精 霊 呪 縛
第二部 ラージャスタン・アグラ宮殿編
第2話「炎抱く姫」(1)
アグラ宮殿に足を踏み入れた直後、空が晴れてきた。
灰色の雲のあいまに薄い青がのぞいたかと思うと、あっという間に目の醒めるような群青がひろがった。オースティンは柱廊を進みながら、鮮やかさを増していく庭園を眺めやる。あたりが明るくなるにつれて、花の赤や芝の緑が輝きはじめた。
「オースティンさまのお部屋はこちらです」
皇女付女官ファンルー・イーリが、少年を客室に案内した。彼女はオースティンが庭に目を奪われているのを見るにつけ、
「ご覧のとおり、一歩部屋をお出になれば、すばらしい景観がございます。こちらは《赤の庭》と申しまして、赤い花を中心に造られた庭となっております」
と、誇らしげに微笑む。「皇帝陛下が公子殿下のために用意なさったお部屋は、アグラ宮殿の最高級の客室ですわ。もちろん、皇女殿下との婚礼がすみ次第、後宮に移っていただきますので、一時的なご滞在ではありますけれど」
ファンルーに導かれ、オースティンは部屋に入った。室内を見回して、若干息をつく。内装は当然ラージャスタン式で統一されていて、彼は率直に異邦人らしい感想を抱いた。自分は異国に来たのだ、と。
トゥルカーナの自室は、クローゼットやら机やらで何かと物が多かったが、この客室は何とも殺風景である。家具らしい家具は、大理石製の、しかも床に這いつくばった寝台のみで、あとは空間があるばかり。窓といわず天井といわず幾何学的な模様が彫られているのは、家具のない寂しさを埋めるためか、あるいは反対に装飾を引き立てるために家具がないのか。この広さが何とも寒々しい。
トゥルカーナはもとはスーサの一地方に過ぎなかったので、国土そのものが狭い。そのせいか、民の多くはなんとなく狭い場所を好む傾向にあった。そんな故国で育ったオースティンには、国土の広大さゆえか、はたまた単に温暖な気候ゆえ風通しを重視するのか、広い空間をとろうとするラージャスタン式の室内設計には異和感しか覚えない。
大理石の寝台をまじまじとみつめて、オースティンは内心うめく。こんな硬い台でいったいどう眠れというのだ、しかもこの先一生涯を。
「さて、公子殿下」
泣きぼくろの魅力的な女官は、美しい黒い瞳を細めた。「今宵、公子歓迎の意で晩餐会を催す予定になっております」
彼女がいうには、そのためにさっそくラージャスタンの衣装を合わせるらしい。小一時間後に別の女官が丈を測りにくるから、それまではゆっくりと過ごして長旅の疲れを癒し、貴族たちへのお披露目となる晩餐に備えるといいだろう、と。ファンルーはひととおり伝えると、しとやかな足どりで部屋を去っていった。
残されたオースティンは、まずは遠慮なしに嘆息する。この部屋で、いったい全体どうゆっくりしろというのか。窓と寝台があるだけで、本の一冊も置いていない。やることがあるとすれば、寝るぐらいのものである。女官が誇るだけのことはあって、窓からすばらしく整備された庭が見えたが、少年はまだまだ風景を楽しむことに時間を費やせる年齢ではなかった。
(……寝よう)
オースティンはものは試しとばかり、寝台に身を投げだす。横たわる円柱状の枕に頭をまかせたところ、がつっと景気のいい音がして、目の前に火花が散った。それで少年はひとり、後頭部を押さえて悶絶するはめになった。起きあがって枕を確かめると、枕も寝台同様硬く重い。
(信じられん、枕まで大理石とは……)
やり場のない憤りとともに、気が遠くなってくる。先が思いやられるではないか。せっかくマーリ皇女に出会い、ラージャスタンでの生活に光がさしてきたというのに、そもそもの異文化が生半可ではない。従妹のアンジューが結婚を拒んで自殺を図ったとき、彼女の愚かしさと覚悟のなさを嘲笑ったが、今ならその気持ちもわかる。確かに一生を石の寝台で寝起きするのはごめんだ。
しつこく後頭部をさすっていると、背後で軽やかな笑い声がした。
「ふふっ、東では枕は羽根なんですわよね?」
「——」
オースティンは覚えのある声に、あわてて振り返る。「——マーリ姫」
「失礼いたします」
すみれ色の瞳の少女が、部屋の入り口にたたずんでいた。オースティンは急いで立ちあがり、そのいまだ幼い手をとって口づける。トゥルカーナの女性に対する礼儀ですわね、ここではそうする決まりもないのですけれど、とラージャスタン第一皇女は楽しそうに言った。
「なんだかどきどきいたしますわね、そちらの流儀は。こうした場で男性に触れることなど、めったにありませんわ」
「東では、こういう触れあいは一種の礼儀ですから。女性に会って何もしないほうが失礼にあたるんです」
オースティンは説明しつつ、まずい振るまいだった気もしたが、マーリがさほど動じていないので頓着しないことにする。「それで、どうしてここに?」
「ええ、客室は何も娯楽がありませんでしょう? もしお暇なら、お相手しようかと」
マーリは外を指し示す。「いかがでしょう、退屈に思われるかもしれませんが、《赤の庭》をご案内いたしますわ」
「それはありがたい」
庭自体には興味がないものの、オースティンはじっさい乗り気でその申し出を受けた。先んじて歩きだした皇女に従い、今いちど廊下へ踏みだす。少年との距離を何歩分か開けて進んでいくマーリを、オースティンは早足で追いかけ、彼女の隣を獲得したところで腕を差しだした。驚いたふうで少女が振り向いたので、
「これも東の流儀ですよ」
と、補足した。「女性には腕を貸すものです。ご不快でなければ、トゥルカーナ男としての生きかたを捨てられない僕のために」
「まあ」
少女は破顔した。「トゥルカーナの男性は、女性に腕を貸さないではいられないのですか?」
「ラージャスタンの女性は、人に寄りかかって歩くことなどないかもしれませんが」
オースティンはおどけて肩をすくめる。「トゥルカーナのご婦人がたは、ドレス重さにひとりでは立てないらしい。男はみな、二人分の体重を支えることに慣れていて、たまに育ちのちがう女性に会うと、己が身軽さに異和感を覚えてしまい、却って立てなくなる」
「おかしいこと」
マーリは弾けるように笑う。「あなたを憐れみますわ、トゥルカーナのかた!」
少女がオースティンの腕を抱いた。とたんに少年の腕は彼女の重みを感じたけれど、東の貴族女たちと異なり、慣れていないせいか、さほど負担にはならなかった。故郷では、女が男に寄りかかると決めたなら、もっと遠慮がない。自分の全体重を平気で男に預けるのが、彼女たちの精神文化である。
マーリを見る限り、ラージャスタンはトゥルカーナとは全然ちがう。彼女はしなやかで、伝統に生きながら自由であり、他人のために命を投げだす気高さをも内包している。この少女がオースティンを男として頼り、すべてを委ねてくれたならば、きっとこの見知らぬ土地で生きていく力になるだろう。
(まだ断じることはできない……、が)
オースティンはひとりごちた。(ひとついえるのは、彼女は美しいということ)
器量からしても、幼いころの自分の楽観的な願望を満たすくらいには「美姫」だ。のみならず、彼女の挙動のひとつひとつが軽やかで——軽やかといっても軽挙妄動の類いではなく、確固たる信念と支配者たる風格とを土台にした、揺るぎない軽やかさである。それは努力なしに培えるものではなく、また努力して誰もが培えるものでもない。
どこか少女らしくない、それでいてひどく少女らしい皇女の細く強い芯ゆえに、オースティンは軽薄な貴族男のごとく、くだらない詭弁を弄してまで彼女に腕をとらせてしまった。少年は自分でも呆れていたが、何であれ彼女のやわらかさに触れられるのは役得以外の何ものでもない。オースティンは、トゥルカーナでは強制されていた儀礼的な振るまいを、ラージャスタンにきて初めて喜んだ。
皇女は十三歳と聞いている。十六歳のオースティンからすると、頭ひとつぶん背丈が低い。隣に並んでいても、腕の重みがなければ存在を見落としそうだった。彼は少女を見下ろして、長い亜麻色の睫毛が彼女の頬に落とす影をしげしげとみつめる。その頬は白く、顔以外で唯一肌の露出している小さなてのひらも同様に白く、赤い砂岩造りのアグラ宮殿のなかでは浮かびあがってみえた。
「公子殿下」
皇女がふいにオースティンを見上げてきた。日射しを吸いこんだ、明るいすみれ色のまなざし。「こちらが、オースティンさまのお部屋の真下にあたります。《赤の庭》は、あの客室にお泊まりになるお客さまの視点で最も美しく見えるように造園されていますので、まずはここから」
言われて、オースティンは庭を見渡した。二人の立ち位置から前方を見やると、視界の真ん中に水路が延びており、横切るもう一本の水路と庭の中心で交差している。水路の先にはやはり砂岩の壁が高くそびえているが、水路の延長線上の壁には窓のような穴がぽっかりと空いていて、宮殿の外の風景が垣間みえた。
宮殿の外は、先刻小舟で渡ってきたジャムナ川だろう。空が晴れわたってもなお、変わらず濁った水をたたえている。
「ご覧のように、《赤の庭》はあの客室の視点から左右対称になっています」
マーリは解説した。「お客さまの目を水路に引きつけて、ジャムナ川の景色へと誘います。ラージャスタンの国土の雄大さを感じていただく仕組みですわ」
「なるほど」
オースティンはいかにも神妙に首を縦に振った。正直いって造園の狙いはどうでもよかったが、この皇女相手に「それよりもあなたのことを知りたい」とあからさまな下心をさらけだすのもためらわれる。東の女、しかも若い女であれば、まず庭園などに興味はもたないのが大半で、口実として庭園を案内する顔をしていても、結局は個人的な話題しか振らないものであり、そういう女相手ならば話は簡単なのだが。
「次はあちらに参りましょうか」
マーリに招かれるまま、オースティンはついていく。水路沿いをゆるやかに進む二人のあいだに沈黙が落ちたが、オースティンはこれも気にしないことにする。品のよい無意味な会話は上流階級の礼儀であり、こと女性とのやりとりには気を遣うものだが、マーリ相手では何ら役に立たないような気がした。どうせ彼女とは結婚が決まっているし、彼女が東女の不文律を重視するとも思えなかった。
オースティンは、さして目的のないそぞろ歩きと静けさを、ただ楽しんだ。皇女がトゥルカーナの女たちのように、会話の弾まないことはすなわちつまらないことであり、女を楽しませられないのは男の無能、と判断するようなら、マーリもしょせんただの女である。その愛情を信じる価値もなく、少年と小姓の勘は外れたことになる。
が、思ったとおり、マーリは変わらない穏やかさで歩を進めていた。なじみ深い彼女の庭園の、この時間限りの表情を存分に眺めながら、体重の一部を依然としてオースティンに預けている。顔はどことなく満足げで、すみれ色の瞳が午後の光を浴びて透き通る。柔和なまなざしの底は、うかがえるようであって、深遠でもある。
「——皇女殿下」
オースティンが、必要に迫られたのではなく自発的に呼びかけると、
「マーリでかまいませんわ」
少女の眼がまっすぐに彼をとらえた。「それに、アレンさまとなさっていたように、気軽に話されるとよいと思います。あなたは、旦那さまとなられるおかたですもの」
「では、僕のこともオースティンと」
「それはできません」
少年の提案を、彼女はきっぱりと拒んだ。
「なぜ?」
オースティンは戸惑いつつ尋ねる。好意を拒絶されるときの苦みが、少年の胸にひろがった。
「主君が下僕を呼び捨てるのは当たり前のこと。ですが、下僕が主君を呼び捨てるのは不忠です」
「しかし、次期皇帝はあなたであって、僕は入り婿にすぎません。下僕というなら僕のほうではないですか」
「夫は女の主君です。例外はありませんわ」
マーリは断言し、抱いていた腕を離す。
「覚えておいてくださいな。ラージャスタンはトゥルカーナとはちがいます。でも……」
再びオースティンの腕をとって、彼女は優しい声で告げた。「不忠を犯さない限りは、トゥルカーナのやりかたを持ちこむのもよいでしょう」
「そうですね、肝に銘じておきます」
答えて、オースティンは微笑んだ。
マーリがそれを見て、
「おかしな旦那さま!」
と、笑う。「さしでたことを申しましたのに」
「当然のことですからね」
オースティンは軽く返して、続ける。「それより、おかしいのはむしろあなたですよ、マーリ」
彼女は、どこがです、と言わんばかりの怪訝な目つきをした。
「あなたが、《クレイガーンの現身》といわれる僕に会いたいからと、婚礼を早めさせたと聞いています。実際にあなたを前にしていると、いったいどこからそんな噂が出たのやら、わからなくなる」
「まあ、お恥ずかしいわ」
マーリは頬を赤らめた。「どうしてそんな話まで? 父君陛下ったら、なんてひどいことを……」
父君陛下。なんとも愛のある呼びかただ。父であるトゥルカーナ大公に聞かされた、皇女が父一人子一人でさんざん甘やかされて育ったという話は、あながち誤ってはいないらしい。
けれど、オースティンはなんとなく異和感を覚えた。不忠をきらう彼女と、父親を父君陛下と呼ぶ彼女が結びつかない。夫婦において夫が主君なら、父娘においては父が主君である。いくら尊称を付けていても、不忠にならないとはいえない。本当にマーリは《クレイガーンの現身》に会いたがったのか? 本当にマーリと父皇帝は仲睦まじいのか。到着前に小姓とともに抱いた疑念が、少年の中でまたくすぶりだした。
「では、ついに《クレイガーンの現身》とまみえたご感想があるのではないですか? ぜひ、聞かせてほしいものですね」
オースティンは戯れ言めいて、皇女に要求する。マーリは困惑気味に眉をひそめていたが、やがて形のいい唇を開いた。
「意地の悪いかたですわね、旦那さまは!」
憤懣やるかたない様子でオースティンから離れていき、水路の果てで振り返る。彼女の背後に、《赤の庭》の窓ともいうべき壁の穴を通して、ジャムナ川の流れが見えた。濁った流れからは、白いもやが立ちのぼっている。オースティンも穴の前にたどりつくと、眉をいからせる少女の正面に立った。
「お気を悪くされたなら、謝ります。ですが、どうしても知りたいのです」
オースティンは真摯に言う。
「オースティンさま、あなたの眼は節穴ですか」
マーリもまた、真剣そのものである。「あなたの耳は何を聞くためにあるのですか? その指は?」
皇女の畳みかけるような問いを、オースティンは心地よく聴いた。どことなく超然とした風情のある彼女の、柄にもなくいらだった声を。
「……あなたに触れても?」
少年の指先が、マーリの白い頬をかすめた。
「未来の旦那さま、あなたは——」
対する皇女は、紫の瞳を怒りにきらめかせて、少年公子を問いただす。「わたくしが何の意味もなくあんな場所まで見物に行ったり、何の意味もなく泥で濁ったジャムナ川を泳いで渡ったりするとお思いですか? 一度ならず二度までも? ……」
オースティンは、そんな彼女の表情や感情の変化を逐一観察している。彼女は彼女で、大いに眼をみひらいて少年の灰青の瞳をみつめ、やはり観察している。が、己の頬に触れてくる少年の指を横目で見たあと、唇を引き結んで目を伏せた。オースティンの顔を視界に入れまいとするように。
公子殿下、オースティン・カッファ殿下、という呼び声が響いたのは、そのときである。針子女官の幾名かが、部屋に姿の見えないオースティンを探していた。少年は無視しようかと思ったが、マーリはすばやく身を翻し、庭園を横断して去っていく。
オースティンは息をつき、しぶしぶ針子たちに自分の居場所を知らせた。駆け寄ってきた針子女官は赤い袴を着用している。先ほど部屋に案内してくれたファンルー・イーリは紫の袴を着ていたので、どうやらアグラ宮殿では袴の色分けによって階級が定められているようだった。こうして従僕の位を明確にすることは、トゥルカーナにはなかった習慣である。マーリの言葉からも察せられたが、ラージャスタンでは身分差を重くみるらしい。
紫の袴には、女官でありながら皇女を叱りつける権限すら与えられているようだけれど、赤の袴に至っては、皇女婿に対し愚痴も垂れることができないようで、彼女たちは恭順な態度で先ほどの部屋に先導したのち、文句ひとついわず仕事をこなすのだった。いくらマーリの案内があったとはいえ、オースティンは勝手に庭を散策していたのだから、トゥルカーナであれば当然アレンや乳母ノーラの小言の種になる。
針子女官は非難がましい眼つきもせずに、オースティンに白いラージャスタン式の着物をはおらせると、黙々と待ち針を留めていき、むだ口ひとつ叩かずに職務を終えた。再び部屋で待機するよう告げられた少年は、急に疲労を感じて、硬い寝台に横たわる。大理石の硬さには慣れる気がしないが、サンヴァルゼ城に帰ってきて、疲れのあまり床で眠ってしまったと思えば何ということもない。
そして翌朝は、アレンに殴られて目覚めるのだ。
(《クレイガーンの現身》が床で寝ますか!)
慣れ親しんだ、朝の叱声。アレンにだけは、英雄の名を引きあいに出されても不快ではなかった。あの乳兄弟は、主人が英雄たる祖先に瓜ふたつといわれる容貌を有効活用し、大公一族の宣伝係を務めている、としか考えていない。一緒に生まれ育った彼だけに、オースティンが英雄らしさなど微塵も備えていないことを熟知している。
アレンは皮肉を飛ばすときぐらいしか英雄の名を用いない。しかも、わざわざ偉大なる祖先の名前を使わなくとも、単に公子としての自覚を問うだけの内容である。いやみをいっそう強めるためにクレイガーンのことを言うのみで、実際にクレイガーンらしい挙動を期待しているわけではない。
マーリも、そうなのではないか。婚礼を早めた事情として聞き及んでいた、彼女の無邪気で子供じみたわがままは、少なくともあのマーリの発言とは考えにくい。確かにマーリは顔を赤らめて、お恥ずかしいわ、と言いもしたけれど、皇女を観察する限り、噂が彼女自身にそぐわないのである。
ということは、皇女のわがままという極めて個人的な理由を隠れみのに、異なる陰謀が存在するものと思っていいだろう。
(でも、いったい何が? 皇家の狸どもは何を企んでる?)
オースティンはひとりごちた。わかるのは、トゥルカーナには関係ないということだけ。《英雄同盟》結成に際して、トゥルカーナは滅亡させるよりも利用するほうが有益だと、諸国は身にしみて理解したはずだ。
(だとしたら、何だ? 婚礼を早めると、何が変わる?)
——ゆめゆめ、おかしなことに巻きこまれませんように。……
まったくだ、アレン。オースティンは夢うつつで、懐かしい少年に語りかけた。
ファンルー・イーリに起こされたとき、すでに夕刻だった。
オースティンは寝ぼけ顔を、濡れた布で拭われた。目が覚めきらないうちに、髪をとかされ、先ほど丈を合わせた着物をまとわされ、首といわず腕といわず金や銀や玉で飾りつけられて、ラージャスタン皇家の一員に相応しい体裁がすっかり整っていた。
「よくお似合いです。なんて見事なんでしょう、公子殿下」
泣きぼくろの美しい女官は、ため息とともに賞賛する。「《英雄の現身》の通り名も、むりからぬことですわね。では、最後にこちらを」
彼女が差しだしたのは、ひと振りの飾り刀である。オースティンが受けとると、飾り刀の分際でずっしりと重い。鞘を払い、刀身をよく見ると、
「真剣……ですか」
「さようでございます」
ファンルー・イーリは黒い瞳を細めると、おもむろに自らの懐を探る。白い絹に包まれた短刀を取りだしてオースティンに示し、再びしまいこんだ。
「皇帝陛下にお仕えする者は、いかにお端下であっても、こうした護身具を携帯しております。わたくしどもの主君をお守りするため、わたくしども自身を守るため、あるいは誇りを守るため、あるいは栄誉を賜ったときのため……」
栄誉という言葉に、少年はどきりとした。つまり、主君に死を賜ることをいっているのだ。
「殿下も、二週間後にはマーリ皇女殿下と並び、陛下の僕の長となられます。マーリさま即位後は、女帝の夫として最もおそば近くでお仕えすることになります。それは、今宵の宴のときから始まるのですわ。その刀をもって、守るべきものをお守りくださいませ」
「……わかった」
オースティンは、ファンルー・イーリの気迫に呑まれつつ、了解した。
マーリにもいえることだが、アグラ宮殿の住人はどこか鬼気迫るものがある。トゥルカーナがとくべつ呑気な国だともいえるけれど、やはり彼女らはどこか異常だ。
ラージャスタン民衆の、マーリについていわく——
花の顔(かんばせ)、火(サライ)の化身というに相応しい猛々しさ。
代々の皇帝の血が顕著にあらわれた勇敢さ剛胆さ。
皇家らしい驕りもなく、常に民と同じところに立つ。あらゆる人間に敬意を示し、己をへりくだらせる。
民にとっての、ラージャスタン皇家の象徴。彼女ゆえに、民は皇家を拝する——。
——火(サライ)の化身。
(それだな)
オースティンはひとり納得した。火(サライ)は、かつて元素精霊長が女の器に宿り、その女として人生を送ったという伝説から、一般に女性扱いされる。同様の伝説があって、風(シータ)と土(ヴォーマ)も女性、水(アイン)のみが男性である。
それはともかく、やはり火(サライ)は女性に多い属性かもしれず、マーリやファンルーもそうにちがいない。ラージャスタンは、火(サライ)属性の女性が多いために火(サライ)の国と呼称されるのだと——そんな見解もおもしろいだろう。定説では、むかし火(サライ)の元素精霊長の宿った女が住んでいたので、その眷属が集うというのだが、烈火のごときアグラ宮殿の女たちとあながち無関係ともいえまい。
オースティンは飾り刀を鞘におさめ、腰に差した。姿勢を正し、気分を引きしめて、鏡をのぞく。とはいっても、ファンルーをはじめとした周囲の女官たちが口々に彼を讃え、うっとりした声をもらしもするので、改めて己の姿を点検するまでもなかった。
女官たちに導かれて、オースティンは宴の会場に向かう。
廊下の途中で、あのすみれ色の瞳がのぞいた気がして、少年はそちらを振り返った。
柱の陰に、マーリがたたずんでいた。はじめのうち彼女の表情はこわばっており、いまだに先刻のことがしこりになっているようだったが、氷はみるみる溶けていった。凍りついたまなざしは、やわらかな笑みに変わった。それは、まぶしげでもあり、誇らしげでさえあった。
オースティンの頬もおのずから緩んだ。彼女の誇りとなることが、彼の誇りだった。
To be continued.