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​精 霊

第一部 プリエスカ・理学院編

第13話「異国へ」(2)

 ——あッ。

 脳裏に自分の悲鳴が響くとともに、セージは落ちた。さっきまでつないでいた手を差しのべたまま、彼女は闇に沈んでいき、それを見届けるシフルもまた、時が止まったようだった。

 動くことはできなかった。身じろぎも忘れ、闇に呑まれていくばかりである。シフルの影が遠くなり、あたり一面闇しか見えなくなって、初めてセージの胸に不安がよぎった。けれど同時に、彼女はある種の興奮を帯びてもいた。

 これから何に出会えるのだろう。

 ——何を、見られるだろう。

 彼女にとって、少年との関わりは、常に新しい風を吹きこんでくれるものだった。

 あの暗澹とした時期が、シフルとの出会いによって変貌し、優しい音楽に満ちた日々になったように、彼と知りあってからというもの、セージは未知の世界にまみえつづけている。《精霊王》の件に始まり、教会のおしえにない空(スーニャ)と呼ばれる力、それに、彼の母親だという《時姫(ときのひめ)》……。

 今度は何が待っているのだろう? そう考えると、得体の知れない暗闇のなか急降下している現状を思っても、さほど恐ろしくなかった。いざとなれば、キリィに助けてもらえばいい。それまでは、未知の世界での旅を楽しむことにしよう。

 が、闇は、とつぜん晴れた。

 いきなり陽の光にさらされて、目がくらむ。自分の今いる位置を把握しようと周囲に眼をはしらせ、さしものセージもあわてるはめになった。

「——キリィっ!」

 頭の中で、キリザ、と真名を呼ぶ。この名前であれば、どこにいても彼女に届く。

 セージは落ちていた。まだまだ、落ちていきつつある。《時空の狭間》は、世のならいでは計りきれない場所のようだから、そう焦る必要もないと冷静にみなしていたのだが、ここは事情がちがう。太陽光のさんさんと注ぐところ、雲ひとつない青空のひろがるこの場所は、すでに《時空の狭間》の外だ。

 セージは、高い空を直角に落下している。あたりの空気は異様なまでに冷たい。仮に落ちて、地面に叩きつけられようものなら、世のならいでは死ぬに決まっていた。ここがセージの生きてきた人間の世ならば、彼女はまちがいなく死ぬのである。

 なすすべもなく落ちていくセージの視界を、空の青ではない青が埋めた。直後、彼女は空中に現れた水の塊に衝突した。

 キリィは間に合ったらしい。さしものセージも、水の塊の中で安堵の息をついた。唇から気泡が立ちのぼり、水面に消えていった。セージはそれを追いかけ、水面めざして泳ぎだす。水から顔を出すと、思いきり深呼吸した。息がうまく吸えず、呼吸を繰り返す。

「まったく、危ないところだったわ。もう、いったい何をしてるのよ、セージったら」

 横で怒ったような声がしたので、振り向くと、白い髪と青い瞳をした美しい子供がいた。セージに従属する水(アイン)の妖精(エルフ)、キリィである。

「どうやったら、こんなところから落ちるのよ。あたしの目の届かない空間には入るし!」

「ごめんごめん。ありがとうね、キリィ」

 セージは苦笑し、礼をいった。が、キリィはおさまらない様子でにらんでくる。

「けがはしてないんでしょうね?」

「どうかな」

 言われて、セージは自分のからだを意識した。水に飛びこんだときは、かなりの衝撃があった気もするが、ひりひりする程度で、これといって負傷はしていない。

「してないみたい」

「よかったー!」

 キリィはやっと笑った。「あまり危ない目に遭わないでちょうだい、セージ。あたしの心臓がもたないわ」

「心臓?」

 セージもくすりと微笑む。妖精の器となった人間のからだは、すでに死んでいて機能しない。

「気分よ、気分」

 キリィは冗談めかして言った。

 それから、水(アイン)に包まれたセージと、その妖精は、ゆっくりと空を降りていく。上空から見る地上はまるでちがうもののようで、セージにはそれだけでもおもしろかった。森らしき緑はただの緑色でしかなく、川も単なる泥の色。

「あれが川?」

「このあたりの水は、あまり澄んでいないのよ。雨が多いし、土壌が泥っぽいから」

 キリィが説明する。「あれは、ジャムナ川というのよ」

「ここはどこ?」

 セージが尋ねると、キリィはいたずらっぽく口角をあげた。

「ラージャスタンよ」

 主の驚愕を、キリィは楽しんでいる。「——ちょっとばかり、早く来すぎたわね」

 二人は森に降り立った。セージを包んでいた水(アイン)は森の土に触れると、みるみる形状が崩れていき、ただの液体に戻って地面にしみこんでいった。セージのからだは、地面から少し離れた空中で放りだされることになったが、下でキリィが周到に待ちかまえており、子供の器だてらに余裕の体で受けとめた。

 そうしてセージは、ラージャスタンの大地を、他の留学メンバーに先んじて踏んだのだった。

 まずは、付近の森の様子を観察した。このあたりの木は、プリエスカのものに比べて緑が濃く、風景として目に鮮やかである。続いてセージは、肌が汗ばんできたのを感じた。湿温度ともに彼女の国よりだいぶ高いようだった。

 この地域のことは、あらかた留学用特別カリキュラムで習っている。ラージャスタンは年中気温が高めであり、春と夏が雨季、秋と冬が乾季となっている。現在ラシュトー大陸全体は暦の上で春にあたるから、ラージャスタンは雨季に相違ない。ひどくしけっている。また、気温の高さから、年中青々とした樹木が見られる。そう言ったのは、戦時中に召喚士として活躍した経験のある教師だった。

(なるほど、教わったとおり)

 セージは風景に知識を照らしあわせ、ひとり納得した。彼女がさらに探険する気概にあふれているのを見て、あわてたのはキリィである。

「セージ、ちょっと待って。どこに行く気よ」

 奥に進もうとする主を、制止した。

「もう少し特徴をつかんでおきたいの」

 彼女は答える。「何であれ、事前に知っておいたほうが対策の練りようもあるでしょ?」

「それはそうだけど、このあたりの人間に会ったらどうするのよっ」

 キリィはセージの腕に抱きついた。「ラージャスタンの服装はプリエスカとは全然ちがうのよ? どこからどう見ても外国人にしか見えないわよ!」

「そうね。それは少し問題だわ」

 セージは理解を示した。が、

「でも、いちおう国交はあるんだし、少しは行き来する人もいるわよ。きっと」

 キリィの忠告に従う気など毛頭ない。「とにかく行ってみる。そのうち迎えがくるだろうから、遠くには行かないわ」

 念のため、シフルの名は出さないでおく。話の流れを《精霊王》がどう判断するか、わからないからだ。極力、彼とキリィの関係は匂わせないほうがいい。

「なら、あたしもついていく!」

「だめよ」

 セージは即座に却下した。「外国人で、そのうえ妖精連れなんて、もう疑う余地もなく怪しいじゃない」

「……」

 白い髪の美しい子供は、頬を膨らませる。セージは肩をすくめてみせると、なんとかなるわよ、と言った。最後にもう一度、助けてもらったことに感謝して、妖精に帰るよう命じると、踵を返した。

「もうっ、知らないわよ、セージ!」

 振り返らず、手だけをひらひらと振って、セージは森の奥をめざした。

 先ほど上から見た限りでは、この近辺はほぼ森が埋め尽くしている。だが、セージはめざとく発見してもいた。キリィがジャムナ川だと教えてくれた泥川の手前、住民のいる痕跡があったのを。

 森の木すらただの緑色としか思えない、上空からの眺めで、あれだけはっきりと建物に見えるということは、そうとうな大邸宅なのかもしれない。それはつまり、かなりの身分の人間が住んでいるということを意味しており、不法入国者のセージにとっては、危険極まりない「ラージャスタンの特徴を把握するための観察対象」となる。

 しかしセージは、己の好奇心を抑えられなかった。いざとなったら、こちらの出身国を特定される前に逃げればいいのだ。なんといっても、皇宮で生活を始める前に、突貫工事で習得してきたラージャ語が現地人にどの程度通じるのか、ぜひとも知っておきたい。ついでに、現地人の発音を《イミテート》できれば完璧である。

 というわけで、セージは身の危険以上に状況を喜んでいた。留学を滞りなく過ごして成果をあげるために、精霊が自分に与えてくれた恵みなのだ、とさえ思った。実際、この状況に叩きこんでくれたのは、空(スーニャ)の妖精と、時属性を司る女性の息子・シフルなのである。精霊の恵み、というのはまったく正しい。

 セージは意気揚々と森を歩いた。彼女は方向感覚に絶対の自信をもっており、先ほど目撃した「観察対象」へと一歩一歩近づいていく。もちろん地元民とじかに接触することは避けたいので、物音には注意した。ときおり彼女のほうにやってくる足音があると、すばやく木に登って隠れた。

 多くは鹿をはじめとする森の動物だった。ありがたいことに肉食獣ではない。ラージャスタンの森には虎や熊といった獰猛な獣も棲息していると聞いたので、セージは地元民との遭遇以上に気が気ではなかった。

 ふいに、ゆったりとした足音が向かってきた。まさかと思い、大急ぎで木の上に駆けのぼって息をひそめる。

(あっ)

 木の下を通りすぎたのは、虎や熊ではなかった。鹿でもない。(ラージャスタン人!)

 初めて遭遇する現地民に、危うい体勢ながらセージは感動した。木の上から見たラージャスタン人は歳若い少女で、選抜試験のおりに現れた女官頭ツォエル・イーリと似た、ラージャスタン式の服装をしている。ツォエル・イーリは長ったらしい紫のスカートだったが、彼女は動きやすさを重視してか、上に着ている白いシャツと同じ素材の、やわらかそうなズボンである。

 大きすぎず小さすぎない瞳は、すみれ色。豊かな亜麻色の髪は、半分を結いあげ、残り半分は垂らしている。とてつもなく長い髪だ。身につけているものは高価そうで、まとう空気にも野暮ったさがない。ひょっとすると、あの「観察対象」の邸宅に住んでいるのかもしれない。肩から弓矢を提げているということは、狩りの最中か。

 セージは、《こんにちは》と声をかける誘惑に駆られた。自分のラージャ語は、彼女に通じるだろうか? が、そう気軽にはあいさつできない。怪しまれて通報されようものなら、一気に重要犯罪者の仲間入りだ。やはり例の豪邸に忍びこみ、家人の会話に耳を澄ますのが関の山だろう。自分のラージャ語を試すことはできないが、とりあえず発音が《イミテート》できれば、この無謀な冒険も意味をもつ。

 セージは耐えた。黙って、ラージャスタン人の少女を見送った。

 ところが、

「——」

 次の瞬間、反射的にセージは身構えた。

 少女は、少し離れたところで矢をつがえると、いきなり振り返り、その矢尻をセージに向けたのだ。

「——《待って》!」

 ラージャ語動詞の命令形が、自然と口から出た。少女はそれで、相手が自分のめざす獲物ではなく人間であることに気づいたようだったが、そのときすでに弓引いたあとだった。放たれた矢が、セージを射抜こうと飛んでくる。

 セージは舌うちしたが、矢をよける訓練などしていない。

「風(シータ)、おいでッ」

 鋭く叫び、指を五本立てた。五級の風(シータ)を召喚する。「私を守れ!」

 轟音とともに、風が駆け抜けた。矢ごとき、彼らはものともしない。バチッと音をたてて弾き飛ばすと、あっというまに去っていく。

 セージは自分で精霊を呼んだくせ、風(シータ)の子らの予想外の威勢よさに驚いた。《火(サライ)の国》ラージャスタンとはいうけれど——たかが五級の風(シータ)が、こんなにも力強いとは。というよりは、ひとえに五級を呼ぶといっても、集まる個体数がちがうのかもしれない。

 いずれにせよ、さすがは「精霊多き国」ラージャスタンだ。元素精霊教会が、喉から手が出るほど欲しがっているのもわかる。

「風(シータ)、ありがとう」

 セージはとっくに走り去ったあとの精霊たちに、感謝した。そして、するすると木の幹を降りていく。

 矢を放ったラージャスタン人の少女が駆け寄ってくる。彼女はセージの前に立つと、胸に手をあてて目を伏せた。

「《——不注意をお許しください》」

「!」

 セージは怒るのも忘れ、感激した。なんて美しい発音なのだろう。ルグワティ・ラージャ(皇帝の言語)と呼ばれるだけのことはある。それに、いまだ幼さが残る少女の、実に洗練された挙止にも、彼女は目を惹かれた。

「《おけがはないようですね。ご無事でなによりですわ》」

 少女は毅然と言った。かすかに笑みはしても、卑屈さはない。普通、もう少し申しわけなさそうな顔になるものだが、高慢といおうか、誇り高いといおうか、彼女はそうした態度は見せなかった。

「《いいえ。私のほうこそ、獣のように隠れていましたから》」

 セージもまた凛とした表情で応じる。突貫工事の甲斐あって、なかなか単語は定着しているようだ。

「《そうですわね。あなたはまさしく獣でした》」

 少女はさらに答える。「《みごとに気配を消して、わたくしが通過するのを待っていましたわね。だからてっきり、小熊か何かだと思ったのです。とんでもないはやとちりでしたけれど》」

 彼女は紫の瞳を動かし、すばやくセージの頭からつま先までを観察した。セージは彼女の視線に気づくと、どきりとした。もしかすると、すでにまずい事態に陥っているのかもしれない。だが、ここで逃げるのとどちらがましだろう。何しろセージには、プリエスカに帰る手立てもないのだ。

「《あなたは……》」

 少女が再び唇を開いたとき、さしものセージも緊張して胸が絞まった。しかし彼女は、

「《歳はおいくつ?》」

 と、意図的かどうか知らないが、肩すかしを食わせるような質問を投げかけた。

「《歳? 私の?》」

 ええ、と彼女はうなずく。セージは少女の狙いを計りかねたものの、《十六歳です》と返した。

 彼女の顔が喜色に染まる。

「《あら、ちょうどよかったわ。わたくしの旦那さまと同い歳》」

「《夫》?」

 セージは聞き返す。この少女は、まだ十二かせいぜい十三、四にしか見えない。

「《ええ。つい最近、遠くからやってこられた旦那さまです》」

 と、彼女は説明する。「《まだこの国に慣れていらっしゃらないし、ほぼ身ひとつで祖国を出てこられたかたなのです。毎日、時間の過ごしかたに困っておられるようだから、わたくし、なんとか楽しんでいただこうといろいろ計画をたてているの》」

 少女はにっこりと笑った。

「《外国のかたのお話を聞いたら、きっと旦那さまもお喜びになりますわ》」

 案の定、ばれている。

 セージはわずかにため息をついた。まあ、外国人であることは一目瞭然なのだが、この少女相手にそれですむものか。何ともいえず、やりにくい相手だ。何も知らないふうに振るまって、そのじつ何もかも知っているようにも見える、不可思議なあどけなさ。

 仮にこの制服から、所属する学院、ひいては出身国まで察知されているとして、しかし、それでもセージは焦りは感じなかった。セージの目には、この少女がそうした掟から自由な人間のように映っている。明らかに一般人ではない身なりで、そのくせ自ら弓を操り狩りをする少女は、いったいどんな立場の人間だろう。

 セージはふと、少女がその幼さにかかわらず婿をとっていること、婿が外国出身であることに、いやな予感を覚えた。もしもそんな偶然があるとすれば、それはもはや精霊の恵みなどではなく、——きまぐれといったほうがいい。いたいけな学生を、右も左もわからない国に引きずりこんだだけでなく、運命という陳腐ないいまわしに相応しい出会いに遭遇させるとは。

「《お時間がありましたら、ぜひ。射かけたお詫びもさせてくださいな》」

 少女は、無邪気に乞う。

(まあ、いい)

 セージは首を縦に振った。(行ってやろうじゃないの。——おもしろい)

「《うれしいわ》」

 少女は軽く手を合わせ、喜ばしげに口角をあげた。「《では、お名前を教えていただける? わたくしはマーリといいます》」

「《私の名はサルヴィア》」

 彼女が家名に言及しなかったことを感謝しつつ、セージは迷いなく偽名を告げる。「《サルヴィアです》」

 とはいえ、本質的には同じ名前である。セージもサルヴィアも、同じ植物の名前なのだ。

 どうせその草の名をつけるなら、より女性名らしい「サルヴィア」にすればいいものを、どちらかというと男性名である「セージ」が、彼女に与えられた。幼いころは「サルヴィア」のほうがよかった、としばしば親に文句を垂れたものだが、今では「セージ」でしかありえないと思っている。「サルヴィア」なんて女々しい名前は耐えがたい。

 けれど、これほど適当な偽名もなかろう。偽名でありながら、本名でもあるのだ。本当のことを少し混ぜていないと、嘘が真実味を失う。

「《あなたの国に生えている草ね。きれいな名前だわ》」

 と、マーリと名のった少女はいう。やはり、出自の見当もついているようだ。

「《ありがとうございます》」

 セージは頭を下げ、手招くマーリのあとに続いた。とうに肚が据わっていて、今さら逃げだす気は起こらなかった。

 

 

 常緑の森を、ラージャスタン人とプリエスカ人の少女が行く。

 セージはときおり、少し前にいるマーリをみつめた。

 マーリの歩調は優雅である。その歩みには、俗世的なせわしなさがない。彼女が日ごろ、浮き世から隔たった場所で生きていることがよくわかる。セージは彼女の足もとをちらりと見やり、軽い気持ちで真似てみた。意識を集中させて《イミテート》すればできるのだろうが、普通にそれらしく歩くだけでは、「それらしいつもり」の域を出られない。あれは、マーリの心ばえからくるものなのだ。

 どういう育ちかたをすれば、あんなふうに歩けるのやら、農家育ちのセージには興味深い。彼女には、せいぜいのんびりと力を抜いて歩くか、すましてまっすぐに歩くかしかできない。ああした特権階級の振るまいには、縁がなかった。農家生まれを嘆いたことはないけれど、あの少女こそ、子供のころ夢みたお姫さまの体現ではないか。

(そう、お姫さまだ)

 と、セージはひとりごちた。(でも、それだけじゃない。マーリを説明するには足りない)

 セージは無性に好奇心を刺激された。とはいっても、シフルに心惹かれたのとはちがう。単純に彼女は、会ったことのない人種なのだ。あの女官頭ツォエル・イーリもそうとうにひっかかる人物ではあったが、彼女であれば何かしら説明する手立てもあるように思う。しかしマーリに関しては、そうした分類に当てはめることがままならない。

 なぜそう感じるのかも、セージにはわからなかった。純然たる勘だ。

(いずれ、わかるときもくる)

 マーリが、自分の思うとおりの人物であれば……。怖い気もしたが、精霊のきまぐれにすでに動かされ、また自分でも動いた以上、どうしようもなかった。

「《サルヴィア、あれがわたくしの家です》」

 少女は振り返り、樹影のむこうを差し示す。森はそこで途切れており、その先はひらけて明るかった。

 ——これは……。

 眼前に、赤い城壁がそびえていた。さほど高くもないが、よくよく目を凝らすと低い壁が階段状につらなっている。明らかに城塞らしいこの「家」へ、マーリは勝手知ったる様子で近づき、通用門らしい小さな門をくぐっていった。セージは苦笑したくなるのをなんとか噛み殺し、細心の注意を払いながらあとを追う。

 通常、城門には門番がつきもので、正門だろうが通用門だろうが例外はないはずだが、なぜかその門には見張りの姿がない。他のラージャスタン人に見られたくなかったので安堵する一方、セージはいぶかしむ。

「《サルヴィア、手を》」

 マーリがてのひらを差しだしてきた。「《わたくしと一緒でないと入れないわ》」

(結界の一種か)

 セージは彼女に手を重ねた。とたんに、精霊の気配がセージを包みこむ。これは火(サライ)だ——さすがは《火(サライ)の国》というべきだろう。火(サライ)の結界により、侵入者を灰燼に帰そうというのだ。そうなると、マーリが例の、トゥルカーナ公子を婿にとったラージャスタン皇女である可能性が、いっそう高まってきた。

(だとしたら、とんでもない偶然だわ)

 感動的な出会いではあるが、頭が痛い。どうして、こんなことが起こりうるのか。

 けれど、恵みだろうがきまぐれだろうが、はたまたいたずらだろうが、こんな幸運はそうめったにない。ラージャスタン留学を前にして、直接ラージャ語を耳にする機会にあずかったのみならず、公式の堅苦しい場で紹介されるより先に、自分が守り、話し相手を務める皇女と皇女婿と知りあえるのだ。

 公的な彼らより私的な彼らを知っておいたほうが、いざ相手をするとき萎縮しないですむ。何しろ、現時点では彼女は皇女と名のっていないし、こちらは彼女が皇家の人間だとはつゆ知らないことになっている。むやみに礼節を尽くす必要はない。

「《大きな『家』ですね》」

 セージは、いけしゃあしゃあと言う。

「《このあたりは、土地が余っているから》」

 マーリはマーリで、心得たものだ。まさか、セージが三週間後に再び留学生として入国するとまでは考えていないだろうが、セージが彼女を皇家だと理解したことは察していよう。だから彼女も、セージのそ知らぬふりを後押しした。マキナ皇家は秘密主義だというから、そのためか。

 通用門を出ると、中庭だった。中庭は床一面に敷きつめられた砂岩の赤、この地域はただでさえ温度が高いのにますますもって暑苦しい。セージの足もとに落ちる自身の影は、プリエスカで見るよりもずっと濃かった。ここでは何もかも、輪郭も姿もはっきりして見えるようだ。それほどに陽光が強い。

 花咲き乱れる庭へと踏みこんだ。マーリは足下の花をよけて進みつつ、

「《オースティンさま》」

 と、呼ぶ。「《オースティンさま、獲物はとれませんでしたけれど、代わりにお客さまをお連れしましたのよ》」

「《ご主人ですか?》」

 セージが訊くと、マーリは肯首した。

「《きっと、このあたりに隠れて眠っておいでです。旦那さまはお昼寝が大好きで》」

 オースティン。音の響きに東言(とうげん)——東方で使用されている言語——らしさがある。トゥルカーナ公子でほぼまちがいない。

「《サルヴィア、よろしかったら、旦那さまをお探しして、起こしてさしあげて? わたくしはあちらを探してみます》」

「《ええ、いいですよ》」

 セージは頼まれるままに、庭を探索しはじめた。英雄の子孫であるトゥルカーナ大公一族の人間も、昼寝を愛しているのだと思うと、妙にほほえましい。

 そういえば、仮にオースティンなる男がトゥルカーナ公子なら、

 ——黒曜の髪、大理石の肌、曇り空の瞳、その声は春雨のごとく。英雄クレイガーンの現身。

 という詩の本人に会えるわけだ。あの教授会でのツォエル・イーリの発言からすると、「タルオロット三世の御子最後の一人」は、その詩によって大陸中に知られているらしい。プリエスカが《英雄同盟》の国家ではないためか、公子の存在は一般にはあまり認知されていないものの、理学院教授陣をはじめとした王国の上層部はよく知っているようだった。

 英雄クレイガーンは、何しろ大変な美形だったという話である。その血統の末裔にあって、現身と呼ばれる者。幼いころからおりにふれて伝説を聞かされてきたラシュトー大陸の民なら、興味をそそられないはずがない。

(どんな顔してるのかしら)

 セージは草の陰をのぞいてまわった。あるいは植えこみの陰、花の陰……。

 と、いきなり彼女の手首をつかんだ者があって、さすがのセージも悲鳴をあげそうになった。

 おそるおそる、自分の右手首を見下ろす。

 手首を握っているのは、少年だった。赤い花に埋もれ、目を閉ざしたまま、少年はセージをとらえている。なんだ、起きているんじゃないか、と彼女は呆れた。聴こえていて、無視していたらしい。昼寝好きの怠け者が《クレイガーンの現身》とは、なんとも夢の醒める現実だ。

「《——誰だ?》」

 彼は問いかけるとともに、大儀そうにまぶたを持ちあげた。のぞいた瞳は、灰がかった青——《曇り空の瞳》とは、このことか。眠気ゆえにとろんとしており、《英雄の現身》が持って生まれるべき凛々しさはない。

(シフルの瞳と同じ色)

 なにげなくそう思って、笑いがこみあげた。もしも、詩にうたわれるようなことがあれば、シフルもまた、叙情的かつ修飾過剰ないいまわしで表現されるのだろう。そうなれば、度の入っていない眼鏡で顔をごまかすシフルでも、いっぱしの英雄になれる。そう、しょせん詩は詩だ。現実ではない。

「《……?》」

 少年は、怪訝な面もちで身を起こす。セージが笑いを堪えている理由を、計りかねているようだった。ゆっくりと腰をあげ、からだ中に付着した芝生を払うと、身だしなみを整えた。最後に姿勢を正せば、そのまま公式の場にも赴けそうな「皇女婿」のできあがりである。

「えっ」

 セージは覚えず声をもらす。しょせん詩は詩、詩の内容を生身の人間に期待するのは愚かだと断じたばかりにもかかわらず、彼女はそれを早くも撤回せざるをえなかった。

 睡魔の手を逃れ、背筋を伸ばした少年は、見ちがえるほどに高貴で、まさしく《クレイガーンの現身》だった。服装は青い木綿のシャツにズボン、革のブーツという、東方諸国の普段着で、決してラージャスタン皇家の一員が着るべきものではなかったが、衣装が質素なだけにいっそう彼自身の資質があらわれている。

 姿勢の美しさはいうにおよばず、そのからだは細身ながら骨太、弱々しさがない。《黒曜の髪》といわれる髪はあくまでも黒々と輝き、《大理石の肌》と讃えられる皮膚も、なるほど白皙といういいまわしに相応しい。それに、どことなく憂いを含んだ《曇り空の瞳》。それから、《その声は春雨のごとく》……だったか。

「《おい、おまえは誰だ? ラージャスタン人ではないな》」

 値踏みするようにみつめ、《英雄の現身》の詩を検証するセージに、少年はしきりに尋ねてきた。

「春の雨みたいな声……?」

 セージは詩情の理解に苦しんでいる。無意識に、使い慣れた言葉でつぶやいた。少年は耳ざとく聞きつけて、

「《ブリエスカ語だな》。おまえ、プリエスカから来たのか?」

 ラージャ語にはPの発音がないため、プリエスカは「ブ」リエスカとなる。

「!」

 なじみのある言語で話しかけられ、セージは目をみはった。少年の視線とセージの視線とが、そのとき初めてぶつかった。

「あなた、現代プリエスカ語がわかるの?」

 セージはプリエスカ語で訊いてみる。少年は首を縦に振った。

「多少は。ラシュトーの言語であれば、だいたいは話せるぞ」

「へえ……。大したものね、《クレイガーンの現身》も——」

 感心するあまり、口が滑った。「……《マーリ、こっちでご主人をみつけましたよ》」

 セージは流した。相手を皇家の人間と理解していてなれなれしく会話するのと、知らずにいてするのでは雲泥の差である。後者はかろうじて許されるだろうが、前者ともなれば不敬の罪だ。

(知らないふり、知らないふり)

 セージは微笑んだ。

「《オースティン、といいましたか? 私はサルヴィア。森で偶然マーリと出会って、招かれました。あなたのお相手をするようにと》」

「かなり勉強しているな」

 トゥルカーナ公子にしてラージャスタン皇女婿たるオースティンは、ラージャ語で話しかけるセージに、現代プリエスカ語で返した。「だが、まだまだ。《ルグワティ・ラージャ(皇帝の言語)》にしては、舌の動きが硬い」

(人がせっかく穏便にすまそうとしてるってのに……)

 微笑みは保ったまま、セージは唇をひきつらせた。《クレイガーンの現身》たる美貌を愉快げに歪めているところを見るに、オースティンはわかっていてやっているらしい。同じように掟の類いから自由である性分でも、マーリは黙ってそう振るまうたちで、オースティンは明言しなければ気がすまないたちなのだろう。

 どちらにしてもこの夫婦は、セージがプリエスカ人であることにまったく頓着していない。セージは嘆息すると、きっぱりと告げた。

「事故ですから」

 何が、とオースティンは現代プリエスカ語で聞き返す。「私がここにいることです、もちろん」

「理学院召喚学部Aクラスの学生とは、グレナディンからファテープルにひとっ飛びするような事故に巻きこまれるものなのか?」

「特殊な例です。通常はそんなことはありません。——《ところで、お尋ねしますが》」

 セージはひざまずき、うやうやしく首を垂れる。口上の途中で、現代プリエスカ語からラージャ語に変えた。「《私は、殿下に対して最上の礼を尽くす必要がありますか》」

 オースティンは腕を組み、彼女を見下ろした。

「《ないな》」

 少年はラージャ語で答える。「《そういう人間はまわりに多い。そうじゃない人間も少しは必要だ。そうだろう、マーリ?》」

 茂みのむこうから、少女が顔をのぞかせた。《サルヴィアをお気に召されたようで何よりですわ》とマーリは口の端をあげる。オースティンはとたんに不快げになって、妻から目を逸らしたが、セージにはその理由は読みとれなかった。

 それから、しばし歓談の時をもった。

 セージは、ラージャ語学習のために本場の発音を身につけたいといって、皇女とその婿にラージャ語で会話するよう頼んだ。彼らは支配者層の頂点に立つ人間なだけあって、ラシュトー大陸で使われているすべての言語を操ることができるという。特にトゥルカーナ公子オースティンは、血筋を売り物にして生き残ってきた一族の末裔だ。あらゆる言語を、もっとも美しい発音で話した。

 習いたてのラージャ語を駆使してしゃべりつつ、セージは耳を澄ましていた。オースティンもマーリも、理学院の教師などとは比較すべくもない、すばらしき《皇帝の言語》の話し手である。彼女はついには黙りこんで、不粋な感もあるが夫婦の会話に聞き入った。

 しかしこの二人、不思議なほどに間がもたない。政略結婚なのだから当たり前かもしれないが、ろくに会話が続かなかった。だが、それでいてあたたかな感情が通っていないわけでもない。なんとかして歩み寄ろうとする空気が感じられた。けれど、それでもなおすれちがいがある。そこで会話が途切れる。その繰り返しだった。

(政略結婚って、こんなものなのか)

 しばらくは興味深く傾聴していたが、いつしか飽きた。退屈さを覚えると同時に、不安も出てきた。

 ——シフル。

 胸のうちで、友人の名を呼ぶ。そろそろ、助けにきてもいいころだ。それとも、自分を放置して時姫(ときのひめ)に会いにいったのだろうか? 探すのが面倒になって、そのまま捨ておく気なのか。

(いや、ちがう)

 セージは自らの考えを打ち消した。シフルはそんな人ではない。まだ知りあってそう長くはないけれど、わかる。彼はきっと、ものすごく心配しているはず。どうやって探すのか知らないが、空(スーニャ)の力を使って探しまわってくれているはずだ。

 ——シフル……。

 セージは祈るような気持ちで、空を見上げた。すでに暮れかけた空は、地に近づくにつれ、少しずつ橙を帯びていく。このあと夜になれば、さしものオースティンとマーリも、セージをここから追いだすだろう。宮殿のラージャスタン人に見られるといけないからだ。そうしたら、どこへ行けばいいのか。自分でグレナディンに帰るとしたら、どういった手段があるだろう。

 セージは自力で国境を越える方法を考えはじめた。一級水(アイン)をはじめとする精霊の力を使役し、誰にも知られずに、なおかつ特別カリキュラムの授業が再開される一週間後までに帰国するには、どうすればいいか。

(迷っている暇はないな)

 セージは立ちあがり、

「《時間がないので帰ります》」

 と、習得したばかりの完璧な発音で告げた。

「《帰るってどうやって? ここには事故で来たんだろう》」

「《なんとかなります。マーリ、一緒に火(サライ)の結界をくぐってもらえますか。騒ぎを起こすわけにはいきませんから》」

「《それはかまわないけれど……》」

 オースティンもマーリも、なぜかセージを引き留めるふうだったものの、彼女はかまわなかった。どうせ三週間後にはラージャスタンに舞い戻るのだし、今は騒ぎになる前にプリエスカに帰らなければならない。ここで失踪扱いされたら、それこそ「妖精の花嫁」呼ばわりされそうだ。家族にも要らぬ心配をかけてしまう。

「《必ずまたお会いします》」

 セージはそう告げて、オースティンのもとを辞そうとした。トゥルカーナ公子は少しおかしげに、

「《また事故を起こすのか》」

 と、問う。セージは微笑んだ。

「《いいえ。今度はきっと、正規の手続きを踏んで》」

 彼女の言葉の意味を、オースティンは察したようだった。彼の表情はにわかに曇り、セージが手を振りつつ離れていっても、手を振り返してはくれなかった。

 セージはオースティンの態度が少し腑に落ちなかったが、問いただすわけにもいかず去っていく。マーリをともなって先ほどの通用門をくぐり、再び火(サライ)の洗礼を受けた。どうやらこの結界は、入ってくる者を拒むと同時に、出ていく者も阻む仕組みになっているらしい。今さらながら、セージはひやりとした。

 外に出て、セージはあッと声をあげた。

 そこには、すでに迎えが来ていた。待ちかまえている様子のシフルと、彼に仕える空(スーニャ)の妖精である。二人は森の木立のなかから、今か今かと通用門をうかがっていた。が、セージをみつけたとたんに、シフルの表情がいらだちを帯びる。それを見て、セージはあることに思いあたって青ざめた。

(まさか……)

 彼らはとうの昔に自分を発見していながら、火(サライ)の結界を越えられなかったのではないか? むろん、空(スーニャ)の元素精霊長であれば、結界を壊すことぐらいわけもないだろうが、騒ぎは免れない。ことを穏便にすませるために、こんな時間まで結界の外で待ちわびていたにちがいないのだ。

 セージはシフルのもとに走っていった。彼女が近づいてくるのを見て、少年は木陰から姿を現す。たどりつくと、セージは勢いよく頭を下げた。

「——ごめん!」

「——ごめん!」

 どういうわけか、声が重なった。セージが眉をひそめて顔をあげるのと、シフルが不思議そうな表情をして首を傾げたのとは、同じタイミングだった。ふたりは互いに半端な表情をしたまま、しばしみつめあう。眼を見あわせると、ふたりしてしきりにまたたいた。

 口を切ったのはシフルだった。

「手、離してごめん。大丈夫だった?」

「ああ、そういえば」

 忘れていたも同然である。「気にしないで。おもしろかったから」

「そ、そう?」

 シフルの主張はそこで終わった。まだ何かいいたげな顔をしていたが、いまいちど口を開こうとはしなかったので、今度はセージが話しはじめた。

「助けにきてもらう立場なのに動きまわって、あげく結界の中に入って、ごめん。待たせたよね。せっかくお母さんに会えるってときなのに」

 シフルは頭を振った。

「いや、悪いのはオレだから」

 彼は頬を紅潮させた。「セージこそ、気にしないでくれよ」

「お母さんには?」

「これから会いにいく。今度は絶対、手ぇ離さないから」

 シフルは答えた。「……セージも、一緒に行こう」

 セージは眼をみひらいた。べつだん何ということもない誘いだけれど、彼女にはひどくまぶしかった。長いあいだ夢みていたものを、今、手に入れた。

「うん。行きたい」

 セージはうなずく。シフルがおずおずと差しだした手を、彼女はためらわずにとった。

 三人はもういちど手をつなぎ、影のなかに沈んでいく。《時空の狭間》に入る直前、セージは城壁の外まで同行してもらったマーリのことを思いだし、アグラ宮殿の通用門を振り返った。しかし、ラージャスタン帝国皇女たる少女は、すでに姿を消していた。火に守護される国の支配者として生まれながら、むしろ風のごとき人でもあり、正体の知れなさが土を思わせる人でもあった。

 ひたすらな暗闇の続く《時空の狭間》で、セージはシフルを見る。

 そうしていると、ときおり彼が意識して頬をひきつらせるのが、おかしかった。彼女が笑うと少年はむっとするが、ラージャスタンにセージを落としたことをそうとうに悔やんでいるらしく、文句はいわなかった。もっとも、たとえ文句をいおうとしても、この《時空の狭間》にあってはセージに届くはずもないのだが。

(まあ、いいよね、これぐらいしても)

 セージは密かに微笑む。(だって、シフルのせいでひどいめに遭ったんだもの。……一応、だけど)

 セージがシフルの顔をみつめてにやにやしているのを、空(スーニャ)の妖精は呆れたように見やったが、軽く肩をすくめただけだった。そういうわけでセージは、時姫(ときのひめ)のすみかに到着するまで、誰にも咎められることなく少年を観察したのだった。

 彼女にとってこの一件は、比類なき精霊の恵みとなった。

​To be continued.

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