、信じがたさのあまり、頬をひきつらせて笑っている。

「アグラ宮殿。……どこだ?」

「バカ、ラージャスタン皇帝のいるところだろうがよ。だけど、あの秘密主義のマキナ皇家が、よりによってプリエスカの、理学院の留学生を受け入れるなんて、絶対怪しいぜ? いったいどういうつもりなんだか」

 みながみな不審がり、憶測を飛ばしあっている。

 それも当たり前の話だ。プリエスカとラージャスタンは、十五年前に休戦協定を結ぶまで、戦争状態にあった。直接的な原因はプリエスカの元素精霊教会にあり、彼らがラージャスタンに対し理不尽な議論をもちかけたのがことの起こりである。

《火(サライ)の国》ラージャスタンは、そのむかし火(サライ)の元素精霊長が妖精となって暮らしていたので、火(サライ)の子らが集うようになったという——伝説の国。つまるところなぜ火(サライ)が集うのか、その真実は今も謎に包まれているが、とにかく《火(サライ)の国》はラージャスタンの枕詞だ。

 ラージャスタンの国土は広大である。その九割は自然のままの原生林が繁っており、残る一割の地域——主として海岸線に人口が集中している。原則として、人の居住地域は精霊が少ない。プリエスカは気候が居住に適しているため、ほぼ全域に人口が分布している。つまりプリエスカは、四大精霊崇拝を掲げているにも関わらず、精霊の絶対数が少ないのだ。

 対するラージャスタンは、自然の多さゆえ、火(サライ)に限らず精霊が多いという。それで、プリエスカの元素精霊教会は国王を通してラージャスタンにむりな要求を突きつけたのだった。

 いわく、

 ——海岸線と皇都ファテープル以外の土地を解放すべきである。精霊崇拝の国々で構成されるラシュトー大陸にとって、精霊多きラージャスタンの地はいわば至宝であろう。よって、ラージャスタン一国の占有とすべきではない。

 と、きたものである。

 道理に適っていない教会の言い分は、とうぜん無視された。が、プリエスカは要求を撤回しようとはしなかった。だんだんと口汚い罵りあいの様相を呈するようになった論争は、やがて国同士の争いへと変貌した。プリエスカ・ラージャスタン戦争の勃発である。

 それが今から三十年ほど前の話なので、両国は十五年ばかりいがみあっていたことになる。しかも十五年前の協定は、終戦ではなく休戦。すなわち、一時的なものだということである。

 現在も、プリエスカとラージャスタンの関係は決して芳しくない。最近になって、両国間を走破するクットブラ鉄道が敷設されたものの、緊張感の漂う二国であることに変わりはなかった。

 よって、学生たちが疑うのもむりのない話なのである。いくら休戦時はあどけなかった、もしくは生まれていなかった世代の学生とはいえ、あの戦争は遠い日の炎ではない。

 しかし、シフルの頭を占めていたのは、そんな不安ではなかった。

(火(サライ)の国で実戦学習)

 ——行きたい。

 シフルは拳を握りこむ。普通の学生生活を送っていたのでは、自分にはあとがない。壁を飛び越えて先をめざすためには、何か大きな変革が必要なのだ。例えば、ラージャスタンには《精霊王》に詳しい人がいるかもしれないし、同じように呪いをかけられた人がいるかもしれない。ラージャスタンには、理学院のような旧態依然とした伝統主義がはびこっていないかもしれないし、《精霊王》の存在がすでに常識となっているかもしれない。

 ——行きたい、どうしても。

 シフルは、募集の詳細に目を走らせた。

 

 

〈申込はボルジア助教授の研究室まで。締切は第三の水(アイン)の月二十五日、午後五時。選抜試験を要する場合、同日夜に実施する。〉

 

 

 ——あと、五日……。

 とたんに、シフルの頭は真白になった。留学生募集の申込締切まであと五日。

​To be continued.

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