精 霊 呪 縛
第二部 ラージャスタン・アグラ宮殿編
第1話「英雄の子ら」(4)
常緑の森に、金づちの乾いた音が響きわたる。
ハスダが連れ帰った近隣の村の修理工は、車輪のネジを締め直してから、随所に見受けられる危なっかしい箇所を修繕してくれた。ラージャスタンの情報統制はやはりみごとなもので、修理工はオースティンの特殊な容姿に目を剥きながらも、何らかの憶測を口にすることはなかった。「何げなく」あいさつしたわりに、修繕費は無用だというのだから、マキナ皇家は大した統治者である。
オースティンは旅行中の少年を装って、くだけた調子で修理工に声をかけた。
「《マーリ皇女さまですか?》」
中年にさしかかった男は、少し訛りのあるラージャ語で応じた。皇都ファテープルとはまだ距離があるようで、発音はどちらかというと東言の影響を感じさせる。
「《ああ。どんなかたなんだ? とんでもないわがままだと聞いているが》」
オースティンは、十年以上にわたり訓練を積んだラージャ語で訊く。
「《それこそとんでもないね、坊ちゃん。マーリさまは、とても皇家の一員とは思えない謙虚なかたでさ》」
と、男は答えた。「《それに、皇女さまとは思えないほど勇敢でいらっしゃるのよ。このあいだは驚いたのなんのって》」
へえ、とオースティンは興味深げに相槌をうつ。
修理工の語るところによると、先日、彼の村に熊が出没して大騒ぎになった。そこに、どこからともなくマーリ皇女が現れ、なんと弓で熊を射殺してしまったという。皇女は皇都ファテープルのアグラ宮殿奥深くに住んでいるはずなのに、馬で二時間ほどかかる村にたまたま居合わせたというだけでも信じがたいが、加えてあの目も見張るばかりの勇ましさ。民衆は驚嘆し、皇女を讃えずにはいられなかった。
いわく、花の顔(かんばせ)、火(サライ)の化身というに相応しい猛々しさ。代々の皇帝の血が顕著にあらわれた勇敢さ剛胆さ。皇家らしい驕りもなく、常に民と同じところに立つ。あらゆる人間に敬意を表し、己をへりくだらせる。民にとっての、ラージャスタン皇家の象徴。
彼女ゆえに、民は皇家を拝する——。
「信用できませんね」
すっかり直った馬車に揺られつつ、アレンは言い切った。「何が本当でも、マキナ皇家は狸です」
「だんだん遠慮がなくなってきたな、アレン」
「仕方ないでしょう?」
アレンは憤慨している。「真がありません、この国には。誠もありません。こんなあからさまな陰謀をもって、オースティンさまを迎えようというんです。ぼくには許しがたい」
「そうだな」
オースティンは乳兄弟の怒りをよそに冷めていた。仮に陰謀があったとしてもどうでもいい、といったほうが正確である。アレンが自分のために憤りを隠さないのはとても快いし、どちらにしても婿入りは決定事項、息巻いたところで何も変わらない。どうせもうすぐアレンと別れるのなら、存分に彼の感情の動きを見ていたい。
「何ニタニタしてるんですか、あなたは」
自然と顔が笑っていたらしい、アレンが見咎めた。「あなたのことなんですよ? ぼくには何の関係もないんですよ?」
「ふむ」
小姓の機嫌を逆撫でしないよう、オースティンは神妙にうなずいてみせる。それから、彼もまた思考をはしらせた。《クレイガーンの現身》に一刻も早くまみえるため喚き散らす少女と、《火(サライ)の化身》たる少女。他の女が愛用した耳飾りを、衣装や身分に不似合いでも身につける少女。信じていいのは、いったいどの少女の、いかなる意図なのだろう。
確実に相反する要素も、ラージャスタンのなかでは双方が成立しているのか。英雄に瓜ふたつのトゥルカーナ公子を見たいとぐずる少女と、馬で二時間もかかる場所まではるばる夕餉の材料を捕りにくる少女、他人の命に己の命を賭ける少女は。どちらか一方が偽りだとすれば、いったい何のために。嘘をついてまで婚礼の時期を繰りあげて、ラージャスタンに何の得があるのか。
「気をつけないとな」
「そうですよ!」
アレンは力強くオースティンの手首を握りしめた。「ゆめゆめ、おかしなことに巻きこまれませんように。いいですか、口先ばかりの人間を信用してはいけませんよ。オースティンさまの心がそう命じる人のみ、信じてください。でも、そう簡単に心を動かされてはいけません。常に冷静に冷淡に、けれど決して己を偽りなさいますな」
「アレン、老人並みに説教臭いぞ」
「——見えました、オースティンさま」
アレンはにわかに口調を冷え冷えとさせた。そうしなければならないとでもいうように、背筋を伸ばし、凛とした視線を窓の外に投げる。
今の今までつきまとっていた緑陰が去り、視界がひらけた。曖昧な光のむこうには、赤い砂岩のアグラ宮殿がそびえ、濁ったジャムナ川が寝そべっている。
空は白くかすんでいた。
アグラ宮殿はあくまでもしらじらしく、親しみのない冷ややかさでオースティン一行を見下ろしている。
とうとう着いたのだ。アレンは、いったんアグラ宮殿の裏へまわってジャムナ川にかかる橋を越え、対岸から船に乗りこんで、川に面した裏口から宮殿に入るのだと説明した。アレンとハスダがついていけるのは、船に乗るところまでで、そこから二人はトゥルカーナに引き返すのだと。
「わかりましたか?」
アレンは了解を求めてきた。オースティンが小さく首を縦に振ると、では、参りましょう、と小姓は告げる。オースティンは、ちょっと待て、と遮った。
「おい、馬車を止めよ」
ハスダは手綱を引く。馬車が大いに傾ぎ、それから停止した。
「公子?」
「アレン」
オースティンは目の前の乳兄弟をまっすぐにみつめた。「元気で——」
「……オースティンさまも」
二人はかすかに笑みを浮かべる。騒音の消えた静けさのなかで、しばし時が止まったようだった。しかし、この時を長く続かせることは許されないと、オースティンは知っていた。
「——行け」
オースティンは再びハスダに命じた。御者は黙って馬車を出した。オースティン一行は巨大なアグラ宮殿を一周し、裏側にある石橋を渡った。
川辺で馬車を降りた。靴底にジャムナ川の砂の感触を覚えて、三週ものあいだ揺られていた車を振り返る。今となっては、このボロ馬車と無神経な二頭の馬すらも愛おしく思われるのが、オースティンには不思議だった。
遠く川のむこう岸で、宮殿の門が開いた。そこから小舟が現れる。舟には女官らしい美女と、櫂を操る従者が乗っており、トゥルカーナの三人に別れの時を告げてくる。
濁流を横断してくる小さな舟に、オースティンはこのまま舟が呑まれてしまえばいいのに、と考えた。詮ない空想でも、もしそうしてアレンと離れずにすむのならと、実現を願わずにはいられない。
願い空しく、女官は岸辺に降りたった。ラージャスタン特有の履き物である袴を、水と砂に汚れないよう持ちあげて、少年のほうへとやってくる。オースティンのそばまで来ると、深く腰を折った。
「《皇女付女官、ファンルー・イーリと申します。以後お見知りおきを》」
女は一寸の乱れもない完璧なルグワティ・ラージャ(皇帝の言語)で言上した。「《オースティン・カッファ・ド・トゥルカーナ公子殿下、ようこそラージャスタン帝国へ》」
あいさつをすませてから、ファンルーと名のる女官は、従者二人をねぎらった。ファテープル市内に宿をとってあるので、そこでからだを休めてからお帰りになるとよろしいでしょう、と東言(とうげん)で告げる。アレンは、この日のために重点的に練習したラージャ語を、ここで使った。
「《お気づかい、恐縮です。そうさせていただきます》」
発音はたどたどしいが、真剣さでもって訴える。「《何とぞ、公子殿下をよろしくお願いします》」
「《ええ》——」
女官が微笑みで応えようとしたとき、水音が彼女の言葉を奪い去った。
アレンをはじめとして、オースティンとハスダ、ラージャスタン側の従者、その場にいた全員の眼が背後のジャムナ川に注がれた。土色に濁った水のなかから、女官に代わって答えた者がいる。
「もちろんですわ——アレンさま」
やはり、洗練された東言でもって。「どうぞご安心あそばして、わたくしにおまかせくださいな」
あの少女が、そこにいた。
「《マーリさま……!》」
ファンルー・イーリは、悲鳴に近い叫びをあげる。「《何をなさっているんです! あれほど、お部屋にてお待ちくださいと申しあげたのに——》」
「《将来の旦那さまをお迎えにあがりました》」
少女は川からあがった。ジャムナ川を泳いで渡ってきたらしく、砂混じりの水を滴らせて、彼女はたたずむ。水で白い着物が濡れて肌の色が透けるのも、十三歳の少女には気にかけるべき点ではないようで、無防備な姿で豊かな髪をしぼっていた。川を泳ぐべく極力布を減らしたのか、ズボンも袴もまとわない白く細い足が、砂の上にしっかりと立っている。
「《呆れてものも言えませんわ!》」
女官は袖で唇を覆い、嘆きをあらわにした。「《姫君とはとても思えません。こんな……、こんな……》」
「——《姫》」
オースティンは、マーリ皇女にやわらかく微笑む。「《首尾はいかがです。鹿はみつかりましたか》」
少女は髪から手を離し、トゥルカーナ公子を振り返る。すみれ色の瞳をいたずらっぽく輝かせ、
「《晩餐をお楽しみになさいませ》」
と、ひと言。
そして、皇女は手を差しのべた。オースティンは優しくその手をとると、すすんで小舟に足を踏み入れ、未来の妻を導く。マーリは恭しく従い、オースティンが腰を落ちつけたかたわらに座った。あわててラージャスタン側の従者二人もあとに続き、小さな舟は動きはじめる。
トゥルカーナ第三十一公子を載せた舟が、岸を離れていく。二人の従僕を残し、濁流を渡っていく。
半ばまで来たところで、オースティンは対岸に目をやった。
乳兄弟の姿は、もはや遠い。川のむこうの影はかすんでおり、アレンがどんな顔をしているのかも、ましてや別れを惜しんでいるかどうかなど、見えはしない。けれどオースティンには、アレンが深々と頭を下げていることだけはわかった。誰に、といえば、この場にいる誰もがきっとラージャスタンという国に対してだと推測するにちがいないが、オースティンには理解できる。
アレンは、他でもない皇女マーリに礼を尽くしているのだ。先刻の言葉どおり、彼の心が彼に命じたのだろう、——マーリは信じるべきだと。いかなる陰謀が隠されているにせよ、マーリの気高さは真実であり、その愛情についても、信じるに値するものかもしれないと。少なくとも、オースティン自身がそう感じていたことを、アレンは察知している。
オースティンは、はるか遠くなりつつある乳兄弟を見やった。別れの時は呆気なく、こうして遠ざかる彼の影ももう薄い。
——アレン。
少年の姿は、やがて濁流の彼方にかき消えた。
慣れ親しんだ日々は去り、オースティンの眼前には白くかすんだ異国の風景がひろがっている。
To be continued.