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​精 霊

第一部 プリエスカ・理学院編

第6話「時姫」(2)

 そのとき、やたらとうれしそうな父の顔が、ぼやけた。

〈あれ?〉

 酒場の風景を、雨雲にも似た黒い闇が覆いはじめ、あっという間に埋め尽くしてしまった。まばたきをしてみる。何度まぶたを開けても、あたりは明るくならない。しかし、ふと見ると、やはりかたわらには妖精がいて、どこにも光がないというのにその姿ははっきりと浮かびあがっている。

〈なんだよ、終わりか?〉

〈いや、まだだ。だが、全部は見せられん。男女の営みに関心があるようなら別に見せてもいいと、時姫(ときのひめ)さまご自身はおっしゃっているが〉

 シフルは思いきり噴きだした。

〈いッ——いい! やめとく〉

 やっと、どうして「全部見せられない」のかを理解して、シフルはうろたえる。すっかり忘れていたが、その女がシフルの母親であるということは、そういうことなのだ。

〈とにかく今ので、時姫さまと思しき女がリシュリュー・ダナンと関係をもったことは明らかになった〉

 シフルはうなずいた。が、ある一点への強調を忘れない。

〈あくまで《時姫》と『思しき』女だけどな〉

〈強情な……〉

〈ふん〉

 シフルは最後まで抵抗をやめる気はない。

〈まあいい、次でいやでもわかる。時姫さまとリシュリュー・ダナンが出会って、一か月後のことだ〉

〈おう〉

 シフルは意気ごんで拳を握る。妖精は、少年が隙あらば「証拠」としての不備を突き、事実を跳ねつけようという気概充分なのを見てとり、呆れたように肩をすくめた。

 ——オレが信じられないものは、真実じゃないんだからな。

 シフルの灰がかった青の瞳は、ありありとそう語っている。妖精はもはや何も言わず、黙って手をかざした。ゆっくりと、指先で宙を掻く。暗い空間は大きな一枚の布のように裂け、そこから新たな風景がひろがっていった。

 少年の瞳に、もう一度エリンネーの街が映った。

《時姫(ときのひめ)》と思しき女は角の教会を曲がり、リシュリュー・ダナン通りに差しかかったところだった。もっとも、ダナン家のある道に父の名が冠せられたのは休戦後まもないころだから、このころはまだちがうふうに呼ばれていたのだろう。そう考えていると、おりよく看板が視界に飛びこんできた。《ポプラ通り》。ポプラ並木の通りを、単純にそう呼んでいるらしい。

 彼女は、おそらくダナン家に向かっている。そこでいったい何を見せてくれるのか、シフルには見当がつかなかった。シフルを産み落とす瞬間であるとか、そういった決定的な証拠を突きつけてくるとは思えない。彼女が父と出会って、まだ一か月しか経っていないというのだから。

(まだ妊娠がわかる時期じゃないもんな、たぶん)

 一般的に、妊娠が判明するにはもう少し時間が要る。(たった一か月で産めるわけないし。こいつ、何を証拠にしようっていうんだ?)

 ふいに、女が横を振り向いた。

「おまえは口をきかないでいいからね」

「はい」

 彼女のかたわらで、うなずいた者がいる。

〈はあ?〉

 シフルはとっさに反応した。思わず、視界が《時姫》の眼に固定されているのも忘れて、自分の横に顔を向けようとした。

 そこにいたのは、まぎれもなくクーヴェル・ラーガ(青い石)の髪と瞳をもつ妖精だった。今と寸分たがわぬ姿で、十六年前の女の隣に歩いている。

〈なんでおまえが?〉

〈時姫さまは俺の主だ。あのかたの記憶に俺がいて、何らおかしいことはない〉

 妖精は当たり前のように返す。

〈だって、十六年前だろ? おまえ、どう見ても十代じゃんか! 計算が合わない〉

〈阿呆〉

《彼女》の返答はあくまで冷ややかである。〈この器は人間の死体だ。中身がなければ腐るが、精霊が宿借りすると時が止まる。妖精は年を食わん。きさまいったい召喚学部で何を勉強してきた〉

〈あ、そっか〉

 シフルはぽんと拳を叩く。隣から、あからさまな嘆息が聞こえた。シフルは笑ってごまかした。そう、妖精とは、精霊が美しい人間の遺骸を借りたものなのだった。いったん死したものは成長などしない。ただ、精霊が宿る限り、朽ちないだけ。

「俺はあなたの命のみを果たします」

 十六年前の妖精は淡々と言った。「ひとつ、あなたを手助けすること。ふたつ、俺が手助けすることで、リシュリュー・ダナンをあきらめさせること」

「そうだ」

 女は目を伏せた。「もう、限界だ。これ以上あいつのもとにとどまれば、いつか王に知れよう」

「はい」

 妖精は肯定した。「必ず。そうなれば、時姫さまが失うものは少なくないでしょう。あなた自身のお力、美、永遠、——それに俺も」

《時姫》は少し笑ったようだった。

「そしたら私は終わるかな」

「はい」

 絶望的な響きのあるつぶやきにも、妖精はごまかしも否定もしない。

「ま、そうならないように先手を打つんだ。おまえもせいぜい祈ってろ、空(スーニャ)」

 はい、と小さく答える。《彼女》の美しい横顔に表情らしい表情はなかったが、《時姫》は頓着しなかった。慣れ親しんだ主従のようである。いったいどういった類いの主従なのかは想像できなかったが、それだけは確かだった。

 妖精と《時姫》が言葉を交わすあいだに、ダナン家が近づいてきた。ポプラ通りの横に、古めかしい煉瓦塀が続いている。やがて現れた青銅の門を勝手知ったる様子でくぐり、《時姫》は玄関扉を叩いた。

 ダナン家の執事が顔を出し、慣れたふうで彼女を当主の部屋へと導く。青い髪の、ただごとではない美貌をもった妖精に、執事は明らかに面食らっていたが、そこは年輪でもって冷静に振るまった。

 執事は、現在のダナン家執事と同じ老人である。もちろん、シフルの知る彼よりはだいぶ若い。

(バッソは《時姫》を知っていたのか。……いや、この調子だと、使用人全員知ってるだろうな。親父が恋人を連れこむたびに、こうやって歓待してるんだろうが)

 彼らの主人に対する忠勤ぶりには呆れるしかない。そうして倫理問題を無視した歓待の末、母との結婚後にも女が我がもの顔で入りこみ、ひと暴れしていったのだ。もう少し父のお遊びをいさめてくれたほうが、家の平穏と繁栄を願う身としてはよかろうものを。

(そうすれば、母さんだって傷つかなかった)

 と、シフルはひとりごちる。

 一方《時姫》は、部屋の前まで案内されると、やはり我が家のように乱暴に扉を開けた。

「来たぞ、リシュリュー」

 何の前触れもなく闖入した女に、青年市長はべつだん驚きもせず、静かに顔をあげる。彼は机で文書を作成している途中のようだったが、《時姫》の姿を一瞬見てすぐに紙の上に視線を戻し、少しだけペンを動かすと、ややあって放りだした。

「きりのいいところだ」

 平然とそう告げる。

「女が訪ねてくるたびにそれでは、いつまでたっても仕上がるまい?」

《時姫》は皮肉っぽく笑う。とうぜん彼は、

「そんなことはない。君だけだ」

 と、答えた。女は、どうだか、と今度は鼻で笑った。そんな、シフルにはよく理解できないやりとりの最中にも、青年市長はうきうきと近寄ってきて、女の肩を抱こうとする。女はそれを許した。

〈うっげー〉

 シフルがわめくも、かたわらの妖精は沈黙しか返さない。どうして父といちゃつく女の視点にならなければならないのか、どうして妖精の視点ではいけないのか。限りない理不尽を感じるシフルだった。

 さて、女は青年市長の腕のなかから彼を見上げ、いつもの低い声で彼を呼ぶ。

「リシュリュー」

「なんだ? ヴァレリー」

 父は問い返す。どうやら女は、《ヴァレリー》という名前らしい。

〈時姫さまの別称のひとつだ〉

 と、妖精が横で解説する。

「欲しいものでもあるのか? 君が飲み尽くしてしまったから、レエルゴー・ミューはもう残っていないが、それ以外なら叶えよう」

 父はきざったらしい口調で言う。それをみつめさせられているシフルは、怖気のあまり逃げだしたかった。しかも、戦時中だというのに恋人の物欲を満たしてさしあげようとは、この市長の色ボケも極まれりだ。改めて、なぜにして父は人気があるのか。シフルは頭が痛くなってきた。

「いや」

 リシュリューの問いを、女は否定した。「欲しいものなどない。レエルゴー・ミューは、この一ヶ月で充分堪能させてもらった。もう満足だよ」

 女の言葉に、父の色ボケ顔がみるみる醒めていった。彼女は続けて告げた。

「だから、お別れだ」

 女の口調は、何の感傷も帯びてはいなかった。それが湿っぽい感情を伴いやすい傾向にあることは知りつつも、彼女自身は何ら心が動かないのだと、《時姫(ときのひめ)》の態度が如実に物語っている。

 だが、青年市長はうろたえなかった。別れを告げられた男が一般にどうした行動に出るかなんて、知ったことではないけれど、たぶん父のは特殊だろう——と少年は思う。

「……これはみなには秘密なんだが」

 しばし唇を閉ざしていた父は、一瞬だけ思案顔になったのち、かすかに笑った。どことなくいたずらっぽい表情は、ついさっき、シフルが目撃させられた二人の出会いの際にも見た気がする。

「実は最近、さる皇家と接触をとることに成功してね」

 と、父は言った。「親交のしるしにと、紅茶をいただいた。今やプリエスカでは紅茶はすっかり貴重になってしまって、ふつう手に入らないんだが……」

 ——さる皇家。

 シフルは、その言葉に息を呑んだ。このラシュトー大陸で、統治者一族に対して「皇家」という単語を使用する国はひとつしかない。すなわち父は、ビンガムを守るために、教会と王家にとっての最大の敵・ラージャスタンとも誼を通じたのだ。そして、最終的にビンガム市内での徴兵を一度たりとも実施せず、休戦協定において中心的役割を担った、という話につながっていく。

(親父って……)

 ビンガムとプリエスカの英雄的市長、リシュリュー・ダナン。その名を出せば、誰もがシフルを意識する。そんな彼のすごみが、ようやく理解できたシフルだった。

 しかし、ここでの青年市長にとって、ラージャスタンは紅茶の産地でしかない。

「君も知ってるだろうが、ガリーブ茶といってね。香りはフルーティながら、渋味もまた格別なんだ。休憩時間によく飲むんだが、眠気覚ましに最適だよ。が、さる皇家にもらったものだから、使用人にもこのティータイムのことはいえない。せっかくの紅茶も、いつもひとりで味わうことを余儀なくされている」

 彼は冗談まじりに、そこまでひと息にしゃべった。冷静にみえて、実はそうでもないのかもしれない。さっき見た一ヶ月前の父も、興奮するにつれて話に区切りがなくなり、早口にもなっていったのだ。おそらく彼は、興奮じみた語りでさえも、語気を弛ませる冗談を挿入せずにはいられない性分なのだろう——特に女の前では。

 リシュリューは咳払いして昂りを鎮めたうえで、《時姫》に尋ねた。

「君は、紅茶は好きか?」

 意識的に間をとっていることがうかがえる、青年市長の問い。対する《時姫》は、まったく余裕の体でそれに答えた。

「ああ。中でもガリーブ茶はいいな」

「そうか。では、手持ちの葉をぜんぶ君にやろう。同じガリーブ茶でも皇家御用達だ、舌の肥えた君もきっと気に入る」

〈げっ!〉

 シフルは悲鳴をあげた。父の顔がさらに接近してきたのである。何をされるのであっても、自分ではなくこの女なのだが、どちらにしてもいやすぎる。

「その代わり——」

〈えっ〉

 近づいてきたかと思われた、若かりしころの父の顔が、見えなくなった。

 代わりに——男の肩が《時姫》の視界を埋めた。

 骨ばった肩が、少し震えている。女がみじろぎして男の顔を見上げると、彼はまぶたをかたく閉じ、切なげに眉を歪めていた。それは祈るようでもあって、シフルはひどく驚いた。

「その代わり、君のひと晩を、私に」

 父は女をかき抱き、そうささやいた。「それを最後に、私は君を忘れよう」

 父は正気で言っているのだろうか、とシフルは思った。父がこれほどに誰かを求めたところなんて、今まで見たことがない。それなのに、あがきもせず、ひと晩一緒にいただけであきらめられようか。なぜ——忘れるだなんて、宣言できるのだろう。

(オレなら絶対ヤだっていうよな……)

 それほど好きになれる女の子に出会えたなら、その人がひとたび自分とともにいてくれたなら、このままずっとそばにいてほしいと乞い、すがりついてやる。みっともなくても、その人を失うよりはきっといい。

〈親父——〉

 忘れるだなんてかっこつけてんじゃねえよ、とシフルはつぶやく。が、十六年前の記憶の残像にすぎない父に、シフルの声は届かない。父はもう一度、君のひと晩を私に、と繰り返した。しっかりした声にも聞こえたが、そのまま消えてしまいそうな声でもあった。

 シフルは軽く嘆息した。知りたくて知りたくなかった父の真実が、目の前にある。それは、必然的にシフル自身の真実でもあった。

(この眼の持ち主が誰かなんて、重要じゃない)

 少年は、女の視点で男の肩を凝視しながら、ひとりごちる。父の肩の小刻みな震えも、女が十六年前に感じたのであろう父の体温も、ただひとり——この女のためにある。出会ってたった一ヶ月で、どうしてあの父がここまで惚れこんだのか、シフルには推測することしかできないけれど、とにかく父が彼女に求愛したのは確かだ。それも、遊びではなく、真剣に。

 ——母さん以外の、女に。……

 なぜ自分が絶望しなければならない、と思わないでもなかった。父が母を愛していないことは昔から明白だし、傍目に見ても冷えきっていた両親の仲に、今さら期待をかけるほうが愚かなのである。でも、心臓をわしづかみにされたような感覚は、少年のからだから去っていかなかった。

「よかろう」

 女は、いつもの調子で尊大に返した。「ガリーブ茶と引き換えに、今夜ひと晩をおまえと過ごす愚を犯そうではないか」

「愚、か」

「愚以外の何ものでもないわ」

 リシュリューの自嘲的なぼやきに、《時姫(ときのひめ)》は冷然と言い放つ。「ひと晩のために、全部が終わらないとも限らぬというに。——空(スーニャ)!」

 女は青年市長のからだを押しのけ、うしろを振り返る。そこには、彼女とともにやってきたクーヴェル・ラーガ(青い石)の色の妖精が、静かにたたずんでいた。リシュリューは今の今までまったく気づいていなかったらしく、あっと驚きの声をあげる。

「私の僕(しもべ)の空(スーニャ)だ。どうしても彼の力を借りねばならないことがあって、連れてきた」

《彼女》——正しくは《彼》のようだが——は、《時姫》の紹介に応えて目礼した。女が妖精のほうを向いているので、シフルには父の表情はうかがえないが、おそらくその美貌に目を剥いていることだろう。なにせこの妖精、妖精なだけあって、女か男かも判別できない、人間とはとてもではないが思えない、ひたすらに整った容貌なのだ。

「空(スーニャ)、聞いてのとおりだ。私が呼ぶまで、外に出ておいで」

「はい」

 青い妖精は、主の命令にうなずいた。

 が、扉に手をかけて振り返り、

「ですが、俺は心配です」

 と、ぽつりとつぶやく。

《時姫》はにこりともせず、しかし何かの冗談のようないいまわしで、

「さっきも言ったろう。——せいぜい、祈れ」

「……わかりました」

 彼は淡々とした口調で答えて、そのまま部屋をあとにした。

​To be continued.

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