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​精 霊

第一部 プリエスカ・理学院編

第8話「空という名の」(3)

 シフルの名前は、そこにはなかった。

(……ああ)

 少年は目を閉じた。(やっぱり、先生たちにはわかるんだ。空(スーニャ)はオレに不相応だって——オレの力ではないんだって)

 シフルは選ばれなかった。そのことで、ショックはショックだった。けれど、シフルはどこか安堵している自分に気づいてもいた。

 これは、本来そうなるべき結果なのだ。そもそもシフルは四名のなかで一人だけ経験が浅い。Aクラスで何ヶ月も何年も努力してきた連中に、一ヶ月やそこら死にものぐるいで鍛練したからといって、食いこもうというのが無茶なのである。しかも、ただ無茶なだけでなく、シフルは生来の不利な条件を背負っている。奇跡でも起こらない限り、これ以外の結果などありえなかった。

 いや、奇跡は起こったのかもしれない。シフルは何にせよ、あらゆる召喚士を凌駕する大きな力を手に入れた。でも、それが正当なものでないことを、試験官たちは見抜いたのだ。

(そうだ。オレの力は、正当じゃない。卑怯な手で得た力)

 シフルはもう一度、掲示板に目を向けた。何度見たところで、結果は変わらない。

(卑怯な手に走ったやつを、まっとうに努力してきた人間にとって代わらせるわけがないんだ。あってはならないんだ、そんなこと)

 しかし、

(ラージャスタン、か)

 少年はうつむいた。(……行きたかったな)

 ロズウェルと、一緒に。……

「——ダナン」

 彼女が振り向いた。

「うん」

 シフルは精いっぱい笑ってみせる。「だめ、だった」

 ごめん、期待に添えなくて。そうつぶやくものの、声にならない。彼女の顔を、ちゃんと見られない。自分が納得しているより、受けた打撃は大きかった。理屈ではわかっているのだけれど、これからはロズウェルを追いかけられないという厳然たる事実に、自然と心がしぼんでしまう。もう、彼女に張りあうことだってできなくなるのだ。

「でも、おめでとう。ロズウェル」

 シフルはやっとの思いで顔をあげ、ロズウェルの眼を見て祝福した。

 ところが、

「……おめでとう、じゃないだろ」

 返ってきたのは、祝福に対する感謝ではなく、怒りのにじんだ言葉。

「ロズウェル?」

「おめでとう、じゃない」

 困惑するシフルに、彼女は強い語気で繰り返す。「……こんなこと、あってたまるか! 私は認めない」

「え?」

 シフルがきょとんとしていると、ロズウェルはいきなり彼の手をとった。

「——来い!」

「え——」

 そうして、唐突に駆けだした。「ロズ、ウェル?」

 シフル自身の意思などおかまいなしで、彼女は走る。ロズウェルは運動神経も抜群で、足も速い。そんな彼女が怒りにまかせて駆けるものだから、シフルにはついていけない。それなのにロズウェルは強く手を握っており、彼女が何のために憤っているのかを思うとなおさら振り払うわけにもいかず、シフルはぎりぎりのところで彼女に続いた。

 うしろから、誰かが追いついてくる。

「おい、ロズウェル、どうする気だよ!」

 メイシュナーだ。彼はロズウェルよりさらに足が速いらしい。

「どうする気もなにも、結果に異議を申したてるに決まってる!」

 ロズウェルは彼をどなりつけた。メイシュナーは彼女の剣幕に一瞬腰が退けたものの、気をとりなおして言い返す。

「先生たちが決めたことだろうがよ! それを、あんたの個人的な感情で変えられてたまるか!」

「個人的な感情?」

 彼女は皮肉っぽく笑い、急に足を止めた。シフルとメイシュナーは勢いで前のめりになったが、かろうじて体勢を保つ。ロズウェルがなおも笑っているので、メイシュナーはいっそう感情的になり、彼女をにらみつけた。

「個人的な感情は、いったいどちらかな」

 ロズウェルは冷ややかな声で問う。「私? おまえ? それとも——学院と教会と、王家?」

「ロズウェル……」

 シフルは彼女を制止した。しかし、彼女は逆に、

「思ったよりお人好しだな、ダナン」

 と、鼻で笑う。

「おまえは精霊召喚学研究の生贄になる。彼らはな、おまえが精霊召喚士として成長しようがしまいが関係なく、ただ研究の材料にしようというんだ。カウニッツにしても、彼の精霊召喚の成功率とレベルを考えれば、ラージャスタンで無事にすむわけがない。——いいか? 二人とも」

 ロズウェルはもはや、微塵も笑っていなかった。「——彼らは、ダナンとカウニッツ、二人ともを殺そうとしている。学院と教会と王家の思惑のために」

「それでも、決まったんだよ!」

 メイシュナーは叫んだ。「カウニッツが選ばれたんだ! ダナン君を残すかどうかは先生たちが決めることで、ロズウェルが決めることじゃない」

「それはもっともだ」

 ロズウェルは静かに答えた。「だが、まちがいをまちがいのまま放置するのが正しいとは思えない。誤りを放置するにしても、おまえには友情という正当化もたやすい隠れみのがあるかもしれないが、私にはないしな」

 彼女は踵を返す。シフルは彼女に引っぱられるかっこうでついていく。メイシュナーはうつむき、歯を食いしばっていたが、やがて思い立ったようにあとに続いた。そのころには、騒ぎを聞きつけたルッツとカウニッツもやってきて、けっきょく選抜試験を受けた五人が揃ってカリーナ助教授の研究室をめざすことになった。

「勢いがないね、シフル」

 ルッツがシフルのそばに寄ってきた。「あんなの呼んでみせて、それなのに落とされたんだから、さぞかし君は怒ってるだろうと思って来てみたんだけど。来たら、怒ってるのは君じゃなくてロズウェルだった。なんで?」

 言いながら、ルッツはつないだ手を指さして、からかうように口角をあげる。シフルは恥ずかしさに頬を紅潮させたが、ロズウェルは冗談でやっているわけではないので、手を振り払うわけにもいかない。

「なんでって……」

 シフルは、ロズウェルとメイシュナーの口論の内容を伝えた。まあ、そうだろうね、とルッツは相槌をうつ。

「あのさ、本当に……そうなのか?」

 シフルはしどろもどろに尋ねた。「本当に、オレを利用するために、オレをプリエスカに残そうとしているのか? 先生たちが、空(スーニャ)が本当はオレの力じゃないってこと、わかったからオレを落としたんじゃなくて?」

「どういう意味さ」

 ルッツは首を傾げた。怪訝な顔をした他の三人も会話に加わる。

「だから——」

 シフルは自分の考えを言葉にする。空(スーニャ)という妖精は、「母」——むろん実の母や《精霊王》が云々という話は伏せてある——の僕であり、「母」がシフルに力を与えるというので、突然シフルの僕になると言いだした。

 つまり、シフルが「母」の子だからこそ得られたものであって、自分自身の努力で獲得した力ではないのだ。だから、空(スーニャ)の力が本来シフルのものではないということを、試験官たちは見抜いたのではないか。分不相応だとわかって、留学するに足る能力がないとみなしたのでは。

 すると、それを聞いている四人の顔が、呆れを含んだものに変化していく。しまいには、推論を口にしつつ、シフルは同級生たちの顔色をうかがっていた。

「ばかだね。くだらない」

 話を聞き終えたルッツが、開口一番そう言い放った。

「おれも、今回はドロテーアの猫野郎に賛成だな」

「頭が悪すぎる」

 メイシュナーとロズウェルも、ルッツに続いてそう言った。彼らが何に呆れているのか理解できず、シフルが四人の顔を順々に見ていると、

「根本的なとこまちがってるよ、シフル」

 と、ルッツが断言した。「あの妖精がシフルを主と呼んでいるのに、あれは実は『シフル自身の力じゃない』だって? あのねシフル、それ言ったら、俺が風(シータ)の力を借りてるのだって、あれは風(シータ)の力であって、俺自身の力じゃないんだよ? 召喚ってのは、基本的に精霊の力を『借りる』ことだ」

「そういうことじゃないんだ」

 シフルは頭を振った。「ルッツは風(シータ)に愛されて、風(シータ)を自分の手で呼べるじゃないか。オレはちがう。『母』の血が流れているから、空(スーニャ)が力を貸してくれるだけで」

「ばーっか」

 ルッツはもういちど罵った。シフルは二度もばか呼ばわりされたので、さすがにむっとした。

「なんなら、俺が風(シータ)に愛される理由を教えてあげようか」

 ルッツは声を低くする。手招きされて、四人は耳を寄せあった。

「これは、いつも風(シータ)を見ていてわかったことだよ」

 彼はささやく。「風(シータ)はね、俺の顔が好きなんだ。それだけ」

「そんなものだ」

 ロズウェルもうなずいた。

「水(アイン)が私を愛してくれるのは、私の住む村の近くに川の水源があって、私が幼いころからよくそこを訪れていたからだと、そう水(アイン)に直接聞いた。……で、」

 彼女はシフルにちらと視線を投げる。「私たちとダナンは、何かちがうか? 顔や出身地、それに血筋。どれも自分の力ではどうにもならないことだ。そうだろう?」

 ロズウェルはシフルをまっすぐに見据える。

「空(スーニャ)の元素精霊長——彼がダナンを主と呼んだ以上、彼の力はおまえの力だ」

 シフルは眼をゆっくりとみひらいた。「もう一度いおう。——おまえ自身の、力だ」

 だから、ダナンは私たちと一緒に来るべきなんだ、と彼女は言った。精霊召喚士としての経験を積むために、ラージャスタンに赴かなくてはならない、と。それでこそシフルの大きな力が活かされ、シフル自身も活きてくるはずだと。

「カウニッツには悪いがね」

 と、彼女は付け足した。メイシュナーは気づかわしげにカウニッツのほうを見たが、彼は黙っている。カウニッツもまた、ロズウェルと同じように考えているのかもしれない。メイシュナーはとっさに反論しかけたものの、カウニッツが何も言おうとしないので、彼も口をつぐんだ。

「ダナン」

 ロズウェルが呼びかける。「一緒に行くだろう? ラージャスタンへ」

 シフルはカウニッツとメイシュナーに目をやった。カウニッツは目を逸らしており、メイシュナーはうつむきがちでいる。シフルはしかし、依然ためらっていた。それを口に出すのは、残酷なことである。

 けれど、

 ——おまえ自身の、力だ。……

 ロズウェルの言葉が背中を押した。

 とたんに、

「行きたい」

 望みが、口をついて出た。

(あ)

 まずい、とシフルは思った。が、もう遅い。ロズウェルは企み顔で微笑み、

「言質はとった」

 と、告げる。「——では、行こう」

 そして、シフルの手を離した。

(行く——)

 シフルは、自分の意志でロズウェルを追おうと思った。(——ラージャスタンへ、オレは行く)

 ——絶対、行くんだ……!

 少年は、再び走りだした。

 気がつくと、目の前には誰の背中もなかった。ロズウェルはうしろに続いていた。ルッツも楽しそうにふたりを追いかけ、メイシュナーとカウニッツも、見届けないわけにはいくまいと足をはやめる。

「カウニッツ……、ダナン君が戦うなら、おまえも戦うよな?」

 メイシュナーは小さな声で友人に問いかけた。けれど、カウニッツの答えはなかった。長身の青年は、静かに黒い瞳を伏せるのみである。

 

 

 ノックもなしにカリーナ助教授の研究室に駆けこむと、部屋は無人だった。

 合格者は発表を確認次第ボルジアの研究室に来ること、と自ら指定しておいて、どうやら用事ができたらしい。シフルたち五人は出鼻をくじかれ、しばし呆気にとられた。が、よく見ると机の上にメモが置いてある。教授会があるので少し遅れます、待っていなさい、と合格者四名宛に伝言がしてあった。

「教授会か」

 それは、好都合。シフルはメモを放ると、再び走りだす。

 教授会がどこで開催されているのかは知らないが、学院を出るわけがないのだから、話は簡単だ。構内で、召喚学部の教授陣全員が一堂に会せるだけの広さのある教室を次々に当たっていけば、いつかはたどりつける。まずは今いる研究室棟から、広い部屋を順番に見ていけばいい。

 シフル、ロズウェル、ルッツの三人は無言で三方に散る。メイシュナーとカウニッツはあまり協力する気はないようだったが、研究室棟はおれたちが調べとくからダナン君は他の棟に行け、と申しでてくれた。おのおの、ちがう棟をしらみつぶしに見ていく。シフルが、Aクラス教室のある棟をまわっていると、風(シータ)が追ってきて、ルッツの声を届けた。

〈みつけたよ、シフル〉

 風がささやく。〈図書館三階の大教室だ。はやく来ないと終わっちゃうよ〉

「ありがと。ルッツ、風(シータ)」

 シフルは礼をいって踵を返した。立ち止まることなく図書館に走っていき、その勢いで階段を駆け昇る。シフル以外みな足が速いようで、少年がそこに到着したとき、すでに他の四人は大教室の前で待ちかまえていた。

「おっそーい」

「ごめん。教えてくれて、サンキュ」

 涼しい顔で文句をいうルッツに、シフルは息も絶え絶えに苦笑する。「さて——行くぞ」

 シフルは長い息を吐いた。それから、思いきり吸いこむ。夕方の冷たい空気が少年の体内を満たし、からだの熱を奪っていった。もういちど深呼吸すると、息切れがおさまった。最後に咳払いして、準備は万端である。

(どうすっかな。勢いよく殴りこむか、慎ましやかに礼儀正しく忍びこむか。……うーんと)

 シフルは扉に手をかけてしばし悩んだ。が、

(いーやもう、あとのことなんか知らねー!)

 把手を握り、思いきって押す。

「——失礼します!」

 バタン、と遠慮のかけらもない大音。

「学籍番号一四八六、メルシフル・ダナン!」

 それに続く、慎ましさとは無縁の大声。「ラージャスタン留学選抜試験の結果に異論があって、来ました! 邪魔をしてすいませんが、オレの話を聞いてください!」

 少年の第一声は、よどみないひと声となった。声を裏返らせることなく言い終えたシフルは、内心拳を握る。はじめが肝心なのだ。

「メルシフル・ダナン……?」

 進行役を任されているらしいヤスル教授が、信じがたい様子で口を歪めた。厳かに進行していたはずの教授会は、乱入者の登場で騒然となった。

 室内には、百人ほどの召喚学部教諭らが雁首を並べている。教壇の上では進行役のヤスル教授がわなわなと震えだし、席に着いて会議の進行に従っていた他の教授たちは、騒がしく開けられた入口扉を呆気にとられてみつめていた。シフルは彼らを見渡し、その人数の多さに一瞬ひるんだ。けれど、中止など許されないと知っていた。扉を押したのは、他でもない自分。

「ダナン! いったいどういうつもりだ。こんな真似をして、どうなるかわかっているのか!」

 ヤスル教授が激しい剣幕で怒りだす。

「わかってます! オレは、あとさき考えないでこんなバカをやってる。だけど、バカでも言わなくちゃならないことはある。わからないことを、わからないままにして流したくない!」

 シフルはヤスル教授ではなく、同席している教師全員にむかって叫んだ。「どうして、オレはラージャスタンに行ってはならないんですか! 試験の三つのポイントを、オレは押さえたはず。不合格にされるいわれはない!」

 まず、五級火(サライ)召喚に成功した。四級には失敗したが、その次に空(スーニャ)の元素精霊長を呼んだ。彼はシフルを主とする妖精なので、確実さの点ではこのうえない。元素精霊長級の力をまちがいなく操れるということは、他の誰よりも確かに我が身と皇家を守れるということを意味する。そんなシフルが留学に不適切だというなら、いったい誰が適切だというのか。

「先生がたがどんな意図を隠していたにせよ、オレはそんなの知りません。オレは、先生がたが規定した基準をおさえたんだ。——だから、あの結果には納得できない! 撤回してください、もしくは、納得できる理由をください! さもなければ、……」

 シフルは唇を閉ざし、そして意を決して開いた。「……オレは、自主退学も辞しません」

 その言葉は、自然に飛びだしたものだった。口に出したあとになって、とてつもなく重大な発言であることに気づいたが、しかし後悔はなかった。空(スーニャ)の力を借りられるということが、すなわち自分の力の大きさであるというなら、怖いものなど何もない。

 彼いわく、この世で空(スーニャ)という属性を操れるのはシフルただ一人。精霊召喚学は、空(スーニャ)という属性の発見によって大きく前進するだろう。また、それだけではない。元素精霊長の力を自在に使役できる者など前代未聞である。なにしろ、元素精霊長の前には一級以下の全精霊がひざまずくのだから、シフルを前にしてはあらゆる精霊召喚士は無力になる。その影響力は絶大、シフルを抱えることによってプリエスカが獲得する戦力も莫大。

 そのように、国や学院にとっての利益は明白だ。が、シフルにとってはどうだろう。

 自分の存在が、プリエスカに大きな戦力を与えること自体には異存はない。特待生として学費を免除してくれたうえに、精霊と出会わせてくれた学院への恩は、返せるなら返したい。それに、一般的に特待生制度はそうした前提にあるのだろうから、いつかは返さないわけにはいかない。

 が、学院やプリエスカがシフルを縛るとなったら話は別である。いずれ恩を返すべく教会で働くにしても、今シフルが望むのは己の成長だ。より成長し、力をつけたいと考えているからこそ、理学院に入学した。それなのに、成長するための留学を学院側の思惑によって許されず、意図的に学院のなかに閉じこめられるのでは、話がちがう。それでは、学院に利益があっても、シフルにはない。利益を与えられないならば、学院に残る理由も義理もない。あったはずの恩すらも消え失せよう。

 退学後は、家には帰れない。しかし空(スーニャ)がいれば、何かしら力を役だてる場所もみつけられるはず。

(たぶん、なんとかなる)

 シフルには自信があった。退学後の身の振りかたはさておき、ここで教授たちが下す決断については。

 彼らはシフルを手放せない。シフルの力は、唯一シフルが持つもの。取り替えのきくものではないのだ。

「落ちつきなさい、ダナン。よく考えるんだ」

 ヤスル教授がシフルをなだめようとする。

「じゅうぶん落ちついてます。オレは冷静ですよ」

 シフルは静かに応じた。「それより、冷静になって考えなければならないのは先生がたのほうです。脅しのような真似をしてすいませんが、オレにはあとがない」

 オレは、どうしてもラージャスタンに行かなければ——少年はそう続けた。

 ひとつには、ロズウェルという目標を見失わないため。もうひとつには、いつか空(スーニャ)の力を借りなくとも、自分の力で強い精霊を使役できるようになるためだ。《精霊王》に詳しい者が、かの国にはいるかもしれないのである。国内では、呪いを解く手段がみつかるとは思えない。プリエスカにおける精霊召喚学研究の最高峰たる理学院がこのていたらくなのだから。

 恩ある学院にたてついても、これだけは通さなければならないと、シフルは思った。すべての答えが、ラージャスタンで待っているような気がする。プリエスカでわからないことが、きっとラージャスタンで見えてくる。たとえ気のせいだとしても、今の少年には確信だった。

「お願いします! オレを行かせてください」

 シフルは深く頭を下げる。「ラージャスタンで得たものは、これまでにいただいたぶんと合わせて、絶対にお返しします。……お願いです!」

 少年は繰り返し懇願した。同席している教授陣は、多くが言葉を失っている。彼の望みを突っぱねるのは簡単だが、その行為が招く打撃は少なくない。かといって、やすやすと受け入れることもできない。彼らは理学院召喚学部の教授、召喚学研究の発展を心から願う身だ。さらに、それだけではすまない問題もある。

 がたんと音をたて、席を立った教師がいる。その人物は、ゆっくりと教壇に近づいてきた。

「カリーナ先生!」

 シフルは表情を明るくした。彼女は、召喚学部一シフルを応援してくれる人だ。きっと肩をもってくれる。

 が、

「それならば」

 予想に反して、彼女の声は冷ややかだった。「——退学してもらいましょう」

「ボルジア先生、なにを!」

 カリーナ助教授のひと言に、教師たちの何人かはいろめきだつ。他の何人かは、彼女の判断に同意せざるをえない、というふうに黙っていた。

「先生……?」

 シフルは、信じがたい気持ちで彼女をみつめる。

「あなたの退学か、あなたの留学かという二択ならば、退学を選ばざるをえないということよ」

 カリーナ助教授は、ためらいなく言った。「ダナン君、あなたの力をよそに出すわけにはいかないの。精霊召喚学の発展を犠牲にしても、それだけは阻止するわ」

「それは、オレが寝返るかもしれないってことですか?」

「ひとつの可能性としてね」

 彼女はあくまでも冷徹だった。シフルが空(スーニャ)を従える妖精憑きだという事実を知る前とあとでは事情が異なるのだろう、シフルが努力して這いあがろうとする小さな者であるうちは心から応援したが、少年が精霊召喚学研究の発展や国家関係の均衡を左右する力を持った以上、いいかげんには扱えないし、もちろん国外に放つわけにはいかない。

(カリーナ先生——)

 シフルはまだ信じられなかった。カリーナ助教授がこんなふうに言うなんて。

 カリーナ助教授は研究者に珍しく教育熱心で、努力する学生を心から応援してくれる。励ましは惜しまない、決して嘘はつかない、子供相手にもごまかさない。ごまかし抜きの事実を教えられるのは腹が立つけれど、背中を勢いよく叩かれたような感じがして、悪くない。シフルも、これまでに何度も彼女によって奮いたたされてきた。彼女のひと声で、走らされてきた。おそらく、そういう学生はシフルだけではないだろう。

 けれど、カリーナ助教授も単なる学生の味方ではないのだと、シフルはこのとき初めて思い知った。彼女は大前提として、プリエスカ王国立理学院に属する一教諭、一研究者で、教会の一精霊召喚士——つまり、国、教会、学院という組織に所属する大人であり、必要なときには私情を挟まず、組織の一員として意見し行動するということなのだ。

「どうしても行きたいんです」

 それでも、シフルはあきらめなかった。カリーナ助教授相手でも戦う気だった。「オレはプリエスカを裏切る気はありません」

「最初から裏切る気で留学する子なんていないわ」

 カリーナ助教授は一蹴した。「怖いのは、ひとつが裏切りね。でもそれだけじゃない、まだあります。そうせざるをえない状況に陥るかもしれない。裏切らなくても、帰れない状況に陥るかもしれない。ただでさえ、今は危うい時期にさしかかっているの。そんな時期に、君のような得体の知れない力を持った子を、野放しにできるはずがないでしょう」

 ダナン君、お願いだから聞き分けて。彼女はそう言い添えた。だだっ子に対して言い聞かせるように。それが、シフルの癇に触った。カリーナ助教授も同じなのだ。シフルの望みを子供のわがままと片づけ、自分の要求だけを正しいと考えて押しつけようとする、父と同じ大人。

「死んでもごめんです」

 シフルは頑としてはねつけた。

「ダナン君、これは国家間の問題なのよ。あなた一人のわがままでどうこうしていい問題じゃないの」

「では、オレは?」

 シフルは反駁した。「オレは、プリエスカのために死ねばいいということですか?」

「飛躍しているわ、ダナン君。……己のために生き、国のためにも生きればいいだけの話よ」

「わかりました」

 少年は強い語調で言う。「退学します」

「待て、ダナン」

 そこに、ロズウェルが乱入してきた。「少し冷静になれ」

 シフルに付き添ってきて、扉の外からなりゆきを観察していた《四柱》だったが、彼女が飛びこんだのを機に大教室に入ってきた。Aクラスのトップ、しかもラージャスタン留学が決定している四人の登場に、室内の教授陣はいっそうどよめく。先ほどからの危険な議論を、四人は耳にしてしまった。そうなると、メルシフル・ダナン同様反目するのではないか、と同席者は危惧したのである。

 しかし、ロズウェルはいたって冷静だった。

「オレは冷静だっていってるだろ、ロズウェル」

 今度はロズウェルのほうに噛みつきかねないシフルに、

「本当に自分が冷静かどうか、考えてみるといい」

 彼女は淡々と言う。「ダナンは退学と簡単にいうが、生活はどうする? 学院の支援がなければ、ダナンには食べていく手立てもないじゃないか。家には帰る気がないのだろうし、どうにもなるまい? そのあたりを考えずに退学など宣言できる人間が、冷静だとはとても思えないよ」

「生活なんてどうにでもなる!」

 シフルは即座に言い返した。「オレには空(スーニャ)の力があるんだ。あいつの力さえあれば、食べていくぐらい……」

「おや。さっきまで彼は自分の力ではないと言っていたのに」

 ロズウェルは、皮肉に微笑む。「抜き差しならない状況に陥ったら、てのひらを返したように彼にすがりつくんだな。ダナンの誇りも、地に堕ちたか。それとも、自分の考えを変えてでも持てる力をすべて利用するのが、冷静ということなのか?」

「!」

 シフルは赤面した。彼女のいうとおりだった。シフルがうつむくと、ロズウェルは満足げな表情で彼をみつめて、やがて視線を外した。

「ダナン、まずは退学を取り消せ」

「う……」

 少年は唇を噛んだ。逆らえない。シフルはややあって、わかった、取り消します、と消え入りそうな声で告げた。教授たちのあいだからは安堵の吐息がもれ、ロズウェルはにっこりと笑う。

 それから彼女は、カリーナ助教授のほうを向いた。カリーナ助教授は受けてたった。ロズウェルはそれを見て、ゆるやかに唇をひらく。

「——ひとつ、ひっかかっていることがあります」

 彼女は、何の前振りもなくそう言った。

「……何かしら?」

 カリーナ助教授は、予想外の言葉に多少面食らったようだったが、余裕を保ったままに答える。

 ロズウェルは、カリーナ助教授や同席する教諭らの視線が集まったのを確認すると、《四柱》の三人のほうに向き直った。三人が彼女の動向を見守るなか、ロズウェルは腕をまっすぐにのばし、ひとりの人物を指さす——三人のうちの一人を。

「ロズウェル?」

 シフルは首を傾げた。彼女が何をしたいのか、読めない。

「あれは、」

 ロズウェルは迷いのない口ぶりで尋ねた。「——あれは、いったい誰ですか?」

「何いってんだ?」

 メイシュナーが反応する。「どう見たって、カウニッツだろうが」

「君が何を言ってるのか、よくわからないな」

 指された青年は、平然とそう告げた。

 ロズウェルが示したのは、エルン・カウニッツ。《四柱》のひとりで、火(サライ)の《若人》役を担う人物だが、学院生のなかでは二十一歳と飛び抜けて年を食っているうえ、才能の面でも不安なところがある。今回、シフルと最後の一席を争ったのは、まちがいなく彼だろう。

「あなたはカウニッツではない」

 彼女は断言した。「あなたから精霊の力を感じます。あなたはカウニッツに擬態し、口調や振るまいまで真似しているようだが、一級召喚士レベルの人間をだませると思ったら大まちがいだ」

「な……!」

 場にいる者はみな、彼女の発言に息を呑む。カリーナ助教授とて、例外ではなかった。

(カウニッツじゃない?)

 言われて、シフルはまじまじと青年を見る。黒い髪、黒い瞳、高い背、大人っぽい容貌。普段のカウニッツと、何ら変わった点はない。それに、精霊の力というのも、いまいちシフルにはわからなかった。強いていうなら、先ほどのロズウェルとメイシュナーの言い争いに介入しなかった点には、異和感があるといえばある。彼はさっき、自分の留学の問題だというのに、ひと言も口を挿まず黙っていたのだ。

 何にせよ、ロズウェルがいうならおそらく誤解ではない。彼女の力は大きく、かつ確実なものだ。

(じゃあ、誰なんだ?)

 シフルをはじめとして、会場にいる誰もが、青年の姿をした侵入者を凝視する。しかし、当の本人は困惑気味に頭を振るばかりだ。

「そんな。俺はエルン・カウニッツですよ」

 そういって、ロズウェルをにらんだ。「ロズウェル、君という人は……めちゃくちゃなことを」

「めちゃくちゃかどうか、証明してさしあげましょうか」

 彼女は揺らがない。確固たるまなざしを、青年に向ける。

「……やってみればいい」

 カウニッツは言った。

 それを合図に、ロズウェルの指先が青く光る。

「水(アイン)——」

 彼女の手のなかに、青い光の球体が現れた。「そいつの化けの皮を剥げ」

 青い球が、放たれる。カウニッツはあッとうめいて身構えた。青い光はまっすぐカウニッツに向かっていき、炸裂した。ジュッ、と炎を水で消すのに似た音がして、頭の上から順々に彼のからだのあちこちで精霊の力同士がぶつかりあった——ふたつの力が相殺しているのだ。

「きゃッ」

 次に青年が声をあげたとき、その声はもはや男の声ではなかった。

「……女?」

 シフルは眉をひそめる。聞きまちがいではない。確かに、カウニッツどころの声の高さではなかった。

「彼女」は倒れた。「彼女」が倒れても、まだそのからだの上では精霊があい争っており、破裂音がするたびに「カウニッツ」のものがはがれ落ちていく。黒い髪、黒い瞳、高い背、男の大人っぽい容貌。それに学院の制服や校冠、革靴。

 代わりにあらわになったのは、女の細いからだだった。服も、カウニッツが着ていたのとは全然ちがう。白い、不思議なかたちをしたブラウスに、紫のこれまた珍奇なスカート。ふわふわした亜麻色の長い髪は、頭の上でゆったりと結われている。

「……これは」

 カリーナ助教授が、驚愕の表情であとずさった。「ラージャスタンの……!」

「ラージャスタン? あのー、大丈夫ですか?」

 シフルは女をのぞきこむ。ようやく精霊の争いがおさまったようだったので、少年は彼女に声をかけた。女のからだのあちこちから、かすかに煙があがっている。女はどうやら、気絶しているようだった。

「ロズウェル、大丈夫なんだろうな」

「支障はないはずだ」

 彼女は涼しい顔をしている。「その人が使っていたのは火(サライ)二級の力。だから、水(アイン)二級の力を当ててみただけだ。相殺はするが、傷つけることはない」

「それならいいけど。もしもし?」

 シフルが揺り起こすと、女は意識を取り戻した。少年に手を差しのべられると、彼女はその手をとり、ゆっくりと立ちあがる。おもむろにあげられた女の顔は、美貌だった。それは、空(スーニャ)のごとき化け物じみた美貌とはまたちがう、女としての美を結集させたかのような容貌である。少年は見愡れるよりも、彼女が一般人でないことのほうを先に思った。

 彼女はシフルにむかって、ありがとう、と微笑む。それから、改めて、同席している理学院召喚学部教諭らのほうを向いた。

「よもや、わたくしに気づく者はおるまいと考えていましたが……、さすがはプリエスカの名門理学院、大したものです」

 女は柔和に語りだす。真に柔和なのではなく、明らかに奥に異なるものを秘めた柔和さだった。シフルは寒気を覚える。この女のもつ類いの空気を、シフルは知らない。

「わたくしはツォエル。ツォエル・イーリと申します」

 彼女はついに名のりをあげた。「ラージャスタンはアグラ宮殿後宮にて、女官頭を務める者。以後、お見知りおきを——」

 ラージャスタン人は、あでやかに目を細めた。

 女は美しかった。ラージャスタン皇家の居城、しかも後宮で働いている女なら、当たり前の話だろう。数多の女官を率いる人物であれば、美しいのはもちろん、頭脳やその他の面においても他を圧倒するにちがいない。彼女の美貌は輝かんばかりで、言葉づかいや現代プリエスカ語の発音、聴く者を圧迫しない柔らかな物腰についても完璧だった。

 が、シフルは女を恐ろしいと感じた。また、そう感じているのは少年だけではないようだった。教授たちのあいだから、警戒心がにじみでている。何しろ、女は誰にも気取らせることなくここまで入りこんだのだ。アグラ宮殿の人間が理学院を訪問するという話は伝わっておらず、女は国境を侵したことになるわけだが、これほど滑らかにやってのけるとは。

 彼女は、ただ者ではない。単なる女官とも思われない。さらに、二級火(サライ)を操ることのできる上級召喚士でもある。プリエスカにとって、危険すぎる人物だった。

「イーリ殿、とお呼びすればよいですか?」

 カリーナ助教授が、緊張した面もちで一歩進みでる。

「わたくしどもの国では、イーリは特殊な意味あいをもつ名でございます。個人をそれと呼ぶのには相応しくありませぬ。ツォエル、とお呼びください」

 ツォエル・イーリはかすかに首を振り、そう答えた。

「では、ツォエル殿。私は理学院召喚学部助教授カリーナ・ボルジア。お会いできて光栄です、が」

 カリーナ助教授はいつになく厳しい表情で言う。「何の申し入れもなく、このような場に突然おいでになるとは。残念ながら、当学院はあなたを歓迎いたしかねます。即刻、国境外に立ち去っていただければ、とりたてて問題にもいたしませんが」

「まあ……、プリエスカの御仁の頭の固さは知られたことではありますけれど、はるばる皇女殿下と婿殿の話し相手の選定にやってきた異国人を無碍に追い払うのは、こちらのお国の度量の狭さにはなりますまいか。きっと、大陸中の評判にもなりましょう」

 女は婉然たる笑貌を保ったままで、暗に学院を脅迫した。ここで自分を受け入れないならば、大陸でのプリエスカの立場はいっそう悪化するだろう、と。

 現時点でも、大陸におけるプリエスカの位地は芳しいものではない。プリエスカは、古きロータシア帝国の支配者だったゼン家を滅ぼし、その土地と支配権を奪った——コルバ家により興った王国。土地は古くとも、国体としては新興国家に他ならないうえ、どう解釈しても簒奪者の誹りは免れない。そしてその評価は、建国後百年を経てもなお、周辺諸国の見解として生きつづけている。

 それに加えて、この場でラージャスタン皇家の対プリエスカ感情を悪化させれば、大陸でのプリエスカの発言力はますます弱まってしまう。カリーナ助教授は、表情を悟らせまいとしてかうつむくと、

「それは……、困ります」

 絞りだすように返事した。

 同席していた教授陣のなかから、学部長をはじめとする幹部が立ちあがり、教壇にやってきた。カリーナ助教授は引き下がり、ヤスル教授も教壇を去っていく。学部長ら数名はラージャスタンの使者の前に頭を垂れ、

「無礼をお詫びします。使者殿」

 その訓練された朗々たる声で屈服を表明した。「こたびは、いかなるご用件で学院を訪問されましたのか、その旨お尋ねしたく——」

(なんだこれ)

 シフルは彼らの様子を間近で見物して、声も出ないほど驚いた。(これが学部長?)

 学部長には、何度か礼拝で講話を聴かせられている。話しぶりは堂々たるもので、老人といっても差し支えない齢にもかかわらず、同じ話を二度聴かせたためしがない。シフルの目には、彼は「えらそう」なのではなく真実「えらい」のだと映った。立場に恃んでいばり散らすことをせず、学部長としての威厳を損ねる言動を決して見せない。めったに人に頭を下げない尊大さも、卑屈さを学生たちに見せないためだろう。学部長の卑屈さを見た者は、きっと失望するから。

 そんな学部長が、女官頭ツォエル・イーリを前にして、ためらいなく頭を下げている。信じていたものが裏切られた——シフルはそう感じた。心酔していたわけではないけれど、若干は幻想も抱いていたのだ。

「すでに申しあげたとおりです」

 ツォエルは面をあげるよう手で示す。「わたくしは、アグラ宮殿後宮よりの使者として、皇女殿下と婿殿の話し相手の選定にまいりました」

「と、いいますと……」

 学部長の表情は緊張している。

「ああ、言い忘れていたかもしれませんね。不手際をお許しくださいませ。……こたびの留学は、むろんこちらの学院の優秀な学生に、われわれの精霊多き土地において学習してもらうという目的もございますが、もうひとつ、狙いがあるのです」

 女は微笑んだ。「先日、わたくしどもの皇女殿下が婿殿をお迎えになりました。これは極秘の話ですので他言無用に願いたいのですけれど、トゥルカーナ公子殿下でいらっしゃいます」

 トゥルカーナ公子殿下、という言葉に、教諭らはどよめいた。トゥルカーナ公国は英雄クレイガーンの建てた国である。もちろん、大公一族の血筋は英雄の血筋。英雄同盟の国々や民衆はその尊い血統をもてはやし、各国の王族は国民の人気集めの意味も含めてトゥルカーナと婚姻を結びたがるという。

 よって、トゥルカーナの最大の売り物は花嫁花婿なのだった。他にとりどころのない国としては、次々と売り物を用意するほかない。そんなわけで、大公一族は子だくさんである。現大公の子供も数多く生まれたが、すでにほとんどがどこかしらの王家や貴族に嫁いでおり、近年では最後の一人が残るのみだと伝えられていた。

「よもやその公子殿下は、大公タルオロット三世の御子の、最後の一人では……」

「そのとおりです」

 ツォエル・イーリはうなずいた。「『黒曜の髪、大理石の肌、曇り空の瞳、その声は春雨のごとく。英雄クレイガーンの現身』といえば、おわかりいただけるかと」

 学部長には、もはや威厳も何もなかった。額には冷や汗が浮かび、頬はひきつっている。ラージャスタンの使者は、もう一度にっこりと笑った。

「悪くお思いにならないでくださいませ。あの公子殿下をもらい受けることについては、わたくしどもの姫君がお生まれになったそのときに、大公閣下の確約を得ていたのです。プリエスカの御仁が内々にご尽力なさっていたことも存じあげておりますけれど、大公閣下は約束を違えることはなさいますまい」

 ツォエル・イーリはそこでその話題を区切った。「……さて、それでは、本題に入らせていただきましょう」

 女は説明する。いわく、トゥルカーナ公子は母国で自由に育ち、大公の家族でありながら乳兄弟や召使いとの交わりがあった。が、ラージャスタンでは同じようにはいかない。後宮は閉ざされた世界であり、皇家の主義上、婿となる公子以外のトゥルカーナ人の立ち入りは禁じられている。公子は後宮で孤独に苛まれることになるだろう。

 せっかく英雄の血をもらい受けたというのに、当の公子が孤独ゆえの不健康に陥れば本末転倒である。そこで、プリエスカの理学院から留学生を迎え、公子や皇女の話し相手をさせようという話になった。これは皇女夫妻のためのみならず、両国の友好関係を築くためにも、最良の手立てになると考えられる。

「そのような事情にて、お二人の話し相手として留学生のかたがたを選定にまいった次第でございます。よろしゅうございますか」

 女は丁寧な物腰で念を押す。学部長は深く頭を下げたまま、答えた。

「……よくわかりました。では、所見をお聞かせください。どうやら、我々の選考に異議がおありのようですから……」

「ええ、おっしゃるとおりですわ」

 使者は遠慮なく肯定する。「皇女殿下は御歳十三、婿殿は十六になられます。わたくしどもは、お二人に歳の近いご友人をつくってさしあげたいのですよ。候補者のかた五名のうち、一名は明らかにそれを逸した年齢……、大変申しわけないのですけれど、わたくしどもといたしましては、少々不都合なのです」

 勝手をいたしましたが、すでにそのかたには、わたくしが直接不合格を申しあげました——。ラージャスタンの使者は、そう告げた。だからその人物の姿を借りて、ここに集まった者を試みたのだ、とも。

「あなたがたは些細な問題について論じておられたようですが、わたくしどもは大陸の平和のため行動いたします。留学においでになる四名のかたには、ぜひ夫妻のよいご友人になっていただき、両国の架け橋となっていただきたいのです」

「じゃあ……?」

 シフルは、おそるおそるツォエル・イーリに問いかけた。彼女は口角をあげると、少年の手をとる。匂いたつような仕種に、シフルは頬を赤らめた。

「わたくしどもは、アグラ宮殿の一角にあなたの部屋を用意するでしょう」

 その決定的なひと言に、シフルは先ほどから感じていた女の恐ろしさを忘れた。今はただ、女の美しさをまぶしく思った。

「メルシフル・ダナン殿。——あなたがわれわれの国で得るものは大きい。力を蓄え、きっとよい召喚士におなりください。そして」

 使者は最後に付け足した。「あなたが、皇女夫妻にとってよいご友人になってくださったなら、わたくしどもの本意にも適おうというものです」

​To be continued.

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