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​精 霊

第二部 ラージャスタン・アグラ宮殿編

第2話「炎抱く姫」(3)

 矢は夜を貫いて、戦う者の昂りを醒ます風となる。

 風のきた道をたどり、オースティンは闇のむこうへ視線を投げた。

 この庭園の果てるところ、宮殿の露台の上に、弓をかまえたままの少女がいる。まわりには衛兵が控えており、彼女が暗闇の中でも的を捉えられるよう、高々と松明を掲げていた。

「足もとにお気をつけあそばせ、ムルーワ伯爵」

 と、彼女は忠告する。「それから、お口にも」

 残念ながら、ここにいる者はすべて伯の不敬を証言できるでしょう——そう言う彼女の、瞳のすみれ色は深い。炎に照らされながら、彼女は無言で目配せした。衛兵たちは次々と露台を飛び下り、伯爵に殺到する。彼女の忠告はすでに告発と同義であり、伯爵に反省や謝罪の余地を与えない。

 カリエン・ムルーワは口汚くわめきつつも、抵抗はしなかった。皇帝の兵に逆らえば、反逆になる。さしもの伯爵も、このうえ罪を重ねないよう、大人しく連行された。オースティンとすれちがう一瞬、苛烈なまなざしを向けたものの、穏便に通り過ぎる。

「オースティンさま——」

 マーリは自らも露台から飛び下りた。オースティンはぎょっとしたが、彼女についてはごく日常的な光景のようで、誰も驚かない。

「世話をおかけした。マーリ」

 オースティンは苦笑する。「はなからこれでは、先が思いやられる」

「ムルーワ伯爵がああなった以上、あなたさまも何もないではすまないでしょう。でも……」

 マーリは弓を肩にかけた。「あなたさまは正しかった。陛下もきっとそうお考えになります」

 陛下。先刻は親しみをこめて「父君陛下」といっていたのに、今回はずいぶんと他人行儀である。単純に考えると、「父君陛下」を略すれば「陛下」になるというだけの話かもしれないが、オースティンはひっかかりを覚えた。

「マーリ……」

「オースティンさま、今からわたくしとご一緒しませんか」

 彼の言葉を遮って、少女は誘う。「そろそろ、わたくしに時間を割いてくださってもよろしいでしょう?」

「ええ……」

 オースティンは曖昧にうなずいた。「そうですね」

 どちらにしても、彼女と二人になりたかった。この味方のいない空間で——たとえマーリがそうなる可能性を秘めているとしても、衆人環視の的になるのはもうごめんである。

 少年は足早に歩きだす。マーリは隣にやってきて、彼の腕に寄りかかった。ラージャスタンでははしたない行為であるにちがいない、人々は目を剥いたけれど、少女は頓着しなかった。

「東の流儀ですわ」

 あっけらかんと言い放ち、

「それではみなさま、ごきげんよう。炎があなたがたを守られますように」

 と、別れのあいさつを述べる。貴族たちはひざまずき、創り主たる炎よ、我らがラージーヤ(皇女)とムストフ・ビラーディ(婿殿)を嘉(よみ)したまえ、我らの国、我らの故郷、皇帝のおわしますところ、ラージャスタンに栄えあれ、と応じた。

「ラージャスタンに栄えあれ!」

「ラージャスタンに栄えあれ!」

 未来の夫婦は決まり文句を唱和する声に見送られ、宴の場をあとにした。

 

 

「——あそこに」

 宴の灯りも届かない庭園の奥で、マーリはおもむろに前方を指さした。白い指の先に、大理石の四阿(あずまや)がある。

 中はランプが据えられていて明るい。この人工林においては、まるで灯台のようだ。灯台の背後には、水面が静かに横たわっており、その上に無数の蓮の花が浮かんでいた。

 少女はひと足先に駆けていく。暗くともここは彼女の庭、マーリはためらいなく進んだ。オースティンはゆっくりとあとに続き、何やら準備を始めた彼女を眺める。見れば、四阿には食卓が設けられていて、席はふたつ。中に入り、促されるまま席に着いた。

 食卓の上には大きな黒鍋が鎮座しており、そこへマーリは手際よく具を投げ入れていく。野菜をあらかた放りこんだあとで、彼女は笑って肉の皿を見せる。

「鹿です」

 オースティンもつられて微笑む。

「約束どおり?」

「ええ。例の鹿を」

 マーリは箸を使って、煮えたぎった汁に鹿肉をくぐらせる。「大急ぎで屠(ほふ)らせまして、それからジャムナ川へあなたさまをお迎えに。間に合ってようございました」

「はは、ありがたい。宴では、あまり食事に満足できなかったのです。緊張していましたし、ラージャスタン料理には不慣れで」

「そうでしょうね」

 彼女はさも理解あるふうで相槌をうつ。「東からおいでになるかたは、匂いを苦手に思われます。これは香辛料を控えておりますので、宴席の料理よりは食べやすいでしょう」

 それはうれしい、とオースティンは答えた。

 鍋から、肉と野菜の煮えた匂いが漂ってくる。その匂いに、オースティンは安堵した。まずい食べ物を口にしないですむようだ、という期待もあるが、マーリのつくる鹿鍋はどこか懐かしい。トゥルカーナにも、こうやってだし汁に具を入れただけの単純な料理があった。いくら単純とはいっても、どうしても地域ごとに味つけが変わってくるものだが、これはトゥルカーナの鍋によく似ている。それこそ香辛料だろうか。

(調べたのか?)

 少年は肉の色が変わっていくのを見届けつつ、ひとりごちる。(……マーリが。調べさせたのだとしても、それでも)

「——どうぞ、オースティンさま」

 マーリは小皿に肉と野菜を盛りつけ、差しだした。「熱いですから、お気をつけて」

「ああ、ありがとう」

 オースティンが皿を受けとると、すぐにマーリは銀のフォークを手渡してきた。使い慣れた食事の道具である。箸もさんざん訓練させられてきたので、使えないわけではないのだが、やはりあれは訓練させられている気分であって、楽しく食事している気分ではない。

「おいしいです」

 ひと口食べて、少年はそう言った。

「つくった甲斐がありますわ」

 少女の表情がやわらいだ。

「マーリ、あなたもご一緒に。つくるだけではつまらないでしょう」

 ではお言葉に甘えて、と返して、彼女は自分のぶんを皿についだ。ひとくち食べて、

「うまくできたようです」

「そうですよ!」

 オースティンは柄にもなく、力いっぱい言った。「懐かしい味がします。トゥルカーナでも、よくこういう鍋を食べました」

「そうですか」

 彼女の頬が心なしか紅潮して、眼がわずかに潤む。オースティンは驚いて、反射的に目を逸らし、それからまた彼女を見た。

「……お腹いっぱい食べましょう? オースティンさま」

 マーリはゆるやかに口角をあげる。「わたくしたちが食べきるしかないんですもの」

 もう、その瞳は濡れていなかった。オースティンはうなずいてから、年齢相応の勢いのよさで鍋の具をかきこみはじめる。まともな食べ物にありつけたのは久しぶりで、普段はそれほど食欲旺盛ではないオースティンでも、止めることができなかった。

 二人とも黙って食べた。オースティンはまるきり作法を放棄して、マーリはごく静かに、口を動かしていた。

 あらかた片づけたあとで、人心地ついた少年が彼女をちらと見た。

 マーリはオースティンの視線に気づき、音をたてずに小皿をおく。オースティンは内心感心していたが、努めて冷ややかなまなざしを向けた。

「……マーリ、さっきはなぜ僕を助けたのですか」

 声も可能な限り低くする。「僕がムルーワに負けないことぐらい、あなたにはわかるはずです」

 マーリはオースティンの意図を知ってか知らずか、

「ええ、そうですわね」

 目を伏せ、同意した。

 トゥルカーナと大公一族は、列国に手厚く守護されたあげく身動きもとれないほど肥え太った愚鈍な豚だが、オースティン自身は少なくとも肥えているつもりはない。オースティンは昔から、異国においてある程度の自由を勝ちとるため、一部の鍛錬には熱心だった。従兄のアウラールとは同じ目的のもとに幾度となく剣を交えたし、アレンも毎日のように相手をしてくれる。剣も書物も、オースティンには古い友人同然だ。書物より剣のほうが、はるかに性に合っているけれど。

 かたやムルーワは、おそらくプリエスカとの休戦協定以降、武器を手にしていないのだろう。飾り刀を握る指はためらいがちで、しかもああいう事態に際して腰が引けていたし、自分を狙う弓の存在など思いも寄らなかったようだ。本来の軍人たる貴族ならば、あそこで転ぶことはあるまいに。ラージャスタンも、皇帝権を強化するために国内で豚を養うのはけっこうなことだが、戦が勃発した場合に兵が豚では頼りなかろう。貴族の他に、優秀な兵士が必要だ。

「あなたさまの腕ならば、武器が使い慣れないものであっても、伯爵など相手ではありません」

 マーリは淡々と述べた。「オースティンさまにとって、伯爵など相手にする価値がないのです。つまらない血でもって、名誉を守るための刀を汚す意味がありましょうか」

 あれでよかったのです、と彼女は答えた。

 しかし、

「女性は夫の下僕だと、おっしゃったのはあなたですよ、マーリ」

 オースティンは切り返す。「下僕の力を借りなくては『つまらない』男にも勝てないような夫が、女性を従えていいものか。……あの場にいた者はみな笑うことでしょう、ムストフ・ビラーディ(婿殿)の軟弱ぶりをね」

 少年は意地悪く口の端をあげ、まっすぐに見返してくるマーリをみつめた。

 彼女の瞳は揺らがない。

 その瞳のまま、少女は椅子を下り、床にひざまずいた。オースティンも立ちあがり、長い髪や着物が汚れるのも厭わずに首を垂れる未来の妻——マーリを見下ろす。彼女はいっそう深く頭を下げ、ついには地面に額づいた。

「——お許しを。オースティンさま」

 彼女ははっきりと言った。「考えおよばず、愚かな真似をいたしました。お望みならば、いかなる罰も頂戴いたします」

「……マーリ」

 少女は動かなかった。オースティンは息を呑む。

 一国の皇女が、そうするに値しないと判断すれば決して頭を下げず、謝罪もしない気高い娘が、あろうことか地面に額をこすりつけて、二週間後の夫に裁きを委ねている。昼間、鹿を取り逃がし、トゥルカーナ公子一行の馬車を故障させておきながら許しを乞わなかった少女、ムルーワの裾を正確に射て決闘を中断させた少女、夫となる男から責められるままに額づいている少女は、真実、同じ少女なのだろうか。

 誇り高いけれど、従順。一見相反する性質は、確かに一本の筋として少女の内側に通っており、その従順さは何よりも夫および夫の身に対するものである。状況を冷静に展望し、自分が理不尽にも夫に許しを乞わなければならない屈辱より、夫の身のほうを優先して、彼女は迷わず首を垂れた。

 ——なぜ、こんなにも。

 オースティンは歯がゆさを感じ、自分の口を手で塞ぐ。ともすると彼女に問いかけたくなる、不注意で正直な口を。

(なぜこんなにも、隙がないんだ)

 疑惑だらけの結婚なのに、マーリ自身には隙がない。(本当に信じてしまうじゃないか。マーリの……愛情とやらを)

 マーリは、オースティンの面子を傷つけることを重々承知で、あの矢を放ち決闘を止めたのだ。少年はその事実を痛感し、また自分のなかで起こりつつある変化にも気づいていた。

 オースティンは男であり、剣をもって戦う階級の頂点に立つ公子である——たとえ、トゥルカーナが現実には腐敗しきっていたとしても。よって、ひとたび誰かに戦いを挑み、剣を抜き放ったならば、何らかの決着をつけなくては収まらないし、先ほどのように、味方といえる人間によって相手側を妨害された場合、むしろ不名誉の上塗りである。通常の夫が、妻によってそうされたならば、その怒りは並々ではないだろう。

 少女は、未来の夫たる少年の追及を承知で、決闘に横槍を入れたにちがいなかった。その狙いは、先刻の彼女の言葉に潜んでいる。ムルーワ伯爵がああなった以上、あなたさまも何もないではすまないでしょう——彼女はそう言ったのだ。ということは、先に鞘を払ったオースティンに、皇帝から何らかの咎めがあると考えられる。

 マーリは矢を放って決闘に介入し、特に相手方の行動を阻むことによって、相手方の相手方、すなわち他でもない夫と同じ罪をかぶり、夫と罪を分かちあおうとしたのだ。しかも、犠牲行為を当人には悟らせず、あえて夫に許しを乞う屈辱に甘んじる。

(正気の沙汰じゃない)

 オースティンは嘆息した。(そもそも、政略結婚だろう? それに『《英雄の現身》見たさ』だろう?)

 しかし、彼女はそんなに軽薄ではなく、また政略結婚ほどに冷ややかでもない。ましてや、「《英雄の現身》見たさにわがままを言って婚礼を早めた」という話は、じっさい彼女を前にして、うさん臭いこと限りない。

 陰謀は必ずある。信じられるものは少ない。けれど、もしかしたら、という希望が、胸の奥底からわきあがってくる。

 ——オースティンさまの心がそう命じる人のみ、信じてください。でも、そう簡単に心を動かされてはいけません。常に冷静に冷淡に、けれど決して己を偽りなさいますな。……

(むずかしいじゃないか。アレンめ、簡単に言いやがって)

「こちらこそ、許してほしい」

 オースティンはマーリに頭を下げた。「僕はあなたを試みた。どうか、顔をあげてください」

「オースティンさま。頭を下げてはなりません」

 彼女はまだうつむいている。「罪はわたくしにあります」

「えーと……」

 オースティンは頭を抱えた。高潔さはわかった、だからとにかく融通をきかせてほしい。「あのですね、そもそも罪などありはしません。僕は、別に怒ってなどいないんです。許すも許さないもないんです。おわかりでしょうが」

 少年はマーリに手を貸そうとした。彼女が依然として躊躇したので、ならば許すということにしておきますよ、とため息がちにつぶやく。そう彼が宣言して初めて、マーリは顔をあげた。

「これは茶番です。僕はあなたの狙いを知っていながら、怒ってみせた。繰り返しますが、あなたを試したのです」

 彼は必死に説明する。「僕はあなたが知りたかった。あなたが何を考えているのか、知りたかった。僕は確かに《血》しか売りのない一族の人間ですが、それでも心安く一生を送りたいんです。そのためには、あなたを信じることができるかどうか、てっとり早く知りたいと思うのは当たり前でしょう?」

「それで?」

 マーリはすでに緊張を解いていた。驚異的な頑固さかと思いきや、予想外の切り替えの早さ。オースティンはこの少女の、多面性といってもいい表情の数々に、目が回ってきた。高潔さも誇り高さも、自由も恭順も、少女らしい無邪気さも、全部マーリのものなのだ。彼女に感じた美しさ、それは昏い混沌を礎にしている。

「それで、とは?」

 オースティンは聞き返す。マーリは花開くような笑みで、

「わたくしは、信じるに値する人間でしょうか?」

 と、問う。

(何を考えて生きてるんだか、この人は……)

 オースティンには、マーリが読めない。マーリがどういった類いの人間なのか、少年には判断できない。こんなことは、いまだかつてなかった。あらかたの人間は、何らかの型にはめて解釈すればある程度は筋が通る。けれど、マーリに関しては、人格の類型を探す行為からして無意味だ。彼女はあらゆる型を通り抜けて、ただマーリという名の複雑怪奇な少女である。

(アレン、僕もおまえも、まちがっていたんだ)

 少年は遠く故郷にいる乳兄弟に語りかける。(信じるとか信じないとか、そういうのは、この人の前でいっても仕方がない)

「オースティンさま? 答えられませんの?」

 マーリがおかしげな顔でみつめてくる。少年は困ったように四阿の外を見て、それから告げた。

「——信じたい、です」

「あら!」

 少女は大げさに驚いてみせる。「こういうときは、嘘でもうなずいておくものではありませんこと?」

「しかし、マーリ」

 オースティンは弁解した。「あなたは子供であり大人、従順に見せかけて頑固、皇女たる品格を備えていながら破天荒でもあり、複雑です。初対面でどう判断しろというんです。まちがえた判断を下すくらいなら、答えを出さないほうがましではないですか」

「ずいぶんはっきりおっしゃいますわね」

 彼女は身を翻し、四阿を出た。彼女がそこで待っていてくれたので、オースティンは労せずしてその隣を獲得する。彼女はオースティンに体重の一部を預けると、軽やかな足どりで宮殿の方角へと戻りはじめた。

「よろしいでしょう」

 と、マーリは言った。「時間はうんざりするほどあります」

 オースティンは微笑を返した。そう、これから彼女と送る日々は嫌気がさすほど長い。

 けれど、少なくとも退屈はしないだろう。少年は、それだけは確信していた。それだけで充分だった。

 

To be continued.

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