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​精 霊

第一部 プリエスカ・理学院編

第9話「水の郷」(3)

 あのあと、母とは少しだけ時間をもった。

 シフルは、切符を買いに一度駅へ向かった。プリエスカの国土はそう広くはないが、ロズウェルの実家のあるトビス州は国の果てといっていい位置にある。切符を購入しようと窓口に行って仰天した。トビス州バルティク市に行く汽車は本数が少なく、そのうえ値段も高い。シフルのこづかいでどうにかなる範囲ではなかった。

 そこでシフルはいったん家に帰り、バッソに泣きついた。執事も心得たもので、まずは奥さまのご了承をとられてはいかがですか、と提案したのだ。これは、シフルと母に流れる空気が、昨日の一件で普段以上に冷ややかになっていたことを見ての対応にちがいない。しぶしぶシフルは母の部屋を訪ねた。

「母さん。寄りたいところがあるんで、切符を買ってもらいたいんだけど」

 母は鏡台から振り返り、少し首を傾げるようにした。

「どこに行くの?」

「トビスのバルティク。そこから少し離れたところにある、同級生の家」

「トビス。ずいぶん遠いのね……」

 彼女はそうは言いつつも、あまり関心のないふうで答える。「……でも、いいでしょう。いずれ、もっと遠くに行くんだものね」

「そう。ありがと、母さん」

 シフルは足早に母の部屋を去った。母が鏡台に再び向き直るのが、横目に見えた。それだけだった。

 バルティク行きの汽車の出発は夕方だった。しかし、シフルは次に切符を買いに駅に戻るとき、荷物も持って出た。もう家に帰る必要もなければ、帰りたいとも思わなかった。あの陰鬱な母が待っており、バッソが隙あらば親子の交流をさせようとしていることを考えると、家にはいたくなかった。

 家は家。でも、好きになれない家というのはある。シフルはなじみのバールに入り、そこで出発時刻を待った。店主と他愛ない会話をして過ごす。店主とは楽しい会話ができたけれど、そうしているとビンガム市立学院時代に戻ったようで、なんとなくいやだった。

 早く、学院に帰りたかった。今は一刻も早く、ロズウェルに会いたい。彼女はシフルにとって理学院の象徴だった。あの、苦しくも楽しい、充実した日々の。

 夕方、昨日に同じく雨が降りだした。シフルは店主に別れを告げて、家から持参した傘をさし、ビンガム駅をめざした。ホームに着くと、柱に寄りかかって汽車の到着を待つ。

 霧雨である。眼鏡に細かい水滴が降りかかり、視界が不明瞭になっていく。少年はガーゼをとりだし、眼鏡を拭った。再びかけなおしたが、依然として霧雨が続き、埒があかない。シフルは眼鏡をはずした。しばらくぶりに視界がすっきりした。また女にまちがえられては不愉快だが、わずらわしいので仕方がない。

 汽車がやってきた。シフルは乗りこんで、窓際に座った。駅員に聞いた話によると、バルティクに到着するのは明日の朝。本などは持ってこなかったので、寝るか風景を眺めるかしかない。寝ることにして、シフルは長椅子に横になった。

 何度か目覚めて、そのたびにシフルは窓の外を確かめた。最初に起きたとき、窓の外には街明かりが点々と見受けられた。次に起きたときは真夜中で、線路の外は真っ暗だった。停車駅にくるたびシフルは身を起こし、乗客がやってこないか確認した。最後に目覚めたとき、外は白みはじめていた。

 だだっぴろい田園風景の中央に、汽車が走っている。朝もやのむこうに、にじんだ朝焼けの薄紫と、じりじりと昇ってくる太陽が見えた。

(すごいな)

 その場所は、ひたすらに広かった。のっぽの市庁舎だとか、礼拝堂や鐘楼だとか、視界を阻むものは何もない。上空は全部空。地上は、全部が手つかずの原野であったり、畑であったりする。

(ロズウェルって、こんなところに住んでるのか)

 初等学校さえない辺境、というのはカリーナ助教授の言だけれど、まさしくそういう感じだった。めったに人の生活している気配がないのである。もう少し日が高くなれば畑に人が出てくるのかもしれないけれど、そもそも住居らしい建物がめったにない。都会っ子のシフルにとっては、新鮮な光景だった。

 やがて、バルティクに至った。降りてみると、駅の周辺は質素ながらちょっとした市街地だった。駅の外で「サイヤーラ村」に向かう乗りあい馬車をみつけて乗りこむ。またそこから、長いあいだ馬車に揺られなくてはならなかった。すぐに市街地は抜けた。田園地帯に入ってからが、えらく長かった。延々と畑か農園か草原があるばかりなので、とうに見飽きてしまって何も見るものがない。最初は乗りあわせた客たちと会話もしたが、やがてそれにも飽きたし、いくつかの停車場をまわったあとに、気づけばシフルしか残っていなかった。

 よって、また寝るしかなかった。シフルは馬車の揺れかたに疲労を覚えつつ、目を閉じた。汽車のなか同様きちんとは寝つけず、何度か目覚めて何度か眠った。

「お客さん、サイヤーラ村だよ」

 そう声をかけられて、シフルはあわてて眠りから覚め、急いで馬車から飛び降りる。馬車を見送り、村といわれた方角に振り返ってみれば、どこが村やらさっぱり不明な、相変わらずの田園風景。シフルはさすがにため息を禁じえなかった。

(なんでこんなとこに住んでんだ、ロズウェル……)

 懐から彼女にもらった紙を取りだし、住所を確認する。トビス州サイヤーラ村ハルキノ、それだけだ。あたりを見渡すが、ただひたすらに畑。番地も通りも何もない。

(……停車場から太陽の方角に何キロ、とか必要だろ、これは……)

 シフルは途方に暮れた。

 仕方ないので、いちおう道の体をなしている土の道をやみくもに進む。さんざんさまよって、ようやく人家を発見した。疲れ果てたシフルが家の入口を叩くと、中から元気のいい声が聞こえた。

「こら! お姉ちゃん勉強してるって言ってんでしょ? あんたたち、少しは静かにできないの?」

 シフルと同じ年ごろらしい、少女の声である。シフルはほっとして、ごめんください、と力強く扉を叩いた。

「んッ? ——静かに!」

 何か固いもので固いものを打ったような音がした。同時に、ギャッと悲鳴があがった。

「何よその不満そうな顔は。どなたかいらしたみたいよ、静かにしてなさい! はいはーい、ちょっと待ってくださいねー」

 こういう小さな村なら、きっと訊けばわかるはずだ。この少女にロズウェル家がどこにあるのか教えてもらえば、なんとか今日中に彼女に会えるはず。シフルはすでに傾きはじめている太陽を眺めやりつつ、少女の遠慮のない足音が近づいてくるのを待った。

 バン! と音をたてて、扉は思いきり開けられた。

「はーい、どちらさま?」

 と、少女が愛想よく笑った——が、

「え」

 意外にも、その顔をシフルは知っていた。

 シフルは、一瞬、動きを止めた。しかし、次に、

「……ロズ、ウェル?」

 信じられない思いで、よく知ったその名前を口にした。

「……ダナン? なの、か?」

 少女のほうも、口をぽかんと開けっ放しにするしかなかった。時姫の力を使役しなくても、時というのは止まるのだ——と、シフルは思った。ふたりともそのままのかっこうで、しばらく停止していた。

 シフルは、見てはならないものを見てしまった気分だった。弟妹に大声でどなり、どかどかと音をたてて家を歩く——《召喚学部最後の天才》セージ・ロズウェル……。

 先に時を動かしたのは、彼女のほうだった。少女は状況を受け入れたくないあまり、絹を裂くような悲鳴をあげた。それはまちがいなく、シフルが目標にしてきた《セージ・ロズウェル》ではない、単なる田舎娘のものだった。

​To be continued.

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