top of page
​精 霊

第一部 プリエスカ・理学院編

第8話「空という名の」(4)

「空(スーニャ)!」

 シフルは大教室を出ると、まっすぐに展望台に走っていき、彼を呼んだ。「空(スーニャ)、やったぞ! 留学できるんだ!」

 手すりに体重をかけ、ヤーモット海にむかって声を張りあげる。ややあって、目の前の空間が歪み、淡い光とともに空(スーニャ)が現れた。青い妖精、空(スーニャ)の元素精霊長、《母》の僕たる彼。

「当たり前だ」

 妖精はさして関心もなさそうに、宙に浮かんで風に吹かれている。「いくら人間に精霊の力を使役することが許されているとはいっても、元素精霊長直々に力を貸してやっている人間は他に存在しないんだからな」

 おまえは、コルバ家の王に俺の力を盾に迫り、ダナン朝をうちたてるからプリエスカを去れ、といってもおそらく通用するぐらいの力を得たんだ——と、空(スーニャ)は大げさな例をあげて述べた。いかにシフルの力が人にとって脅威になるか、という点を強調している。

「だが、おまえは若い。いつ己の分を忘れ、俺の力を駆使しようとするかわからんし、あるいは己の力で解決できる問題まで俺の力に頼ろうとするかもしれん。だから、俺は俺が必要だと思うときのみ、おまえに力を貸す。それでいいな?」

「うん、いいよ」

 シフルは、急におかしくなってきて笑った。どうしてこの妖精は、まるで保護者みたいに言うのだろう。《母》と主従関係にあるというが、僕というのは主にそこまで思い入れをもつのだろうか。職業上の問題を越えて、主に執着するだろうか……精霊相手に「職業上」というのもおかしいけれど。

「空(スーニャ)」

「なんだ」

「オレに力をくれてありがとう」

 シフルは真摯なまなざしを空(スーニャ)に向ける。「おかげで前に進めそうだ。ロズウェルを追っていける」

「よかったな」

 妖精はいつもの無表情を、少しだけゆるませた。

「うん、よかった……」

 シフルは自分の言葉を噛みしめる。よかった、本当に。これで立ち止まらないですむ。どこまでもロズウェルを追いかけていける。精霊の世界を探求しつづけ、いつか《精霊王》のもとにたどりつける日がくる。そんな希望が、今、目の前にひろがっていた。

 ——おまえの名前を呼んでよかった。

 もう、後悔はない。あとは、ただ目の前の道を駆けていく。これからも立ち止まる場面はあるにちがいないが、さっきまで立ちはだかっていた壁が消えただけでも、めいっぱい誰かに感謝したい気持ちだ。まずは、ここにいる空(スーニャ)に。

 アグラ宮殿付女官頭ツォエル・イーリの行動によって、カウニッツの脱落とシフルの合格が決定した。教授陣は揃って渋面を隠さなかったものの、ラージャスタンの使者がああして判断を下した以上、拒否するわけにはいかない。学院側の態度如何で、今後のラシュトー大陸におけるプリエスカの立場が変わってしまうのだから、あの場面では従うしかなかっただろう。

 これにより、シフルの留学は学院側にも認められたことになった。一時は退学も覚悟したが、これでひと安心。シフルは学院に在籍したままで、ラージャスタンに行けることが決定した。それも、ロズウェルと同じく、である。

(やった……!)

 シフルは拳を握りこむ。(やったやったやった!)

 彼は、今にも舞いあがらんばかりだった。そこに、

「ときに、メルシフル」

 と、妖精が口を挿んだ。

「なんだよ?」

 シフルはゆるみきったニヤニヤ面で聞き返す。が、空(スーニャ)はいつもの無表情である。

「主として、俺に名前をくれ」

「名前?」

「妖精憑きは、名前によって妖精を縛る」

 空(スーニャ)は淡々と解説した。妖精憑きの詳細など、教科書には載っていない。そうめったになれるものではないからだ。

「もっとも、縛るとはいっても、その妖精が主に属しているという目印のようなもので、強い効力はないんだがな。いつ何時であっても、妖精が主の声に応えられるようになる。俺と時姫(ときのひめ)さまは空間を操作して常におまえを見ているから、何かあってもほぼ見落とさないとは思うが、今後のことを考えると確実にしておきたい」

「今後のことって……」

 シフルの選抜通過の喜びは、ここで一気に冷めた。文脈から、ラージャスタン留学を指しているのだと容易に理解できる。

「おまえも、ラージャスタン行きは危険だと思ってる?」

「いうまでもないな」

 空(スーニャ)は即答した。「何があっても、おまえの身は俺と時姫さまが全力で守る。しかし、それだけですむ話ではない。身体的な危険以上に危ないのは、おまえたち留学生の立場だ。それは、俺があがいたところでどうにもならん。時姫さまも、おまえが行きたいというから協力するのであって、留学を奨めているわけじゃない。母親としての慈悲深い御心では、おまえを止めたいと考えている」

 青い妖精は目を閉じた。髪や瞳と同じ色の長いまつげが伏せられた。

「だが——これも、そうなるべきことなのかもしれないな……」

 少年は言葉を失った。展望台にいる二人の影に、沈黙が訪れた。夕方の風が、彼らのあいだを通り過ぎていく。シフルは急に肌寒さを覚え、身震いした。どういう意味なのかは、問いたくなかった。訊いても、おそらく確証のある答えは得られまい。

 知らなくていいこともある。知らないままでいたほうがいいことも。シフルは直感的にそう思った。だから、

「わかった。名前をやるよ」

 と、明るく告げた。

「では、通り名と真名を考えてくれ」

 妖精も、重苦しい雰囲気を払うように、彼にしては軽く言う。「通り名は呼び名。真名は、おまえしか知らない本当の名前だ。でも、別に誰も使わない言葉を練りだす必要はない。とにかく、それによって俺はおまえに属すことになる」

 言われて、シフルは思案顔になった。が、ややあってぽんとてのひらを叩く。

「そうだ、あれにしよう」

 シフルはそうひとりごちると、びしっと妖精を指さした。「……空(スーニャ)、おまえの名前は——」

 ——クーヴェル・ラーガ!

 白い光が飛び散った。それは花火にも似ていたが、閃光に近い白さをもっていた。

 まばゆさに、シフルは腕で目を覆う。だが、腕で遮ってもなお、その強い光は少年の目を打ってきた。ようやく光がおさまって腕を下ろしても、まだ眼が驚いていて、目の前がちかちかと点滅した。

 それも消えると、かたわらに空(スーニャ)がたたずんでいるのがわかった。シフルは彼のほうに顔を向けた。東言(とうげん)で《青い石》という名を与えた妖精の髪と瞳は、やはりどこまでもあの石の色をたたえていて、少年はその名前以外ありえないと思った。この名前は、彼の名前だ。

「ラーガって呼ぶんだ。どう思う?」

「いいだろう」

 妖精はうなずいた。「それは、まちがいなく俺の名前だな。ラーガだけでも、東言で《青》の意味になる」

 シフルは、まるで考えが通じあったかのように答える妖精に、驚きとうれしさが入り混じった気持ちになって、自然と眼を細めた。青い妖精——ラーガもまた、シフルの笑みにつられてか少し口の端をあげる。

「じゃ、ラーガ」

 シフルは踵を返した。「——またな」

「ああ、」

 また——。

 その声は、なぜか少年の胸にしみた。名前を与えたせいだろうか、親兄弟か仲のいい友達に対するような、あたたかな心地がする。シフルはわけもなくこそばゆい気持ちになって、階段の途中から駆けだした。そして、全力疾走で寮に戻った。

 

 

 寮棟までやってくると、何やらあたりが騒がしい。ざわめきの聞こえるほうへ行ってみれば、寮の中庭は祭の空気だった。

 中庭の真中にそびえたつモミの大木の下で、楽団が練習に励んでいる。

「おい、ホルン、遅れるなよ!」

 指揮者の声が飛んだ。注意された学生が、すいません! と緊張気味に謝った。庭の隅に背の高いランプスタンドを立てて歩いている学生や、箒をもってあくせくとはき掃除している学生などなど、みな忙しそうではあるが、実に楽しそうに働いている。

(《ワルツの夕べ》か)

 と、思いあたった。そういえば、選抜試験の前、アマンダとユリスと三人で踊るという、学院生一同のお笑い種になることまちがいなしの提案があった。でも、そのときはそんなことにうつつを抜かしている余裕はなかったし、実際問題としてワルツの類いがドヘタであるため、断ったのだった。

 こうした祭において、中心的なイベントを楽しめないのはつらい。シフルは、舞踊の授業中ずっとペアを組んだユリスの足を踏みつづけてしまうほどヘタである。よって、《ワルツの夕べ》は初めてだからとか、その準備に取り組んでいる学生たちが楽しそうだからとか、そういった感情的な話はさておき、とりあえず参加しないほうが他人様に迷惑がかからない。

(そうだよ。オレが参加しても邪魔になるだけ!)

 シフルはそう自分に言い聞かせて、後ろ髪を引かれつつも自室に帰っていった。

 部屋に着くと、先日図書館で借りた本を片手にベッドに横になった。今日は大暴れしたので、そのままからだがシーツに沈んでいくかと思われたが、そうはいかなかった。窓から中庭の喧噪が届き、部屋でひとり寝転ぶ少年にも興奮が伝わってくる。毛布を被ってみても、毛布を突き抜けて音が耳を打つ。気になって仕方がない。

 それでもシフルは意地になって、毛布を被ったまま固まっていた。しばらくすると、花火の音がした。続いて「ただ今より王国暦一三四年度秋期、《ワルツの夕べ》を開催します」というひと声が響き、参加している学生たちから盛大な拍手が起こる。

 次に聴こえたのは、音楽。宮廷音楽風の華麗な曲である。先ほどは遅れをとっていたホルンも、きちんとこなせたようだった。シフルは音楽に惹かれて、ついに毛布をはねのけた。窓辺に近づくと、格子窓を開ける。ここは五階だったが、眼のいいシフルには中庭の様子がよく見えた。

 モミの木の下にいる楽団を中心に、学生たちは楽しそうに回っている。が、よくよく目を凝らさなくとも、楽しそうなのは一部の学生だけだとわかった。というのも、理学院はいかなる学部も例外ではなく、女子よりも男子のほうが圧倒的に多いのである。そんなわけなので、参加している学生たちは、くるくると音楽にのって踊っている学生たちと、ワルツの邪魔にならない場所からそれを恨めしげに見守る男子学生の二種類に分かれているのだった。

 最初の曲が終わった。とたんに、パートナーを獲得し損ねた男子学生たちが、ペアを組む男女にむかって殺到する。その花嫁略奪直前の暴力的な勢いときたら、あまりにもおかしいので、シフルは吹きだした。ただ恨めしげに見守っていたのではなく、彼らはどのペアのパートナーを奪おうかと、虎視眈々と狙っていたのだ。

 中でも、数多くの略奪者が殺到したペアがあった。

「あれっ」

 シフルは思わず声をあげる。

「レパンズさん! 次は僕と!」

「おらっ、芸術学部Cクラスふぜいは遠慮しやがれ。アマンダ、俺の手を!」

 その野太い声の群れの中心には、アマンダ・レパンズとユリシーズ・ペレドゥイのペア——おなじみの友人たちがいた。アマンダの手を奪おうとして男たちが群がり、本来ペアを組んでいるユリスとのあいだに割りこんで引き離す。その様子があまりにも滑稽なので、シフルはひとり五階の窓辺で笑い転げた。さすがはアマンダだ。

 シフルは知った顔を探すことにした。ルッツは目立つのですぐにみつかった。シフルの知らない女学生と踊っていたが、なぜかそんなに楽しそうではない。あの外見である、きっと激しい信奉者がいて、ルッツにペアになってくれるよう頼みこんだのではなかろうか。が、つまらないことはつまらないとはっきりいうルッツである。見ていると、ルッツのほうには愛想が微塵もないのに、女学生のほうはひたすらうれしそうだった。それでもワルツにつきあっているのだから、案外ルッツにも優しいところがあるものだ。

 はぐれた男子学生の集団のなかに、メイシュナーとカウニッツがいる。祭の空気のなかで、まあまあ楽しそうにしていた。Bクラス時代の友人ジョルジュ、Cクラス時代の友人たち……何人かは発見できたものの、どうしても見当たらない者もいた。退学になったか、あるいは単に不参加なのだろう。

(ロズウェルがいないな)

 シフルはひとりごちた。(参加するとか言ってなかったっけ?)

 踊っている連中を凝視してみても、なぜか彼女はいない。ロズウェルの性格からして、口にするだけで実行しないなんてことは考えられず、シフルは首を傾げた。

 カタン、という物音がした。シフルはある予感がして、そちらを振り返る。

 扉を開けて、ロズウェルが立っていた。

「——やあ」

 灯をともしていない暗がりのなかで、小さく手を振っている。

「ロズウェル? どした?」

「……いや」

 彼女は部屋に入ってきて、てのひらを差しだした。シフルが不思議そうな顔でそれを眺めていると、ロズウェルはくすりと笑って、少年の手をとる。突然やってきた柔らかな感触に驚いて、シフルがどぎまぎと手を払うと、彼女は一瞬うつむき、それから不敵な笑顔で告げた。

「ダナン、私と踊らないか?」

「はあ?」

 シフルは言葉の意味をわかりかねて、素っ頓狂な声をあげる。

「理解できなかったなら、もう一度ゆっくり言ってやろう。ダナン、私と、踊らないか?」

 いつもどおりの皮肉な物言いに、シフルはむっとした。つい数秒前に得体の知れない驚きでどぎまぎしたのも忘れて、わかるに決まってんだろ、とけんか腰で言い返す。ついでに、なんでロズウェルと踊らなきゃいけないんだよ、と口を尖らせた。そういうのって、仲よし同士で組むもんじゃないか、オレとおまえは敵なんだぜ? ——と、例のごとく挑戦口調になる。

「ダナンは確か、悲劇的にワルツがへただったな?」

 ロズウェルは、わざわざ横を向いて鼻で笑った。いやみ度も倍増である。「内容如何にかかわらず、毎日、毎時間、すべてが戦いなんだろう? もうやめたのか。もう——あきらめたのか?」

 ならいい、と彼女はさっさと踵を返す。足早に扉へと歩いていったところで、シフルの負けずぎらい魂に火がついた。

「あきらめてない!」

 シフルは威勢よく叫んだ。「こんなに早くあきらめてたまるかってんだ。やってやろうじゃん!」

 すると、ロズウェルが足を止めた。くるりと振り向いた顔は、満面の笑顔。

「そう。じゃあ、踊るとしようか?」

 彼女は言い、優雅な仕種で手を差しのべた。シフルは、まんまと乗せられたような気がしつつも、その手を軽く握る。とたんに、先ほども感じた得体の知れない驚きが蘇ったが、今度のシフルは、逃げてたまるか、と強く思った。むすっとした表情とは裏腹に、少年の心臓は暴れ馬のごとく跳ね、彼の平静さを奪っていく。

(行ってやるよ!)

 シフルは半ばやけになって階段を下りていった。かたわらのロズウェルが笑いをこらえているのにも、まったく気づいていない。

 外に出ると、まだ曲の途中だったので、余った男子の群れに混じっていった。ロズウェルがやってきたのを見ると、男子学生たちは少しざわついた。そのかすかなどよめきを聞きつけて、ひとり者となったユリスが近寄ってきた。

「シフル! 来たのか」

「ああ! 来た!」

 情けない声で自分を呼ぶ友人に、シフルはこわばった顔で口角をあげた。

「アマンダかっさらわれたよ……。あれっ」

 ユリスはやっとシフルの背後にいる人物に気づく。「ロズウェル? ……おまえら、いつの間にそんなに仲よくなったの」

「ちッがーう」

 シフルは大いに否定した。ロズウェルは顔を逸らして噴きだした。

「私たちは踊りにきたんじゃない。これは勝負なんだよ、ペレドゥイ」

「はい?」

 ユリスはつながれた手を見て、腑に落ちないふうである。

「そう、勝負だ。それ以外の何ものでもない!」

 シフルがものすごい剣幕で強調した。「ほら、曲終わった! 行くぞ、ロズウェル」

 曲が終わり、楽団が手を休めはじめている。その隙に余剰組は女子のもとへとつめかけ、あるペアはかたく絆を守り、あるペアは引き離された。シフルとロズウェルはそんな騒ぎとは無縁で、男子の群れを去ってモミの木陰に入った。ワルツの体勢をとって、曲が始まるまで待機する。

 バイオリンのソロが奏でられ、次の曲が始まった。無事パートナーを獲得した幸運な学生たちは、男女むかいあって礼をする。女子は自前のドレスか制服かのスカートを華麗につまみあげ、男子は彼女のてのひらにくちづける。むろん、シフルとロズウェルではそんな趣きは皆無で、いきなりワルツの姿勢をとった。

(失敗してなるもんか!)

 少年の脳裏にはそれしかない。頭の中で必死にリズムを数える。一・二・三、一・二・三、……よし、今だ! シフルは一歩を踏みだした。が、

「待て、ダナン」

 死にものぐるいで踊ろうとする少年を、ロズウェルが冷静に引き止めた。「タイミングがちがう。ほら、よく聞くんだ。伴奏に合わせていればまちがいはない」

「え、え、え」

 自分なりに正確に聞きとったはずが、ロズウェルに止められてしまい、シフルは出鼻をくじかれた。すでに周囲では、ワルツの音楽にのったペアが、楽しげに回りはじめている。自分はできないのに、まわりが確実にステップを踏んでいるので、少年としてはよけい焦ってしまう。

「焦らないでいい。ほら、二回数えたら出るよ。一・二・三、一・二・三——」

「う、わ」

 変な声をもらしながらも、ロズウェルの声に合わせてシフルは踊りだした。しばらくは勢いでワルツのかたちをなしていたものの、やがて状況に頭が追いついてきて、何をすればいいのか判然としなくなってくる。シフルは混乱しはじめ、さっそくロズウェルの足を蹴った。

「ごめんっ」

「気にするな。それより、足をまちがえるなよ」

 彼女は淡々と指導する。「ほら、右、左、右。ちがう、そっちじゃない、逆だよ。今度は左」

 もはや、勝負どころではない。どこからどう見ても、優雅な《ワルツの夕べ》でも少年の意図するところでも何でもなく、ただの指導員と生徒である。それくらい色気のない二人組だったし、敵対関係などもっと見受けられなかった。シフルは今や、ワルツをまともにこなすことしか頭にない。

 余った男子学生たちは、不毛なワルツを踊りつづけるふたりを見て、おのおの嘆息した。あんなものに女子を割けるほど、理学院は女子の供給が充分ではないというのに。しかも、いろいろと不穏な噂は尽きないものの、いちおう美人に分類される《召喚学部最後の天才》セージ・ロズウェルなのである。もったいないのひと言だ。

「くそー」

「春こそ誰か誘ってやる……」

 供給過剰の男子の群れは、それぞれうなだれるしかなかった。

 しかし、パートナーを得られても、楽しい者ばかりではない。

「もうイヤだ……恥ずかしすぎる……」

 通算十回ほど相手の足を踏みつけたところで、シフルは涙ながらにぼやいた。

 みなたいそう余裕のあることで、ロズウェルの足を踏んだり蹴ったりする瞬間、たいがい近くで踊っているペアに笑われるのである。十秒に一回なんだかんだで停止しているので、軽やかにワルツを楽しんでいる学生たちにはおかしいだろうが、当人にとっては焦りが募るばかり。もう、どこから数えてどのタイミングで足を踏みだせばいいのか判断できないので、ロズウェルの助け舟にのるしかない。

「まあまあ、へたでも楽しめればいいじゃないか。ダナン」

 ロズウェルはじっさい楽しげに笑った。足を踏まれつづけているのは自分だというのに、打たれ強いことである。

「楽しくない!」

「そうか? 私は楽しいよ。こんなにヘタなワルツはそうないからな」

 そう言って、ロズウェルはくるりと回ってみせた。シフルは反論できずにうめく。

 そこで、ようやく曲が終わった。それではさようなら、とばかりに寮の方向へとむきなおったシフルを、ロズウェルが制止する。

「《ワルツの夕べ》はこれからだよ、ダナン」

 意地悪く微笑む彼女に、シフルは魔性を感じながらも、間髪入れずに背後からアマンダが抱きついてきたので、逃げられなくなった。

「シフル、来てくれたんだ!」

「いや……あの、来たというか……」

 肩ごしに顔をのぞきこんでくるアマンダの愛らしさに、シフルは言葉をつまらせる。

「一緒に踊ろ! ユリスもユリスも! あ、ロズウェルさんも!」

「いいね」

 珍しくロズウェルは快諾した。ユリスは、アマンダに手招きされて、犬のようにうきうきと駆けてくる。他方で、アマンダをめざしてきた男子たちは、ええー、と不服そうに叫んだ。アマンダは彼らをみて、ちょっと思案顔になり、すぐにぱっと華やいだ表情になって、

「じゃあ、みんなで踊ろ!」

 と、にっこり笑って告げた。

 男子たちは、うおー! と、雄叫びをあげる。

 まずアマンダがシフルとユリスと手をつなぎ、シフルとロズウェルが手をつなぎ、ロズウェルと男子学生が……というふうに、次々と手をとりあい、輪をつくっていった。アマンダの信奉者の集まりともいうべき男子学生一同プラスアルファの輪が、モミの木の周囲に現れる。ふと見ると、パートナーのいる学生以外の余剰組が全員ひとつになっていた。

「うわあ、なんだこれ……。すごいことになったな」

 シフルが全体を見渡してつぶやくと、

「祭だからな」

 と、ロズウェルがおかしげに言う。

 楽団の指揮者は、おもしろいことになった、という顔で輪ができあがる様子を眺めていたが、輪が完成されるのを見届けると、おもむろに楽団員に指示をだした。指揮棒を振りあげると、儚げなフルートのメロディが流れだす。

 全員が、聞き覚えがある、という表情をしたその曲は、精霊讃歌の第七〇番。全体的にもの悲しい曲風の多い讃歌のなかで、珍しく楽しげな雰囲気をもち、リズミカルな曲でもあるので、しばしば初等学校の舞踊の授業に使われる。

 みな、それを思いだしながら踊りはじめた。フルートの音色が過ぎ去れば、そのあとには愉快な音楽が待っている。ペアを組んでいた者たちは困惑してしまい、誘われるまま輪に入ってきた。よって、全員で初等教育おなじみの舞を踊ることになった。

 一人も余ることなく、みなでくるくると回る。途中の間奏ではお互いの手をいったん離し、場所を移動してちがう者と手をとりあう。懐かしい音楽と踊りに興じる彼らは、誰一人してその状況を予期していなかっただろうが、まちがいなくいえるのは、みなが楽しんでいるということだった。

 ——精霊よ。われわれのもとにきたれ。

 いつしか、誰かが歌をうたっていた。

 ——精霊よ。今宵はともに踊ろう。

 みながそれに声を合わせた。

 歌と、踊りと、音楽と。笑い声と、雑ではあるが楽しげな足音と。

 秋休み前の《ワルツの夕べ》は、そうして更けていく。

 

 

  *

 

 

 いったい何度手を離し、何度手をつないだことかわからない。

 わけのわからない高揚感は、まさしく祭だった。シフルは目を回しかけながら、ひたすらに踊っていた。気づいたときには最後の曲が演奏されており、隣には最初と同じようにアマンダとロズウェルがいる。お互いわけもなく笑いあって、指揮棒が下ろされるまで踊りつづけた。

 曲が果てると、参加者はいっせいに拍手喝采した。それはしばらくのあいだ鳴りやまず、ランプスタンドの灯が消されだしても、なお学生たちは手を叩いていた。

「楽しかったね!」

 力いっぱい手を叩きすぎて、てのひらがひりひりしている。シフルはてのひらをさすりつつ、アマンダの言葉にうなずいた。ユリスも、アマンダと二人きりでは満足に踊れなかったものの、さほど無念そうでもない。ロズウェルもまた、普段に比べて表情がほどけている。これぞ祭の効力だな、とシフルは思った。

 学生たちは、それぞれゆるやかに歩を進め、各々の部屋に帰っていく。シフルたち四人も、その流れにのって寮に入っていった。階段を昇り、五階に来たところで女子二人に別れを告げる。

「おやすみー」

「おやすみなさーい」

 笑顔で手を振り、自室に戻った。

 が、ユリスが先に扉のなかに身を滑りこませ、そのあとにシフルも続こうとしたとき、うしろから何ものかに襟を引っ張られた。振り返れば、ロズウェルである。彼女はかすかに口角をあげ、

「これ」

 と、何かを握らせてきた。

「?」

 シフルが怪訝な顔でてのひらをひろげると、そこには一枚の紙きれ。見れば、「トビス州サイヤーラ村ハルキノ」と、ロズウェルの字で書いてある。どう見ても住所だった。

「私の家の住所」

 と、彼女は言った。「秋休み、家にも帰れなくて暇だろう?」

 それだけ告げて、ロズウェルはさっさと六階に上がっていった。あとに残されたシフルは、紙きれと意味不明な文字列と、今の今まで彼女のいた影を、交互に見やるしかない。しかし、

「——そうか」

 いきなりシフルは納得した。

(これも挑戦だな)

「よし、受けてたってやる——!」

 そう息巻く少年にとって、そういった種類の飛躍は、もはや本能に近いものがあるのだった。もちろん彼は、階段の陰で笑いをこらえている者がいることなど思いもよらない。

 ともあれ、明日から秋休みである。シフルにとっては、初めての大型休暇となる。

 ——この休みには、何かが起こる。

 なんとなくそんな予感がしたのは、祭のあとの浮かれた空気のせいかもしれないけれど。

​To be continued.

© 2022 by Kakura Kai / このサイトはWix.com で作成されました

  • Twitterの - ブラックサークル
  • Instagramの - ブラックサークル
bottom of page