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​精 霊

第一部 プリエスカ・理学院編

第11話「“本当のこと”」(3)

「あるときの夕暮れ、ゼッツェの音を聴いた。たまたま広場を歩いていて」

 と、セージは回想する。

「そうしたら、展望台の上に、楽しそうにゼッツェを吹くシフルがいたんだ。私も一緒にあれを吹きたいと思って、両親にすぐ手紙でねだった。四ヶ月も待っていられなかったから、速達で出したよ。あのときは、二週間ぐらいでお金が届いたっけ」

 先ほどまでとはうってかわり、彼女は明るく話した。「即座に『脱走』して、グレナディンの街を楽器屋探して歩きまわった。なんとかみつけて、届いたお金で足りる範囲内でできるだけいいゼッツェを選んで、この際だから高いやつが欲しいと思って店主に値切った。けっこう値引いてもらって、得したよ」

 それから少し練習して、そのあとはシフルも知っているとおりだ、とセージは言った。

 シフルはといえば、なんとなく釈然としない。この長い話はそもそも、セージが「本当のことを知ってほしい」といって始まった。それなのに、実際はあの事件の詳細が明らかにされただけで、「本当のこと」は依然ぼやけたままである。つまり「本当のこと」とは、いまだに信じられないが、セージがシフルと友達になりたいと思っていたこと。シフルが期待したのは、そうなるに至った経過である。

「値切るときはね、最初は半額から始めたの。もちろんそんなんじゃ店主はうなずかない。だからお互いちょっとずつ譲歩していって、最終的には——」

「……それはいいけどさ」

 シフルはセージの値切り話を遮った。「知ってほしいってのは、それだけ?」

「うん」

 セージはあっけらかんと首を縦に振る。「それだけ」

「ふーん……」

 少年は納得いかない。「なんか肝心のとこがいいかげんじゃないか? 今の話」

 結局、本当のことはわからないままだ。セージがなぜ、シフルと友達になりたかったのか。ゼッツェを一緒に吹きたかっただけだなんて、話が単純すぎる。問題はそこにどんな感情がともなっていたか、自分の存在がセージにいかなる影響を与えたのかだ。周囲の無神経な態度に疲れ、傷口を開いたままにしていた彼女が、シフルによってどうなったというのか。話の文脈としては、これからそれが仔細に語られるはずだったのに、中途半端なところで切られてしまった。

 すると、彼女はシフルをじっと見て、

「それは、全部知りたいってこと?」

 と、いたずらっぽく口角をあげた。

「——な」

 シフルはうろたえる。「誰も、そんなこと言ってない!」

「ちがうの?」

「ちがう!」

 赤面した少年は全力で否定する。彼女はかすかに笑ったが、それ以上の言及はしなかったので、シフルは心底ほっとした。全部知りたいのはどうして、と訊かれたら、答えられる自信がない。ただちらりと望んだだけで、彼女があのとき自分と同等になろうとした理由として発言したことと同じ、理由にならない理由である。

 本当のことなんて、伝えられるものではないのかもしれない。シフルはそう考えて、ようやく納得した。そして、

「オレ、ずっと、一緒にゼッツェ吹いてたやつに言いたいことがあった」

 と、反撃に出ることにする。

「なに?」

 セージが首を傾げたところで、

「ヘッタクソ!」

 と、力いっぱい罵ってやった。セージはちょっとうなだれ、ごめんねヘッタクソで、と返す。それでも、最初のころよりはましになったんだけどなあ、と苦笑した。彼女がさらに言い返そうとはせず、素直に弱っている様子なので、シフルは彼女をやっつけてやろうと思ったことが急に申しわけなくなった。

「いや、でも、大丈夫だよ」

 思いきりけなしたくせ、シフルは自らフォローする。「最初のころよか音よくなってるし。ゼッツェはさ、吹けば吹くほど音よくなるから」

 シフルが言うと、

「その点はね、私なら一瞬にしてシフル並の腕になれるよ」

 セージは勢いよく顔をあげ、得意げに手をかまえた。

「《イミテート》?」

「そう。やろうか? そしたら、シフルに満足してもらえるだけの腕前になる」

「興味はあるけど、ダメだろ」

 シフルは即答した。

「え?」

「もったいないじゃん」

 目をしばたかせるセージに、シフルは説明する。「同じ楽器でも、人によって音がちがうんだよ。うまいとかヘタとかじゃなくて、音には個性が出るんだ。だから、オレの音はオレの音、セージの音はセージの音」

 セージは黙ってシフルをみつめている。

「これから練習していくうちに、セージの音だってできていくはずなんだ。《イミテート》なんかしたら、セージしか持ってなかった音を潰すことになる。オレだって個性盗まれるのはイヤだし、セージもイヤだと思うだろ?」

 少し間をおき、軽く息を吸う。「《イミテート》はまた別の機会に見せてくれよ。一回、どうやるのか見てみたいからさ」

 シフルはそう言って、セージのほうに目をやった。

 彼女は驚いていた。日ごろ弛みをみせないセージの口もとが、開いたまま塞がらないなんて、そうめったに見られるものではない。

「……セージ?」

「ああ」

 呼ぶと、我に返ったようにつぶやく。「いや、なんでもない。……シフルのいうとおりだね」

「だろ?」

 シフルはにかっと笑いかけた。つられてか、セージも目を細める。

「これから、一緒に練習していけばいい」

 シフルが提案すると、彼女はいっそう表情を明るくした。

「いいの?」

「いいに決まってる」

 少年は答える。オレだって、ずっと友達になりたかった、とはいえなかった。少年には、少々恥ずかしすぎた。

 一方、

(そうか)

 少女は密かにひとりごちる。(あれは、シフルの音)

 結局、秘密のまま流した「本当のこと」。そこに、軽やかに駆け抜けていく、少年のゼッツェがあった。彼女には、みなまで告白する気は元よりない。秘密のひとつやふたつあったほうが、人間関係も刺激的になろうもの。

 それに、全部なんていえるはずがない。もっとも——今はまだ、の話だけれど。

「じゃあ、今日はどの曲にしようか」

 おもむろにセージは尋ねた。

「いつもオレが決めてるんだから、たまにはセージ決めれば」

「それもそうだね」

 彼女は立ちあがり、ゼッツェをかまえて思案する。シフルが、まずは楽器をあたためるんだ、と教えてくれたので、それに従っていくらか吹き鳴らしてみた。音が整ってきたところで、ふたりは改めて姿勢を正す。

「讃歌でいこうかな。オーソドックスに、四番」

「了ー解」

 ふたりは向かいあった。目配せしあうと、どちらともなく笑いがこみあげる。けれどもすぐにおさめ、セージが指で拍をとるのに合わせて、同時に旋律を奏でだす。シフルの、名手というわけではないが慣れたふうの音と、セージの、拙げながらどことなく鋭さのある音が出会い、絶妙な空気感をもつ合奏となった。

 大気が震えている。火(サライ)に愛される者と、水(アイン)に愛される者が、今こそ同じ場に集い、彼らを讃える音楽を紡ぐ。いずれの子らも喜び、展望台に吹きつける海風のなかで思い思いに遊びまわり、赤と青の光となってふたりに降り注いだ。

 もちろん、ふたりはすでにそうした感覚を知っていた。しかし、それまでとは決定的にちがう。お互い相手の顔も名前も知っているし、何よりも、顔を突きあわせてゼッツェを吹いている。ふたりは、このあと一緒に寮に帰ることも、ゼッツェ演奏に疲れてからゆっくりと会話を交わすことも、存分にできるのだから。

 どうして、もっと早くこうならなかったのだろう、と疑問に思わないでもなかったが、これまでの時間は必要だったのかもしれない、とも思う。今、彼あるいは《彼》をこんなにも近く感じるのは、これまでの経過があったおかげにちがいないのだ。いろいろなことがあって、お互いいろいろな感情を抱いた。だから、今、こうしていられる。

 長い話の最中に、だんだんと沈んでいった太陽が、隠れようとしていた。しかし、ゼッツェの儚げな音色はやまない。あたりに闇がたちこめても、なお理学院構内に響きわたるふたつの旋律があった。

 

 

  *

 

 

 あのころ、からだじゅうに鉛が詰まっているようだった。

 何をするのも億劫で、とはいえ何もかも放棄するには性格がまじめすぎ、また、かといって意欲もなく、授業や必要な勉強を黙々とこなすばかり。セージの眼には、世の中は薄青い布を隔てたむこう側にひろがって見えた。誰も彼もちがう世界に住んでいて、彼女には何の影響ももたらさない一幅の絵に同じ。

 それでも、彼女はあがいていたのかもしれない。何ともなしに教科書を開くときは、寮の部屋に閉じこもるのでなく、外に出る。部屋が個室ではないというのも大きかったけれど、とにかくセージは常に校舎内を転々としていた。人気のない教室や、夕方の広場。夜は街灯の下で、ぱらぱらと教科書に目を通す。場所を移すことで、何らかの変化を期待する一面もあったのだろう。

 ある日の放課後、彼女は研究室棟の最上階にやってきた。研究室棟はグレナディンでは大聖堂と王宮の次に高い建築物で、最上階の見晴らしはなかなかのものだ。そこからはヤーモット海も眺められたし、バルコニーには西日がよく差した。暗くなっていく時刻に活字を読むには、うってつけの場所である。

 セージは床の上に腰をおろし、柱に寄りかかった。教科書を膝に置いて、事項を目で追っていく。何も感じず、何も考えず、ただ覚えればいい。そうすれば、落第は免れる。Aクラスに残留したところで、彼女には何があるわけでもなかったが、父の手前オコーネルのようにはできない。

 ふと、どこからか音楽が流れてきた。

 セージはゆっくりと顔をあげる。なぜなのかはわからなかったが、その音には惹かれるものがあった。

(儚げな音)

 しかし、彼女は再び教科書に視線を落とした。勉強に集中しようとした。けれど、できなかった。そのまま眠りに落ちたからだ。気づいたとき、その音楽は消えていた。演奏者はもう帰ったのだろう、あたりはすっかり暗くなっていた。

 階段を降りながら、壁時計を確認する。夕食時間をとうに過ぎ、夜中近かった。眠りこんでしまったようである。

(あの音のせい?)

 不思議な音だ、とセージは思う。あれだけ眠りの浅い日々が続いていたというのに、あの音を耳にしたら、簡単に治ってしまった。

 ——何だろう。

 セージは翌日の放課後も、研究室棟の最上階を訪れた。

 柱に寄りかかって教科書を開き、あの音が聴こえるのを待った。その日は現れなかったので、あくる日も来た。

 今度は聴こえてきた。空気をやわらかに撫でていく音。音色からして、木管楽器の類いだと思われる。

 ——何だろう。

(誰だろう)

 どうして、眠れたのだろう……。

 セージは探した。手足に、覚えのある力が蘇った。手すりを乗り越え、広場を見下ろす。人影はまばらにあるが、楽器を持っている者はいない。どこかの校舎だろうか。ここからだと、どの棟にいたとしてもみつけられない。音の遠さからして、おそらく研究室棟ではないし、いったい誰がどこで楽器を鳴らしているのだろう。

 彼女は根気よく広場に目を凝らした。それから階段、ヤーモット海を望む展望台へと視線を移す。そこにいたのは、ひとりの少年の影。学生である。

 ——いた。

 その手に握られているのは、小柄な少年が持てばやや大きく見える、くすんだ赤い色をした木製の楽器。少年は、それを楽しそうに吹き鳴らしている。音だけではわからなかったけれど、実際の形状を見て、セージはゼッツェという楽器の名前を思いだした。

 海にむかって精霊讃歌を奏でる少年は、橙色の髪をしていた。おもしろい色だな、と一瞬思ったあとで、ちがう、夕日の色じゃないか、と己を笑う。この程度の思考力すら失っていたなんて、ずっと眠れなかったくせに、まるで長いあいだ眠っていたみたいだ。

(本当は、どんな髪の色、してるんだろう)

 けれど、来る日も来る日も、夕日が邪魔をした。

(どんな瞳の色、どんな顔なのかな。どんな人なんだろう)

 けれど、彼はいつもセージに背を向けていたし、クラスもちがえば見かけることもなかった。学部も一緒とは限らない。セージは授業で校舎にいるあいだ、あまり周囲を見ないようにしていたので、見落としているだけかもしれない。

 が、髪の色を知る機会には、あんがい近いうちに恵まれた。

 教室移動の際に、セージは初級(エレメンタリー)クラス棟の階段ホールの手すりに突っ伏して居眠りする少年をみかけたのだ。普段うしろ姿ばかり見ているので、まちがえるはずはなかった。時刻は昼下がり、きっと昼食をとったあと、眠気をもよおしたというところだろう。

 髪の色は銀だった。きれいな色だ。ここにいるということは、同じ召喚学部の学生らしい。

 しかし、もうすぐ昼休みも終わりである。彼はすやすやと寝息までたてている。セージは起こそうかどうか迷った。が、自分にはさまざまな噂がつきまとっているし、もしかすると彼は不快に思うかもしれない。

 それにしても、よく寝ている。セージも最近では睡眠時間が戻りつつあるが、こんな公衆の場でここまで安らかに眠れるものか。彼女は足音をたてないように少年に近寄っていく。顔をのぞきこもうとしたところで、ふいにいたずら心が起こった。彼の髪は少年らしい短髪だが、少し長めだ。彼女はそっと髪のひと房をつまみあげると、反対側に倒した。分けめを無視して倒された髪が、不自然に浮いている。

 いたずらともいえない、些細すぎるいたずらだ。彼は気づくまい。彼女はその場を去っていく。気づいても、気づかなくても、かまいやしない。自分が彼と同じ世界にいるというだけで、充分。こんなふうに影響も及ぼせる。

 ——あなたはまだ私を知らないけれど。

 セージは廊下を進みながら、微笑んだ。

 ——あなたと向かいあわせで笑う日が、きっとくる。

 瞳の色も、顔も、人となりも、今はまだ知らない。でも、彼を追っている限り、可能性はある。

 セージはその日、親に手紙を書いた。ゼッツェという楽器が欲しいのでお金をください、出世払いで返します、と。彼女は親にそうしたものをねだったことがなかった。そのせいか、速達便で送りだした手紙の返事は、二週間後にはお金とともに寮へと届けられた。セージは放課後に学院を抜けだし、グレナディンの街を楽器屋探し歩きまわって、彼女のゼッツェを手に入れた。

 最低限の音が出るまでひとりで練習し、セージは彼のいる展望台をめざした。が、階段に足を踏みだそうとして、躊躇した。彼はおそらく、悪名高いセージ・ロズウェルを知っている。今度誰かに拒絶されれば、立ち直れない。むやみに関わってはならない。

 彼女は名のらないことに決めた。少年が展望台を訪れそうな日、付近に隠れて待つことにした。幸い、展望台の真下に岩のくぼみをみつけ、そこにいようと決めた。果たして、ゼッツェを一緒に吹く者がセージ・ロズウェルと知らない少年は、とても喜んだ。何度か合奏すると、話しかけてくるようになった。

 名前も教えてくれた。メルシフル・ダナン。愛称はシフル。あんたは誰、と訊いてくる少年に、彼女は答えられない。幾度となく名のりでたい誘惑に駆られたが、今の関係が崩れるのが怖くて、必死に口をつぐんだ。

 そして、本当の出会いは二か月後。

「おい、セージ・ロズウェル!」

 振り向くと、灰がかった青い瞳の強く輝く、それでいて少女と見まごうほど優しげな容貌をした少年がいる。縁なし眼鏡が似合わない。

 彼女は泣きたくなった。彼はやはりセージ・ロズウェルを知っていた。けれども、彼はセージ・ロズウェルを恐れず、まっすぐに向かってきたのだ。

 だから、

「あんたも一応オレのこと意識してくれよ。召喚士の卵として」

 と、言った少年に対し、きちんと応えなければならないと思った。一瞬、前からあなたを知っているよ、と声をかけたくなったが、自制した。

 ——好敵手、ね。

 今はそれでもいい。彼が目の前にいるのだから。

 だけど、先の話でも、いつか伝えられたらいい——本当のことを。その日のために、また歩ける。

 そこで、

「だけど、私に勝てる日がくるとは思わないほうがいいよ」

 彼女は「本当のこと」とは裏腹に、高慢に返した。シフルはそのひと言でいっそう燃えたち、セージを無我夢中で追いかけてきた。セージは高みで少年を待ったが、実際のところは少年が追いかけているのか、それとも彼女が追いかけているのか、彼女にはわからなかった。

 これら一連の流れを、セージは秘めたままにした。秘密のひとつやふたつあったほうが、人間関係も刺激的になろうもの。

 それに、いえるはずがない。絶対にいえない——今は、まだ。

​To be continued.

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