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​精 霊

第一部 プリエスカ・理学院編

第9話「水の郷」(4)

「驚かせたようで、すまない」

 ロズウェルはばつ悪げに頭をかいた。いや、とシフルは彼女の謝罪を制したものの、制する両手に力が入らない。指先から力が抜けていく。ロズウェルはその様子を見やって、それからまたシフルの表情をうかがい、彼の困惑気味の苦笑を目の当たりにすると、途方に暮れたように窓の外に目を逸らした。

 シフルを家に迎え入れたのは、ロズウェルではなく彼女の弟妹たちだった。彼女には六人もの弟と妹がいる。どうやら一番上が彼女で、次に少し下の弟。彼はロズウェルに似てか聡明そうで、入口で固まっている二人を冷静に家の中に押しこんだのだった。その下に双児の妹がいて、さらに三人の弟たち。都会っ子のシフルには驚くべき大家族である。

 長男に招かれたシフルは、ロズウェルとともに食卓につかされた。そこで弟妹は隣室に引き下がり、少年と彼女だけが残された。シフルは何と声をかけたらいいのかわからず視線をさまよわせ、ロズウェルはロズウェルで、隠していた一面をうっかり晒したことに、戸惑いと恥じらいを隠せない。

「……まあ、あの、驚いたけどさ」

 シフルはおそるおそる口を開く。「あの……ひとつ訊いていい? どうして学院のあんたと、あんなにちがうの? そんなに校風合わない?」

「——いろいろあったんだ。これはあまり、人にいえることじゃない」

 少年の問いかけに、少女は慎重に答えた。シフルはふうんと相槌をうつ。例の、ロズウェルが水(アイン)を使って学生を殺しかけた一件と、何か関係あるのかもしれなかった。いずれにせよ、シフルが追及していい話題ではない。

「油断していた。自分が招待したんだから、ダナンが来る可能性は考えていたんだが、……でもトビスは遠いし、切符も高いし。まさか本当に来るとは。いや、呼んだのはこっちだ。申しわけないとか、思う必要はない。私がまぬけで、とんだ醜態をみせた」

 ロズウェルは額を押さえ、天井を仰いだ。「——でも、むしろ、私がもくろんだことなのかも」

「え?」

「こんなふうに、本来の性格を知られること」

 彼女はおかしそうに笑った。見たことのない笑いかただった。

(女の子みたいだ)

「ダナン」

 うん? とシフルは首を傾げた。「私もレパンズたちみたいに、シフル、って呼んでいいかな?」

「いいけど……」

「そう、ありがとう。私のことはセージでいいよ」

 では、夕食の準備をしようか。そうそう、眼鏡、ないほうがいいね。ロズウェル——いや、セージは、どことなく楽しげに席を立った。とたんに隣室で息をひそめていた弟妹が部屋になだれこみ、姉にまとわりついたり黙々とテーブルを拭きだしたりした。邪魔をする弟妹に、セージがきびきびと小言を飛ばす。クモの子が散るように室内に散っていった彼らは、大人しく手伝いを始めた。

 身の置き場がなく、シフルが困っていると、

「何日か泊まっていってよ。いくらなんでも、休み返上で試験勉強しないでしょ?」

 セージが食材を抱えて振り返る。

「セージの学院の友達なんて珍しいし、母さんたちも喜びます」

 すぐ下の弟も口を挿む。シフルは姉弟の厚意にあずかることにした。いずれにせよ、サイヤーラ村がこれほどの僻地では、とてもじゃないが今日中に帰れるはずもない。まさか、汽車を降りてからあんなに遠いとは。都会っ子のシフルには、何もかもがびっくりの種なのだった。

 セージの指示に従って、食事の準備に手を貸す。慣れた手つきでイモの皮を剥いていく兄弟たちと、一向に一個めのイモを手放せないシフル。家では雇いのコック任せで、台所に立ったことがない。セージはそれを見て軽くからかっただけだったが、幼い弟妹たちは遠慮なく客をばかにして笑い転げ、姉のげんこつをくらっていた。

「けがしないで、ゆっくりやってね。シフル」

 セージはイモの皮を剥き終えて、次の作業に移った。しばらくシフルは、ひとりさびしくイモと格闘しなければならなかった。

 そうこうしているうちに料理ができあがり、ロズウェル家の姉弟たちはめいめい手をつけた。シフルもそうしたかったが、一家の主がいないことが気がかりだった。

「今日、両親は街まで買いだしに行ってて、帰らないよ。いちばん近い街でも馬で五時間ぐらいかかるからね」

「はー、大変なんだな」

 シフルが、自分の来た道のりを顧みて目を白黒させていると、

「はは、慣れっこだよ。みんなずっとここで暮らしてるから」

 と、セージは言う。市街に住む人々とはちがう、土地に根ざした力強さだった。

 セージのつくったシチューはおいしかった。コックが用意するものとは異なり、イモや肉のかたちがなんだかいびつで、香料も単純なものしか入っておらず、素朴な味がした。シフルはなんとなく、初等学校のころ友達の家に遊びにいったことを思いだした。自分にとって不慣れな味つけであるのも手伝って、妙においしく感じたものだった。その家の子になりたい、と冗談で言ったりもした。

 食事を終えると、みなで裏に出て食器を洗った。サイヤーラ村は水道が通っていないようである。家の裏手には細い用水路が流れていて、そこに姉弟が並んでいっせいに食器をすすぐ。人数が多いのですぐにすんだ。そのあとで、子供たちはめいめい散っていった。

「みんな自分の部屋があるのか?」

 シフルが尋ねると、

「まさか」

 と、セージは笑う。「二つの寝室に分かれて寝るんだよ。年長者部屋はこっち。シフルもここで寝て」

 彼女に言われて部屋を見渡すが、シフルはそこを馬小屋かと思った。藁が隅々までまかれており、その上に黄ばんだシーツが敷いてある。手触りは予想外に柔らかく、乾いた藁の匂いがする。枕はなく、毛布はむやみに大きいのが何枚か転がっているだけ。

「ちなみに勉強部屋らしい勉強部屋はない。勉強は台所の食卓でする」

「……」

 おそるべし、農村生活。と同時に、この環境で満点入学を果たしたセージは、まちがいなく天才にちがいなかった。

 そのセージは、さっさと毛布にもぐりこんでいた。弟妹たちも同様である。

「え、もう寝るの?」

「明日も早いんだ。今、農繁期だしね。シフルもよかったら手伝ってよ」

 と、告げるがはやいか、セージは寝入った。はやすぎる! と呆気にとられているシフルをよそに、彼女はすやすやと寝息をたてていた。シフルは彼女の隣に横たわり、毛布のなかに混ざったけれど、かなり問題の多い状況である気がして落ちつかなかった。ふと気づくと、すでに家中の明かりが消されており、聞こえてくるのはロズウェル家姉弟たちの寝息のみ。

(なんで寝られるんだ、この状況で……)

 確かに初級クラスなどの寮は、狭い部屋に雑魚寝といっても過言ではない環境だったが、いくらなんでも毛布を共有させられた覚えはない。しかも、ロズウェルの家族らは全員平服で眠っている。そうだ、なんだか落ちつかないと思ったら、寝巻きに着替えてないからだ。そう思いたったものの、誰も着替えていないのでやりづらい。

(あー、まあいいや)

 制服の上着だけ脱いで、シフルは再び横になった。目を閉じていると、徐々に睡魔に襲われて、シフルはそれに身をまかせた。

 

 

 まだ暗いうちに目が覚めた。日中、ずっと移動していたとはいえ、寝たり起きたりを繰り返していたせいだろう。いちど目が覚めると、もういちど寝るのは至難の技である。シフルは仕方なく起きだし、上着をはおって外に出た。

 扉を開けると、外は本物の暗闇だった。街に住んでいれば、場所によっては夜中明かりをともしている地区もあるため、夜であっても若干明るい。しかし、ここサイヤーラ村では、夜は本当に夜なのだった。その代わり、満天に星のまたたき。

「うわー……」

 シフルは思わず声をもらした。声とともに、白い息を吐きだす。ビンガムやグレナディンでは、まともに星なんか見たことがない。ビンガムでは空にそびえる高層建築が多く、グレナディンに行ってからは忙しくてそれどころではなかった。だからこの旅行は、まさしく休暇らしいといえるかもしれない。夜中にひとり起きだして、星を見るなんて。

「シフル!」

 扉を開けて、セージが駆けてきた。毛布を被っている。

「セージ。ごめん、起こした?」

 セージは毛布の半分をシフルに渡すと、頭を振った。

「ううん。私、何かあると絶対目が開くんだよね」

 シフルは渡された毛布にもぐりこむ。彼女と同じ毛布だということは百も承知だったが、とにかく寒かった。ふたりは自然、身を寄せあう。

「ねえ、どうせだから、丘まで行かない? サイヤーラが一望できるよ。真っ暗なだけだけどね。ふたりでゆっくり話もしたいし」

 シフルは首を縦に振った。セージの顔が近い。これだけ近いと、表情のわずかな変化も、お互い見てとれた。セージは何かうれしそうだった。けれど、シフルはそんな彼女を前に、少し戸惑った。やはり、学院での彼女との落差に、今はまだ慣れない。

 ふたりは静かに歩いた。こんな星の夜には、そうしなければいけなかった。

「なあ、もう一回同じこと訊くけど」

 シフルは問う。「なんで、学院では家みたいに振るまわないんだ? そりゃ、まったく同じにはいかないだろうけど、わざわざ差をつけてるみたいなのは。言葉づかいや態度にしても」

「防衛策だよ」

 と、ロズウェルは返した。「噂にはなってると思うけど、いろいろあってね。態度をひたすら硬くしていれば、わざわざ近づいてくるやつは少ない」

「……」

「——また、いつか」

 教えてもいいと思ったら、教える。セージはそう言った。

 ふたりは丘にのぼった。ふもとに真っ暗な穴が空いていて、シフルは何げなくそこをのぞきこむ。穴はどこまでも深く、暗い。こんなひらけた草原には似合わない、未知の世界の扉だった。耳を澄ますと、水の音がする。静かなのに、水の音だけがうるさい。

「明日そこに入ろう。初めての人には、夜は危ない」

 セージが丘の上から声をかけた。「シフルなら、そこに興味をもつと思った」

「なんで?」

 シフルは彼女を追って丘の上をめざす。セージが腰を下ろしたので、シフルも倣った。もう一度、毛布を半分分けてもらう。彼女の顔が再び近づいた。

「精霊がいる。その数は、学院内の比じゃない」

「あそこに? ……このあいだ言ってた、水源?」

 留学のことで教授会に直談判しに行ったさい、セージの口から、水(アイン)が彼女を愛するようになった理由を聞いている。

「そう」

 彼女はうなずいた。「キリィはあそこに棲んでいて、私をずっと知っていた。他の水(アイン)もね。だからあのとき、私を助けて……」

 言いかけて、セージは、口が滑ったな、というふうに苦笑する。

「でも私、こんなふうにシフルと話せる日がきたらいいって、思ってた」

 セージはシフルの眼を見て、シフルはセージの眼を見た。「……シフルは?」

 回答を求められて、少年は顔を赤らめ、視線をはずした。

「そんなの、わからないよ」

 そして、憮然として告げる。「オレ、『ロズウェル』と戦いにここに来たんだ。いきなりそんなこといわれても……」

「はは、そりゃそうだな」

 セージは控えめに笑い声をたてた。

 それからふたりは、他愛もない話をして夜を明かした。

 

 

 朝、寒さで目が覚めた。

 シフルは隣で眠っているセージに飛びあがりかけたが、あたり一面にたちこめる霧にまた仰天した。安眠中のセージを揺り起こし、シフルは腰をあげる。不思議な世界だった。一メートル先も白濁しており、どの方向から来たのかもわからない。

「家、あっちかな……?」

「寝ちゃったね」

 セージは思いきり伸びをする。「あっちだよ。風邪ひいてない? シフル」

 セージが指さしたのは、シフルが思っていた方角とまるっきり反対だった。ここでひとりさまよったら、まず生きて帰れないだろう。

「風邪は、たぶん今のところは大丈夫。……そういえば、トビスってラージャスタンがすぐ隣だっけ」

「うん。正確には、パチア自治州の隣だけど。あっちの方向に十キロ先ね」

 セージはさらにちがう方角を示す。パチア自治州とは、十五年前の休戦協定のおり、ラージャスタン内の土地のうちプリエスカ寄りの一部地域を半独立させた州である。自国に併合できなかったにせよ、パチアをラージャスタンから名目上削ぎ落としたことで、一応プリエスカは満足し、休戦に応じたというわけだ。

 この濃い霧のむこう側に、パチア自治州があり、ラージャスタン帝国がある。

「楽しみだね」

 と、セージが言った。

「うん」

 シフルは同意した。「誰が待ってるのかな、あの国で——」

「皇女と《クレイガーンの現身》とかいうトゥルカーナ公子でしょ。それに、あの蛇みたいな女官頭」

 言われて、シフルはラージャスタンの使者としてやってきた女、ツォエル・イーリのことを思いだす。

「怖い人だったな。美人だけど」

「そうだね、本当に。あんなのばかりなら、そりゃトゥルカーナ公子殿下も気疲れするでしょうね」

 シフルの背中に寒気がはしった。あの女官頭を思い起こしたせいか、単に風邪をひいたのかは不明だが、とにかくここが寒いことに変わりはない。シフルとセージは、霧の中を連れだってロズウェル家に帰った。

 戻ると、すでに弟妹たちは朝食の準備にとりかかっており、なぜか夜中に抜けだしていったふたりに、胡乱なまなざしを向けてきた。シフルは何をいわれているのか理解できず、ようやく思いあたったときには、いちはやく意味を解したセージによって、話は軽く受け流されていた。この姉の言葉に絶対的な信頼をおいているらしい弟妹たちは、なんだ、つまんないの、と肩をすくめた。

 朝食をすませると、みな畑に出ていった。シフルが手伝うと言いだしたので、ふたりも弟妹たちに続く。鎌を持たされ、シフルは麦の根もとを刃で薙いだ。欲ばって一度にたくさんの麦を刈ろうとしたところ、刃がたたない。セージやロズウェル家の兄弟たちはとことん都会っ子のシフルを笑い、シフルは汚名返上しようとはりきる。午前中はそうして、農作業に打ちこんだ。

 その結果、シフルは腰痛に苦しむことになった。正午にいったん家のほうに戻ったあと、とつぜん腰の痛みを覚えたシフルは、またしても弟妹たちの笑いの種になってしまった。

「午後は、昨日の丘に行こうか」

 セージが笑いをこらえながら提案した。「もう麦は刈れないよね?」

「そうさせてもらう」

 シフルは賛成する。昼食をきれいにたいらげてから、ふたりは用水路に沿って歩きはじめた。シフルが腰の痛みにぎくしゃくと足を動かしているので、セージは彼に歩調を合わせてゆっくりと歩を進める。日ごろ勉強ばかりの少年は、正直いってもう歩くどころか立つこともしたくなかったけれど、

「大丈夫?」

 と、案じてくるセージがまるっきり元気そのものだから、彼は降参することなどできない。少年は生来の負けずぎらい。生まれがちがうからといって、いいわけはしたくない。できない者が負けだ。

 けれど、シフルは腰痛の苦しみ以上に楽しかった。靴の裏をかする草の感触。まさしく大地の上で生きているのだと思わせる、吸いつくような土の感触。ビンガムとグレナディンはプリエスカでは特に都市化の進んだ街だから、身近な地域では体験できない。たちのぼる藁の匂いも、たちこめる朝もやも、シフルには何もかもおもしろかった。男女関係なくひとつの部屋で雑魚寝するのは、さすがにどうかと思うが。

 用水路は丘にむかって伸びていた。見ると、昨日の深い穴からくる流れである。用水路として築いたのではなく、自然にできた小川らしい。

「キリィはこの奥に?」

「うん、そう」

 セージは穴に身を滑りこませた。「すべるから、足もと気をつけて」

 シフルは平らな石を踏み台に、慎重に洞窟のなかに入っていく。セージは勝手知ったる様子で、身軽に石から石へと飛んでいた。こんなところで負けずぎらい魂を燃えたたせたシフルは、試しに真似てみたものの、飛び移った瞬間に腰にはしった激痛と、それに気をとられたことによりまんまと足を滑らせて転げ落ちそうになったので、やめておく。

「こっちだよー」

 穴の奥で、セージが手を振った。シフルは腰痛と戦いながらもなんとか降りていき、たどりついた底から斜め上を見上げた。ぽっかりと空いた穴から、差しこむ白い光。振り返り、さらなる奥を見やると、かすかに青く明るい。

(青?)

 シフルはその中に踏みこんだ。

「うわ……」

 思わず、ため息にも似た声をあげる。

 洞窟の奥は、水(アイン)の青い光で満ちていた。こっちこっち、と手招くセージの周囲に、ちらちらと舞い落ちていく数多の精霊たち。すぐ目の前でも青い光が弾けたので、シフルが手をみつめると、自分のまわりにも水(アイン)がまとわりついているのがわかった。セージの愛され具合とは比べようもないが、おそるおそるついてくる精霊が少しいる。彼らは呪いを恐れているのだ。ひょっとしたら、こんなに小さくても、三級以上の水(アイン)なのかもしれない。

「すごい」

「でしょ?」

 青いきらめきに包まれて、セージが得意げに口角をあげる。

「そういや、この先にキリィがいるんだよな? キリィ、呪い怖がってただろ。……大丈夫なのか?」

「しばらく黙っていて、シフル」

《精霊王》に聞かれるよ——。彼女は唇だけを動かして、そう告げてきた。

「?」

 よく理解できなかったが、とりあえず手で口を塞ぐ。それでいい、と彼女が合図し、ふたりはいっそう奥へと進んでいく。

 左右から迫ってくる黒い岩のあいだを通り抜け、青い洞窟の奥へ奥へ。明かりとりになる穴はないけれど、水(アイン)の光が始終さざめいていて、目の前にも足もとにも不安はなかった。ここにいるのは、セージとシフル、ふたりだけではない。だから、怖いものは何もない。シフルはそう感じた。

 唐突に、視界がひらけた。

 広い空間の底に、青々とした流れがある。流れとはいってもごく穏やかな流れで、流れにともなって群れ動いていく水(アイン)の光がなければ、湖とみなしただろう。セージはいきなり服を脱ぎ捨て、下着姿になったかと思うと、ためらいなくそのなかに飛びこんだ。

「セージっ?」

 あらゆる意味であわてるはめになったシフルにはかまわず、青い水のうちに消えていく。仕方なく、シフルも制服を脱ぎ、たたんでそこにおいた。

「とりゃっ」

 目をつぶり、かけ声とともに、地面を蹴った。

 はでな水音をたてて、青い流れに沈んでいく。冷たい。かたく閉ざしていたまぶたを持ちあげると、その透明度に驚く。この流れの、奥の奥まで見渡せるのだった。青い光の流れてくる先に、セージの白い足がある。シフルはそれを目印に泳ぎはじめた。水泳は生まれて初めてだったが、さほど怖くはなかった。

 思うようには前進できないものの、少しずつ流れに逆らっていく。セージのあとを追って泳ぎつづけていると、いつしか水かさが減っていき、やがて膝の高さになっていた。水をかく手が川底をかすめたので、シフルは立ちあがる。

「ほら、ここだよ」

 セージが待っていて、前方を指さした。

 顔をあげると、洞窟のなかに大きな岩山がある。その頂上を凝視したところ、そこから水がこんこんと湧き出て、地に落ちては流れをつくりだしていた。

 ——ここが、水源。

 不思議な場所だった。あたかも、ここだけでひとつの世界であるような、完成された空気。けれど、ここははじまりの場所にすぎず、ここに始まる川の流れはどこまでも遠くへ行く。

「キリィ! 来たよ」

 セージが大声で呼ぶ。すると、岩山の頂上から、白い髪の妖精が舞い降りてきた。やわらかそうな髪、青い水の瞳、華奢なからだ。前に会ったときと寸分たがわぬ愛らしさ。彼女は、シフルにかかった呪いを恐れて、逃げるようにして姿を消したのではなかったか。シフルは不安になって、セージのほうを振り向いた。

「大丈夫なのか?」

「ここはもう大丈夫」

 と、セージは答えた。「ここは水(アイン)の気配が濃すぎて、精霊王の目が曇るそうだから」

「そうよ。メルシフル・ダナン」

 キリィは口もとに微笑をたたえる。「ここは水(アイン)の領域。精霊王さまには察知できないの。ここでなら、あなたと関わっても消されることはないわ」

「消されるって……」

 シフルは聞き返す。

「精霊王さまの呪いは、あなたを害するものではない。逆なのよ」

 と、キリィは告げた。「あなたに力を貸した三級以上の精霊が、その存在を消されるの。呪われたのは時姫さまの血だけれど、戒められたのはあたしたちなのよ。精霊王さまは決して時姫さまの血筋の者を傷つけることはない。呪ってもなお、愛しているから。……それにしても」

 水(アイン)の眷属は淡々と語ると、少年に手をのばした。背伸びし、彼に触れてくる子供の器の妖精を、シフルはじっと見る。なぜ、キリィはこんなにも愛おしそうに自分を見るのだろう。生まれたときから見守りつづけていたというラーガなどとは、事情もちがうだろうに。

「不思議なものね。人間として生きていたころの時姫さまと、同じ道に進もうとするなんて。顔も、ものすごく似ている。あなたが時姫さま以外の子供のはずがないわ」

「……ベアトリチェ・リーマン?」

 シフルはその名を、ぽつりとつぶやいた。およそ五百年前に理学院にいた、総合精霊学の権威。多くの文献における、彼女のプロフィールの最後を締めくくる一文は「六十二歳のときに失踪」。『精霊王に関する考察』全四巻を完成させ、教会当局から出版禁止処分を受けた、ロータシア暦二二三年のことである。

「ええ。知っていたのね」

 かたわらで、セージが眉をひそめた。彼女は精霊王の文献を探すさいシフルに協力したため、その名前を覚えていたのだろう。

「このあいだ、思いだしたんだ。その名前」

 シフルは目を伏せた。「昔、あの女には何度も会ってる。だけどずっと忘れてて、偶然『精霊王に関する考察』って本をみつけても名前は思いださなかった。……でも、変なんだ。その本は手書き原稿で、すごく読みにくいはずなのに、全然そんなことなかった。水を飲むみたいに、するする入ってくるんだ」

「それはひょっとして、字か文がシフルに通じるものがあるってこと?」

 きっとそうね、とキリィがうなずく。「——シフル、ベアトリチェ・リーマンがお母さんなの? だけど、五百年前の人でしょう? それに、調べたら、彼女が失踪したときは六十二歳だったし、それにあの、時姫って」

 セージが混乱しはじめた。セージは、シフルが呪われた血筋であることしか知らないのだ。彼女もまた選抜試験を受けているので、空(スーニャ)という属性が実在するのは納得済みのはずだが、時姫なる人物については初耳にちがいない。シフルも、それまで知らなかった事実を受け入れるのには時間がかかった。彼女が混乱するのもむりはない。

「悪いけど、わかるように説明して」

「ベアトリチェ・リーマンが時姫になったんだ。時姫は、時って属性の元素精霊長。時姫は、十六年前オレの親父に会って、オレを産んだ」

 シフルはかいつまんで解説した。

「それじゃわからない! 五百年の時間はどうなるの」

「時という属性は、その名のとおり時を操ることができるのよ、セージ」

 シフルの説明があまりにも大雑把だったので、代わってキリィが説明した。彼女いわく、ベアトリチェ・リーマンは六十二歳のとき、精霊王の研究に没頭していた。そのすえに精霊王の名前を偶然言い当て、彼を召喚してしまう。

「精霊王なんて、召喚できるのか?」

「可能よ。精霊界の住人である限り、精霊と同じ存在なんだもの」

 キリィはきっぱりと言った。「精霊は人間を支える。求められれば、精霊王さまも呼ばれることがある。もっとも、高位の精霊になるほど力を貸す人間を選ぶから、たとえ名前を言い当てられたとしても、精霊王さまが召喚に応じることなんてめったにないでしょうけど」

 ともあれ、精霊王はベアトリチェ・リーマンと出会った。精霊や精霊王の謎に肉薄したがる老学者と、精霊王。精霊王は時の力により、ベアトリチェの若いころの美しさを見抜く。彼女を精霊界に連れ帰ると、精霊王はベアトリチェを精霊人形として城に置くことを決めるとともに、彼女に永遠の若さを与えた。すなわち、ベアトリチェの肉体の時を戻し、最も美しかったころにおいて時を止めた。

 そうして、ベアトリチェは精霊人形として精霊王に仕えるようになった。精霊人形とは、普段は眠っており、求められたときのみ目覚めて精霊王にかしずく女たちのこと。ベアトリチェはやがて、その深遠な知識と高い見識によって、精霊王を魅了する。精霊王は彼女に正妃の座を与え、人の王妃が授かるところの冠の代わりに、時の属性を与えたのである。また、空の属性を時に従属するとした。

「そういうわけで、時姫さまは永遠に十八歳のままなのよ。実際は五百——六百歳ぐらいかしらね」

「で、その人がシフルのお母さん——?」

 セージは隣にいるシフルを凝視しつつ、信じられない、というふうに頭を振った。

「……そうらしい」

 シフルとて、信じる気にはなれなかった。これだけ証拠が揃い踏みでは、今さら逃避することもできないけれど、じっさい途方もない話である。「母」が元素精霊長だとか、《精霊王》が義父だとかで、充分たまげたというのに、さらに五百年というふざけた年月が加わり、ますますとんでもないことになってしまった。

 シフルは父を思い浮かべた。十六年経っても恋を風化させず、あからさまに時姫に会いたくてたまらないふうだった彼のことを考えると、自分にも人間らしい血が流れているのだと思えて、わけもなく安堵できた。父が心の支えになるだなんて、これまでなかったことである。それほどに、遠くへ来てしまったわけなのだ。

「あーもう……わけわかんねー」

 思わずぼやくシフルに、

「些細なことよ」

 と、キリィが言った。「真実が見えてきただけ、あなたは恵まれているわ」

 シフルは妖精の言葉を考えてみて、こくりとうなずく。

「ごもっとも、かな」

「そうよ」

 彼女は口の端をあげた。「ある日とつぜん自分の娘が行方知れずになったのに、それが精霊王さまの仕業とは知る由もなく、妖精が花嫁をさらっていっただなんて伝説をつくった村もある。あながちはずれてはいないけれど、本当の答えを知ることはないでしょう」

 シフルは嘆息した。自分が世界のどの位置にいるか、なんてことは深く考えないことにする。それこそきりがない。

「また、ここで会いましょう。メルシフル」

 少女の妖精は愛らしく微笑む。

「うん。いろいろ教えてくれて、ありがとな。すっきりした」

 シフルとセージは彼女に別れをいい、再び川に潜っていった。帰りは流れに従っていけばいいので、行きよりは楽に進むことができた。

 服を置いてきた場所に出たふたりは、各々の服を抱えて、青い光にあふれた洞窟の道を戻っていく。下着姿で帰るのは問題だったが、いかんせん水浸しで、その上に服を着るのは具合が悪い。しょせん田舎、外に出ても隣近所の目があるわけでなし、家も近いので、そのまま帰宅することにした。

 なぜか下着姿で帰ったふたりに、弟妹たちは疑惑のまなざしを向けてきたが、例によってシフルが理解する前に、いちはやく意味を解したセージが軽く受け流して、ことはすんだのだった。

 

 

 シフルはそれから三日ほどロズウェル家に滞在した。途中で、彼女の両親が買いだしから戻った。母親は眼がセージにそっくりで、父親の農家だてらに黒々とした髪は、確かにセージに引き継がれていた。彼女は両親と仲よくやっていた。家族としかいいようがない、文句なしの家族の姿で、シフルにはひどくうらやましかった。

 三日間、セージとふたりで過ごした。一緒に農作業を手伝ったり、勉強の復習をしたり、付近を散歩したり、あの水源を訪れたりした。たくさん、話をした。帰ろうと決めたとき、内心はまだまだトビスにいたかったが、そう何日も世話にはなれない。それに、そろそろ秋休み直後に控えた試験の勉強がある。留学が決まったからといって脱落するようでは情けない。

「本当に帰るの? 気がねしないでいいんだよ?」

 引き止めるセージに、

「気がねするよ。だって人ん家だもん」

 と、シフルは苦笑した。「それにさ、このままいたら、秋休み全部遊び倒しそう」

 来たときと同じように乗りあい馬車に乗りこんで、少年はサイヤーラを発った。馬車でも汽車でも、シフルは眠りっぱなしだった。それで、今度はあっという間にグレナディンに着いた。

 帰ってきたその日はゆっくり休んで、翌日から勉強に手をつけた。教科書を見るのは久々で、しばらくは感覚を取り戻せなかったが、とりあえず必死に教科書をにらみつけた。午前中は寮で勉強し、午後は気分を換えて図書館で勉強する。夕方には勉強はやめにして、いつもの展望台でゼッツェを吹く。シフルは残りの秋休みを、そうやって暮らした。

 休みが残り一週間になったとき、セージが寮に帰ってきた。

「ただいまー、シフル」

 扉を叩いて、顔を出す。

「あれ、おかえり。早かったじゃん」

「うん。シフル暇だろうと思って」

 ちゃんと勉強してたよ、と少年は笑う。セージも、楽しそうな笑顔。

(……あれ、いつのまに、こんなふうにしゃべるようになったんだっけ)

 シフルはちらと思ったものの、

(まあ、いっか)

 と、結論づけた。

 ——なんだか、友達みたいだな。

「図書館で一緒に勉強しない? シフル」

「いいよ」

 ふたりは連れだって寮を出た。まだ学院に戻ってきている学生は少ない。冷たくなった風のなかを、ふたりの影が歩き去った。

 

 

 夕暮れ時になれば、シフルは展望台にやってくる。

 秋休みになってからというもの、《彼》は現れていない。《彼》もまた、帰省しているのだろう。ひとりでゼッツェに興じていると、無性に《彼》が恋しくなる。やはり楽器というのは、一緒に演奏する人が必要なのだ。

 もちろんシフルは、ゼッツェ演奏中は決してひとりではないことを知っている。彼には火(サライ)という大切な聴衆がいて、彼らは常にシフルの音色に耳を澄まし、喜んでくれる。彼らがいれば淋しくはないのだけれど、火(サライ)には音楽を奏でることはできない。音を合わせる人、必要なのはそれである。

 シフルは今日もひとり、火(サライ)のために精霊讃歌を吹くことにした。楽器をじっくりとあたためて、マウスピースに口をつける。それから、思いきり息を吸いこみ、吐きだした。ポー、という優しい音色が、すっかり涼しくなった秋の理学院に響きわたる。休み中の人気のなさがいっそう秋を演出していて、シフルはますますもの悲しくなった。

 精霊讃歌十番の旋律を奏でる。もともとうらびれた曲風の多い讃歌集だが、今この場で吹くとてきめんだった。目を開ければ、火(サライ)がちかちかと点滅していたけれど、人恋しさが埋まるわけではない。

 しかし、《彼》はきた。

 二番に入ったとき、下のパートに飛びこんだ者がいる。

(帰ってきたんだ!)

 シフルは喜んで、大いにゼッツェを吹き鳴らした。でも、なんとなくひっかかる。学院に戻っている学生の少なさだ。

 ——《彼》は、もしかしたら。

 少年の脳裏に、ある推測が浮かんだ。が、今はどうでもいいことだった。とにもかくにも《彼》とふたりでゼッツェを楽しめたら、それでいいのである。

 そして一週間後、シフルの最初の秋休みは終わりを告げた。

​To be continued.

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