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​精 霊

第一部 プリエスカ・理学院編

第6話「時姫」(1)

 ——メルシフル。

 ふいに、頭の上から声が降ってきた。弾かれたように顔をあげると、見知らぬ若い女が見下ろしている。幼いシフルは名前を呼ばれたことで安堵し、女の手にすがった。これでもう、人ごみに呑まれることはない。

 それが母の手ではないことは、重々承知だった。それでも、知らない者ばかりの人ごみのなかでは、頼りにする者が必要だった。シフルは年端のいかない子供で、自分の小さな世界の全体像すら把握できない、導く者なしにはどこにも行けない——そんな年ごろだった。

 しかし、母は手を離した。

 人ごみのなかに消えていった母は、もはや影もかたちもない。シフルは、漠然とした不安がはっきりとかたちをもちはじめるのを、痛切に感じていた。母は自分を見ない。どんなに彼女の機嫌をとっても、母が笑いかけてくれる日はこない。

 シフルは見も知らぬ女の手を握りしめたまま、立ち尽くす。女は何も言わず、されるがままにしていたが、やがて口を開いた。

(どうしたいの? おまえ)

(え?)

 シフルは女の存在を忘れかけていたが、呼びかけられてそちらを見上げる。

(来たければ私と一緒に来るがいい。が、むりは言わない。おまえの行きたいところに連れていってやる)

(?)

 シフルには女のいう意味が理解できなかった。言葉そのものの意味以上に、深く考えてしまったからだ。

 彼はダナン家の跡取りであり、父の後継者になるしかないと教えられて育った。母はそれしかシフルに語りかけなかったし、父と交わす会話の大半がそれである。ビンガム市民の多くが市長の息子に期待を寄せているのだから、決して裏切るな。迷いなく私をめざしなさい。それは呪文のごとく、幼いシフルを操った。

(家に帰る)

 ややあって、シフルはそう返した。女は、そうか、と相槌をうつと、シフルの手を引いて歩きだした。シフルは彼女の先導によって人ごみを抜けだし、見覚えのある場所にたどりついた。家の近所に入ったらしかった。

 女は勝手知ったる様子でシフルの街を歩いていく。女がゆっくりと足を動かしたので、幼いシフルでも余裕をもってついていけた。ひとりよがりな説教をする気配もなく、かといってむやみに気づかって優しげに話しかけようともせず、女は黙っている。だから、シフルも黙っていた。機嫌を損ねないよう配慮する必要もなく、家路を往く。

 このまま家に帰らないでもいい、とちらりと思った。けれど、シフルが帰宅しないことによって、父が母を一方的に責めるのはわかりきっていたので、そういうわけにもいかない。母がシフルを見なくとも、シフルにとって母はかわいそうな人だった。

 毎日のように夫になじられつづけるのは、どうだろう。きっと母が自分を見ないのは、父が悪いのだ。父の血をひく自分を、母はきらっているのだ。いつか自分がえらくなって父を家から追いだせば、母は自分を見て笑ってくれるにちがいない。……

 シフルと女はダナン家に到着した。呼び鈴を鳴らすと、執事が現れて次期当主の無事を喜び、恩人たる女を歓待した。女は客として居間に通され、よってたかって茶や菓子をふるまわれた。

 片づけのため使用人がみな席をはずしたとき、女は帰ると言いだした。当主が礼をするから、と執事に引き止められたにもかかわらず、女はさっさと出ていった。

 シフルは彼女を追いかけた。

(あんたは、誰?)

 と、シフルは訊いた。執事たちは誰ひとりとして彼女の名を問わなかったし、女も自ら名のろうとはしなかった。だから、よけいにシフルにはその女が謎めいて見えた。そういえば、女はシフルの名を呼んだうえに、彼の家を知っていたのだ。いったいこの女は、ダナン家の——シフルの何なのだろう。

 女は振り返り、シフルにむかって微笑んだ。

 女は無愛想で、使用人にもてなされているあいだもついぞ笑わなかったから、シフルは面食らった。が、子供に答えを与えると同時に、女の笑顔は曇ってしまった。——きっとそれは、おまえが知っているだろう。女は、そう言った。

 シフルは頭を振る。

(知らないよ、オレは)

(そんなことはない。おまえのなかに、私のような女の姿があるだろう? その名で、私を呼べばいい。私はその存在になってみせるから)

(オレはガキだけど、そんなにバカじゃない。とにかく、あんたのことは知らない。あんたが誰だかいってくれないと、いつまでたってもあんたのこと知らないままだ)

 今度は女が驚いて、眼をみひらいた。シフルは、女がなぜ驚くのか理解できず、彼女の真剣なまなざしが気恥ずかしくて目を逸らしたものの、答えを待ちつづけた。

 そのとき、女のやわらかいてのひらが、シフルの髪をなでた。

(——おまえがつらいとき、悲しいとき、さみしいとき、いつでも私を呼んだらいい)

 彼女の声が急に優しくなったので、シフルは思わず女をみつめ返した。(おまえのことは、いつでも見守っているよ。メルシフル)

 女の瞳は灰がかった青、どことなく懐かしい色をしている。さらさらの長い髪は、磨き抜かれた銀の色。……母と同じ、瞳と髪の色。ひいては自分とも同じ。

(メルシフル。私の名は——)

 何かの、予感がした。

 女の瞳、女の髪、女の言葉のひとつひとつに、予感が満ちていた。きっといつか、何かが明らかになる日がくる。……

 が、幼い日のシフルにそうした予感を記憶しておくことはできず、それらはすべて、父の怒りと母の涙にとって代わった。その日の夜、母は例によって監督放棄を責められ、父に殴られたのだ。

 真夜中にすすり泣く母の姿を目撃したとき、シフルは女の記憶を捨て去ったのかもしれない。シフルは恩人の名を確かに聞いたのだが、それを呼ぶことは一度たりともなかった。つらいときにすがったのは、いつでもあの母の名前だった。

 

 

  *  *  *

 

 

 闇のなか、無意識に目を閉じていたらしい。横から妖精の声で、ちゃんと見ろ、と言われ、シフルはようやくそれに気づいた。

 目の前には見慣れた風景がひろがっている。

 ——ビンガム。エリンネーの街の一角。

 故郷の街、エリンネー。少年は目をぱちくりさせて、周囲を見まわす。が、なぜか首が回らない。シフルの視界は何らかの力によって固定され、この地元の風景を見せられていた。

 ふいに、《シフル》は左を向く。大通り沿いの仕立屋が目の前にあった。次に、《シフル》は右を向く。仕立屋のむかいは空き地である——いや、ちがった。シフルの知るエリンネーでは、確かに仕立屋の正面は空き地になっていたけれど、この風景だとバールがある。そういえば、かつてここにあったバールは、火(サライ)を万物の根源だとするラージャスタン寄りの思想の持ち主が店主で、エリンネーの若者組のいやがらせを受けてここから去ったとか、そんな話を聞いたことがある。

〈昔の……エリンネー?〉

 シフルはつぶやいた。自分の声が妙に遠い。

〈夢なのか? 幻?〉

 どちらにしても、不思議な空間だった。今は存在しない空間、かつては存在した空間。

〈どちらでもないと言っている〉

 すぐ近くで妖精の声が聴こえた。〈夢でも幻でもない、十六年前に起こった事実そのものだ〉

 声はするのに、姿がない。シフルには《彼女》のみならず自分の姿も見ることができなかったが、心臓が激しく脈打っているのはわかった。本当に、自分はどこへ行こうとしているのだろう。妖精は何を望み、こんなものを見せるのか。何ひとつ、シフルは知らない。

〈ここ、何なんだ?〉

 シフルはおそるおそる尋ねた。その間にも、《シフル》は歩きつづけているようで、視界はひっきりなしに揺れている。

〈おまえは今、時姫(ときのひめ)さまの十六年前の目でものを見ている〉

 妖精は答えた。〈つまり、これはどんな解釈を加えられることもない、我が主の純粋な体験というわけだ。……まあ、全部あまさず見せるのは教育上よろしくないし、時間もかかりすぎる。証拠となりうるできごとだけ、選んで見せてやる。感謝しろ〉

〈……?〉

 シフルは口をあんぐりと開けたつもりである。人の体験をそっくりそのまま見せることのできる妖精とは、いかなる力の持ち主なのか。四大元素精霊のいずれがそんな能力をもつのだろう。

 すると、少年が変な顔をしているのが妖精には見えるのか、

〈今は黙って見てろ。詳しくはおいおい説明してやる〉

 と、《彼女》は言った。シフルはとりあえず従うことにして、《シフル》の見ている世界を見渡した。

 ——なるほど、十六年前か。

 シフルの生まれた年、休戦協定の前の年。エリンネーの街はおおよそは今と変わらないが、ときおりあるべきものがなく、ないものがある。例えば、ビンガム市立学院時代にシフルが通いつめたバールはまだなかった。当時、帰宅するのがおっくうで、毎日のようにそのバールに入ってコーヒーを飲んでは時間を潰したのだった。あれはシフルが幼いころの新築で、十六年前ならまだない。

《シフル》——《時姫(ときのひめ)》は、ある店の扉を押した。

 酒場である。昼間から何やってんだこの女は、とシフルはひとりごちた。

「こんにちは」

《時姫》は軽く頭を下げて、店内に進む。と、店にいる客の視線が彼女に集まった。誰かが口笛を吹いた。

〈時姫さまはお美しいかたなのだ〉

 と、妖精の注釈が入った。

 同時に、眉をひそめた者も多くいた。妖精が補足する前に、聞こえよがしな非難が飛ぶ。

「呆れた。この時期にあんなかっこう」

「同じプリエスカの女として嘆かわしいよ」

《時姫》はかまわなかった。颯爽と女たちのあいだを通り抜け、奥のカウンターに席をとる。

「レエルゴー・ミューはある? 新酒の時期だったわね」

「ニネヴェのリンゴ酒は、近ごろさっぱり……。いや、すみませんなあ。サーキュラスのトット・パルなら新酒が入っておりますが」

「ニネヴェのリンゴ酒が飲めないなんて、人生が花を失ったよう。いいわ、トット・パルで」

 彼女は大いに嘆息した。立派なひげをたくわえた店主は、申しわけなさそうに苦笑し、銀のゴブレットにリンゴ酒を注ぐ。黄色がかった透明な酒を、それでも彼女は少しずつ飲んで堪能した。シフルの視界にはゆらゆら揺れるリンゴ酒が映っていたが、匂いや味までは届いてこない。

「ほらね、何せ今はこんなご時勢でしょう」

 彼女がゴブレットから口を離すと、店主が話しかけてきた。「ニネヴェは英雄同盟の国だからね、プリエスカにしてみりゃ直接のじゃなくても敵国の一味。敵国の外貨は上げてやるまいってんですよ。代わりに、大陸で唯一プリエスカの味方をしてるサーキュラスからの輸入は増えてるんですけどね」

「おや、英雄同盟なんて古いもの、まだ残っているの」

「残っているも何も、ラージャスタンやスーサはずっとそれを種にプリエスカやサーキュラスをいじめてますからねえ。それこそ、最初の王さまがプリエスカを建てたときから、もう百年ちょっと。……お嬢さん、ずいぶん世間知らずだねえ」

 ほほ、と《時姫》はごまかすように笑った。店主も、客が追及を拒む話題をあえて続けることはしない。自然な調子で話題を変えて、レエルゴー・ミューなるリンゴ酒がなぜうまいのかについて説明を始めた。彼女は適当に相槌をうちながら、杯を干した。

《時姫》は酒に強いらしい。すでにかなり飲んだような気がするのに、視界はたいそう澄んだままである。やがて会話に飽きると、店に置いてある新聞を読みだした。一面では、戦況が膠着状態にあることが報じられている。前線に立つ精霊召喚士たちの実力が伯仲していて、決着がつかないそうだ。新たな作戦を練る必要あり、と締めくくっていた。

「ばかばかしいことをやってるもんだね」

《時姫》は誰にも聞こえない声でつぶやいた。店主と話していたときとはうって変わり、いやに低い声である。

 そのとき、酒場の扉を開ける者がいた。シフルには一瞬それが誰かわからなかったが、よくよくその人物を見てさすがに合点した。少し若くなっているだけで、あとはほとんど今と変わらない。

「まあ、若市長! どうなさったの」

 女性客が声をあげる。

 そう、「若市長」と呼ばれたその男は、十六年前すでにビンガム市の市長を務めていた人物、おそらくは三十前のはずのリシュリュー・ダナン——他でもないシフルの父だった。

「ちょっと休憩に」

 若きリシュリューは口の端に笑みを浮かべた。が、こころなしか疲れており、せっかくの笑顔も精彩に欠いている。客も店主も彼の事情をよく察しているようで、さあさあお座りください、と、こぞって椅子を勧めた。青年市長は礼をいうと、《時姫》のそばに腰を下ろし、店主に注文を告げる。

「レエルゴー・ミューを」

《時姫》は彼のほうを振り返る。英雄同盟の国であるニネヴェの生産品は、同じ英雄同盟に属するラージャスタンとの戦時下にある今、輸入されないといったではないか。彼女はさぞ不快げな表情をしたのだろう、奥に行ってレエルゴー・ミューの瓶を持ってきた店主が、すまなそうに言った。

「いや、すまないね、お嬢さん」

 栓を抜き、ゴブレットに注ぎこむ。「これは昨年のものを保存しておいたやつですよ。若市長がお好きだからね、お疲れのときに飲んでいただこうと思って。なにせ若市長はわれわれのために奔走してくだすってるんだから、お嬢さんも感謝しなくてはいけませんよ」

「それは、どういうことだ?」

 彼女はあの低い声で問い返した。店主は若い女性とも思われない声音に驚いて、眼をしばたいた。

「おまえは、ビンガム市長として何をしてるというんだ? 言ってみよ」

「これ、若市長になんてことを——」

 店主が咎める。しかし、

「いや、いい」

 リシュリューは眉ひとつ動かさなかった。「……正確には、ビンガム市長であるとともに、プリエスカの政治家として、だ。今、双方を立てるべく動いている」

「具体的には」

「今、ビンガムでも徴兵を実施するよう、王家や教会からせっつかれているんだ。最終的には兵数で決まるのだから、と。だが、私は市民を戦場に送りだすのはごめんだし、かといってお上の意向を無視するわけにもいかない。どう両立させるかを考えている」

「ありがたいお話よねえ」

 横から老婆が口を挿んだ。「若市長が就任するまでは、教会に恩を売ろうとして徴兵を強行した市長もいたものさ。そのたびに猛烈な反対運動が起こって、結局実現しなかったがね。ビンガム市民は平和を愛するんだよ」

〈なるほどな〉

 その光景を眺めて、シフルはひとりごちた。

 父親が妙に支持を得ている理由が、これでわかった。詳しくは知らないが、父はついに徴兵を実施しなかったのだろう。休戦前の膠着状態の際には、多くの民兵が召喚士の戦いに巻きこまれ、虫けらを蹴散らすがごときたやすさで命を奪われたというから、父は徴兵しなかったことで、ビンガム市民には感謝を、他の都市の人々には憧れを勝ち得たのかもしれない。それほどにリシュリュー・ダナンの名は、シフルについてまわっているのだ。

「ふうん。相変わらずこのあたりは都市ごとの結束が強いのかい」

 そう《時姫》がつぶやくと、青年市長は、

「それはそうだ。ロータシアのころからの話が、たとえ地方の権限が弱くなったからといって、そう簡単に変わるものじゃない。だから教会が手をひろげているんだ。国としてのまとまりをもたせるために、敬虔なる祈りを仰々しく飾りたてた。確かに精霊は讃美すべき存在だが、あのように金をかける必要はどこにもない。あれは、建物の豪華さと雰囲気だけでだまそうという、子供だましの大ボラだ。市教に指定した都市もあるが、私の眼の黒いうちはビンガムに教会をはびこらせはしない」

 といって、徐々に興奮じみてきた様子である。国の政策に非協力的な都市は、いろいろと思うところがあるようだ。リシュリューのまわりに客が集まりだし、口々に労りの言葉をかけた。彼はその言葉のひとつひとつに礼をいい、いちいち演説し、市民らの喝采を浴びていた。《時姫》は感心というよりむしろ呆れたらしく、

「若さだね……」

 と、自分のゴブレットに向き直り、再び飲みはじめる。店内はすっかり騒がしくなった。リシュリューがやってきたせいで、一挙に地元愛の熱っぽい空気に包まれてしまった。

《時姫》は飲み途中だった一杯を干すと、さっさと立ちあがる。

「もう戦時中の酒場なんぞ来ん」

 つぶやくと、十メリータ札を取りだし、空のゴブレットの下に挟んだ。すると、思いがけず声がかかった。

「ここの代金は私がもとう」

 他ならぬ元凶、リシュリューである。《時姫》は冷ややかに即答した。

「そんな義理はない」

 青年市長は苦笑する。

「君ともう少し話がしたい。そのための出資だ。そうだ、私のレエルゴー・ミューを飲ませてあげよう。いいね、店主」

「そりゃ、若市長がいうなら」

「だそうだ」

 リシュリューはにっこりと笑う。政治家なんて、うさん臭いだけの生きものだ、とシフルは思った。こうやって父は数多の女性と関係をもち、シフルの小さいころに突然女が家に殴りこんできたような事態へと導いていったのだ。なんと信用ならない人物だろう。これだから、ビンガム市民の父への好意が不思議でたまらない。

 思ったとおり、《時姫》も揺れている。

「ふむ。レエルゴー・ミューか」

 彼女はリシュリューに歩み寄ると、彼の隣に座った。「悪くない」

 店主は《時姫》のぶんのレエルゴー・ミューを注いだ。彼女は、やはりニネヴェ産は色がちがうな、とご満悦の様子で、それに口をつけた。隣ではリシュリューが、先ほどの政治的な話題のときとはうって変わった、気色悪いまでの満足げな表情で《時姫》を見守っている。

 その彼女の眼で父を見ているシフルは、ただただこぼさずにはいられない。

〈なんでオレが親父にいやらしい眼つきでみつめられなきゃならないんだ……〉

 釈然としない状況である。見られているのは《時姫》であってシフルではないが、いま彼女の記憶を彼女の視点で見ているのがシフルだ。

〈我慢しろ。『証拠』なんだからな〉

 妖精の冷徹な言葉により、シフルのぼやきは葬り去られた。少年は引き続き父親の色目にさらされるとともに、女の眼で父親をみつめなくてはならない。いまだかつてない拷問である。軟禁のほうがまだましだ。

 しかし、目を逸らすわけにもいかない。妖精の言うとおり、これは《彼女》を信用するための証拠となる。もしも妖精の気がちがっていないとしたら、これまでの主張もすべて正しいことになる。すなわち、《彼女》は母の使いであり、母とはベルヴェットではなく《時姫(ときのひめ)》なる得体の知れない女で、そして《時姫》は、シフルが呪われた血を克服できるよう、強大な力を与えてくれるのだと。

(全部、本当だったらどうする?)

 少年は自分の胸に問う。胸の奥に、説明しがたいしこりがあって、シフルは迷った。

 ——オレは、その《力》とやらを受け入れるのか?

 自分の力で手に入れたのではない《力》を宿して、何のうしろめたさもなくロズウェルの前に立てるだろうか。

 むろん、正直にいえば、妖精は気ちがいなのだと思いたい。あるいは、困っている人をからかって歩く、暇をもてあました愉快犯的な妖精であるとか。それなら、笑って忘れることも可能である。が、妖精は、実際に父と《時姫》とのなれそめを見せた。——自分がこの女の腹から出てきたら、もうごまかしはきかない。

〈なあ、妖精〉

 シフルは、甘ったるい、見苦しさ満点の父の顔に辟易しつつ、かたわらにいるのだろう《彼女》に訊いた。〈この眼の持ち主が親父に出会ったのはわかった。だけど、これが《時姫》のもんだって、どうしていえる?〉

〈……〉

〈単なるナンパされた女かもしれないじゃんか。親父のつきあってた女の数なんて、ひとりやふたりじゃすまないんだからな。そのうちのひとりの眼だって可能性も、ないとは言い切れないだろ? 言い切れるってんなら、説明してみろよ〉

 妖精は黙っている。シフルはわけもなく、勝った、と思った。

 が、

〈言い切れる〉

 と、《彼女》。〈それは、この先を見ていけば明らかだ。時姫(ときのひめ)さま以外の女ではありえないとな〉

〈……あ、そう〉

 シフルは息をつく。〈じゃ、とっとと見せてもらうとする〉

 少年は口を閉ざすと、再び女の記憶見物に戻った。

 彼女はまだ、リシュリューと会話するでもなく、レエルゴー・ミューを味わうのに没頭している。しばらくして、ようやくゴブレットを置いた。

「いや、久方ぶりのレエルゴー・ミューだったぞ。それにしても、ニネヴェ産でもカレール地方のレエルゴー・ミューとは、最近の若造はなかなか舌が肥えている。褒めてやろうではないか」

 もはや完全に若い娘としての体裁をとっぱらった《時姫》は、さっきとは一転して愉快そうに笑った。店主も青年市長も、彼女の豪快かつ高慢な物言いに面食らいつつ、その知識に舌を巻いたようだ。店主など、

「よくご存じですなあ、お嬢さん」

 と、うなっている。「最近の若い娘さんのほとんどが、ニネヴェ産のリンゴ酒が上質だってことは知っていても、レエルゴー・ミュー・カレールなんて聞いたこともないはずですよ」

「『敵国』だからか」

 店主はうなずき、もう少し前の世代には、リンゴ酒はカレール地方のものしか飲まない、という人も多いんですがね、と付け足した。そんな彼らの熱望に応えて、戦時下といっても昨年までは限られた範囲ながらニネヴェとの貿易を続けていたのだが、今年に入って取り締まりが徹底されるようになった、と。

「全部、戦争のせいですよ。よいものがプリエスカに入ってこないのはね。あたしみたいな庶民には、教会と王家が戦争を始めた理由もよくわからないし、——本当になんとかしてほしいですよ」

「で、この『若市長』が期待の星というわけか」

《時姫》はすぐそばに座っている男を指し示す。店主をはじめとして、店内の客たちがしきりと首を縦に振った。青年市長は《時姫》の視線を受けて、確固たる自信を秘めた、それでいて一見穏和な笑みをみせる。ともかく、リシュリューが民衆の期待と人気を一身に浴びているのはまちがいない。期待が大きければ大きいほど、失敗に終わったときの失望も大きいんだけどな、とシフルは思ったが。

「お嬢さん」

 その客の中から老婆が進みでて、《時姫》に呼びかけた。「そのかっこうといい、若市長のことを知らないのといい、あんたは少々ものを知らなすぎるんじゃないかね。いくら若いったって、知らないでいいことと悪いことがあるだろう」

 どうやら、陰口を叩くのはやめたらしい。《時姫》はおもむろに、自分の着ている服を確かめる。彼女の視点である以上、先ほどからいかなる服が女たちの非難の的になっているのかシフルにはわからなかったが、それで合点がいった。女は鮮やかな青のワンピースを着ている。生地もおそらく絹で、どう考えても戦時下の統制のもとで着るべき服ではない。

 シフルがプリエスカ史の授業で習った、戦時下の服装に関する規制は、「新しく贅沢な衣服をあつらえてはならない」というもので、当時の仕立屋は安い服しかつくれなくなったそうだ。が、別に、元々もっている服を着るなというのではない。だから、老婆が主張しているのは、戦時下に独特の不文律の話なのだろう。

 すると、《時姫》は平然と問い返す。

「では老婆よ、おまえは現トゥルカーナ大公の名を知っているか」

 先刻からの高慢な口調で老婆呼ばわりされ、相手はそうとう癪に障ったようだったが、肝心の質問には言い淀むばかりだった。トゥルカーナは名目上は英雄同盟の盟主たる国家であり、ラシュトー大陸に住む者なら知らぬ者のない英雄クレイガーンが建てた公国である。が、今は英雄の血をひく大公一族の存在のほかは何らとりどころのない、地味な国だ。英雄同盟の一員でもないプリエスカでは、支配者の名すら聞こえてこない。

「タルオロット三世だ」

 はなから答えなど期待していなかったふうで、《時姫》は淡々と言う。「だがこれは、プリエスカ人でビンガム人たるおまえが知りうることではないから、知らなくても仕方があるまいよ。同様に、私はプリエスカ人でもビンガム人でもないんだ。こんな若造のことも、哀れな国王のことも、ずる賢い大司教のことも知らん。それに、プリエスカ人でなければ一緒に戦争をしてやる義理もないな。どんな服を着ようと、私の勝手だ」

 老婆はばかばかしい、とばかり舌うちした。

「話にならないね。今、外国人は国内に入れないんだから! どう言ったところで、あんたは規律を守らないだけのプリエスカ人さ」

「ちがうな」

《時姫》はきっぱりと否定する。

「じゃあ、何人だっていうんだい。あほらしい」

「私はロータシア人だ」

 彼女は淀みなく答えた。「私は、教会にそそのかされてゼン家を討ち、国を乗っとったコルバ家の連中の民になるなど、まっぴらごめんだ」

 老婆は色を失った。老婆と《時姫》のやりとりを遠目に見守っていた他の客たちも、さすがに黙ってはいられなかったようである。みな、それぞれの席から《時姫》を咎めるか、あるいは王家と教会を批判することの危険を教えようとして声をあげた。店内は喧々囂々の騒ぎとなった。

 店主は青ざめて固まっていたが、騒ぎの元凶がこの若い娘にあるとみて、

「若市長! そのお嬢さんになんとか言ってやってくださいよ」

 と、リシュリューに泣きついた。《時姫》は渦中にいながらも耳ざとく聞きつけて、

「ほう」

 と、どことなく意地悪げに笑った。「若造、おまえも私の服装に文句がおありかい。反体制的な小娘に、おまえはどう説教を垂れてくれる、『若市長』」

 彼女の挑戦的な発言に、人々は誰からともなく口を閉じ、青年市長に視線を注いだ。彼は傍観者のふりで黙々とレエルゴー・ミューを味わっていたが、《時姫》——妖精いわく美しい女性——に語りかけられたとあっては、だんまりを決めこんでいる場合ではない。父はせっかくの投資をむだにする人間ではないのだ。この機会を必ずや利用するだろう、とシフルには予想できた。

 そして、それは的中する。

「私が思うに、その服は——」

 みな息を呑み、耳をそばだてた。「——とてもよく、似合っている」

 善良なるビンガム市民の面々は、我が耳を疑った。

「君の曇り空の瞳に、明るい青が映えている。君は美しく、服装に食われることもない。誇りをもってそのドレスを選んでいるのだから、見事というほかないな」

 プリエスカ国民の模範たる市長は、そんな台詞を真顔でいいのけた。むろんまなざしは、《時姫》の眼から逸らされることがない。

 不気味なまでの静寂が酒場を包んだ。青年市長に挑戦した彼女も、穴も空くまでにリシュリュー・ダナンをみつめつつ、その唇を閉ざしている。

 が、次の瞬間、沈黙の重苦しい空気を、女の哄笑が破った。他の客は、予想と期待をまるきり無視した若市長の発言に、戸惑いを覚えはじめたようだ。店内はもとのざわめきを取り戻していく。

「おかしな男だ」

 依然として破顔しながら、彼女は青年市長にささやく。「こんな状況で女を口説けるのか、おまえは」

「君の名を教えてくれようか。あと、君がどこの誰なのか、教えてほしい」

 男は尋ねた。《時姫(ときのひめ)》はにわかに笑みをおさめると、眼を伏せる。

 それから、こう告げた。——きっとそれは、おまえが知っているだろう。

 男は眉をひそめる。

「私は真剣だよ、お嬢さん」

「私とて真剣だ、『若市長』。おまえは私を知っている。おまえの知る名で呼べば、私はその存在になる」

「……ばかにされているな」

《時姫》は頭を振った。ちがう、と反論もした。が、リシュリューには理解できない。

「私は君を知らない。君のような女性を、これまでにひとりも知らない」

 そう熱っぽい眼でつぶやいたリシュリューは、しかし、

「君が私と来れば、自宅秘蔵のレエルゴー・ミュー・カレールをごちそうできるだろうが」

 と、やや確信的に笑った。

「なにッ?」

 間髪を入れず、《時姫》は反応した。シフルには、そのときの彼女がいかなる表情になったかはうかがい知れなかったが、立ちあがり、青年市長の腕をとった彼女は、こう言った。

「——悪くない、な」

​To be continued.

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