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​精 霊

第二部 ラージャスタン・アグラ宮殿編

第3話「小さな反逆」(1)

「何をおっしゃっていますの? オースティンさま」

 少女の影は、愛らしく小首を傾げる。だがその仕種も、少年には策略の一端としか見えなかった。これまでも、女の媚びには幾度となく遭遇してきたけれど、たったいま眼前で無邪気ぶるものほど、彼の目にあざとく映るものはなかった。

「君はマーリじゃない」

 オースティンは単刀直入に断言した。

「どうして?」

 影は幼げな声音でとぼけてみせる。「わたくしは真実、マーリ・マキナ・ラージャスタンです」

「嘘をいうな。雰囲気がちがう」

「顔も見えていらっしゃらないのに、よくおわかりになりますこと」

 見知らぬ娘は、鈴を転がしたように笑う。

「ならば、見せてもらおう」

 オースティンは立ちあがった。御簾を払いのけて寝台を出ると、怒りまかせに歩いていき、天井に吊るされていたランプを降ろす。ファンルー・イーリの制止をすり抜け、寝台の中で掲げた。薄暗い御簾の内が、曖昧な光で満たされる。

 娘は悲鳴をあげて、袂で顔を隠した。オースティンは許さず、少女の手首をつかむ。

「乱暴はおやめください、ムストフ・ビラーディ(婿殿)!」

 ファンルーが叫ぶ。オースティンは耳を貸さない。少女の腕をどかせると、その容貌にランプを寄せる。果たして、娘の容貌が闇のなか浮かびあがり、少年の前であらわになった。それを見届けたファンルー・イーリはこめかみを押さえ、あきらめたように嘆息する。

 娘はマーリによく似ていた。彼女に比べるとひどく幼いし、大人しさがあるけれど、容姿のうえでは、体型といい雰囲気といい、注意していなければ見落とすくらいには似通っている。加えて、暗い場所で光を放つ明るい白い肌も、思うままに垂らされた豊かな亜麻色の髪も、彼女の特徴そのままだった。

 ただし、一見したところ同じもののようにみえるすみれ色の瞳が、娘の場合——夢みるようである。オースティンの知るマーリは、柔和でありながら凛としていて、人々の心にある幻想の類いとは縁がなかった。だからこそ彼女に惹かれたオースティンは、この少女の夢みがちなまなざしを前にして、不安を掻きたてられずにいられない。

(いや)

 オースティンは思考を中断した。(悪いほうに考えるのはやめるんだ)

 とにかく、娘は彼女とは別人なのだ。オースティンの直感は正確だった。婚礼に身代わりをたてるとき、いくつかの事情が考えられる。それでいいではないか。少年は慎重に深呼吸し、極力穏やかに尋ねた。

「皇女は体調を崩されたか」

「え?」

 娘は察しが悪い。ファンルーは何か言いたげだったが、オースティンは彼女に発言させなかった。

「だから、体調を崩されたので、代役を遣わしたのか、と訊いている。もしそうなら、僕は他でもないマーリと結婚するのだから、気を遣わずに婚礼を延期すればいい」

 幼げな少女は、マーリに似た紫の瞳を丸くする。オースティンは悪い予感に苛まれる一方で、それを必死に否定した。そして、いかなる理由をもって、こんな幼稚な娘がマーリの代わりを務められると考えたのか理解できない、どうせ代役ならばまごうことなき美女であるファンルーにやらせればいいのだ、そうしたらこちらも進んで相手になろう——と、くだらない思考で頭を埋めようとした。

 逃避だ。わかってはいるが、真実は知りたくない。ここは、眠るしかないだろう。そう決めたとたんに、全身を倦怠感が覆った。期待が大きければ大きいほど、裏切られた際の失望も大きい。

「僕は寝る。君も眠るといい」

 娘に声をかけて、オースティンは横になった。あわてたのは当の娘とファンルーで、少女はそっぽを向いて寝転がった少年の袖を引き、

「待って、オースティンさま、旦那さま」

 と、泣きそうな声で訴える。「どうして婚礼を果たしてくださらないの? 起きてくださいませ、オースティンさま」

「公子殿下、わたくしからもお願い申しあげます。何とぞ婿殿としての責務を——」

 ファンルーも少女の味方について、オースティンをしきりに促す。二人揃ってわめきたてるので、少年はいらだって、

「マーリの代わりは要らない、といっているんだ。君は仕事をまっとうできないかもしれないが、あきらめてくれ。ファンルーも、マーリが体調を崩したのなら、あなたの落ち度でもある。これからはせいぜい気をつけるんだな」

 君もこんな仕事で疲れたろう、寝なさい、と娘をねぎらって、かまわずまぶたを下ろした。

「——代わりではありません!」

 と、幼い少女は叫んだ。「わたくしが、わたくしがマーリです! ……ひどいわ、ライラ。オースティンさまは暗がりで見分けがつかないから、滞りなく婚礼は果たされるって言ったくせに! ——」

(ライラ)

 彼女の言葉に、オースティンは反応した。

 ——ライラだけ後輩なんです。歳もふたつ下だし。あの抜擢には、わたしもみんなも驚きました。何しろ、卒業してすぐの《五星》入りでしたからね。いうなれば、特例で——

(『特例』……)

 少年は目をみひらいて、それから伏せる。(……それか)

 すべてが、オースティンの中でひとつにつながった。彼はメアニー・イーリの口の軽さに感謝した。おかげで、大事なときにうろたえないですむ。

 少年はゆっくりと身を起こし、

「今、何と……」

 怪訝な面もちで、改めて見知らぬ少女をみつめる。すると、娘の紫の瞳はみるみる潤み、涙がこぼれ落ちた。オースティンはすかさず、頬につたう涙を指ですくいとる。できるだけやわらかい声で、どうされた、と尋ねるも、幼い少女の昂りはおさまらなかった。

 堪えきれず、娘は少年の腕の中に飛びこんだ。そこで彼女の興奮は頂点に達し、わっと声をあげて泣きだした。オースティンの胸に顔を埋め、少年の着物を湿らせる。オースティンはじっさい対処にも困りつつ、ぬかりなく当惑をあらわにする。娘とファンルーとを交互に見やり、いかに自分が状況に対して無理解かを示す。

「皇女殿下、公子殿下がお困りですよ。さあ、どうか泣くのはおやめくださいまし」

 ファンルーがやってきて、娘の背中を撫でさする。「ライラはのちほどわたくしが叱っておきますから……、今はお役目を」

「それはないだろう、ファンルー」

 オースティンは毅然と言う。「人と人との結びつきが、役目というだけでそう簡単にいくとでも? この人もかわいそうだし、僕も混乱でそれどころじゃない」

 少年は女官をにらみつけた。ファンルーはひるみ、ですが、と言いかける。しかし、オースティンは女官の反論を聞くことなく、皇女と呼ばれた娘のほうに向き直った。今は彼の腕の中で泣いている、哀れな小さい娘を。

 これがマーリなのだ。夢みる姫君、マーリ・マキナ・ラージャスタン。オースティンは彼女を包みこむ。

 娘が、濡れた眼で少年を見あげた。彼は《曇り空の瞳》とうたわれる双眸を、彼女のために細めてやり、

「あなたが何を悲しまれているのか、僕には計り知れませんが」

 と、ささやく。「僕がお慰めするべき人は、本当はあなたなんですね? それだけはわかりました」

「わたくしはッ……」

 急に優しくなった少年公子に、少女は安堵するよりも胸を突かれたらしく、その声は弁解めいて揺れた。「わたくしは、掟に従っただけなのです。オースティンさま、あなたを困らせたかったわけではありません……!」

「ええ、きっとそうなのでしょうね。あなたのような素直なかたが、僕をたばかるために女官にひと芝居うたせるとは思えませんから」

 オースティンは理解を示した。幼い皇女はほっと息をつくと、濡れていた目じりを袂で拭い、オースティンの胸にすがりつく。うれしい、オースティンさまは優しいおかた、とつぶやいて。

 少年は娘を抱く腕に力をこめ、それからファンルーに視線を投げた。

「説明してもらえるだろうな、ファンルー・イーリ。僕を惑わせ、この人を悲しませた、マキナ皇家の大切な掟とやらを」

「オースティンさま、それはお言葉が過ぎます。ですが、……ご説明いたしましょう」

 女官は少年の敵意をはねつけつつも、観念した。「いずれにせよ、明日にはすべてをお知らせする手はずになっておりました。少し早まっただけの話です。——メアニー!」

「はいっ」

 扉を開けて、歳若い女官が首を垂れた。

「ライラをお呼びなさい。影の件、ムストフ・ビラーディの知るところとなりました」

「は……、かしこまりました! あっ、あの、申しわけありません! わたしがっ」

「いいから。早く連れておいで」

 女官は心底疲れた様子でてのひらを振り、メアニーを追い払う。少女女官は婚礼の間を転がり出ると、精鋭中の精鋭たる《五星》の一員とは思えないあわただしさで、廊下を走っていった。それを見送り、ファンルーはまたしても深いため息を落とす。そこまで悩ましいなら、あんな小娘任命しなければいいのに、どうしてよりにもよってあれが《五星》に選ばれたのやら、オースティンには他人ごとながら不思議だった。

「『ライラ』を待つあいだに、話を聞いておこうか」

 と、少年は切りだす。「まず、この人が本物のマーリ皇女でまちがいないな?」

 おっしゃるとおりです、とファンルーは答えた。うなずいて、少年は続ける。

「『ライラ』は女官。あなたがた《五星》の末席で、慈善園卒業後すぐに抜擢された」

 オースティンは知らず知らずのうちに、皇女に触れている指先をその華奢な肩にくいこませた。痛いわ、オースティンさま、と少女が訴えて、少年は初めてひどく緊張している自分に気づく。

 こんなことは、大したことではない。自分は支配者一族の子供であり、こうした秘めごとのひとつやふたつ、日常茶飯事だ。それにもかかわらず、どうして腹の底で抑えきれない憤りが煮えたぎっているのか。

 けれど少年は、わざわざ自問せずともその理由を知っていた。真実、自分は怒っている。王族や貴族の世界では当たり前の日常茶飯事に、愚かにも怒りを覚えている——。

「……ライラは、皇女に似た容姿を買われた。それが『特例』」

「そうです」

 ファンルーはもはや開き直っていた。「ですが、これについて事前に説明を欠きましたこと、いいわけはいたしません。特例は、慣例でもあるのです。皇帝の御子がお生まれになれば、必ず影をおつけします。影姫は姫君ご本人に代わり『外』での公務をつとめ、姫君の危険をその身に引き受ける。姫君は一生涯、健やかに後宮でお過ごしになる」

《五星》次席ファンルー・イーリは、淡々と述べた。彼女いわく、ラージャスタンという国には敵が多い。同じ大陸で興りながらも独自の文化と位地を築きあげたラージャスタンは、ラシュトー諸国にとって羨望の的である。プリエスカが対立の根拠とする精霊の絶対数をはじめとして、広大な国土、強大な皇帝権、うしろぐらさのない清廉な歴史と、うらやまずにはいられない要素を数多く備えている。

 また、ラージャスタンでは伝説や伝統の類いが重視されており、それゆえに存在を認めることのできない国がいくつかある。彼らは己が醜き欲望によって国をうちたてた粗忽者、ラージャスタンはそんな彼らと関わりをもちたくないのだが、いち大国であるラージャスタンに、彼らのほうが噛みつかずにおかない。

 前者の理由からラージャスタンと対立するのが、カルムイキアとスーサ。後者の理由から対立するのが、プリエスカとサーキュラス。残る大陸の国家としてはトゥルカーナとニネヴェがあるものの、とにかく敵だらけといって差し支えない。前者については《英雄同盟》結成以降、表面上の対立はなくなったけれど、歴史的に同盟とは破棄されるものである。

「ラージャスタンの中枢は、他ならぬ尊きマキナ皇家です。いつの時代であれ、常に皇帝陛下が決裁を下し、危機を乗り越えてまいりました。皇家こそ、ラージャスタンの玉(ぎょく)」

 と、ファンルー・イーリは言う。「お命を狙われるのも、常に皇家のかたがたです。それでも、三百年ほど前までは、他国と護衛を信頼し、相互に訪問しあうこともございました。しかし、裏切られたのです」

 一連の事件については、史書にはっきりと記述が残されている。帝国暦八〇五年、皇太子ヒツタエン、ニネヴェ王都カールーナにて客死。続く二年で、ヒツタエンの幼い娘も毒を盛られて死に、ヒツタエンの兄もジャムナ川に沈んだ。いずれも犯人はみつからず、だが次の暗殺事件でついに捕まった。犯人はラージャスタンの貴族だった。しかも、背後にはスーサ皇室の影があった。

 しかしラージャスタンは、スーサに対し非難声明を突きつけることはしなかった。同盟国だったからである。が、それ以来、ラージャスタンは何もかもに疑惑の眼を向けて、内にこもるようになった。マキナ皇家の人々が、一生をアグラ宮殿内で起居するようになったのも、それからだ。影武者も、念には念を入れての防護策である。

「事情はわかった」

 オースティンは返す。「でもそれなら、最初から影だといえばいいだろう? なぜ、わざわざ混乱を招くような真似をする?」

「それは……」

 ファンルーは言いよどんだ。

「それは?」

「ですから、先ほどわたくしが申しあげました……。皇女殿下はお幸せなかた、通常、国同士の結びつきにおいては、こうもお相手の思慕を勝ちとることはない、と。暗闇の中で相手を見分けられる殿方は、そういらっしゃいません」

「ばかにしてくれたな」

 オースティンはせせら笑った。腕の中でマーリが震えだしたが、とりあえず放っておく。

「そうではなく、予定外だったということです。殿下が、姫とライラを判別なさったことが。誓って殿下を侮るようなことはなく、本当に、政略結婚の相手そのものに関心を抱くかたはめったにおられないものですから」

「ふん」

 少年は鼻を鳴らす。「それで、勘づかないままであれば、説明を省くのも手だと思ったわけか。ご丁寧に、口調まで変えさせたろう? 詰めは甘かったが。いったい、何を企んでいる——」

「——怒らないで!」

 マーリが泣きそうな声でいう。オースティンはそのひと声で、自分の声の険しさに気づき、ひやりとした。この少女の前で本心をさらけだしてしまっては、のちのち都合が悪くなる。

「怒らないで、怒らないでください、オースティンさま」

「怒ってなんかいませんよ、姫」

 少年はなんとか笑みを浮かべてみせる。「ただ、少し困惑しているんです。声を荒げて驚かせてしまい、申しわけありません」

「わたくしッ……、オースティンさまに好きになってもらいたかったの。そうしたら、父君陛下が、こうすればいいって教えてくださって……。だから、ライラに、わたくしと同じように話してって言ったの。それに、いくつか、頼んで……わたくしの言うとおりに行動させたの」

「——」

 少年は絶句した。

 それから、聞き返す。

「何を、させたのですか……」

「狩りに出るふりをして、オースティンさまのお姿を見にいかせて。ジャムナ川を泳がせて。オースティンさまが退屈しているだろうからお相手させて、それに鹿鍋も……。——オースティンさま?」

 オースティンはその刹那、確かに心のありかを見失った。

 生まれて初めて心惹かれた少女が皇女自身ではなく替え玉だったことも、言動の大半が命令によるものだったことも、少年には信じられなかった。前者については何とか受け入れたけれど、後者については心が拒絶する。

 この結婚は、そもそも不自然なところばかりだった。誰も彼も、もちろん自分も、この婚姻に関わったトゥルカーナ側の人間は、みなラージャスタン側の意図をはかろうとした。けれど自分は、疑いながらもあの少女に好意を抱き、あげくの果てに、半ば知りながらその偽りに心奪われたのだ。

 少女の欺瞞に確証をもった今なお、自分の滑稽ぶりを嘲笑うかのように脳裏を横切るのは、ただ彼女の挙止の鮮やかさと、矛盾——。

「オースティンさま……、許してください」

 再び、マーリは涙を浮かべて乞う。オースティンには、娘の無邪気さが理解できなかった。この子供ほんとうに、ちがう女を通して男が自分を愛すると思ったのだろうか?

 これが、宮殿内に閉じこもって生活していることの弊害なのか。世間知らずの支配する国ラージャスタンが、それでも大陸において強い発言力を有するのは、内にこもるがゆえに、外交上必須とされる謀りごとに長けているとでも? ——くだらない。すべてはお笑い種で、何ごとも真剣に対処する価値などない。

 全部、通り過ぎてしまえばいい。手段と経過を問わなければ、いくらでも楽に生きられるのだから。これまでできる限りそう努めてきたように、ここでもそうすればいい。

 おもむろに、少年は微笑んだ。

《黒曜の髪、大理石の肌、曇り空の瞳》と賞讃される容貌で、娘を魅了する。

「オースティンさま……?」

 マーリの頬はみるみる紅潮し、その瞳は少年に釘づけになった。あの少女と同じ、すみれ色の瞳。今にもこぼれそうな涙は、一挙に乾きとんだ。

「かわいい人だな、君は」

「……っ」

 娘は真っ赤になった。オースティンはそれを見て、くつくつと笑みをもらす。

「大切なのは、これから一生をともにする人を、愛しいと思えるかどうかですよ。そうでしょう? さっきまで皇女として目の前にいた者が誰かなんて、どうでもいいことです」

「でも」

 オースティンは皇女の額にくちづけを落とす。幼い少女は、そのうえ発言を続けることはできなかった。

「本当に……もういいんです」

 少年はマーリの髪に触れた。亜麻色の髪は、あの人と同じ髪。けれどこれは、単なるよく似た少女にすぎない。

 オースティンは目で、ファンルーに退出を促した。女官は突然の変化に、怪訝な色を隠さなかったが、改めて御簾を降ろし、婚礼の間をあとにした。扉は音もなく閉ざされ、女官の足音が遠ざかる。

 御簾のなかには、夫婦となる少年と少女、二人きり。

 

 

「ライラー!」

 誰かが名前を呼んでいる。

 彼女は立ち止まり、振り返る。長い廊下をはるかに見渡し、声の主を目で探した。

 アグラ宮殿、とりわけ皇家の構成員が住まうシターラ宮と、皇帝および皇女の住まう後宮ことムリーラン宮とは、住人の少なさにもかかわらず、とても広い。本来、姿も見えない位置から声を届かせるのは至難の技だったが、その呼び声ははっきりと聞こえる。ということはつまり、彼女よりふたつ年長の先輩女官、メアニー・イーリでまちがいなかった。メアニーは口から生まれた人で、大声を出すのが何よりも得意なのだ。

「ライラ! みつけたーっ」

 廊下の端で、メアニーが飛び跳ねた。ライラは彼女のほうへ向かう。走ってきたらしく、額に汗が浮かんでいた。いくら皇都ファテープルの気候が温暖で、メアニーが並以上にあわて者とはいえ、ライラはいぶかしむ。

「何ごとです? メアニーさま」

「オースティンさまがね、姫さまを見分けたのよ!」

 先輩女官は開口一番に言った。「ファンルーさまが、『影』のこと説明するから来いって」

「そうですか」

 ライラはあくまでも冷静に返す。皇女と自分は何といっても別人であり、血のつながりもなければ育ちもちがう。丹精こめて育てあげた姫君の代わりを、自分のような孤児院あがりの人間にやらせておいて、今まで誰も疑わなかったのがむしろおかしい。もっとも、皇女はこれまで一歩たりとも後宮の外に出ておらず、その姿を知る者はないのだけれど。

 ライラは先を行くメアニーのあとに続いた。

 すると突然、先輩女官が申しわけなさそうに頭を下げる。

「ごめんね、ライラ」

 ライラは無表情に彼女を見やる。「わたしが慈善園や《五星》やライラのこと、オースティンさまにしゃべっちゃったの。そのまんま言ったわけじゃないけど、それが殿下には鍵になったんだと思う」

「聞いています。でも」

 少女は紫の瞳を伏せた。「私の詰めも、甘かったのです」

 女官二人は廊下を足早に進んでいく。

 確固たる足どりは、広大な宮殿内でも迷うことがない。娘たちの踏みしめてきた道には、脱落していった大勢の孤児が倒れている。女官の頂点たる《五星》の一員として、娘たちにはまっすぐ歩む義務がある。

 廊下のむこうに、ファンルー・イーリの姿が見えた。

「もうよろしい」

 と、《五星》次席は告げた。「説明は明日にしましょう。予定どおりよ」

「ええっ、せっかくライラを連れてきたのに?」

 メアニーは文句をいう。

「オースティンさまが、お役目に着手されました」

 ファンルーがそう教えると、メアニーは眼をみひらいた。赤い火(サライ)の瞳が、好奇心にきらめいている。

「うわあ、さっきあんなにご立腹だったのに、やることはお早いんですね!」

「……ムルーワ伯爵と一緒の牢に入りたいの? メアニー」

 下世話な話題に意気揚々と飛びつく後輩に、ファンルーは冷ややかに言い放った。メアニーは大焦りで自分の口を塞ぐ。ファンルーは飽き飽きした様子でため息をつくと、おまえの失点がおまえを使う利点を超えたときは、わたくしが陛下に降格を願い出るからね、とおなじみの脅しで釘を刺した。

「それとライラ、おまえもよ」

 次にファンルーは彼女に振った。ライラは、はい、と小さく返事する。

「やりすぎたわね。おそらくオースティンさまは、おまえに執着している」

「お言葉ですが、ファンルーさま」

 ライラは抑揚のない口調でいう。「私はマーリ皇女殿下の言いつけどおりに」

「姫君はいまだ幼くていらっしゃる、が、いかなる命令も絶対。……ライラ、わたくしは、その点を責めているのではないわ」

 と、ファンルー・イーリは述べた。「命令から逸脱した部分のことよ」

「あれは、自然の流れとして必要でした」

 ライラはさらに反論する。ムルーワ伯爵との決闘に水を差したことも、自暴自棄になった公子を止めるためジャムナ川に身を投げたことも、それまでの《皇女マーリ》の挙止からしてごく自然な反応といえた。少なくとも、ライラはそう判断したのだ。そこは詰めの甘さではない。

「ファンルーさまは、放っておいたほうがよかったとおっしゃるのですか?」

「——ライラ」

《五星》次席の黒い眼が、底冷えする光を放った。ライラは、この恐れるもののない目つきをよく知っている。これは、狂信者の眼だ。彼女は慈善園に来て以来、この眼をもつ人間とともに生活してきた。

「わたくしたちは、皇帝陛下——創り主たる炎よ、かのおかたを嘉(よみ)したまえ——に生かされているのよ。陛下の代理人によって見いだされなければ、今ごろのたれ死んでいた。ちがう?」

 いいえ、そのとおりです、とライラは言った。「そう、だからわたくしたちは、すべてを陛下と皇家の御ために捧げなければならない。すべては、わたくしたちの皇家にとって、よきように!」

 ファンルーはそう熱っぽく語ってから、

「いいこと、ライラ」

 一転して声を低くし、言う。「用心なさい。おまえが皇家を脅かすならば、わたくしがおまえを許しませんよ」

「承知しております」

 ライラは従順だった。《五星》次席は末席たる娘の分別ある態度に満足したようで、聞き分けがよくて大変けっこう、と赤い唇の端をあげる。ファンルーの優美な笑みは、ラージャスタン・マキナ皇家への尋常ならざる忠誠心をもって浮かべられており、それは彼女というより皇家そのものがほくそ笑む姿なのだと、ライラは思った。

 ファンルー・イーリは今夜、婚礼の間の隣室に控えての不寝番である。ライラとメアニーは先輩女官と別れると、各々の部屋に帰っていった。アグラ宮殿に奉仕する慈善園出身者のうち、女官の頂点に立つ《五星》と皇帝付小姓のみが個室を与えられている。ライラは静寂を愛し、《五星》に与えられる破格の待遇の中でも、特にそれを喜んだ。

 ライラが自室に戻ると、室内は薄明かりに照らされていた。決闘の件で科せられた謹慎処分が、ジャムナ川の件で日数を増やされることになり、この二週間はほとんどここで待機していたのだ。呼びだしてランプ内部に棲まわせた火(サライ)の眷属は、すっかりそこに巣食うことに慣れ、灯りは終始ともったままだった。

 謹慎はまだ明けていない。ライラは今後も一週間ほど、影姫として公子に応対する機会を除き、自室で静かにしていなければならなかった。呼びにきたのがメアニーだったことは、幸いというほかない。筆頭のツォエルや次席のファンルーであれば、あれしきの脅しではすまなかっただろう。

 影姫としての致命的な失言に、ライラは気づいている。だからかもしれない、婚礼の時間になって、部屋を抜けださずにいられなかったのは。公子との会話のさなかで皇帝を呼ぶとき、皇女の呼びかたである「父君陛下」に統一せず、幾度となく「陛下」と呼んだのだ——「父君陛下」を短縮するならば「父君」になるところを。故意に犯した失態の行きつく先を、彼女は見届けたかった。

(私は、意識していた)

 皇女として振るまわなくてはならないときに、自分自身を意識していた。そうして、皇帝を「皇帝陛下」と呼んだ。自分はマーリ皇女ではなく、自分自身だと——公子に知らしめるために。

 愚かしい。

 けれど、後悔はなかった。望んだのだ。屈折している己を知ったつもりで、現実にはこのうえなく素直なトゥルカーナ公子の心に、自分の跡を刻みつけること。

 でも、わからなかった。その先に、自分は何を望もう。復讐か、恋情か——いや、きっと、もっと冷たくて単純な、もっと大切な——。

 何にせよ、もはやオースティン公子は自分をマーリとはいわない。皇女婿は、内では本物の姫君をマーリと呼び、外では孤児の娘をそう呼んで公務に従事せねばならないが、外面的にはどうあれ、胸に懐くのは夜(ライラ)の名にちがいない。公子にとって、紫の瞳と亜麻色の髪をもつ痩せた娘は「皇女の替え玉」であり、当の皇女は「替え玉の本物」である。

 これは、マキナ皇家に忠誠を誓った慈善園の卒業生として、万死に価する罪だろう。ライラは静かに思う。——これは反逆、ごくささやかな。……

 夜風が、ライラの頬を撫でた。

 突如として舞いこんだ冷たい大気に、彼女は誰かが部屋に足を踏み入れたのだと気づく。ランプの火もかすかに揺らぎ、風の出入りを告げた。さらに風は、鼻先に香の匂いを運んできた。婚礼の間に薫きしめられた香と同じ。

 一切の物音をたてじとばかり開かれた扉が、次いで乱暴に閉ざされた。ライラは振り向き、壁の前にいる人影をみつめる。そして、たたずむ影に対し、最上の礼をとるべくひざまずいた。

 影は身じろぎし、

「——おまえの名は」

 と、問う。

「ライラ・イーリと申します」

 彼女は落ちつきはらった声音で答える。「なぜここが?」

「通りすがりの『口もきけない』女官に吐かせた」

 ライラの質問に、彼は吐き捨てた。端下の女官たちには、皇帝および直系の子孫、ならびにその結婚相手と会話することが禁じられている。常に大陸中で最も美しいルグワティ・ラージャ(皇帝の言語)を嗜むべき皇帝一家に、聞き苦しい言葉を聞かせてはならないからだ。

「無体なことをなさいます。明日、アグラ宮殿から女官が一人いなくなるでしょう」

 ライラは流麗な言葉遣いでいった。

「拷問したわけじゃない。少し脅したら、すぐに吐いた」

 対する彼も、ラージャスタン人でないことが不思議なほどに滑らかなラージャ語を使う。「まったく、慈善園とやらの出身者はみな、皇帝陛下の熱心な信奉者ばかりかと思いきや、妙なところで詰めが甘い」

 彼はこうも付け足した。「おまえもだ。——ライラ・イーリ」

 トゥルカーナ公子オースティンは、薄明かりのなかで彼女を嘲笑っていた。ライラは顔をうつむかせたまま、冷ややかな声に秘められた少年公子の怒りを受けとめる。恐ろしくも羨望を禁じえぬ、それこそトゥルカーナ産の貴石のごとく純度の高い怒り。

 しかし、ライラは胸に満ちていく澄んだ水と光とを、オースティンに伝える気はなかった。確かに彼女は心情的に反逆者だったが、それを露呈しては孤児は生きていけない。怒りに燃える皇女婿に詰め寄られた程度で掟を破るようでは、慈善園の生活において勝ち抜いてきた甲斐がない。

「わたくしどもの目的は、だましとおすことではありません」

 ライラは淡々と言った。「ご不快に思われたのであれば、お詫びいたします。ムストフ・ビラーディ・オースティン」

 彼女が床に額づくとともに、場に沈黙が落ちる。

 同時に、ランプに棲まう火がついたり消えたりした。トゥルカーナ公子オースティンは、かつて精霊の愛を一身に受けて大陸を救った英雄クレイガーンの子孫である。そんな彼の激しい憤りに、火(サライ)の子は怯えているのだ。

 ライラは思わず、許されてもいないのに面をあげた。少年の怒りを直視した。

「——おまえが、詫びるのか? そんなふうに意味もなく、儀礼的に?」

 尋ねる彼の灰青の瞳は、昏い。「おまえの誇りは、どこへいった……!」

「誇りなど、抱く資格もございません」

 ライラは目を逸らし、再び低頭した。「わたくしは慈善園で育てられた、マキナ皇家の下僕です」

「では、馬車が壊れたときのおまえは?」

「皇女殿下の気高きお心をお借りしたまで」

「僕がラージャスタン入りした日、怒ったのは?」

「皇女殿下は長いあいだ、公子を慕っておられました。それを考慮してのことです」

「決闘を中断させ、僕と罪を共有したのは?」

「夫の罪が重くなることを知っていて放置すれば、婦道の罪です。皇女殿下に負わせるわけにはまいりません」

 次々と投げかけられる問いに、ライラは即答していく。

「——本当に、皇家のためなら、いかなることも厭わないんだな」

「それが慈善園出身者、《イーリ》の名をもつ者、ラージャスタンとマキナ皇家の下僕です」

「最後に訊こう」

 オースティンは薄く笑った。ライラはうつむいていて見えなかったが、そういう気配がした。「なぜ、マーリの影でありながら、皇帝陛下を『父君陛下』と呼びつづけなかった——?」

 すぐに回答することができず、ライラは言葉に詰まった。

 公子は気づいている。その呼称が、ただ単に彼女の正体に関するほのめかしだけではなく、いくばくかの別の意味あいが含まれていることを、オースティンは悟っているのだ。すなわち彼女が、慈善園出身者でありながら、皇家の意思とは無関係の、自分自身の意思をみせたこと。

 ライラはもういちど顔をあげた。オースティンの眼を、まっすぐにみつめる。怒りにきらめく灰青の瞳は、心の奥底から突きあげてくる憤りに揺れつつも、問いかける色を帯びていた。ある特定の答えだけを期待して、問うまなざし。この少年は、今は彼女の偽りに激昂していても、答え次第ではてのひらを返したようにライラを許すだろう。

 もっとも、許される必要など、ないのだけれど——。ライラは、唇をゆっくりと開く。

「公子殿下のおっしゃったことですわ」

 彼女は微笑んだ。「わたくしは詰めが甘いのです。……皇家の下僕として」

 そうして、ライラはオースティンの変化を見守る。彼の全身を覆っていた温度の、みるみる冷えていく感じがわかった。怒りの熱は、報われる可能性があるからこそ。報われないと知れば、怒りは一挙に冷酷さを帯びる。それでも少年公子は、さらに質問を繰り返した。

「では、本当に……すべて、おまえではないんだな……!」

「そうです」

 ライラは依然として口もとに笑みをのせ、彼の期待にとどめを刺す。「すべては職務のうえでしたことですわ」

 怒ればいい、と少女は思った。このトゥルカーナ公子が、全部を許せなくなるほどに、怒りを感じればいい。

 その純粋で残酷な怒りをもって、すべて壊すといい——。

「ははっ……」

 少年は乾いた笑みをもらす。「おまえにとっては、マキナ皇家の命令は絶対。嘘だろうが演技だろうが、何だってやってのける」

 ひどくゆったりした動作で、足を踏みだした。ライラはその足どりに、彼の迷いと甘さとが消え去ったのを見てとり、あとずさる。しかし、いつの間に追いこまれたのか、すぐ背後にひんやりとした壁の冷たさがあった。彼の怒りは、もはや免れえない。

 仕向けたのは自分。けれど、ライラの身はすくんだ。それでいて、ぞっとするような快感が彼女のからだを貫く。彼の澄んだ怒りが心地よいとは、自分はいつからこんなふうに狂ったのだろう。初めて皇帝の代理人と出会ったときか? それとも卒業の日? 故郷を離れたとき、故郷を懐かしんだとき、故郷を憎んだときに?

(もう遅い)

 ——そうだ、崩壊を、私は望んでいる。

 この世の欺瞞と矛盾と混沌とを打ち倒し、その先へ、

(オースティンさま、あなたが、)

 

 

 ——あなたが連れていってくださるのでしょうか、まだ見ぬ美しい場所へ——

 

 

 目の前に、《英雄の現身》と讃えられた美貌がある。

 あらゆる人々が彼の美しさを褒めそやさずにおかないように、ライラもまた彼を美しいと思った。この黒い髪こそが《黒曜の髪》、女性のそれよりも白い肌は《大理石の肌》、怒れる灰青の瞳は《曇り空の瞳》、憎しみに揺らぐ声は《春雨のごとく》。彼がもって生まれたすべては美しく完璧で、公子を目にした者は、精霊の祝福が誰のうえにも平等に降り注ぐとは決して信じない。

「——公子殿下」

 ライラは顔を寄せてくるオースティンを、わずかに押し返す。「皇女殿下は……」

「子供はとっくに夢の中だ、ライラ」

 と、少年公子は心底どうでもよさそうに言う。「僕も今やマキナ皇家の者、おまえの主だ。主が下僕をどう扱おうと自由だろう?」

「……ええ」

 彼女は目を伏せた。半ば降ろされたまぶたに、少年がくちづける。「——お好きに、なさいませ」

 

To be continued.

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