精 霊 呪 縛
第二部 ラージャスタン・アグラ宮殿編
第3話「小さな反逆」(2)
少年は、夢うつつに肌寒さを覚えた。
「寒い。アレン、毛布をよこせ……」
ひとりうめいて、目を開ければ、あたりはすっかり朝である。少年は身を起こすと、はだけた着物の襟を合わせ、身震いした。
見知らぬ天井、見知らぬ部屋。徐々に頭が覚醒してきて、今いる場所が生まれ育ったサンヴァルゼ城ではなくラージャスタン・アグラ宮殿だということは思いだしたが、それにしても見覚えがない。
ふと目を落とすと、少年のかたわらに、安らかな寝息をたてる少女の姿があった。
(……そうか)
ここは後宮である。昨夜、婚礼を迎えるにあたって、初めてこの宮に来た。二週間ほど生活してなじみつつあった客室をあとにし、今日からは後宮で暮らすことになる。この少女は後宮を含む全アグラ宮殿の主の娘、マーリ・マキナ・ラージャスタン。自分の新妻、すなわち生涯の伴侶である。
邪気とは関わりのないところで眠りつづける娘を一瞥した少年の背に、また寒気がはしった。深夜すら温暖だったこの地も、早朝は冷えこむらしい。毛布をかぶり人心地ついてから、オースティンは目をこすった。朝のやわらかい光が婚礼の間に差しこんで、きのう己のうちで吹き荒れた嵐がまるで夢のようである。まったき平穏の情景だ。
乳兄弟アレンには、朝がよく似合った。さわやかな気候のなかできびきび働くのが、彼は好きだった。朝になると、オースティンが前の日に夜更かしをしていたとしても、いっさい斟酌することなく叩き起こしてくれる。ブランケットの虜となっている少年を、またたく間に強制解放したうえ、寝台から蹴りだすのである。その後は朝からとっくみあいのけんかになり、それをアレンの母親である女官長ノーラが止めるという、サンヴァルゼ城での愛すべき日常。
オースティンは懐かしく思いだしつつ、御簾をよけて寝台を出ていった。扉を開けて、廊下に降りる。砂岩の床が素足に冷たい。
廊下の横には、客室同様に庭園がひろがっていた。婚礼の際には暗くてわからなかったが、東方風に整備されている。とはいえ、やはり皇帝の住まう宮が他国の文化に染まりきっているわけにはいかないようで、庭園の中心にあるのはラージャスタン式の水路だった。
トゥルカーナの庭は明るかった。いつか離れなければならないことを知って、いっそう少年の眼には明るかった。ここではその明るさも模しただけのもので、オースティンにとっては偽りでしかない。しかし、朝の日差しは彼の心に陰を落とさなかった。何にせよこれは、新しい朝なのだ。
「オースティンさま?」
マーリが彼を呼んでいる。少年は婚礼の間に戻った。
「ここにいますよ」
少年は微笑み、少女の手をとる。とたんに娘は悲鳴をあげた。
「いやっ、オースティンさま冷たい!」
「マーリはあたたかいな」
オースティンは再び寝台に座ると、少女のからだを抱いた。娘ははしゃいだ声を出して、少年の腕の中で暴れてみせる。ひとしきりじゃれあったあとで、皇女マーリはオースティンの膝を枕にして彼の顔を見あげてきた。少年の頬に、そっと手をのばす。
「お顔をよく見せてくださいな」
「どうぞ、いくらでも」
「ふふっ」
マーリの表情がほころぶ。娘は思うぞんぶんオースティンの容貌を眺めまわした。眼、鼻、唇、顎と、指で彼の造形ひとつひとつをなぞって、うっとりとすみれ色の瞳を細める。オースティンはそんな少女の満足げな表情を見て、その額に唇で軽く触れた。娘の顔が、わずかに困惑したような色を帯びる。といっても、悪い意味ではないようだったが。
「きれい。オースティンさま」
皇女は感嘆の声をもらした。「こんなふうに、誰よりも近くであなたの姿を見られるなんて、わたくしは大陸でいちばん幸せな娘です」
「あなたの幸福に貢献できたなら、僕こそ大陸でいちばん幸せなんでしょう」
少年はそつなく応じる。当たり前のやりとりなど、これほど容易なことはなかった。
「もう、噂をよすがにしなくても、あなたはわたくしと一緒にいてくださるの」
マーリはひとりごちるように、つぶやいた。「オースティンさま、わたくしの——英雄」
「先祖の名は、僕には重すぎます」
「いいえ!」
娘は力いっぱい頭を振る。
「あなたはわたくしが夢みていた英雄そのもの。誰よりも精霊に愛された、ラシュトーでもっとも美しい人です。わたくしの美しい人、わたくしの英雄クレイガーン……」
マーリは少年の顔に心から見惚れていた。「庭をご覧になって? あれは、わたくしが父君陛下に頼んでつくらせた《英雄の庭》です。あなたの故郷、クレイガーネアのサンヴァルゼ城に似せてありますの」
「《英雄の庭》……」
道理で、とオースティンは思った。実際のサンヴァルゼ城とはかけ離れていたが、庭師にもマーリにもわかるまい。サンヴァルゼ城でオースティンは育った。変わらぬ景色を、日々みつめてきた。一種類の木がないだけでも少年には異和感があるのに、ラージャスタン式の水路までひかれているのだ。もはや別物である。
ややあって、控えめに扉が叩かれた。オースティンとマーリはお互いに離れて、寝台に座りなおす。
「お入り」
皇女が応じると、四人の女官が現れた。四人とも紫色の袴である。彼女たちは婚礼の間に入ってくるなり、寝台から新郎新婦を退かせ、手早く確かめる。そこに、結婚の成立したしるしをみつけると、四人は揃って低頭し、
「まずは、つつがなく婚礼を果たされましたこと、お慶び申しあげます」
と、ことほいだ。言上したのは《五星》次席のファンルー・イーリである。あとの三人は、ファンルーより一歩さがったところでそれに倣った。オースティンに見えるのは彼女らの頭で、メアニー・イーリの赤茶色の頭と、見覚えのない黒い頭と、見知った亜麻色の頭が、床の上にきちんと並んでいる。
ファンルーは続けて言った。
「では、ムストフ・ビラーディ(婿殿)・オースティン。遅ればせながら、名のらせていただきます。すでに聞き及んでおられることと存じますが、わたくしどもは通称《五星》——アグラ宮殿の全女官を統率しております。わたくしは次席でございますが、現在、筆頭ツォエル・イーリ不在にて、筆頭代理を兼ねております」
袖でもって、背後にいる娘たちを指す。「右より、第三席のシーリエ・イーリ、第四席のメアニー・イーリ、末席のライラ・イーリにございます。わたくしども四名、心をこめてご夫妻のお世話をさせていただきます。改めまして、以後、お見知りおきを」
第三席以下三人の女官は、それぞれの名前が出ると丁寧に首を垂れた。オースティンはうなずいた。シーリエ・イーリは留守にしているという話だったが、どうやら帰ってきたらしい。次にファンルーは、筆頭ツォエル・イーリがこの重要なときにアグラ宮殿に戻れない理由を述べた。彼女がいうには、ツォエルは外交関係の用事で動いているとのことで、活動上の期日があるため、どうしても帰還が不可能なのだという。
「さて、次でございますが……。ライラ、顔をあげなさい」
ファンルーは《五星》末席の娘に命じる。少女は言われたとおりにした。彼女のすみれ色のまなざしが、朝の光を浴びてきらめいた。
「おまえか……」
オースティンはぽつりと言う。
「ええ。これが昨晩申しあげました、マーリ皇女殿下の影姫を務める娘にございます。婚礼の前はこの娘に皇女殿下を装わせておりました。ムストフ・ビラーディを欺きましたこと、重ねてお詫びいたします。しかし、これからもオースティンさまには、この娘とともに夫婦として振るまっていただかねばなりません——あくまで、後宮の外では、の話ですが」
ファンルーはその部分を強調した。皇女マーリに不満の色がよぎったからである。
「ライラ」
「はい、ファンルーさま」
ライラがオースティンのほうを向く。「『特例』のお話は聞いておられますね、ムストフ・ビラーディ」
「ああ」
少年が肯定すると、メアニーがわずかに恐縮した。
「わたくしは皇女殿下になりかわり、民に皇女殿下の御心を示すことを許される者でございます。公子殿下のムストフ・ビラーディとしての公務は、わたくしとともにラージャスタン中を皇家のご威光で照らしだすこと」
ライラは淡々と語った。「具体的には、公開の場で帝国に相応しい夫婦として振るまい、民や諸国の敬意を勝ちとることです」
「なるほど」
要は宣伝係か。ならば、結婚前と変わらない。英雄の子供たちは、諸外国に招待されて祝宴の席の華となるのが仕事だったのだ。オースティンも兄弟も従兄弟も、常にパーティーのたびに浮かれた人々に囲まれて褒めそやされたり、国境を越えたところで民衆に道を塞がれたりしたものである。
「ライラの仕事ぶりは、オースティンさまもよくご存じですわ」
ファンルーが口を挿んだ。「皇女殿下の評判を、お耳に挟まれたでしょう」
「ああ……。火(サライ)の化身、と聞いた」
「もっとファテーブルに近い場所でなら、『炎の化身』と、よりラージャスタン式に呼ばれておりますが」
女官は微笑んだ。一方、当のライラは無表情である。
彼女の美しさは、すべて職務上のものにすぎない——。少年の胸の奥で、一度は鎮まった怒りがうずきだす。オースティンは、ともすると暴れだそうとするそれを、かろうじて押しとどめ、
「わかった」
と、簡潔に返事した。「よろしく頼む」
四名は再び深々と頭を下げ、今や正式に皇女婿となったトゥルカーナ公子オースティンに忠誠を誓った。
「ねえ、お腹がすいたわ」
幼い皇女だけが、緊張感とは無縁だった。
その日、オースティンはライラ・イーリを伴い、アグラ宮殿内を見てまわった。
アグラ宮殿は広い。ひとくくりにアグラ宮殿もしくはアグラ城——高い城壁に囲まれ、城塞の機能も併せもつ——と総称されていても、内部は広大かつ複雑であり、用途の異なるさまざまな大宮殿や小宮殿がひしめいている。
起居の場として、選ばれた貴族の住まうフェイジャ宮がある。住人の多さから、アグラ宮殿内でもっとも規模が大きく、そこでは皇帝の寵臣にあたる貴族たちが悠々自適の生活を送っていた。皇帝権を強化する目的の懐柔である。
そして、皇帝の兄弟やその子らを中心とした皇家の住まうシターラ宮、皇帝および皇女の住まう後宮ことムリーラン宮、その他に従僕舎や客舎も忘れてはいけない。オースティンが二週のあいだ滞在していたのは客舎の一室である。ちなみに、それらの宮殿の住人や客人を世話する女官たちは、位に応じて各々の仕事場に集団部屋なり個室なりを与えられる。
シターラ宮とムリーラン宮の住人は、決して住処を出ない。生まれたときから死ぬまでそれぞれの宮で生活し、結婚も外部の人間を迎えるかたちで行う。彼らは政治に関わるが、皇帝がムリーラン宮でのみ生きて外を知らずに政に携わるのと同様、彼らもシターラ宮の価値観でもって皇帝に助言する。
「危険だと思われるかもしれませんが」
と、ライラは述べた。「それでも、今のラージャスタンを築いたのは、ムリーラン宮とシターラ宮に他なりません」
「ふん」
つまり、狸と呼ばれるのはムリーラン宮とシターラ宮なわけだ。オースティンはフェイジャ宮を正面から見渡して、踵を返した。
いくつもの庭を過ぎ、先日の宴の間のあるクッティ宮にたどりつく。そこから、クッティ宮のほど近く、政務の間のあるサイアト宮へとライラは案内した。政務の間は今は衛兵が立っているだけだが、週はじめの火の日には、ここで皇帝が民の陳情を聞く決まりである。ライラは影姫として常にそのかたわらに寄り添うのだという。以後は、皇女婿たるオースティンも同席することになる、とも。
「『皇帝陛下のご威光を示す』機会というわけだな」
「おっしゃるとおりです」
オースティンの言葉に、ライラは同意した。
「ムリーラン宮を出ない皇帝陛下のご威光、か?」
すかさず少年は切り返す。「それで、ここに座る皇帝はいったい誰なんだ?」
「それもお察しのとおりですわ、オースティンさま」
ライラは答えた。「本物の皇帝陛下は、今宵ムストフ・ビラーディに謁見を許されました」
「おまえは本物のライラなんだろうな?」
「わたくしの影を備えて、いったい何の意味がありましょう」
少女は政務の間を抜けていく。オースティンは彼女のあとに従った。道理で、宴のおりにほとんど口を聞かなかった「皇帝」は、妙に影が薄い。だいたい、娘を嫁がせようという父親が、婿に対してあんな態度では不自然である。価値観の差異はあれど、不自然さを悟られるのが問題なのだ。あれも、マーリと同じ紫の瞳をしていたけれど、ライラに同じく慈善園の「特例」なのだろう。それにしても、特例扱いのくせに二人揃って詰めが甘い。
ライラは少年をサイアト宮の書庫に連れていった。書庫には皇家が収集した莫大な量の書物が詰めこまれており、当然オースティンも自由に出入りして閲覧できるという。
「ここにあるのは、アグラ宮殿内に置かれる書物のおよそ半分です」
彼女は本棚を指し示し、説明した。「もう半分はムリーラン宮にございます。そちらは特に重要な本が多く所蔵されておりますが、もちろん自由にご覧いただけます。のちほどご案内いたします」
書庫の隣に、オースティンの部屋が用意されていた。彼の公務の一環として、皇帝に提出される陳情資料をここで事前検閲するのだという。何か問題や不備があれば、皇帝——とはいえ影だが——に言上する許可が下りない。これまではシターラ宮にいる皇帝の弟の子らの務めだったが、今後は皇女婿たるオースティンが皇帝の寵臣である貴族たちの力を借りて行う。
二人は半日かけてアグラ宮殿をひととおり巡り、道中、貴族や皇家の人間に会えばあいさつを交わして歩き、ムリーラン宮に戻ってきた。マーリの部屋の隣に、オースティンの寝室が用意されている。少年はこれから一生にわたり寝起きしていく部屋を、ぐるりと見回した。寝台や衣装箪笥のほかは、まだ何もない。窓からは、擬トゥルカーナ様式の庭園がうかがえる。マーリの夢みた庭——《英雄の庭》が。
オースティンは庭から目を逸らした。何ともなしに、引きだしを開ける。
「——あ」
思わず彼は声をもらした。
そこに、青い木綿のシャツが入っていた。さらに箪笥の他の段を引けば、ズボンと革のブーツがしまってある。アレンのクローゼットから失敬し、トゥルカーナで愛用していた服。ラージャスタンに到着した日に着替えてから行方が知れず、また失念してもいた——故郷から唯一持参したもの。
「捨てるように言われていたのですけど」
ライラがいう。「大切なものだと思いましたので……、オースティンさまは他に何も持っていらっしゃいませんでしたから」
「それも、職務か」
少年はつぶやいた。「ご苦労なことだな」
「恐れ入ります」
答える彼女の声色は、いくばくかの困惑も帯びておらず、まして傷ついた様子などまったくうかがえない。
オースティンはいっそうなげやりな思いに駆られつつ、シャツを取りだし、ひろげてみた。きれいに畳まれてしまわれていたシャツには、見苦しい皺もしみもない。嗅いでも、せっけんの匂いがするだけで、トゥルカーナからの道中で着たきりすずめだった痕跡はどこにもない。
「洗ったのか」
少年はぽつりと訊く。
「ええ」
「洗わせたのか?」
「いいえ」
ふたつめの質問に、ライラは首を横に振った。「姫君ならば、手ずから洗おうとなさるでしょう」
とうに理解できていても、少年は頭を強く殴られたような心地がした。彼はシャツを箪笥に放りこむと、引きだしをおざなりに押しこんだ。
「マーリが洗濯なんかするものか!」
オースティンはいらだちを隠さず、攻撃的な調子で少女に投げかける。ライラは小さく笑った。
「もちろん、マーリさまは皇女殿下でいらっしゃいます。姫さまに水仕事などさせれば、そのときはわたくしどもの首が飛びますわ」
《五星》末席は至極当然といったふうで付け加えた。「つまり、姫君の理想とされるところでは、姫君は手ずから洗おうとなさる、ということです」
「夢、だろう」
オースティンは静かに反論した。「マーリの、現実とはかけ離れた、夢だ」
「だとすれば、何か問題がありますか?」
ライラはすみれ色の瞳を細めた。女官という立場を忘れたかのような、有無をいわさぬ問いかけに、少年は息を呑む。
彼が心惹かれた気高き《マーリ皇女》は、確かにこの少女なのである。彼女は孤児という不運な境遇に生まれ落ちたがために、こうしてマキナ皇家の下僕として人生を送らなければならないが、根の深い部分には、何があっても服従しないあの美しく強靭な《マーリ》がまちがいなくいる。
彼女はきっと、真に誰かの下僕になどならない。さもなければ、主君の夫に身をまかせるような真似をするだろうか? 本当に心の奥底から皇帝と皇女とに服従するならば、舌を噛み切ってでも拒むべきである。例えば、ファンルー・イーリなら迷わずそうするか殴って逃げるかするにちがいないし、メアニー・イーリでも罪悪感の果てに失踪するぐらいはできそうだ。
ところが、ライラはいっさい抵抗せず、ことが過ぎたのちも、うしろめたさを匂わせはしない。外見上に限っていえば、この少女は微塵も揺らがない。父大公タルオロット三世に嫁いできたくせ結婚直前に自分の部屋を訪れたあの女に、ライラの爪の垢を煎じて飲ませたいぐらいだ。
でも、ライラの澄んだすみれ色の瞳を眺めていると、少年の不安は募った。人と人とのつながりなど、英雄の容姿をもつ自分には簡単なもののはずだったのに、この人だけは思いどおりにならない。からだをどう扱おうと、この人を征服したことにはならないのだ。この人は誰からも自由であり、誰にも従わない。
不安は尽きず、それでいてうれしくもあった。容易には流れていかない世界を実感することは、これまでの少年には縁のないことだった。手探りに知ろうとすることの喜びと不安とは、彼にはまったく新鮮で、からだの内側が真新しい感覚で満ちる心地よさを、少年は久しぶりに感じていた。
だが、それはすなわち、
——ライラは味方にはならない。
と、いうことであり、オースティンは空しさを覚えずにはいられない。ラージャスタンの地に味方が一人たりともいないということが空しいのではなく、他でもない彼女が自分のものにならないことが、少年から気力を奪っていく。
(この穴を、埋めなくては)
でなければ、生きていけない——。
そう強く念じると、彼の心は知らず知らずのうちに、深い藍色をした夜の底へと沈んでいった。そうなると、もはやまわりは何も見えず、暗がりで手をのばすような気持ちにもなれずに、少年は手加減なしの乱暴さで、彼女を引き寄せたくなった。昨夜、彼女の部屋でそうしたように。
「……問題なんか、ないさ」
昏いまなざしで声で、ようやく返事をした少年を、ただひとり、少女が見ている。
傾いでいきつつある少年を、彼女はただ、同じく光のない眼で見守った。
夜、オースティンは妻となった娘の寝室を訪れる。
政略結婚につきものの義務を終えたあとで、ふいに少年は目頭を押さえた。かたわらに横たわっていた少女が、少年の予期せぬ挙動を案じていると、暗がりのなか——きらりと光るものがある。マーリは驚いて、気づかわしげに少年の首へ腕をまわした。
「オースティンさま、悲しいのですか?」
娘は臆面もなく尋ねる。
少年は幼い皇女を見やり、かすかに笑みを浮かべた。
「なんでもありません。ご心配には及びませんよ」
「嘘ですわ! わたくしにはわかります」
彼女は自信たっぷりに言い張った。「わたくし、もうオースティンさまの妻です。夫君の苦しみが、わからぬはずはありません」
胸を張り、断言する。オースティンは苦笑した。さあ、どうぞお悩みを打ち明けてくださいな、と執拗に促してくる少女に、少年は観念して口を開く。
「僕がラージャスタンに来て、二週間と少しですね」
オースティンはためらいがちに告白した。「めそめそと、男のくせに恥ずかしいのですが、故郷を思いだすと……」
「まあ、オースティンさま!」
マーリは大げさな声をあげて、少年の頭を抱きしめた。「それは、決して恥ずかしいことではありません。もし外国に嫁いでいたら、わたくしも毎日泣きます。きっと、誰でもそうです。そうでなければ人でなしです!」
心優しい娘はしばし、オースティンがいかにまともであるかを説明するのに苦心した。単にまともなばかりでなく、いかにすばらしい人格を少年が備えているのかをも。いつのまにか、オースティンの望郷の念から、性格や挙止、果ては容姿にまで逸れていったが、少女は努めて少年を讃美しつづけた。少年を慰めようという気概は本物だった。
次に娘は、オースティンが何もいいださなくとも、どうやったら彼の心が晴れるだろうかと思案しはじめた。少年はその間、黙って悲しげな表情をしていればよかった。マーリは、たとえきっかけとしてはそう仕向けられたのだとしても、結果的には自分でオースティンを慰める手段を選びだしたのである。
「そうだわ!」
マーリははしゃいだ声をあげた。「名案があります。オースティンさまに、わたくしの名前を貸してあげましょう」
「名前……?」
少年はマーリの意図を理解できず、首を傾げた。望郷ゆえの憔悴を、気怠げな声で表現する。
「女官たちは、わたくしの名で下された命令は、何でも聞かなければいけないのです。ですからオースティンさまは、わたくしの名を使って、ファンルーたちに欲しいものをおっしゃったらいいと思います」
少女は楽しそうに言う。「トゥルカーナの品を届けさせたり、舞踊団を宮殿に呼んだり、何でもできますわ!」
あまりのことに、オースティンは言葉を失った。
(予想以上の収穫じゃないか)
と、彼は密かにひとりごち、それでいて表情は申しわけなさそうに取り繕う。
「しかし……、そんなことが」
「わたくしがいいと言っているんですもの」
マーリは自分の妙案に、すっかり悦に入っている。「ファンルーたちの反論は許しません。ご安心なさって、オースティンさま」
わたくし、オースティンさまの元気なお姿を拝見するためなら、何でもできますのよ、と娘は微笑んだ。対する少年は言葉をつまらせ、それから愛する妻をしっかりと抱く。マーリは少年を抱き返して、今宵はずっと抱いていてさしあげます、ですからもう泣かないでくださいませね、とささやいた。
娘の肩のむこうで、ランプの火(サライ)がパチパチと音をたてている。
心なしか、精霊はもの言いたげだ。オースティンはマーリの肩に顔を埋めて、胸のうちで炎の眷属に呼びかけた。
——火(サライ)の子。この愚かな人の子を、とくと見よ。
(僕はこれから、皇家に背く)
子供じみた、小さく、とるにたりない反逆でも、その名にはたがうまい、と。……
To be continued.