精 霊 呪 縛
第一部 プリエスカ・理学院編
第13話「異国へ」(1)
三人は、手をつないで闇のなかを歩いている。
ここはどこまでもどこまでも闇、人目などありはしないけれど、思わず気にしたくなるほど奇妙な状況だ。ラーガ、シフル、セージの順に横並びになり、それぞれ手を握りあっている。さしづめ、ラーガが父でセージが母、二人に挟まれたシフルは子供。さもなくば、仲よし三人組といったところだ。いい年をして、手をつないでうきうきと街を闊歩する。
いずれにせよ、外見年齢十五歳以上の三人が、手を固く握りあっているのはどうだろう。不自然以外の何ものでもない。シフルは右手と左手を交互に見やり、苦笑いした。
〈なに笑ってる、メルシフル〉
怪訝な面もちのラーガの声が、ひどく遠い。というより、耳の奥で聴こえるような。
何もくそもないだろ、と言い返すも、その声は発せられることがなかった。彼は確かに声を出したつもりだったのだが、どうにもこうにも音にならない。シフルは何度か声を出そうとして、やがてあきらめ、もういちど苦笑することでラーガに応えた。
〈ここは時空の狭間〉
ラーガの声が頭に直接響く。〈音のない場所だ。口でいっても聞こえん。黙ってついてくるんだな〉
青い髪と瞳の妖精は再び黙った。手はつながれたままである。シフルはじっと手をみつめた。まわりは真っ暗だというのに、自分たちはなぜか闇から浮かびあがっており、太陽の下にいるときよりむしろくっきりして見えた。
振り返り、セージに目を向ける。彼女はこたえて笑った。
とたんに、シフルは赤面した。それでセージが目をみはったので、ますます頭に血がのぼる。
(そういや、セージの手を握ったのって、オレじゃん!)
ということに、今さら気づいたのだ。(いや、だって、でも……それは、えーと、なんでだっけ?)
少年は急に恥ずかしくなってきた。セージを時姫に会わせようと思い、強引に連れてきたのは自分。しかもセージの意思も確かめず、拒まれはしなかったもののむりやり引っぱってきて、そのうえラーガをすばやく召喚することで彼女に逃げる隙を与えなかった。いや、精霊召喚士を志す者が元素精霊長にまみえたいと望まないわけがないから、この行為は親切ともいえるはずだ。問題ない。
だが、セージの笑みを前にして、シフルはどうしても逃げだしたかった。今すぐ彼女の前から消えたい。赤くなった顔がまる見えだ。このままでは、見透かされてしまう。彼女にばれてしまう。
(……って、何がだ、バカ!)
シフルは自らを罵り、セージとつないだほうの手をにらみつけた。(そうだ! この手、全部この手が悪い。なんでオレたち、手ぇ握りあってるんだよ。どう考えても変じゃんか!)
そう思うが早いか、シフルはセージの手を離した。離さずにはいられなかった。
〈おい、何してる〉
ラーガが振り返る。
(へ?)
〈時空の狭間を行き来できるのは、空(スーニャ)だけだぞ〉
セージは驚愕に眼をみひらき、手をのばした。
しかし、すでに彼女はラーガを離れた。シフルの目の前で、みるみるセージの手が遠ざかり、彼女は闇の奥底に落下していく。おそらくセージは悲鳴をあげたのだろう、彼女の唇が動いたけれど、少年の耳には届かなかった。音もなく、彼女は落ちていく。
彼女の姿が闇に消えたあとで、シフルはようやくことの重大さに気づいた。セージ、と、声にはならなくとも叫んで、少年はラーガの手を振り払う。
〈あっ、ばかめ! ——〉
シフルはセージを追って、深い闇のうちへと飛びこんだ。
が、少年はすぐに後悔した。妖精がああいった以上、当然シフルも自由がきかないのである。よって彼は、セージ同様、ひたすら落下していくことしかできなかった。妖精の呆れた顔を脳裏によぎらせつつ、シフルは闇のなかを切り裂くように落ちていき、いつしか意識を失った。
最後に、セージにどうやって謝ろうかと考えた。どうやったら、あの意味不明な行動を自然なかたちで釈明できるか——。しかし、答えはついに出なかった。
落ちた衝撃で、シフルは意識を取り戻した。
背中に地面の感触がある。少年は安堵して、ゆっくりとまぶたを持ちあげた。
(どこだ……ここ)
目の前には、晴れた明るい空がひろがっている。寝転がったままぼんやりしていると、ちぎったような白い雲がゆるやかに流れていった。風はあったけれど、まったく不快ではない。むしろ、あたたかな日射しとそよ風の組みあわせは、心地よい春の必須条件だ。シフルはあまりの快適さに、しばし頭が回転しなかった。春のうららかさを満喫して、その場を動けない。
が、彼は跳ね起きた。からだはどこも痛くない。ずいぶんと落ちてきたような気もするが、《時空の狭間》なる不可思議な場所に、常識は通用しないと考えるべきだろう。
シフルはあたりを見渡した。そこは、見知らぬ森のようである。森といっても、奇妙なまでに陰鬱さに欠ける、明るい春の森だ。シフルはくさむらの上にいて、やわらかな木漏れ日を浴びている。
「セージ?」
シフルは呼びかけた。「セージ、いない?」
返答はない。少年は嘆息する。これでは、何のために自分までラーガの手を離したのか、わからないではないか。妖精にかけさせる手間を、むだに増やしただけだ。
「セージー?」
もういちど呼んでみて、シフルはあきらめた。大人しくラーガを召喚し、助けてもらうとしよう。
「ラ——」
彼に属す妖精の名前を口にしようとして、シフルは息を呑む。少し離れた木立の陰で、何ものかがのぞいている。
これはなかなかまずいのでは、と思ったとき、その人物はひょいと顔を出した。
シフルとさほど年齢の変わらない、少年である。はちみつ色の髪と緑の瞳が、この明るい森そのものを彷佛とさせるので、シフルは何の根拠もなく地元の人間なのだと思った。いぶかしげにシフルをみつめてくる、その少年。もしかしなくても、よそ者を怪んでいる。
「あの……」
シフルがおずおずと声をかけると、
「——きみは、今、どこから?」
逆に少年が尋ねてきた。ありがたいことに、若干いいまわしがちがう程度の現代プリエスカ語である。
現代プリエスカ語とは、古くからこの一帯で使用されていたロータシア語を簡略化したものであり、隣国カルムイキアやサーキュラスでは、昔のままに使われているという。そうなると、今シフルがいる場所は、そのどちらかの国だという可能性もある。
「オレは、プリエスカの、グレナディンから来たんだけど……」
シフルはしどろもどろに返す。《時空の狭間》を通ってきたなどと、誰が伝えられよう。
「プリエスカ? グレナディン?」
相手の少年は眉をひそめた。「……ここはカルムイキア帝国、クリスピニラ伯領フィッツァーバード。きみの王国の都からは、かなり距離があるよ。……だいたい、今きみ、とつぜん出てこなかった? このへんから、ほら、いきなり」
そう言って、彼は宙を撫でる。シフルはぎくりと肩を痙攣させた。少年はめざとくそれを見ており、己の想像を確信したように二、三度うなずくと、シフルを手招いた。
「悪いけど、ちょっと来てくれないかな」
「えッ、そ、それは……」
不自然でも、今すぐラーガを呼んだほうがいいかもしれない。シフルは視線をさまよわせる。少年は、シフルが逃げたがっているのも察知して、
「別に咎めようというんじゃない。事情があって、話を聞きたいんだ」
と、自ら説明した。「——ぼくはもうずっと、姉を探してる」
頼むよ、と切々と乞われて、シフルはついつい首を縦に振ってしまった。なんとなく少年の挙止にさわやかさと明瞭さがあったことと、シフルに危害を加えようとしているふうには見えなかったことがある。それに、ありがとう、助かるよ、と喜ぶ少年の笑貌は、彼の特異さをありありと表わしていた。
この少年は、シフルがこれまでに会った人物のなかでは、アグラ宮殿の女官頭であるツォエル・イーリの次に凡人離れした雰囲気をまとっている。言い換えると、明らかに世界の異なる人間に出会ったのは、これで二度めである。けれども、ツォエル・イーリとはちがい、恐ろしくはなかった。少年は、ただただ天然の軽やかさを内包している。
彼はエドモンドと名のった。フルネームは、エドモンド・クリスピニラ・ド・フィッツァーバード。この土地の名を冠している。
「それって、その『クリスピニラ伯爵』の息子ってこと……ですか?」
歳の近さに油断していたシフルは、なれなれしく語りかけてしまったあとで、むりに文末を敬語にした。それが本当ならば、シフルは生まれて初めて、正真正銘の「貴族」と向かいあっていることになる。反射的に卑屈になって、ついつい、すみません、と付け足した。
少年はあっけらかんと答える。
「ううん、ぼくが伯爵」
「い? ……じゃない、『えっ、なんですって』」
「敬語、慣れてないなら使わないでいいよ」
エドモンドは緑の瞳を細め、くすくすと笑みをこぼした。「ぼくの父はれっきとした農家。伯爵になったのはぼくの代から」
「ええ?」
わけがわからない。混乱しているうちに、農家らしい住居にたどりついた。まさかこれが「伯爵邸」じゃあるまいな、といぶかっていたところ、エドモンドが、これぼくん家、と言ってきた。しっくい壁に藁葺き屋根の、クリスピニラ伯爵邸である。カルムイキアでは、伯爵家がこんな生活を強いられるほど困窮しているのだろうか。
木戸を押して中に入り、シフルは再び呆気にとられた。こぎれいにしてあるとはいえうす汚い農家の中心に、異世界がひろがっていたのだ。
「——おかえりなさい、エドモンド」
と、婉然たる微笑みを浮かべる「異世界」は、美しい女だった。
ただ美しいだけではない。服装が明らかに一般市民のそれではないし、ましてや壊れかけた木椅子に座っていい人物とは思えなかった。胸もとの大きく開いたドレスは絹製、市井の人では着られるはずのない濃い紫色だ。胸もと、手、顔など、露出した肌はあくまでも白く、上品な銀の宝飾品でかざられている。
シフルは口を開けっ放しにしたまま、二の句が継げない。価値観が崩壊しかねない、異和感に満ちた光景だった。
かたわらのエドモンドはといえば、慣れたふうで進みでて、美しき婦人の足もとにひざまずく。
「皇后陛下——ヴァランセア・エミルシェンさまにおかれましては、ご機嫌麗しく」
「ごきげんよう、エドモンド」
皇后、と呼ばれた女は優美に微笑んだ。にじみでる育ちのよさや柔和な物腰、二十代になるかならないかの若さのわりに落ちついた挙動が、彼女を美しく見せている。
それはさておき、シフルはますますもって困惑した。皇后、だと? サーキュラスは王国なので、王の妻は王妃であり、第一席なら正妃という呼称になる。よって、ここがカルムイキア帝国だという彼の言葉は裏づけられたわけだが、何はともあれ、大いなる問題点がある。なぜにして、皇后、つまり皇妃の頂点に立つ女が、このようなあばら家に鎮座しているのだ。
エドモンドが伯爵だというのが本当なら、さほど特殊な状況でもないのだろう。けれど、このぼろ家を前にして、誰が伯爵と皇后の組みあわせを想像できようか。
(えーと……、こんなんありなのか?)
シフルが首をひねっていると、ヴァランセア・エミルシェンなる高貴な女は、さもおかしげに笑い声をたてた。
「エドモンド。あなたの小さなお客さまが、困っているようよ」
そう言って皇后は、持っていた象牙細工の扇をぱちんと鳴らす。シフルはそれを聞いてはっとし、あわててその場にひざまずいた。特別カリキュラムの対皇家用礼儀作法で習ったのである。身分の高い人物に謁見するときは、ぼうっと突っ立っていてはいけないと。
「ぶ……無礼をお許しください」
床を凝視しながら、シフルは首を垂れた。えらい人に面会したことがなくて、と、とっさにいいわけしそうになったが、記憶によると、そのえらい人に発言を許されない限り、口を聞いてはならないのだ。そうなると、無礼をお許しくださいと謝ったのも、ひょっとしてだめなのか? シフルは頭の中で、必死に礼儀作法の講義を反芻する。
「いいのよ。顔をあげなさい。堅苦しいのはきらいなの」
カルムイキア帝国皇后は、鷹揚に告げた。「どうせ私は、高貴な血筋でも何でもないのだから。非公式な場でまで卑屈にされたくないわ」
「ヴァランセアさま、お言葉ですが」
エドモンドが口を挿む。「陛下の血筋は、大陸において比類なきものではありませんか」
「あなたまでそんなことを言うの。エドモンド」
彼女はつまらなそうに息をついた。「《英雄の血筋》などと、もてはやされてはいるけれど……、私たちはラシュトー中の王侯貴族とつがい、英雄の血を与えるためだけにあるのよ。純血などといって高く売られる愛玩犬と一緒ね」
《英雄の血筋》。どうやら皇后は、トゥルカーナ大公一族の出身らしい。ということは、留学のおりにシフルが出会うのだろうラージャスタン皇女婿——トゥルカーナ公子——の姉にあたる人かもしれない。
「ところで、エドモンド。お客さまの紹介はしてくれないのかしら?」
「はい、陛下。彼は、先ほどばったり会った——」
エドモンドは平然と答えた。「——友人です」
シフルは顔をあげて、名のろうと口をひらき、はたと止まる。この女が学院の教師や近所の主婦ならば、メルシフル・ダナンと普段通りに応じればいい。しかし、相手はカルムイキア帝国の皇后。その存在からして、公的。
プリエスカは、カルムイキアとはさほどいがみあっていない。けれど、こうしてトゥルカーナ大公一族の娘が嫁していることからもわかるように、カルムイキアはラージャスタン同様《英雄同盟》の一員である。仲がいいとは、とてもじゃないがいえない。
そのうえ、シフルの名前そのものにも問題がある。父リシュリュー・ダナンは、休戦協定に一役買ったプリエスカの英雄。よって、名のるだけでプリエスカ出身だとばれるうえ、あの市長の息子として、ある種の疑いがかけられることは想像に難くない。
ふいにシフルは、ある事実に気づいた。
(……オレがやってるのって、不法入国じゃないか)
そもそも今、正規の手続きを経て、カルムイキアにいるのではないのだ。(ウッソだろ……?)
シフルは蒼白になった。少なからず敵対関係にある国に、不法入国。むろん犯罪であり、のみならず外交問題に発展する恐れもある。何しろ、理学院と元素精霊教会は、プリエスカという国家を象徴する組織だ。ましてやシフルは召喚学部の学生、プリエスカを代表する若者といっても過言ではない。
言い逃れはできそうにない。少年の肩書きは、何もかもこの状況に不利だった。うつむくシフルの眼に、自分の着ている制服の紺色が飛びこんできて、少年はいよいよ真青になる。せめて私服に着替えていれば、弁解もできたものを。
ここにいるのは事故だ。でも、手を離したらここに落ちた、などといって、信じてもらえるはずもない。国境を越えたという事実は、何ら変わらない。
(こんなところで、オレの人生終わるのか……)
シフルはめまいを覚えた。まさか殺されはしないだろうが、重要犯罪者となり、カルムイキアからもプリエスカからも、責められ、憎まれる者となる。カルムイキアは姑息な国が間者を放ってきたと怒るに相違ない。プリエスカは放ってもいない間者を放ったとされ、ラシュトー大陸での位地はいっそう危うくなる。
(どうすれば)
シフルは皇后たる美しい女を見る。彼女は余裕たっぷりの笑みを唇にのせ、言う。
「——名前を聞くのはやめておきましょう」
「……へ?」
シフルの背中に、遅れて冷や汗がつたった。
「私のエドモンドのお友達ですもの」
皇后は口の端を上品にあげた。「きっといい子にちがいないわね。それに、制服を着た間者なんて、笑い話にしかならなくてよ」
「あ……」
もっともである。シフルは全身から力が抜け、床にへたりこんだ。まだ不快な焦りがからだ中を這いまわっており、動悸も激しかった。
「今日のところは帰ります」
と、皇后は告げる。「男の子二人で、ゆっくり話をしたいでしょうから」
「ヴァランセアさま」
エドモンドは腰を深く折った。「陛下に見咎められる必要がないということを、ぼくは証明できます」
「けっこうよ」
少年が弁明しようとしたのを、彼女は遮る。「私はどちらでもかまいません。あなたの望むように振るまえばいいわ。ただし——」
何があっても、変わらず、私の近くに——私のエドモンド。ヴァランセア・エミルシェンはそう言うと、ゆるやかな動作で踵を返した。たっぷりとしたドレスの裾が翻る——紫の花弁のようだった。エドモンドがすばやく扉を開けると、当然のごとくそこを通り、礼もいわない。高慢さは、さすがに支配者の正妻の座に君臨するだけのことはある。
シフルは立ちあがれずにいた。しばらくすると、見送りに出ていたエドモンドが戻り、シフルに手を貸してくれた。食卓につかせてもらい、あたたかいミルクの入ったカップを渡されると、シフルはようやく人心地ついた気がした。
皇后は、シフルを見逃すという。立場の話をするならば、彼女は皇帝の妻としての責務を放棄したことになり、怠慢であるといえるが、シフルとしては胸を撫で下ろすばかりだった。これでさしあたり、犯罪者にならないですむ。
「大丈夫だよ。皇后は」
エドモンドが言った。「あの人はきみを告発しない。政治的な話に興味がないんだ」
「それだけじゃなかったように思える」
シフルにも、苦笑いするだけの余力が戻ってきた。
「うん、まあそう」
エドモンドは自分のぶんのカップを食卓に置き、椅子を引く。「ぼくは皇后のお気に入りなんだ。おかげでただの農民が、伯爵なんて不相応な称号をもらっちゃってね。生活は楽になったし、助かってるけど」
金髪に緑の瞳をした、明るい容貌の少年は、あっさりそう述べて席に着いた。シフルはただただ驚く。確かに彼の容姿には目を見張るものがあるけれど、よもや現実にそんなことがあろうとは。
シフルが眼をぱちくりさせていると、少年は笑った。
「いっておくけど、愛人じゃないよ」
「あー、そう」
「期待に添えなくて申しわけないけどね。ぼくは、皇后が故郷に残してきた弟の身代わりなんだ。歳が近いそうだから」
ふうん、とシフルは相槌をうつ。いずれにせよ、一介の農民から貴族の仲間入りとは、大変なことだ。
「風当たりきつかった?」
「いや、別になんてことないよ」
エドモンドはにっこり微笑んだ。「みんな親切さ」
彼の笑顔の告げるところは、おそらく、皇后の寵愛を受けるエドモンドに周囲は手だしできない、ということなのだろう。だが、その一方でシフルは、エドモンド自身の資質にもよるのだと思う。彼の屈託のない笑顔を見ては、敵対したり攻撃を加えたりしようなどとは、きっと考えられなくなる。
(これだけで才能だな)
シフルはひとりごちた。さっきはあれほど焦っていたのに、エドモンドの笑みを前にして、安心感のほうが勝ってきている。
「ところで、きみの名前は?」
エドモンドが尋ねた。
シフルは答える。
「シフル。メルシフル・ダナン」
「シフルか」
古い言葉だね、おもしろい名だ。家も有名だね。エドモンドはそうつぶやくと、急に表情をひきしめ、真剣なまなざしを向けてきた。
「さてと、本題に入っていい?」
ダナンの名前に申しわけ程度の反応しかしなかったところを見ると、彼も政治には関心がないらしい。
「ああ」
シフルはうなずく。するとエドモンドは、
「きみ、どうやってプリエスカからここに?」
いきなり、核心に斬りこんできた。
シフルは返答に迷ったが、かばってもらった恩があるので、かいつまんで話すことにした。まずは、自分が妖精憑きであることを説明しておく。次に、実の母親の僕でもあるその妖精が、今日シフルを彼女のもとに連れていくはずだったこと。けれど、《時空の狭間》を移動している最中、同行していた友人がはぐれてしまい、シフルもまたそれを追いかけて迷子になったこと。ところどころ事実に反していたが、細かい解説は面倒くさいし、手をつなぐのが恥ずかしかった、などと伝えても仕方がない。
エドモンドは話を聞き終えて、うつむく。しばらく思案に暮れていたようだったが、やがて顔をあげ、言った。
「きみはもしかすると、ぼくが期待していることを知っているかもしれないし、知らないかもしれない」
エドモンドは目を伏せる。「……今から話すことについて、もし何か知っていたら、隠さずに教えてほしい」
シフルが了解すると、少年は語りだした。彼には、姉と妹がいるのだという。姉はシビュラという名で、十年ほど前に行方知らずになって以来、会っていない。
シビュラは盲目だった。姉弟三人は幼いころに父母を失っていたので、エドモンドと妹とで姉の世話をした。シビュラは生活の大半の局面で弟妹に頼らなければならなかったものの、明るくほがらかな優しい性格で、弟妹とも姉の世話を苦としなかった。
ある日、エドモンドは姉を日なたぼっこに連れて出た。あの、木漏れ日あふれかえる森へ。
急に雑用を思いだし、エドモンドは姉をそこに待たせたまま、村に戻っていく。水車小屋に行かなくちゃ、すぐ戻るよ、と言い残し、幼いエドモンドは走り去った。しかし、すぐには戻れなかった。向かった水車小屋で次々に雑用をまかされたエドモンドが、再び森に帰ってきたとき、すでに日が暮れてあたりは真っ暗闇、そして姉の姿は消えていた。翌日も、翌週も、姉は戻らなかった。そのまま十年の歳月が流れた。
「あの森は安全なんだ。熊や狼なんていないし」
と、彼は言う。「それで村の人たちは、シビュラは美しいから、妖精の花嫁としてかどわかされたんだ、って……」
語りつつ、エドモンドはそわそわとシフルに目をやった。シフルはこれで、なぜエドモンドが話を聞きたがったのかを理解した。シフルが妖精とともにやってきたと知って、ますます期待を高めたのだろう。
シフルは彼の話を、どこかで聞いた話だ、と思った。はっきりいって、シビュラという女については、まったく知らない。けれど、妖精が花嫁として美しい女をさらう、というのは、確かに教わった話である。
「んー」
「何か、知ってるの?」
「ちょっと待って。思いだす」
シフルは懸命に記憶をたどった。とりあえず、学校の教科書には載っていない。学院の精霊召喚学は、精霊たちにいくぶんかの人間らしさを認めてはいるものの、それでいて人間とは根本的に性質を異にするとしており、妖精が女を娶ろうとする、などという記述があるとは思えない。
よって、学院関係者から聞いた話ではない。ならば、知っている妖精や精霊から直接教わったのだろう。ラーガではなかった気がする。……そう、キリィだ。シフルはてのひらをぽんと叩いた。
トビス州のロズウェル家を訪れたとき、水源でセージに属する妖精キリィと会った。そこで、時姫が《精霊人形》から正妃になったことを聞かされたのである。
《精霊人形》とは、《精霊王》に見初められて拉致され、意識のない状態で《精霊王》の居城に囚われている女たちのこと。キリィいわく、前触れなく娘の行方を見失った者たちの中には、妖精が花嫁をさらっていったという伝説をつくった者もいると。エドモンドは、まさしくそれなのだ。
「確証はないんだけどな」
「うん」
シフルが口をひらくと、エドモンドは身を乗りだした。
「お姉さん、美人なんだろ?」
「うん。ぼくに似ているよ」
シフルの念押しに、少年は答えた。シフルは苦笑したが、なるほど、それなら美人だ。
「《精霊王》にさらわれたんだと思う」
「《精霊王》……」
「知らないだろうけど、全精霊を支配する王がいて、それが《精霊王》っていうんだ。きれいな女の人を自分の住処に連れ帰って、《精霊人形》として、その……仕えさせるらしい。《精霊王》のそばにいないときは眠っているから、《人形》って」
シフルは気づかわしげに言う。「詳しくは、オレの妖精が知ってるかも」
そこまで述べて、少年ははっと気づく。そうだ、最初からラーガを召喚していれば、カルムイキア皇后にはちあわせる前に、そもそもここがカルムイキアだと判明する前に、逃げおおせることができたのだ。危うい状況に陥って焦る必要もなく。
(バカだ、オレ)
シフルは、いまだかつてないほど自分に対して呆れ返った。(ま、何もなかったからいいけどさ)
「ラーガ!」
クーヴェル・ラーガ、と胸のうちで呼ぶ。「ラーガ、来い」
とたんに、室内の風景に歪みが生じ、そこから青い頭が飛びだしてきた。呆気にとられるエドモンドをよそに、ラーガは古びた木の床に降り立つと、いきなりシフルを殴った。しかも拳で、だ。
「——この阿呆!」
青い妖精はどなった。「空(スーニャ)の道で勝手に手を離して勝手に落ちたうえ、勝手に動きまわって地元民と交流。自分が何をしているか、わかっているのか?」
「不法入国」
シフルはぽつりとつぶやく。
「そうだ! いくら精霊の力を使役していても、自分が人間の、そして国家の枠組みの中にいることを忘れるな」
日ごろ無表情なラーガにしては、激しく憤っている。そうとう心配をかけたらしい。
「ゴメン。でもさ、手ぇつなぐのって変じゃん? それで……」
「《ヴァレリー》さま譲りの頭脳をどこに捨ててきた! 理由もなしに、手なんぞつなぐわけがなかろうものを」
ラーガはシフルの手を乱暴にとる。「さあ、行くぞ。あの女の声は、俺には聞こえない。早く探さないと、まずいことになる」
「ま、待てよラーガ。そこにいるエドモンドが、話を——」
シフルはあわててエドモンドを指し示す。ラーガはいらいらと彼をにらみつけたが、少年の姿を見るなり顔色を変えた。
「——」
「ラーガ?」
エドモンドは、不安げに青い妖精を凝視している。妖精もまた、エドモンドをまっすぐに見返した。
ややあって、唐突に、
「あの女の帰りは待つな」
と、言い放つ。「シビュラは生きている。だが、おまえのもとには帰らない」
「なッ——」
それを聞いたエドモンドが、ラーガにすがりつこうとした。が、その前に妖精は、シフルを抱えて身を翻していた。そのまま、空間のうちに消えていく。
シフルは抵抗したが、敵わなかった。あっという間に緑の瞳の少年の影がかすみ、いつしか視界は闇に埋め尽くされていた。
樽を運ぶように自分を抱えあげている妖精を、シフルは恨みがましく見やったが、セージの行方が心配なのと、ラーガの横顔が怒りに満ちているので、何もいえなかった。どちらにしろ、ここでは口で何をいっても届かない。
(おまえ、『シビュラ』って人、知ってるのか?)
シフルは頭の中で問いかけてみた。ラーガは空間と空間、心と心をつなぐことができる。
〈知ってるもなにも〉
ラーガは即座に返してくる。〈シビュラ・クリスピニラは、時姫さまに代わって正妃になった女だ〉
(え……本当に?)
〈俺は嘘なんぞ言わん。しかも、精霊王の寵愛は並々ならず、常にそばにおかないと気がすまない〉
そう答えて、ラーガはシフルを地面に降ろした。手はしっかりと握っている。この闇一色の《時空の狭間》では、どこが地面なのかさっぱりわからなかったが、彼と手をつないでいる限りは、どういうわけか靴の裏に地面のような感触があった。
〈さて、メルシフル〉
ラーガは真下を指さした。〈ここが、さっきあの女が落ちた場所。おそらく、ラージャスタンかスーサあたりに通じている〉
スーサとは、これも《英雄同盟》の一員たる国であり、広大な領土を保有する大帝国だ。シフルは息を呑んだ。スーサでは精霊崇拝より英雄崇拝のほうが盛んで、英雄クレイガーンを単なる伝説とみなす新興国プリエスカを、たいそう軽んじている。ラージャスタンでも予告なしに入りこめばただではすまないだろうし、いずれせよカルムイキアより危険である。
〈メルシフル、いいか。耳を澄ませ。あの女のお前を呼ぶ声が、聴こえるかもしれない〉
(そうなのか?)
〈ああ。《時空の狭間》は、ところどころ人の精神にもつながっている。おまえに助けを求めるあの女の精神が、おまえを探しだし、おまえにつながるかもしれん〉
(わかった)
言われて、シフルは耳をそばだてた。
《時空の狭間》は沈黙しており、あらゆる音が死んでいる。本当に、セージの声など聴こえるのだろうか。
——セージ……。
シフルには、ラーガの言葉を信じるしか手立てがない。
——セージ、応えてくれよ。
さっきのこと、いやというほど謝るから——。シフルは痛切に思った。この静寂の闇を駆け抜けて、彼女の声が聴こえる瞬間を、ひたすらに待ちわびた。
To be continued.