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​精 霊

第二部 ラージャスタン・アグラ宮殿編

第2話「炎抱く姫」(4)

 翌日、朝早く客室を訪れたファンルー・イーリは、オースティンに謹慎処分を言い渡した。

 婚礼の執り行われる約二週間後まで、客室を出てはならないという。発端に相手の侮辱があったにせよ、決闘騒ぎの責任追及は避けられないと覚悟していたが、この寛大な措置には弱った。何しろこの客室には、窓の外を眺める他に何もすることがないのである。だからこそ謹慎なのかもしれないものの、少年はむしろ鞭打ち百回に変更してもらいたかった。

「皇女殿下も、公子殿下とご一緒に謹慎なさいます」

 と、女官は述べる。「結果的に騒動がおさまったとはいえ、夜間の庭園で、しかも貴族のかたがたの集まる場所で矢を放つとは……」

 こめかみを押さえるファンルーに、オースティンは反論した。

「皇女は、熊すらも射殺す腕前と聞くが?」

「詩は誇張、民の評判も誇張です、オースティン公子殿下」

 魅力的な泣きぼくろが、今のオースティンには腹立たしい。「それに、この場合、結果は考慮されません。貴族のかたがたは、我らが皇家にとって大切な臣ですから」

「わかった」

 オースティンは降参した。「姫も僕も、大人しくしていればいいわけだ」

「反省も大いになされば、なおよろしいかと存じます。ただし」

 女官は最後に付け加えた。「皇帝陛下ご自身は、あなたさまが皇女殿下と陛下とご自分の名誉のために抜刀されたこと、とてもお喜びですわ」

 そうして、ファンルー・イーリは部屋をあとにする。オースティンは見送りついでに、廊下を確認した。やはり見張りらしき女官が立っている。ファンルーと同じ紫の袴の、オースティンやマーリに小言もいえる階級の女官だった。

 目が合うと、彼女はにっこりと笑ってみせた。ファンルーはだいぶ歳を食っているが、彼女はマーリやオースティンと同世代の少女である。なんとなく見覚えがあるので、おそらく宴の席にもいたのだろう。昨日、紫の袴を着た女官はファンルー以外にもいた。

「おはようございます、オースティンさま。メアニー・イーリと申します。皇女付の女官です」

 女官は、頼んでもいないのに自己紹介を始める。「婚礼の日まで殿下を見張りますから。逃げようだなんて思わないでくださいねっ」

 妙に馴れ馴れしい。ファンルーやもの言わぬ下級女官を見ている限り、宮殿の女官教育は徹底されているのかと思ったが、そうでもないらしい。

「ファンルー・イーリの妹か?」

「いいえ? なぜです?」

 女官はきょとんとする。これも、才色兼備、文武両道で、おまけに優秀な精霊使いだというアグラ宮殿付女官の一員か。本当に、一面だけでは読みとれない国だ。オースティンは呆れるよりも感心した。

「イーリは名字だろう」

「いいえ? あー、そうですねえ、ラージャスタン人でなければ普通は知らないかも」

 メアニー・イーリは敬語を無視して話す。オースティンも、別に敬ってほしいわけではないので放っておいた。「イーリはですね、皇帝陛下の運営する学校です。はっきりいうと孤児院ですね、慈善園と呼ばれています。イーリというのは陛下に代わり園長の任に就いている家で、慈善園の卒業生にはイーリの名が与えられます。ですから、ファンルーさまとわたしは赤の他人です」

 散漫な話しぶりだ。「精鋭揃い」のアグラ宮殿に来て、こんな口上を聞けるとは思わなかった。オースティンは頭の中でメアニーの話を整理する。

「つまり、君たちは二人とも孤児院出身?」

「はい。というより、慈善園を卒業した子供は、みんな皇帝陛下に奉仕するんです。この宮殿でお勤めしている女官や下働きは、みんな慈善園の卒業生です」

「なるほど」

 要は慈善園というのは、孤児を集めて皇帝の忠実な下僕を養成する機関らしい。メアニーの説明によれば、そこを卒業すると、アグラ宮殿での働き口にありつくと同時に、《イーリ》を名のることができるようになる。よって、貴族階級に属する家臣などを除き、宮殿で働く者の多くがイーリの名前を持っている。

 ということは、アグラ宮殿は皇帝の純粋なる信奉者たちの穴蔵、オースティンにとっては敵だらけ。へたを打てば、あっというまに針のむしろに立たされるはめになる。ラージャスタンの流儀に抗うなら、よほど巧妙にしなければならない。一見した限りでは悟られないように。

 少年は思案した。が、やがて考えるのをやめた。婚礼のおりには、オースティンはマーリの起居する後宮に移される。そこでの環境や、皇女婿としての公務がいかなるものなのかを知らなければ、いくら策を練ってもむだだろう。それに、まだまだ判断のつかないことがたくさんあるのだ、今から考えても仕方がない。

 オースティンは暇潰しに、監視役のメアニー・イーリに話しかけることにした。少年は社交用の笑みを浮かべると、愛想よくメアニーに話を振る。歳若い女官は謹慎中の皇女婿を見張るという役目をあまり理解していないらしく、にこやかに声をかけられると、にこやかに返した。

「女官は袴の色がちがうんだな。見たところ、紫が最高位みたいだが」

「はいっ、そうなんです。自分でいうのも変なんですけど」

 少女は得意げに胸を張る。「紫の袴は、イーリの女の子にとって最高の栄誉なんです。紫の袴の女官はアグラ宮殿で五人しかいません、《五星》といわれる女官の頂点です。わたしは五人中下から二番めですけど、この歳で抜擢されるなんてそうないんです。やっぱり、若くてもツォエルさまぐらいの歳じゃないと。あ、ツォエルさまは《五星》筆頭の人なんですけど」

 メアニーは《五星》入りを誇りにしているらしく、実に滑らかにしゃべった。宮殿の全女官を統べるという《五星》の一員でありながらこの口の軽さ、オースティンには好都合ではあったが、ますますラージャスタンという国がわからなくなった。独特の体制が首尾一貫しており、どこまでも徹底しているかにみえて、思わぬところで詰めの甘さが露見する。厳格なのかいいかげんなのか、はっきりしてほしい。

「ファンルーは何番めなんだ?」

 と、少年は訊く。

「ファンルーさまは二番めです。歳は確か、ツォエルさまよりいくつか上でしたけど。三番めがシーリエさま、四番めがわたし、五番めがライラ」

「ライラだけ呼び捨て?」

「ライラだけ後輩なんです。歳もふたつ下だし。あの抜擢には、わたしもみんなも驚きました。何しろ、卒業してすぐの《五星》入りでしたからね。いうなれば、特例で——」

「特例」という単語を口にしたとたんに、メアニーの表情が、しまった、というふうにひきつった。オースティンはそれを見て、そ知らぬ顔で先を促す。おそらくは、これこそがオースティンの知りたい情報なのだ。女官の抜擢がマキナ皇家の企みにどう関係してくるのかは読めないものの、意図的に秘められているとすれば、あながち無関係でもないだろう。

「どうしてライラは抜擢された? 何か理由があるんだろう」

「え、えーっと……」

「関心が尽きないよ。お願いだ、メアニー」

 そこで、《英雄の現身》とうたわれる容貌をもって少女に迫ってみる。若い女官は赤面して、どぎまぎと目を逸らした。期待どおりの反応に、オースティンは内心ほくそ笑み、だが決して面に出すことはない。あくまでも好青年風のさわやかな笑顔で、ああ、言えないことなら仕方ない、困らせてすまなかった、と、さも申しわけなさそうに謝る。

「いっいえ……! でも」

 もう少しだ。あとひと押しで、メアニーは口を滑らせる。

 しかし、

「——メアニー!」

 そのとき、廊下の果てで別の女官がいらだたしげに叫んだ。「オースティンさまは謹慎なさる、といったでしょう! それを、見張りのあなたが一緒になっておしゃべりしてどうするの!」

 この役立たず、と吐き捨てたのは、ファンルー・イーリである。オースティンは舌うちした。

「だって、ファンルーさま……」

「これだから、おまえに見張らせるのはいやだったのよ。それなのに、ツォエルさまもシーリエも別件で出ているし、ライラも使えない! まったく……」

 女官は長い息を吐き、気を鎮めた。それからオースティンのほうに振り向いて、むりに微笑む。

「そういうわけですわ、オースティン公子殿下」

 迫力の泣きぼくろで、彼女は有無をいわせない。「おひとりで静かに深く反省なさること、それが謹慎です。よろしいですね?」

 知ってるよ、と密かに毒づきつつ、オースティンは首を縦に振った。ファンルーは再びメアニーを叱りつけると、怒り心頭しながらも静かに廊下を立ち去った。オースティンはしぶしぶ寝台に腰を下ろした。

 その後、ファンルーの目を盗んで何度かメアニーに声をかけたが、さすがに応じてくれなかった。結局、退屈なときをひとり大人しく過ごす、謹慎らしい謹慎をしなければならなくなった。宴の空気を壊したことは悪かったが、何しろ相手の発言が問題だったのである。少年としては、不条理を感じずにはいられない。

 昨日の今日だ。いまだに思いだすと、腹の底から憤りがわいてきて、また刀をとりたくなる。

 ——聞いているのか、血統が売りの愛玩犬め。

 そう、あの言葉が発せられた瞬間だ。それまでは冷静な態度でいられたのに、あの瞬間、嵐が自分を襲った。姉に教わった憎しみが、とうに放棄したはずの憎しみが、否応なしに蘇り、制御できなくなった。

(憎い)

 ムルーワが憎い。

 そう罵倒されずにはおかない歴史をもつ、トゥルカーナが憎い。トゥルカーナ史の始点にいる英雄が憎い。全部、殺したい。……

 どうして、自分が築いたわけでもない歴史を、自分が負わねばならない。この容姿を指して人々は《英雄の現身》と呼び、自分を英雄の再臨のようにいうけれど、もしも自分がクレイガーン自身だったならば、絶対にトゥルカーナなど建国しなかった。なにせクレイガーンにとっては、即位を前にして逃げだすほど、気の進まない建国だったのだから。

 スーサからの独立を、気のりしないにもかかわらず、民や周囲にのせられて実現した英雄クレイガーン。確かに先祖は、民思いという点では褒め讃えられるべきかもしれない。でも、それ以上に無責任だ。なぜ、逃げた。達成を前にして、姿を消した。英雄のみを頼りにしてきた、情けない信奉者たちを残して、なぜ。

 だから、トゥルカーナをこんなにも腑甲斐ない国にしたのは、他でもない英雄である。その腑甲斐ない国の存亡が、今やオースティンたちの血にかかっているのは、償いである。父祖の責任を子孫が背負い、犠牲を払いつづけているのだ。オースティンも姉も従妹も、みな犠牲に供されたのだ。犠牲となることが運命づけられている者は、ただ密かに呪い、涙を飲むしか道がない。あるいは、道を絶つか。

 後者の選択は、オースティンには負け犬の選択だった。多くの英雄の子供にとっても同じだったろう。姉のヴァランセアが結婚前にオースティンの部屋を訪れたのも、従兄のアウラールがニネヴェに発ったのも、前者を選んだからだ。オースティンの世代では、従妹のアンジューただ一人が後者を選んだ。彼女は遺書をしたためたうえで胸を突いた。けれど、からくも一命をとりとめると、アンジューは予定どおりラージャスタンに送りだされた。オースティンはあとでそれを耳にして、彼女を負け犬だと思ったものだ。

 それとは別に問題になったのが、用をなさなくなった遺書である。ある日、その遺書にオースティンに関する記述があったと告げられて、少年は目を剥いた。

〈オースティン公子殿下をお慕いする心のみを供に、私は肉体を棄て、精霊界へ旅立ちます〉

 当然、オースティンは父や叔父の追及を受けた。が、彼にとってアンジューはアウラールの妹以外の何ものでもなかったし、ニネヴェにいるアウラールも証言を惜しまなかったので、ことなきを得たのだった。

 しかし、ムルーワ伯爵はそのあたりの事情を把握していたようである。オースティンの暗黙の脅迫に平常心を失った伯爵は、妻への虐待の事実とともにそれも暴露し、さらにはトゥルカーナをも辱めた。辱められるに値する国だということは、重々承知だ。が、だからといって、侮辱されるがままにいわせておくことはできない。

 憎くても、情けなくても、腑甲斐なくても、トゥルカーナは少年の故郷だった。いっそロータシアのように滅びてしまえばいいとは、思えなかった。

(くそ……っ)

 オースティンは壁に拳を叩きつけた。無力なのも、情けないのも、国の問題であるとともに自分自身の問題でもある。仮にムルーワと決着をつけたとしても、解決するはずがない。

 少年の拳は痛みに痺れた。いまいましい感覚だった。払拭するべく、もういちど壁を打った。

「オースティンさまッ?」

 部屋をのぞいたメアニーが、悲鳴をあげる。「やめてください、オースティンさま!」

「放っとけ、メアニー・イーリ!」

 オースティンは言い放つ。「僕の力で砂岩に穴が空くか。お望みどおり、反省してるんだ」

「だめです、そんな……痛いじゃないですか! マーリさまも悲しみます!」

 女官は懇願したが、オースティンは聞き入れなかった。マーリならば、きっと共感してくれることだろう。普段は決して他人に頭を下げないのに、ひとたび自分の非を認めると、ためらいなく命を捧げる彼女ならば。

 メアニーはあわてふためいて客室から逃げ去った。オースティンはさらに腕を振りあげて、何度も壁を殴った。無我夢中で打つうちに、いつしか壁に赤いしみが付着していた。

(……くそったれ!)

 アレンがこの場にいたら、まちがいなく注意されるだろう下品な言葉遣いで、オースティンは心中ぼやく。(あきらめても、あきらめても、あきらめたつもりだけじゃ、ぜんぜん楽にならない)

 オースティンはトゥルカーナ公子にして《英雄の現身》。血統を売り物にする一族の末子。そんな運命を、さんざん呪ってあきらめて、もう飽きたのに、それでもまだ呪いたい。本当は呪いたくなどないのに、この国の呪わしさは変わらない。ムルーワの暴言は、オースティンの真情の吐露に等しい。けれど、暴言を吐く第三者もまた、オースティンには呪わしい。

 根本から変えるしかない。でも、どうすれば? どうやったらトゥルカーナの体質が、大陸中の国家の体質が変わるのか。

「——誰がわかるか、そんなこと!」

 オースティンは声に出してどなった。そして、勢いよく振りかぶる。

 手が壊れても、かまいやしなかった。

 ——僕は天才じゃない、まして英雄なんかじゃない、

(単なる愛玩犬なんだよ)

 

 

 自らもたらしたはずの痛みは、なかった。

 ふと気づけば、振りかざした拳に添えられた、やわらかな手がある。オースティンは振り返り、その手の持ち主を見た。

「マーリ? 謹慎は……」

 敬語も忘れて、問いかける。

「——メアニーは甘いのです」

 皇女は静かに答えた。見れば、彼女は女官の頂点たる《五星》の紫の袴を着ている。皇女が謹慎中に自室を抜けだしたとあっては問題になるので、隠れ蓑なのだろう。彼女のすみれ色の瞳が《五星》の袴の色に近いことと、女官服の装飾の質素さとで、マーリには皇女姿よりもむしろよく似合っていた。

「反省とは、御身を傷つけることなのでしょうか、オースティンさま」

 今度はマーリのほうが尋ねた。「そのおつもりなら、皇帝陛下は死をお許しになります。謹慎とは、そうではないというご意思のあらわれです」

「そう……ですね」

 オースティンは言葉を濁す。自分でも知っている、これは反省ではない——持て余した、やり場のない力である。何かを変えるには性急すぎ、内側にとどめておくには激しすぎる。

「オースティンさま」

「ああ、すまない、マーリ。ご心配をおかけした」

 少年は笑ってごまかした。ラージャスタン人にはわからない。この大陸では、トゥルカーナ人だけが知りうる憤りだ。

「壁に当たるのはもうやめておきます」

 オースティンは、落ちつきを取り戻したふうで言う。「どうぞ部屋にお帰りください。メアニー、姫をお連れしろ」

「は、はい」

 皇女の背後で息を潜めていた歳若い女官が、参りましょう姫さま、と呼びかける。

 が、マーリは頭を振り、

「でかけます」

 と、告げた。

 メアニーの驚きをよそに、オースティンの手をとる。空いたほうの手で袴をたくしあげると、走りだした。監視役の女官は、わずかに甘さをみせたが最後、ファンルーにあれほど強くいわれた任務を、思いきり失敗するはめになったのだった。

 マーリはオースティンを連れて廊下に飛びだすと、少年の手を握りしめたまま、予告なしに庭へと飛び下りた。二階の高さとはいえ、うっかりすると大けがだ。油断している間に床がなくなっていたので、オースティンは大焦りで着地の体勢を整えた。なんとか間にあって地面に降りたつも、マーリは息つく暇を与えない。彼女は止まることなく走る。

「マーリ、何を——」

 少年はようやく訊いた。が、彼女は無視した。

 必死に追いつきながら、オースティンは顔をあげる。マーリの、まっすぐに伸びた背中。洗練された駆け足、風になびく亜麻色の髪。

 その頭上はるか高く、太陽があった。火(サライ)の元素精霊長が戯れに創造したとされるそれは、ラージャスタンの大地を惜しみなく照らしている。

 午前中の光は白く、

 ——まぶしい。

 と、少年は思った。

(明るい……)

 少女は水路の脇を、少年の手を引いて駆け抜けていく。彼女の《炎》の見守るなかで。

 彼女の足は迷わない。すぐに《赤の庭》は果てた。水路の延長線上の壁には窓のような穴がぽっかりと空いており、そのむこうに雄大なるジャムナ川の流れが横たわっている。

 少女は窓をくぐり、跳躍した。

 少年も、飛ばざるをえなかった。二人のからだが、宙に躍りでた。

 瞬間、何も見えなくなった。真っ白な光が、彼の視界を埋め尽くした。

(マーリ、君が、)

 

 

 ——君が連れていってくれる。明るいところへ——

 

 

「オースティンさま、マーリさま——!」

 大きな水音と、女官の叫び声。「誰か、誰か来てッ!」

 次に視界を埋めたのは、泥水である。ジャムナ川は、中に入ってみるといっそう濁っており、視界がきかない。しかも、着物が水を吸って重くなり、腕や足にまとわりついてくる。オースティンも、故郷ではサンヴァルゼ城にほど近い湖で水泳を楽しんだものだが、さすがに服を着て水に入った経験はない。

 とにかく水面にあがろうと、オースティンはもがいた。つないだ手の先にいる少女のことを思いだして、ますます手足をばたつかせる。しかし、思いどおりに動けない。ジャムナ川は予想以上に流れが速く、加えて深さもあった。

 オースティンは手探りで少女の身を引き寄せてから、上へ上へと行こうとした。けれど、蹴るべき川底もないようで、弾みがつかない。服の重みと、あわてているせいで、自然には浮いてくれない。だんだんと、空気も足りなくなってきた。残っていた空気は、気泡になって水面に昇っていく。

(やばい……か)

 ちらと考えたとき、マーリのほうでオースティンのからだを抱えてきた。彼女はうまく弾みをつけると、少年ごと浮上していき、流れに身をまかせた。わずかのあいだ川に流されてみると、いともたやすく足が水底の砂をかすめた。川原に着いたようだ。

 二人は同時に水から顔を出した。川原にあがり、砂の上を這って水辺を離れると、激しく咳きこんで水を吐きだす。ひとしきり水や塵を出したあとで、オースティンは苦笑気味に唇を歪め、隣の皇女を眺めやった。彼女は豊かな髪を絞っている。

 少年少女の視線が交差した。オースティンは息を整えながら、彼女を見る。マーリも彼を見返した。

「——目が、覚めたでしょう?」

 少女は、そう言ってのけた。

 オースティンはまだ息苦しく、けれどやおら噴きだした。

 しばらくは堪えるように口の中で笑っていたが、ついには大口を開けて哄笑した。泥水にまみれながらも、皇女たる柔和な笑みをたたえる少女を、自然に抱き寄せ、その細い肩の上でまた笑いつづけた。

 少女は他には何も言わずに微笑んで、救助がくるまでオースティンとともにいた。おのおの部屋に帰ったあと大目玉を食らうことになるが、少年には些細なことだった。

 

 

  *

 

 

 その夜は遠かった。

 オースティンもマーリも、ジャムナ川飛びこみの一件で監視を強化され、少年は婚礼の日まで彼女に会うことを許されなかった。が、べつだん許されぬ恋をしているわけではない。彼女とは、祝福されるべき許嫁同士なのである。少年は、メアニーとは比べようもなく厳格なファンルーに監視されて、ひとり客室で謹慎期間を暮らし、その夜を待った。

 二週間弱は、何もせずに過ごすには長かった。だから、いよいよその日がきて、朝早くから婚礼の支度が始まったとき、少年の胸はいつになく高鳴った。あの、美しく誇り高い、奔放で大胆な、従順に見えてそのじつ誰にも従わない、複雑な、しかし黙って少年の手を引いていく少女が、この夜をもってオースティンのものになる。それは、このうえなく甘美な感覚だった。

 ——アレン。

 婚礼の白い衣装に袖を通しながら、花婿は故郷の乳兄弟に思いを馳せる。

(予感が当たったな)

 ラージャスタン入りした日の、彼女の愛情を信じられるかもしれない、というアレンとオースティンの予感。

 あの人の性(さが)は、信じられるか信じられないかという次元では計れない。だが少年は、どうしようもなく彼女に惹かれる自分を、もはや疑念によって否定することはできなかった。《赤の庭》からジャムナ川に飛んだとき、彼は確かに望んだのだ。何はともあれ、彼女と生きてみたいと。彼女ならば、きっと見たことのない世界を見せてくれる。

 妻もしくは夫との出会いによって、ひろがる世界。それは、ひとつの理想像ではないだろうか。少なくとも彼は、そう信じた。

「オースティン・カッファ公子殿下」

 支度部屋に入ってきたメアニー・イーリは、ひざまずいて神妙に告げた。「お時間でございます」

 オースティンは先導するファンルー・イーリに続いて、暗い廊下を行く。

「……マーリは?」

 少年は尋ねた。女官は振り向き、笑みをもらして、

「もちろん、万事滞りはございません。オースティンさま」

 と、言う。オースティンは返答を聞いて、ばかげた質問をしたことに気づき、頬を赤らめた。

「皇女殿下は幸せなおかた」

 ファンルーは喜ばしげに口の端をあげる。「通常、国同士の結びつきにおいては、こうもお相手の思慕を勝ちとることはないでしょう」

 女官の軽口に、少年はますます恥ずかしくなり、以降はだんまりを決めこんだ。黙ってファンルーについていき、通された部屋に踏みこむ。

 婚礼の間は香が焚きしめられており、その強烈な匂いにオースティンは早くも頭がくらくらした。

 示された場所に座ると、そこはすでに寝台の上で、四方は御簾で囲まれていた。あたりを見回してみれば、隣には華奢な人影。隣といっても御簾越しではあるが、確かに少年のかたわらには待ち望んだ少女がおり、そのときを迎えようとしてもなお、背筋を伸ばして泰然としている。おそらく、これから何らかの儀式があったのちに、御簾が上がり、彼女と対面するのだろう。オースティンは落ちつかなかった。

 やがて、御簾の外で遠慮がちな足音が響き、老人の声が、

「我らは炎より生じ、炎のうちに滅さん」

 という例の決まり文句を唱えていたが、少年はうわの空だった。「——炎よ、今宵の婚礼を嘉(よみ)したまえ。マーリ皇女殿下と婿殿の生涯に、幸いをもたらしたまえ……」

 いつしか、物音の一切がなくなっていた。

 少年がふと我に返ると、するすると音をたてて、彼女との空間を隔てていた御簾が巻きあげられていく。

「マーリ?」

 待ちきれず、オースティンはその名を呼んだ。彼の一生で、もっとも愛おしい名前となるはずの、少女の名を。

「はい、旦那さま」

 闇のむこうの人影は、緊張に声をくぐもらせる。

「——」

 なぜなのかはわからない。

 しかし、声を聞いた刹那、少年は得体の知れない異和感に襲われた。

(なんだ……?)

 自分で自分の直感に混乱しながら、少年は少女の影に近づく。おそるおそる手をのばすと、正面に座っている少女は彼の手をとり、自らそのやわらかな頬に触れさせた。

 とたんに少年は、その手を振り払う。

「オースティンさま?」

 少女の不思議そうな声。確かにそれは、少女の声だ。

 けれど、

「——誰だ?」

 オースティンは怒りをにじませて問う。「君はいったい、誰だ?」

 それはマーリの声ではなかった。少なくとも、オースティンの知る彼女の声ではなかった。

 

To be continued.

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