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​精 霊

第二部 ラージャスタン・アグラ宮殿編

第3話「小さな反逆」(3)

 皇女婿オースティンが初めて民の前へ姿を現す日は、あわただしく明けた。

 最初が肝心とばかり、前夜には大勢の女官を動員した執拗なまでの段取り確認があって、アグラ宮殿はただならぬ緊張感に包まれた。とりわけ《五星》第四席のメアニーは、次席ファンルーによってつきっきりで仕事の手順を叩きこまれ、よもや失敗しようものなら後のことは保証しないとまで脅されて、その日の早朝を迎えたのである。

 当日、《五星》の名を戴く女官たちは、普段より二時間も早く起床して衣装類の点検を行い、満を持して皇女夫妻の寝室を訪れた。ファンルーの背後に付き従うライラは、影姫としての装いにぬかりなかったし、メアニーもさすがに神妙な面もちで務めをこなしている。ラージャスタンのためというより、ひたすらファンルーの逆鱗に触れたくない一心だったとしても、とにかくその時点では万事が順調に進行していた。

「皇女殿下、婿殿、御前失礼いたします」

 ファンルー・イーリは優雅な手つきで扉を開けると、紫の袴の裾を整えてひざまずく。「本日、婿殿は慈善園訪問のご予定でございます。初のお目見え、何かと不安もおありでしょうが、すべてわたくしどもにおまかせくださいませ」

 言上して、彼女は顔をあげる。

 すると、室内には皇女マーリの姿あるのみで、公子がいない。ファンルーは目をみひらいた。

「ふふっ、驚いてる驚いてる」

 皇女は寝台に横たわったまま、おかしげに笑みをこぼす。

「姫さま……、婿殿はどちらに」

 はしゃぎがちな声に、さすがのファンルーもむっとしたが、感情を抑えて公子の行方を尋ねる。

「旦那さまはお話があるのですって」

 少女はしたり顔で女官たちに教えた。「サイアト宮のお部屋で、ファンルー、あなたを待っていると」

「……かしこまりました」

 ファンルーは深々と首を垂れてから、踵を返す。第三席のシーリエに皇女の着替えを委ねると、寝室をあとにした。

 半ば駆け足で、サイアト宮への道のりを急ぐ。女官の長たる彼女らが焦っていると、自然と下っ端の者たちにも伝わるようで、今日の訪問に関与していない下働きまで一緒になって大わらわだった。

 サイアト宮にたどりつき、三人の女官は書庫の隣、皇女婿の執務室へと入った。

 果たして、公子オースティンはそこにいた。彼女らに背中を向けて、悠然と椅子に腰かけている。

「ムストフ・ビラーディ(婿殿)・オースティン。お呼びでしょうか」

 呼びかけに、少年は振り返る。いたずらっぽく微笑む公子に、ファンルーは目を剥いた。

 オースティンは、青い木綿のシャツにズボン、革のブーツといういでたちである。公子がトゥルカーナから着てきた、身分にそぐわぬ庶民の服だ。反射的に、ファンルーはライラをにらみつけた。公子にラージャスタン式の着物を合わせた時点で、処分するよう命じておいたのに、ライラは言いつけに背いたのである。

「ライラがこれをとっておいてくれて、よかった」

 少年はファンルーのいらだちを見抜いて、すかさず口を切る。「これは乳兄弟が僕にくれたもので、とても着心地がいい。やはり、ラージャスタンの服は慣れないしな」

「それはよろしゅうございました」

 泣きぼくろの魅力的な女官は、頬をひきつらせながらも、かろうじて口角をあげた。「ですが、ご公務の支度がございます。今はお脱ぎくださいませ」

「さて、話というのはそれなんだ。ファンルー」

 オースティンは軽く応じる。ファンルーはため息をつくと、メアニーとライラに目配せし、少年のシャツに手をかけた。メアニーが携えてきた長襦袢をひろげ、ライラが櫛を持って、それぞれオースティンに近寄ってくる。少年が不快をあらわにしても、ファンルーはかまわずオースティンのシャツをはぎとり、お話はお支度を進めながらうかがいますわ、と冷淡に言う。

「それは困る。こっちにはこっちの都合があるんだ」

「慈善園の生徒が、首を長くしてあなたさまを待っています。あなたさまは、一人でも多くの生徒に声をかけてやらなくては」

 静かな口調で答えて、ファンルーはメアニーを急かす。メアニーは長襦袢を掲げてオースティンの背後に立ち、彼の肩に羽織らせた。

 それを、少年は払った。白い長襦袢が、砂岩の床にするりと落ちた。

「? オースティンさま?」

 歳若い女官はかがんで長襦袢を拾う。が、今いちど肩にかけられた長襦袢を、オースティンは再び払いのけた。メアニーは拾わなかった。問うような目つきで、少年を見上げた。

 オースティンは幼げな女官を見下ろして、

「僕に触るな」

 と、告げた。「——皇女マーリの名において、おまえたちに命ずる。僕の許可なしに、僕に触れるな」

 少年の発言に、場の空気が凍りついた。ファンルー・イーリは青ざめ、メアニー・イーリも魚のように口をぱくぱくさせている。

「オースティンさま、何を……」

 少年は女官の白くなった顔を見据えて、

「いま言ったとおりだ」

 と、返す。

「——ライラ!」

 彼女の声は、叫びに近かった。「姫さまに! ——」

 はい、と短く返事をして、ライラは執務室を抜けていく。

「あなたさまは、お言葉の重大さをわかっておられません。ムストフ・ビラーディ」

 ファンルーは鋭い眼でオースティンに向き直る。「あなたさまは婿殿であり、皇女殿下にとってはご夫君、すなわち主でもありますが、それはあくまでも夫婦としての話でございます。アグラ宮殿でのあなたさまは皇女婿、外国出身の客人にすぎません。皇家にお生まれになったマーリさまと同じ権限など、皇帝陛下がお許しになるはずはありません」

「だろうな」

 オースティンは同意した。「だが、マーリが許したなら?」

「——」

 ファンルーはいまいましげに唇を引き結び、

「……マーリ皇女殿下は、わたくしどもがお育てした姫君。わきまえておられましょう」

 絞りだすように言い返す。

「それはどうか」

 少年はつぶやき、手を差しだした。「さあファンルー、それを返してもらおう」

「く……」

 青いシャツをつかむ女官の手が、震える。「ライラが帰ってくるまで、それはできかねますわ、ムストフ・ビラーディ。ほら、メアニー、オースティンさまのお着替えを! 時間がないのよ」

「はっ、はい!」

 メアニーは、もういちど床に落ちた襦袢を拾おうとして、びくりとおののいた。《クレイガーンの現身》とうたわれるオースティンの灰青の瞳が、冷酷さを帯びて彼女をとらえている。メアニーはそれで動けず、かといってファンルーも恐ろしいので、今にも泣きだしかねない顔になった。

 そこに、ライラが戻った。ファンルーは時間を稼ぐつもりだったようで、あからさまに無念さを表情にあらわしたが、ライラは考慮しなかった。彼女は執務室に踏みこんで、入口のところでさっとひざまずき、

「皇女殿下より、ご伝言を申しあげます」

 淡々と、述べた。「婿殿のお望みのままに——と」

 そのまま、ライラは床に額づいた。メアニーとファンルーは、しばし呆気にとられていたものの、ややあって末席に倣う。ライラの無感動な視線を受けて、ファンルーはさも口惜しそうに眉を寄せ、そのかたちのいい唇を開いた。

「——大変失礼いたしました。ムストフ・ビラーディ・オースティン——」

《五星》次席は続ける。「——お話をうかがわせていただきます」

 オースティンは薄く笑った。

「皇女の名というのは、これほどの力があるのか」

 三人の女官は顔も上げない。国立孤児院である慈善園に育った者にとって、マキナ皇家は絶対。オースティンは、とたんに愉快になってきた。皇女を味方につけている限り、アグラ宮殿の狂信者たちも、彼をないがしろにすることはできない。

 しょせん英雄など、今となっては伝承にのみ息づく偶像。しかし、ごく純朴な民衆をはじめとして、曖昧であてにならないものに何より重きをおく人間もいる。ラージャスタンにとっての不幸は、他でもない統治者の頂点に立つ少女が、そういった操りやすい民衆の最たる特徴を備えていたことだ。しかもマーリの浮き世離れは、明らかに自らを他国の手から守ろうとするマキナ皇家の、過剰な防衛意識が招いたもの。

(まあ、不幸といっても)

 少年は密かにひとりごちる。(人気とりのために呼び寄せた花婿が、その利益を損なって余りあるわがままぶりで、掟さえ無視してのける……というだけの話だ)

 ——マーリとは、似合いの夫婦だな。

 オースティンはくつくつと喉を鳴らす。《英雄の現身》と名高いトゥルカーナ公子見たさに、伝統を覆して婚礼を早めた皇女マーリ。いったいいかなるもくろみがあって、そのような決定を下したのかと思いきや、実際のマーリは完全に陰謀の外にいる、平凡そのものの少女だった。まさしく噂どおりの、である。

 だが、オースティンもそれと大差ない。ただ故郷懐かしさに、いてもたってもいられない子供。少年は自分でそう理解しつつも、意思を変えるつもりはなかった。

「では、皇女の名において、二、三、要求をさせてもらう」

 少年は、ひざまずいた《五星》の三人を睥睨し、告げる。「——要求が通るまで、僕は皇女婿としての全公務を放棄する」

「オースティンさま!」

 ファンルーが、我を忘れていきりたつ。

「そういうわけだ。当分、ラージャスタン式の衣服は遠慮する」

 少年はそこまで言い終えたあとでファンルーを見やり、

「皇女の名の前に、反論する気概があるならば——」

 と、脅した。

 ファンルーは押し黙り、諫言を取り下げる。これが、ラージャスタンにおける主従の姿なのだ。皇家の名は絶対であり、彼らの専制下では正当な批判さえ許されない。身分に関係なく親しみをもって接したトゥルカーナの流儀とは、全然ちがう。確かに専制を強化するのなら、ラージャスタン式のほうが有効なのだろうが、批判を容認しない凝り固まった主従関係は、ひとたびどちらかが誤れば、いともたやすく堕落する。

 そこにつけこんだオースティンの行為も、決して褒められたものではないけれど、少年にいわせれば、つけいられるような隙を放置するのが悪い。

「さあ、ファンルー。どうする?」

 少年は回答を促す。

 女官はもうためらわなかった。彼女は普段どおりの静かな声色で返答する。

「かしこまりました」

 ファンルーは今いちど膝をつき、卑屈ともいえる深さまで頭を下げた。「何なりと。——ムストフ・ビラーディ・オースティン」

 オースティンはその瞬間、勝利の感覚を全身で味わうとともに、取り返しのきかない過ちを犯したのだ、と思った。

 自国に守護を与えてくれる国に対し、あたうる限りの恭順を示して、大人しく民衆の人気を集めるのがトゥルカーナ公子——英雄の子らの役目だというのに、よりにもよって《英雄の現身》として期待を一身に受ける自分が、婿入り先のしきたりに逆らうのである。

 それも、自己満足の限りではなく、あからさまに、だ。表面上は義務を守ったうえで、心の奥底では服従していない、というのではなく、おおっぴらに女官たちの手を拒み、ラージャスタン式の衣装を着用せず、トゥルカーナで愛用していた庶民の服装に執着する。さらには、わがままの通らないうちは公務を放棄する、とまでいったのだから、ささやかながらも立派な反逆にちがいなかった。

 けれどこれは、反逆であるとともに、反逆ではない。皇女マーリに認められていれば、何であれ許される。他のラージャスタン人が全員敵にまわったとしても、あの幼い少女が自分に心酔している限りは、誰も手は出せない。マキナ皇家は絶対——それこそが、他でもないラージャスタンの流儀であり、自分はこの点では素直に従っている。

 ——そう、マーリさえいれば。

 オースティンは確信していた。何もかも、望みどおりにできる。何もかも、自分にとっては容易に流れる。どこであれ、居心地のいい場所になる。生まれて初めて心惹かれた少女さえ、心を除けば思いどおりになる。そこに、美徳や、本当のあたたかさが伴わないとしても、すべてが自分の意のままになるのなら、何の不満があろう。しょせん世の中は、表面上のことがすべてではないか。それがすべてで、よいではないか。……

(だが……)

 少年は、伏せられたライラの眼をみつめる。

 すみれ色のまなざしは昏く、オースティンに何も語りかけてこない。彼の自暴自棄に歯止めをかけるものは、何ひとつなかった。少女はどこまでも少年の願望を裏切り、《五星》末席の影姫という役割を越えようとはしない。おもむろに、オースティンは息を吸う。

「……では、ひとつめだ」

 女官たちは息を呑んだ。

 少年の新しい日々が、暮れはじめた。

 

 

  *

 

 

 ムルーワ伯爵夫人アンジュー・ササンドがアグラ宮殿に招かれたのは、わずか二時間後のことである。

 ファテープル近郊に位置する伯爵邸を突如訪れた皇帝の使者は、うろたえる家人や使用人のあいだを縫って夫人の軟禁されている部屋に向かうと、家主の了承も得ず、婚姻関係の清算を宣告し、竜巻のごとくアンジューを連れ去った。

 歳若い夫人は何ごとかも知らされないまま、フェイジャ宮の一室を居室として与えられ、万事が整ったのちに初めて皇女婿のはからいであることを伝えられた。オースティンが皇女と婚礼をあげたことは聞き及んでいたものの、己を閉じこめた張本人である夫カリエンと彼が決闘までしていたのには、まさしく青天の霹靂としかいいようがなかった。

「オースティンさまが……」

 少女はそうつぶやき、誰も彼女を縛らない場所で、ひとり落涙した。

 時を同じくして、皇女婿オースティンの故郷トゥルカーナへと伝令が発った。また、皇女婿本人は、数時間遅れながらも慈善園訪問の務めをまっとうすることになり、女官たちは段どりを大いに狂わされて混乱の様相を呈していた。

 全女官の頂点に立つ《五星》の面々も、皇女婿オースティンによる予想外の反抗に遭って手間どりつつも、なんとか《英雄の現身》の慈善園訪問を実現しようと駆けずりまわった。上位三人はアグラ宮殿の各所に散り、末席のライラのみが少年公子のそばに残って支度を手伝っている。

「例の件ですが、先ほど使者が出発いたしました」

 ライラはオースティンの髪をくしけずり、静かに告げた。いま現在の宮殿内の騒がしさも、彼女には関係ないかのようだった。

「トゥルカーナへは片道三週間か。往復で六週間」

「ええ、おそらく。急がせてはおりますけれど」

「心配するな」

 オースティンは乾いた笑みをみせる。「僕とて公子だ。要求が通るならば、公務には真剣に従事する。今日はアンジューの分だ。ただし——」

「重々承知しております」

 彼女はオースティンの言葉を遮った。いわれるまでもない、ということだ。ライラは髪飾りを挿し終えて、最後に少年公子の全身を点検した。ぬかりなく最終確認をすませ、今度は自身の姿を鏡で見る。影姫、外に向かう皇女たる彼女は、もちろん《五星》の着用する紫の袴ではなく、人々の夢みる《マーリ》の、ラージャスタン式にしては軽やかな装いをしている。

 皇女にしては装飾の少ないかっこうも、狩りにいくわけでもないのに背負われた弓も矢筒も、オースティンが惹かれた《マーリ》だった。耳たぶで揺れているのは、当然アレンから盗んで「親愛の証に」と贈った耳飾り——愚かにも、皇女の愛情が信じられるか否かを測ろうとした、つまらない小道具。

「それでは、参りましょう。オースティンさま」

《マーリ》は柔和に微笑んだ。冷淡さが勝るライラではなく、《火(サライ)の化身》といわれる《マーリ》の笑みである。こうなると、もはや彼女がマーリではないことが嘘のようだった。

「外に出る前に、ひとつ訊きたい」

「なんなりと、ムストフ・ビラーディ」

 答えた声は、ライラのものだった。

「なぜ、おまえが耳飾りを身につける? それは僕が皇女に贈ったものだ」

「ご不快はお察しいたします。ですが、どうかご容赦くださいませ。皇女殿下は、ムリーラン宮をお出になりませんので、あまり日に当たられません。肌がお弱いのです」

 ライラは事務的にいう。「オースティンさまからお手紙と耳飾りが届いたおりには、それは喜ばれました。けれど、耳飾りをお試しになって、すぐに肌が荒れてしまわれたのです。医師の話では、銀は姫さまのお肌に合わないのではと。ですから、せめて影姫たるわたくしが身につけて外出せよとの、姫さまのご命令です」

「ふん」

 オースティンはおざなりに相槌をうった。相手がマーリであれば芝居じみた反応をしておくべきだが、そうすべき対象のいない場所で、しかもライラ相手に気を遣う必要はない。彼女はすでにオースティンの共犯者であり、そもそもこの小さな反逆に踏みださせたのはライラなのだ。彼女の故意の「詰めの甘さ」がことの元凶であり、それがオースティンを揺るがし、期待させ、いらだたせもする。

 ライラの目的は何なのか。彼女の意図に、望みをかけてもいいのか——。少年にはつかめない。どうすることもできない。だから少年は、アグラ宮殿に要求を突きつけた。どうしようもない不安と焦燥をごまかすため、故国にいたころの安心感を取り戻すために。マーリの名さえあれば要求は通り、願いは叶えられる。代わりに、美徳は捨て去らなければならない。

 婿入り先の信頼を得ねばならない、とアレンはほのめかした。大公閣下と皇帝陛下と皇女殿下がお許しになるのなら、とアレンは言った。

 アレンはきっと激怒するだろう。今や、アンジューの自殺未遂を笑えない立場になった。アンジューが他の男のために刃を握って夫のカリエン・ムルーワに疎まれたように、自分もまたラージャスタン中の憎悪と軽蔑の的になるかもしれない。覚悟なき《英雄》の子孫として、自分にも他人にも嘲られる人間となる。

「……行くぞ、マーリ」

 オースティンは歩きだす。

「旦那さま、この装いはおかしくないでしょうか?」

《マーリ》は無邪気に尋ねて、くるりと回ってみせた。彼女の回転に合わせて、着物と豊かな髪とがなびいた。

 少年は舌うちし、

「いまいましい女だな」

「ならば、なぜあのような要求を?」

 ライラは皮肉っぽく口角をあげると、体重の半分を預けてきた。オースティンは彼女の《マーリ》としての行為に嫌悪をもよおしながらも、その瞬間に心臓が跳ねたことにも気づいていた。彼女への憎しみとは裏腹に、ライラの重みを、何も知らないころに《赤の庭》を散策したときと同様、浮かれた気分で感じている。けれど、

「本音をいえない人間ばかりに囲まれていては、息が詰まる」

 少年はただ、そう吐き捨てた。

「そうですか」

 ライラはべつだん心を動かされたふうでもなく、依然として少年の腕を抱いていた。

 二人はムリーラン宮を出た。大勢の護衛や女官を引き連れて、宮殿の隅にある慈善園へと向かう。慈善園は皇宮の城壁内にあって数多の孤児を養う、その名のとおり皇帝の慈善事業だった。身寄りのない者を集めて皇家の信奉者を養成する機関は、厳密にはラージャスタン民衆とはいいがたいものの、彼らの大半はいまだ子供であり、通常は思想が未成熟である。その完成を促す一環としての訪問は、オースティンの仕事初めには相応しかった。

 少年少女が到着すると、慈善園の生徒が歓声をもって二人を出迎えた。幼児から夫妻と同世代の者まで、慈善園校舎の中庭に詰めこまれて必死に手を振っている。そのさなかに、仲睦まじげに腕を組んでやってきた第一皇女夫妻は、予想以上の歓迎に少々戸惑いつつも、生徒たちの群れのあいだへと進んでいく。

「ムストフ・ビラーディ(婿殿)・オースティン!」

「ムストフ・ビラーディ・オースティン!」

「ラージーヤ(皇女)・マーリ!」

 歓声はやがて、二人への呼び声となった。夫妻ははにかんで目を見合わせたが、ためらいがちに微笑み、声に応えて手を振る。ますます子供たちの声が高まった。

 二人の前に、次々と小さな手が突きだされた。オースティン公子とマーリ皇女は、一人一人の手ごとに立ち止まり、優しく握りしめた。《英雄の現身》と名高い少年が微笑むと、女子生徒の中には卒倒する者も現れた。オースティンは彼女を抱きかかえると、慈善園の校舎に入っていく。その途中で目覚めると、女子生徒は恥じらって走り去った。どっと笑いが起こった。

「《英雄の現身》オースティンさま、ラージャスタンへようこそ!」

「歓迎します、オースティンさま!」

「殿下、こちらを見てー!」

 落ちつきのある男子生徒の声も、妙にはしゃいだ女子生徒の声も、すべてがすべてオースティンたち夫婦に好意を向けていた。全身で二人の結婚を祝福し、オースティンとマーリの生涯が豊かなものであるようにと願っていた。そのあとで、ラージャスタンの栄光を叫んだ。慈善園の教師たちが最初に声をあげ、生徒たちはそれを真似た。炎よ、我らがラージャスタンを嘉(よみ)したまえ、というお決まりの文句である。

 彼らは知らない。オースティンが、《マーリ》つまりライラが、反旗を翻す者であることを。例えば、皇帝を戮しにかかるとか、宮殿に火をつけるとか、そういった暴力的なかたちではなくとも、他ならぬ「皇女夫妻」たる二人が、密やかに反逆の思いを懐いている。己の望みのため服従せず、己の望みのため皇家に抗う——ささやかに。それでも、叛意は叛意だ。

 それを知ったとき、彼らはみなオースティンの敵となるかもしれない。ライラの叛意はオースティンにしか悟りえないものであり、彼女は何より影姫だから糾弾はされまいが、オースティンは異邦人である。異なるものは、いともたやすく敵になりうる。

 そのとき、ここにいる全員が罵詈雑言を投げつけるだろうか。その純朴さと素直さで、オースティンを憎むだろうか。公子たる少年には、そうした可能性はひどく堪えた。自分とて、皇女婿としての責任を果たしたい。心のみは抵抗するという、高潔で自己満足的なかたちの反旗を翻して、一生を送りたい。

(それでも、……)

 校舎内の一室に通されたオースティンは、《マーリ》とともに椅子に座らされた。そこに、学級ごとの代表者が続々とやってきて、夫妻にあいさつをしたり、日ごろの勉強やアグラ宮殿で奉仕する未来について語ったりした。

 途中から、オースティンがうつろになった。《マーリ》がいち早く気づいて、お疲れですか、と訊いてきたが、少年は応じなかった。周囲がしきりに気遣ったが、公子はなおもうつむくばかり。

「オースティンさま、旦那さま」

《マーリ》——ライラの声が少年の耳を通り過ぎた。「ご体調が優れないようでしたら、一度サイアト宮に戻って休憩いたしましょうか」

「ムストフ・ビラーディ?」

 聞き覚えのない声に、オースティンはようよう顔をあげる。すぐそばで、同じくらいの歳らしい女子生徒が、気遣わしげに公子の顔色をうかがっていた。一曲捧げようというのだろう、腰には木製の笛が差してある。

「きょう予定が遅れたのも、ご体調のせいですよね? むりをなさらなくとも、また機会はあると思います。休まれたほうがいいですよ」

 女子生徒は、気軽にオースティンの額に触れた。少女のてのひらはひんやりとしていた。熱はないみたいですね、と何げなくつぶやいた少女は、しかし衛兵に殴られて床に倒れこんだ。同席していた慈善園の職員たちが、悲鳴と叱声を同時にあげた。

「キサーラ! なんてことを……!」

「あ——す——すみません」

 女子生徒は青ざめる。衛兵によってむりやり頭を下げさせられた彼女は、自分の振るまいのまずさを解したあとで、自ら床に頭をつけた。職員たちや衛兵は彼女と声を合わせ、必死の体でオースティンに許しを乞う。《マーリ》は、どうなさいますか、と、少年に判断を委ねた。

 オースティンはふらりと椅子を立つ。女子生徒のそばへ、ゆっくりと近づいた。少年が彼女を見下ろしたとき、女子生徒はもういちど殴られると思ったのか、とっさに身構えた。が、オースティンは静かに腰を降ろし、面をあげるよう少女に告げた。女子生徒は当惑しながらも、命じられるままに顔をあげる。

 少女が見たのは、少年公子の涙だった。彼の《曇り空の瞳》とうたわれる灰がかった青の眼から、とうとうと流れている。隠そうともせず、逃げようともしない。その涙の美しさを、彼自身が知っているとでもいうように。

「ムストフ・ビラーディ……?」

「手を、キサーラ」

 と、少年は言った。女子生徒がおずおずと手を差しだすと、それを愛おしげに頬に押しあてる。

「——君の手は、冷たくて気持ちがいいな」

(婿という立場にある者として、公子として、筋が通っていなくても、……それでも)

 真っ赤になったキサーラにはかまわず、少年はその優しい手を離さない。(懐かしい、優しい声に、手に、——会いたい)

 ——アレン。

 すまない、情けない主で。おまえをそばにおかなくては、僕は生きていけない。……少年はひとりごちる。そして、今はまだはるか故国に住まう乳兄弟に、謝った。彼は、甘えるな、といって怒るにちがいないが、最後には必ず許してくれるだろうことも、わかっていた。

 オースティンが公務の遂行と引き換えにアグラ宮殿に突きつけた要求は、三つである。

 ひとつ、ムルーワ伯爵邸に閉じこめられているアンジューを救いだし、アグラ宮殿内に客人として住まわせること。少年は、一人でも多くのトゥルカーナ人を侍らせ、自分の周囲を小さな故郷に仕立てあげたかった。

 ふたつ、乳兄弟アレン・クラヴァールをトゥルカーナから呼び寄せ、サイアト宮といわずムリーラン宮といわず、オースティンの身のまわりの世話をさせること。後宮であるムリーラン宮には、通常、皇帝と婿以外の男は入れないが、そこは融通をきかせてもらう。アレンの存在に女官や皇女が安心できなければ、精霊の力で何らかの制約を課してもいい。

 三つ、オースティンに関わりをもつ女官は、《五星》末席のライラ・イーリに限ること。皇家におけるすべての伝達は彼女を通して行うものとし、ライラ以外の女官はオースティンの部屋に近寄ることも許さない。

(なんて愚かな——)

 少年は女子生徒の手を握ったまま、密かに自嘲した。横目に、心配そうな表情をしたライラを見やる。(それでも、これが僕の望みだ、……アレン)

 ファンルー・イーリは、オースティンの三つの要求を容れた。実際、要求が伝えられた約二時間後にアンジューはフェイジャ宮入りし、オースティンの身支度はライラひとりがこなした。六週間が過ぎれば、おそらく大激怒のアレンが今いちどファテープルにたどりつくのだろう。彼はオースティンをきっとなじるだろう。そのあとで、許すだろう。

 信念や美徳を捨てても、オースティンはアレンの声が聴きたかった。顔を見て、以前のように思うぞんぶん話がしたかった。

 愛憎というもののやるせなさに、少年はひとりでは耐えられなかった。長年、世間から《英雄の現身》としか見られず、ゆえに多くのものに対し怠惰だったけれど、実はそれはまったき孤独ではなかった。からだがはち切れそうな寂しさを、オースティンはライラという少女に出会って初めて知った。

 この孤独は、己の孤独なのか、——少女の孤独なのか。けれど、ぐうぜん出会った優しい手にもすがりたくなる今の少年には、冷静にそんなことを思う余裕はなかった。

 

To be continued.

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