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​精 霊

第一部 プリエスカ・理学院編

第9話「水の郷」(2)

 夕方に目が覚めた。窓の外を見ると、雨はとうにやんでいて、空は雨上がりの夕焼け色。何かが、シフルの胸に落ちた。

 ——あの女。

 あのいちばん美しい夕焼けを、幼い自分と眺めていた。

 ——あの女は、誰なんだ……?

 見上げた先に、確かに銀の長い髪があった。自分の髪以外で銀の髪、しかも長い髪というのは、前にもどこかで見た気がする。遠い昔かもしれないけれど、あれはきっと、あったことだ。自分はあの人を知っていて、でもどうしてか忘れてしまった。

「……ラーガ。——ラーガ、いるか……?」

 少年は寝起きのくぐもった声で、彼の妖精を呼ぶ。「ひとつ聞きたいんだけど」

「なんだ」

 淡い光とともに、青い妖精が姿を現した。薄闇に、その容姿が浮かびあがっている。

「あの女が誰か、おまえは知ってるよな?」

 と、シフルは問いかけた。

「あの女とは?」

「選抜試験のとき、夕日を見せてもらっただろ。あのとき、ちっこいオレの横に女がいた。……銀の髪の」

 シフルは目を逸らし、言う。「——あれが《時姫》なんだろ」

「そうだ」

 ラーガは肯定した。「おまえがまだ幼いころ、時姫さまは何度もおまえに会いに行っていた。ベルヴェット・ダナンがああだったから、もしおまえが望んでいたら、時姫さまはおまえを連れていったろう」

(ああ……、じゃあ)

 シフルは目を閉じた。まぶたの裏に、あのとき見た女の銀の髪が翻った。(あの女が、オレの母親)

 なぜなのかはわからない。

 でも今、急に、そうなのだ、と腑に落ちた。

 前々から言われていたのに、なぜ今になって理解できたのかというと、ひとつには久しぶりに家に帰ってきて母に再会したことがあるだろう。目の前にいない相手には根拠もない期待が高まるものだが、その期待も空しく、実際に面を突きあわせてみればやはり母は母だった。シフルに対して何の興味もなく、父に追従するばかりの陰気な女。目に映るのは暗い表情のみで、他には何も見えてこない。

 が、あの女は手をとってくれた。行くところのわからない、さまよう幼い手を、引いてくれたのだ。

(それも、一度じゃない。あの女に会ったのは)

 あれはおそらく、初等学校に入るより前だ。その記憶はあまりにも遠い。しかし、市場を歩いていて手を離された日、隣町で母を見失った日、公園で遊んでいるうちに母がいなくなった日、思いだせる限りでも一度や二度ではすまない機会に、母はシフルを見捨てていき、代わりにあの女が家まで連れ帰るか、一緒に遊ぶかしてくれた。

 野原でシフルを追いかけてくる女の、その髪は銀だった。ともに夕日を見た女の髪も。どうして今の今まで忘れ果てていたのか、自分と同じ銀髪に何の疑問も抱かなかったのか、十六歳のシフルには歯がゆい。あのころはほんの子供で、何の因果関係も想像できなかった。

(名前も知ってた)

 と、シフルはひとりごちる。(名前で呼んでた。あの女を)

《ヴァレリー》ではなかったように思う。十六年前の父はそう呼んでいたが、シフルが教わった名前はそんな感じではなかった。

「あの女って、なんて名前だった?」

 少年は僕たる妖精に尋ねる。

「おまえは知っているはずだ」

 シフルは予想どおりの返答をされて、うめいた。

「……思いだせない」

「せいぜい思いだすんだな。自分で思いだすまで教えるな、との仰せだ」

 少年は首をひねった。しばらくすると頭を抱えた。ゆっくり思いだせ、時間はいくらでもあるんだからな、とラーガは意地悪く笑う。シフルは必死で記憶をたぐり寄せたが、どういうわけか出てこなかった。

「そのうち思いだすだろう。そうしたら、時姫さまに会わせてやる」

「本当か?」

 シフルは驚いて聞き返す。なんとなく、《時姫》には会えないと思っていた。なぜなら、彼女は《精霊王》の妻であり、《精霊王》はシフルを呪っているからだ。

(あれ……? でも)

 少年ははたと止まった。(《精霊王》に呪われてるのは、オレの《時姫》の血なんだよな? でも《時姫》は《精霊王》の妻で……あれれ? なんで妻を『呪う』んだ?)

「ちなみにいっておくが」

 彼の混乱を察して、妖精が口を挿んだ。「時姫さまは、精霊王の『元』妻だ。今から五、六百年前に精霊王の妃となられたが、十六年前、おまえを産んだことが発覚すると、精霊王は時姫さまを呪うとともに放逐した」

「あー。なるほど」

 シフルはぽんと手を叩く。「だから、親父と会ってたときビクビクしてたんだな。で、結局ばれたわけだ」

「そのとおり。時姫さまは、すべてを精霊王から与えられた。理由もなく精霊王を裏切れば、精霊王の怒りを買い、すべてを取りあげられることも考えられた。しかし、精霊王はそうはしなかった。時姫さまとのあいだは、それほどに深く、だからこそよけい許せなかったともいえる」

「時姫は、なんで精霊王を裏切ったんだ?」

 そのせいで、その息子たるシフルまで呪いを受けている。

「時姫さまは、かつてはただの人間だった。仕方がない」

「どういう意味?」

 シフルは首を傾げた。ラーガはとつとつと述べる。

「時姫さまは、精霊人形だった期間を含め、ほぼ六百年間、精霊界で王とともに過ごした。メルシフルならどうだ、この状況は」

 父と時姫が別れたときの、あの長い夜。シフルは何とはなしにそれを思いだした。

「気が狂う。……かな」

「そういうわけだ」

 シフルは納得すると、用語の説明を求めた。精霊界が精霊たちの本来棲む世界であり、人が死後それぞれの属性の精霊となってこの場所に飛んでいくというのは、教会の教義にも書かれていることで、シフルも知っていた。ラーガいわく、その精霊界の果てに、精霊王の住まう城があるという。

「精霊王は、人間のなかから、しばしば気に入った娘をさらって手もとにおいておく。彼女たちは精霊王に呼ばれるとき以外は意識がない状態なので、精霊人形と呼ばれる」

「うへえ」

 えげつない話である。シフルが顔を歪めると、ラーガはにやりと笑った。時姫は、そんな多くの美貌の娘たちのなかから突出し、正妃にと望まれたのだという。彼女の豊富な知識と機転が、精霊王の心を惹きつけたのだと。

「時姫さまはすばらしいおかたなのだ。よくわかっただろう」

 うっとりと話す妖精に、シフルは、はいはい、といいかげんに応じた。毎度毎度くりかえし主を讃美して、よくネタが尽きないものだ。ラーガはさらに時姫がいかに優秀な人物かを語りはじめた。シフルが半分聞き流しつつ聞いていると、突然、勢いよく部屋の扉が開け放たれた。

 父だ。シフルは思わず姿勢を正した。

 しかし、けんかでも売りにきたのかと思いきや、父はまっすぐにラーガに向かっていった。そうだ、父はラーガと面識がある。十六年前、父の目の前で、時姫の腹からシフルをとりあげたのは——この青い妖精。

 リシュリューはラーガにつかみかかった。

「おまえは、あのときの妖精だな。これはいったい、どういうことだ……!」

「《ヴァレリー》さまの仰せで、俺はメルシフルに力を貸している。それだけだ」

「——そういうことではない!」

 冷静に応じるラーガに対し、父は激しく頭を振った。

「じゃあ、何だと?」

 ラーガは冷たい眼をリシュリューに向ける。父はぐっと詰まったが、すぐに口を開いた。

「……息子に彼女に会う権利があるのなら、私にもあるはずだ。彼女にシフルに会う自由があるならば、私にも」

「あろうはずがない。この、愚か者」

 妖精は一蹴した。「きさまは、自分に妻がいることを忘れたようだな。ついでに、十六年経っても理解できていないらしい。《ヴァレリー》さまとおまえとは、ちがう存在なのだと。一緒には生きられないのだ」

 頭を冷やせ、と妖精は言い放ち、そのまま淡い光をまとって姿を消した。父は彼を見送ると、肩を落とす。

「親父、いつからいたんだ?」

 シフルはおそるおそる訊いた。父はばつ悪げに、

「……おまえが迷子になったとき、連れ帰ったのがおまえの母親だったという話からだ」

「親父、バッソから聞いてたんだな。時……《ヴァレリー》がオレを連れてきたって。だからバッソは、やたらとあの女を引き止めてた」

 シフルは、父の新しい一面を見たような気がした。だが、いっそう父を許せないと思った。たとえそれが、シフルのためだったとしても、そのために一生を犠牲にせざるをえなくなった人がいる。

「親父、ずっとオレの実の母って女を好きだったのか? なのに、母さんと結婚したのか……?」

 シフルは小さくつぶやく。「……だとしたら、最低だな、親父」

 父は何ひとついいわけしなかった。シフルも、それ以上追及することはなかった。

 その日はもはや話をすることはできず、シフルは自宅に一泊した。いやいやながら揃って夕食をとるはめになった少年を見て、執事は満足そうにうなずく。まったく忠実な使用人である。彼は昔からずっと、ダナン家の風景を見届けてきた。《ヴァレリー》のことはもちろん、他の女のことも、母のことも、バッソはよく知っており、黙って見守っている。人間関係のことで口を挿むのは執事の仕事ではない。

 食卓についているのは、なんとも不自然な面々だ。父親、父親に愛されずまた愛しているわけでもない母親、その母親以外の女とのあいだに生まれた息子。流れるのは、冷たく、ぎくしゃくした空気。

 どうしてこんなことになったのか、考えたくもない。子供をいいわけにするのは反則だと思うが、どうせ父はそういうつもりなのだ。ベルヴェットがシフルや時姫と同じ、銀の髪と灰がかった青の瞳をもつのは、決して偶然ではない。ラーガも、いつだったか同じ見解を示していた。

 食事中、会話らしい会話は何ひとつなかった。専属コックの懐かしい味を楽しむと、急いで席を立ち、何もいいだせなかったことを後悔しながら自室に戻る。父はどうあれ、シフルの用件に時姫は無関係だ。シフルはただ、署名と捺印を要求すればいい。それなのに、父が《ヴァレリー》のことで明らかに気落ちしているので、気勢を削がれてしまった。

(悪いの親父じゃん。全部)

 シフルは階段を昇りつつ、胸のうちでぼやいた。(オレは親を選べない。母さんは前からダナン家の使用人だったんだから、逆らえない。ぜんぶ親父が仕向けたことで、自業自得だ)

 明日こそ、決着をつける。シフルはそう決めた。

 翌日、父が市庁舎にでかける前に、シフルも起きだした。支度を終えて、玄関から外に出ようとしていた父を、シフルは捕まえる。

「あとにしろ。帰ってきたら、存分に相手をしてやる」

 父はけむたそうに言った。昨日の醜態が嘘のようである。

「いや、今だ。あんたが帰ってくるころには、オレはビンガムを出る」

 シフルは毅然と告げた。「黒服のやつらに見張らせてもムダだ。オレはもう、前のオレじゃない。精霊と一緒に生きてるオレには、あいつらにない力がある。ほら」

 シフルはひろげたままの手を振りかざし、十級火(サライ)を召喚してみせた。少年の呼び声に応えてともった小さな火に、父はさすがに眉をひそめる。

「……ふん。署名の件か」

「それと、捺印な。よろしく」

 シフルは書類と朱肉を差しだした。「親父が受けてくれないなら、オレはこの足で市役所に行くぜ。もっとも、ダナン家の戸籍からオレを抜く手続きをしても、親父に握りつぶされちゃあおしまいなんだけどな」

「それほどの決意なのか」

 父は尋ねた。シフルはにかっと笑う。

「当たり前! 親父がどう思ったって、オレには精霊は一生ものなんだよ」

 それから、小声で付け足す。「あの女が力を貸してくれたのは、それを知ったからなんだ。だから、オレは前に進める。……親父も、応援してくれるだろ?」

 むっとする父。微笑む息子。

 父の頬がかすかに赤い。

「——よこせ」

「はい?」

「それをよこせ、といっている」

 リシュリューは息子の手から書類を奪いとった。執事に羽根ペンと判子を持ってこさせると、壁を台にしてすばやく署名する。続いて、シフルが掲げた朱肉に力強く彼の判子を押しあてると、きれいな赤い装飾文字が浮かびあがった。

 署名、リシュリュー・ダナン。捺印、リシュリュー・ダナン。

「……よしッ、完璧!」

 シフルは飛び跳ねて喜んだ。「サンキュー、親父!」

「その代わり——」

 父は口ごもる。「わかってるな?」

「おう」

 あの女に会うことがあったら、親父のこと伝えておくよ、とシフルは耳うちする。ただし——。

「わかっている」

 父は神妙な顔つきでうなずいた。「あれのことは……巻きこんだだけの責任はとる」

「それは何より」

 シフルは手を振ると、二階に戻っていこうとした。荷物をまとめるのだ。ありがたいことに、大切なものすべてを持ちださなければならない状況は避けられたが、必要最低限の荷物は運びださないと、寮生活も不便である。

「シフル」

 階段の下から、父が呼び止めた。

「なに」

「ひとつだけ言っておく」

 父は真剣な面もちで告げる。「……忘れるな。おまえは私の子、ビンガムのメルシフル・ダナンだ。ラージャスタンの狸の手先になったら許さん」

「そうだな。忘れないよ、絶対に」

 シフルはそう答えて、口の端をあげた。「ありがとう」

「ふん」

 そうして、父はでかけていった。母があわてて見送りにやってきた。

 シフルはすれちがいに部屋に戻り、出発の準備を始める。傘や普段着、礼装、以前ためこんでいた貯金箱などで、からっぽのトランクを埋めていく。ひととおり詰め終えても、トランクは大した重さではなかった。かさばるだけだ。

 シフルは重要なものを忘れていやしないかと、部屋を見渡し、引き出しやクローゼットを開ける。もう当分、この部屋にくることはない。

 すると、引き出しの隅に見覚えのない箱があった。

「なんだこれ?」

 シフルはてのひらに収まるその箱を手にとり、蓋を開けた。そこには、ペンダントが入っていた。金の紐の先に、磨かれた緑の石。表面に、不思議な縞模様。

(孔雀石……かな? でも、こんなの持ってたっけ)

 シフルは石を凝視した。紐に手をかけ、目の前に掲げてみる。

 

 

 ——これをやる。おまえと私が出会った証に。

 

 

 少年の脳裏に、何かがまたたいた。

 

 

 ——これさえあれば、おまえはいつでも思いだすだろう。

 

 

 あの声は、

 

 

 ——では、メルシフル。もう一度私の名を教えよう。

 

 

 あの女のもの。

 

 

 ——いいか。私の名は、……

 

 

(ビーチェ)

 シフルはようやく思いだした。(ベアトリチェ。ビーチェ、だ。フルネームは……)

「ベアトリチェ・リーマン」

 口に出してみて、少年は覚えず自問した。「——ベアトリチェ・リーマン……?」

 そんな偶然は、あるのだろうか。

​To be continued.

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