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​精 霊

第二部 ラージャスタン・アグラ宮殿編

第5話「火の宮」(3)

 インクを流しこんだような闇だった。

 シフルはそこで大の字になって寝ている。二日間まともに眠れなかった反動で、とうぶん目覚めそうにない。

〈メルシフル〉

 ラーガが呼んでいた。母の僕たる青い妖精が。〈起きろ、メルシフル〉

〈何だよ。眠い〉

 シフルはくぐもった声で答えて、それでもなんとかまぶたを持ちあげた。ラーガの濃青の瞳が、少年の顔をうかがっている。

 あたりはやはり真っ暗で、淡い光を帯びたラーガと自分の他は何も見えない。さっき、朝がきたのではなかったろうか。朝の到来とともに眠りについた覚えがある。シフルはラーガに視線を投げた。睡魔に呑まれかかっているシフルの眼は、そのつもりがなくともかたわらの妖精をにらみつけた。

〈ここはおまえの夢だ〉

〈夢?〉

 ラーガが手をさしだすので、シフルはしぶしぶ起きあがった。

〈正確には、夢もみないほど熟睡していたが、強制的に意識を半覚醒させた〉

 妖精は少年の手を握ったまま、歩きだす。〈時姫(ときのひめ)さまからお話がある。意識だけをトゥルカーナの森に連れていく。時姫さまの屋敷へ〉

 シフルの頭は眠気でかすみがかっており、言葉の半分も理解できなかった。今すぐラーガの手を振り払って寝床に戻りたい。が、《時空の狭間》での経験からいって、手は離さないほうがいい。シフルは大人しくラーガに引かれていくことにし、暗闇の道を進みはじめた。

 闇が去り、森に出た。朝の森は白い霧に覆われており、ここを往く者は空(スーニャ)の結界が張られていなくとも惑うにちがいない。シフルは睡魔と戦いながら、おぼつかない足どりでラーガに従っていく。

〈連れてきました〉

〈ご苦労だったね、ラーガ〉

 二人の声が聞こえた。シフルはなんとか目を開ける。どうやら着いたらしい。

〈そうとう疲れているようだね〉

 時姫がつぶやく。〈まあ、あんなものに二日も揺られていたうえ、真夜中に叩き起こされて今度は馬車と舟だ。あれで疲れないやつはよほどの体力バカだね〉

〈時姫さま。早くしないと、メルシフルの意識がまた眠りに落ちます〉

〈今ここに引きずってきたのは、酷だったか〉

 シフルの実母たる女は、声をたてて笑った。〈では、ひと言だけいっておくよ〉

 

 

(あ)

 

 

 遠くなる。時姫のいる空間から、引き離される。

 

 

〈何もかもを知ろうとは思わないことだ〉

 と、時姫は告げた——〈知らないほうがいいこともある。……知らないということが、身を守ることも〉

 

 

 感覚が、どこかに引きずられていく。

 

 

(——ビー……!)

 

 

 シフルはもう一度、闇の中に放りだされた。

 少年の思考はそこで止まり、あとは静けさと安らぎとに包まれた。シフルは何も感じず、何かを知りたいとも思わず、ひたすらにその心地よさをむさぼった。

 

 

 目が開いたとき、アグラ宮殿の客室は昼間の明るさだった。

 誰にも妨げられることなく眠りつづけ、自然の欲求によって覚醒しただけに、頭の中には一点の曇りもなかった。すがすがしい目覚めである。

 シフルは跳ね起き、室内を見回した。ルッツとメイシュナーはまだ寝息をたてている。

「……?」

 夢はみなかった、とシフルは思う。

 それなのに、何かがひっかかる。頭はすっきりしているのに、胸のあたりにつかえがあった。

「ま、いっか」

 シフルは思いきり伸びをした。何にせよ、新しい日にふさわしい爽快な気分なのだ。

 身なりを整え、少年は廊下に出ていった。昼の光のまぶしさに眼をすぼめ、次いで目の前の光景に息を呑む。朝方は気づかなかったけれど、客室の正面にひろがる庭園が、鮮やかな色彩を誇っていた。芝の若々しい緑、花の赤や黄や青、常緑の深い色。それぞれが雨季らしい湿り気を帯びてきらめいていた。

 水路を中心に左右対称に造られた庭園には、生命力があふれている。人工的に整備されてはいるが、植物本来の美しさをねじ曲げることはしていない。今朝がた通りかかった庭園には、プリエスカでもおなじみの幾何学的な刈りこみもあったが、どうやらこの庭園とは趣旨が異なるらしい。

 シフルは水路に沿って歩いていく。

 水路の果てに、石積みの壁があった。壁には窓のような穴が空いており、そのむこうに泥川が流れているのが見える。おそらくは先ほど舟で渡ったジャムナ川だろう。

(降りられそうだな)

 穴に近づいてみて、シフルはひとりごちた。庭園は城壁の上にあったが、高さにして五メートルもない。それに、すぐ下が川である。よほど運が悪くなければ、飛び降りても問題はないだろう。さらに、壁の穴はかがむ必要もないぐらい大きい。今後、何らかの問題が起きた場合に、ここから宮殿を脱出することも不可能ではなさそうだ。試しに、シフルは穴に足をかけてみた。

「——おい」

「あ、すみません」

 不機嫌そうな声に制され、シフルは足をどける。考えてみれば、いま自分がしていることは、他人の家の塀に土足でのぼっているも同然だ。シフルは縮こまった。

「そこは危ない」

「へ?」

 シフルは声のほうを振り返る。

「宮殿に入るとき、火(サライ)の結界を越えただろう。そこは何もないように見えるが、術者の許可なしに乗り越えてジャムナ川に飛びこめば、とうぜん火(サライ)の洗礼を受けるはめになる」

「あっ……」

 背筋に不快な汗がつたった。ということは、もう少し身を乗りだしていたら、この人の忠告がなかったら、丸焼きになるところだったのか。シフルは思わぬ危険に、苦々しい笑いを浮かべるしかなかった。引きつった笑顔をその人に向け、深々と頭を下げる。

「あッ、ありがとうございます! 助かりました」

 シフルは何度も腰を折った。「オレっ、朝にここ着いたばっかりで、まだ状況をわかってなかったみたいで! これからはちゃんと心がけます」

(情けない)

 シフルは地団駄を踏んで暴れたくなった。自分の今いる場所が特殊な場所だということは、重々承知していたはずだ。ラージャスタンのマキナ皇家は秘密主義で知られており、彼らの住まう宮殿に何らかの仕掛けがあったとしてもおかしくない。何より、結界のことはとっくに知っていた。女官ファンルーと手をつないで結界を越えたのは、つい今朝がたの話。どうしてこの庭園が結界の影響下にないなどと、浅はかな考えをもてたのか。

「そうしたほうがいい」

 その人はうなずいた。「アグラ宮殿には蛇が棲んでいる」

「蛇」

 つぶやいて、シフルは改めてその人を真正面からみつめた。シフルの視線を受けて、静かな灰青の瞳が若干細められる——シフルの灰青の瞳ではなく、その人の灰青の瞳が。

 彼がまばたきすると、灰青の瞳を包む黒いまつげが、上下に動いた。長いまつげは、彼が女だったならさぞ自慢だったろう。しかし、彼はシフルと同じ年ごろの少年であって、眼球を刺しかねない長さのまつげを誇るかどうかは疑問である。

「あるいは狸か狐か。いずれにせよ、ろくなものじゃないな」

「そんなこと、言っていいんですか?」

 シフルが問うと、

「伝わると、まずい」

 彼は淡々と応じた。「黙っているんだな」

「……プリエスカ語がお上手ですね」

「これが僕の仕事だ」

 つややかな黒い髪をかき、彼はさも当然のように答える。「《これがおまえの仕事か。ブリエスカの留学生》」

 その少年のラージャ語は、いつまでも耳を傾けていたい、心地よい響きをもっていた。シフルはその声に酔った。が、言葉の途切れた瞬間に醒めた。シフルは自分の手をつねる。アグラ宮殿に蛇や狸や狐がいて、シフルをだまくらかそうとするならば、この少年こそがそれに他ならないのでは。

 それぐらい、いま目の前にいる少年は美しかった。現代プリエスカ語はさほど耳ざわりのいい言葉ではないからいいとして、ルグワティ・ラージャ(皇帝の言語)の流麗な響きたるや、その名のとおりである。現地人に学んだというセージもかなりのものだけれど、この少年は彼女の比ではなかった。

 声だけではない。少年の灰がかった青い瞳は、自分と似たような色とは思えないほど物憂げである。髪の黒さ、つや、陶器のごとき白い肌。彼が男であることを考えると微妙な気分になるけれど、男か女かという以前に、目を惹かれずにはいられない。自然と伸びた背筋のさりげなさは、育ちのよさからくるのだろうか。

(なんだっけ……、そういうの。どこかで聞いたような)

 シフルは記憶を探る。おまけに、なぜなのかわからないが、少年を見ていると不思議な既視感を覚えるのだった。瞳の色が自分と近いこともあるが、それだけではない。

「ときに」

 と、少年はふたたび口を切った。「メルシフル・ダナンというのは、おまえか」

「え……」

「ちがうのか?」

「……いや」

 シフルはためらいがちに頭を振る。「オレです、けど」

「ふん、そうか」

 少年は踵を返した。シフルは追いすがって質問をぶつけようとしたが、やめた。さしたる意味などないのかもしれない。単純に、留学メンバー四名の名前と特徴を把握しているだけなのかもしれない。暗記したばかりの名前を、確認しただけかもしれないのだ。

 青いシャツにズボンという、非ラージャスタン式の服装をした少年を、シフルは黙って見送った。少年は水路脇を足早に進んでいくと、廊下へあがる。それと同時に、部屋からセージが出てきたので、シフルは手を振った。自分の中の不可解な感触を払拭するように、思いきり力をこめて。

 ところが、セージは手を振り返しはしなかった。セージはそれより先に、美しい少年に気づいた。少年のほうも、セージに目をやったようだった。

 すれちがいざまに、セージは微笑んだ。

 あいさつをするでもなく、無言で微笑んだのである。それから、シフルに応えて腕を振りあげた。

「シフル! 起きてたの?」

 シフルはもういちど手を振りながら、混乱しだした頭を抱える。

 ——変だ。どう考えてもおかしい。

 あれは誰なのか? どうして見覚えがあるのか? セージの反応は何なのか? 疑問が少年の頭の中をかきまわす。そうこうしているうちに頭が痛くなってきて、シフルはうめいた。

「どうしたの、まだ寝不足?」

 セージはシフルに駆け寄ってきた。シフルは口を開きかけたが、どういうわけか喉から声が出てこない。心臓が棘に突つかれているようで、ちくちくする。美しい少年の背中と、セージの微笑が、脳裏に蘇る。

「……んー、今度はよく寝たよ」

 と、シフルは言った。そうとしか言えなかった。

 

 

 女官ファンルー・イーリがやってきたのは、それからすぐである。

 ルッツとメイシュナーは熟睡していて目覚めない。二日間も乗り物酔いに苦しんでいたルッツはともかく、メイシュナーは惰眠を貪っている。むりに起こして不機嫌になられても困るので様子を見ていると、いきなりメイシュナーの胃が鳴りだした。その直後、彼はブランケットを蹴り落とし、ベッドから飛び下りた。

 あとずさったシフルに、メイシュナーは人懐こい笑みをむける。

「腹へらん? ダナン君」

 ファンルーは多少の現代プリエスカ語を習得しているのか、あるいは言葉を知らなくともわかるのだろう、鈴を転がしたような笑みをもらし、

「《では、そろそろお支度を始めさせていただきます》」

 と、三人に告げた。「《ルッツさまは、ご欠席でよろしいですか》」

 ルッツの反応はない。代わりにシフルとセージが、《よさそうです》と返した。もちろん、メイシュナーは黙ってニタニタしているだけだ。

「《メアニー! メアニー、おいでなさい》」

 ファンルーは手を叩いて他の女官を呼んだ。ファンルーと同じ紫のスカートをはいた歳若い女官が、部屋に駆けこんできた。美しき女官のこめかみが、わずかに痙攣する。

「《走らないでよろしい!》」

 ファンルーは鋭く叱責した。少女といっていい年ごろの女官は、あわてて低頭する。

「《すみません! それで、何でしょう》」

「《そちらにいらっしゃるルッツさまは、宴を欠席して引き続きお休みになります。お目覚めになったら、昼餉を運んでさしあげて。それと》」

 ファンルーは女官をにらみつけた。「——《留学生のかたがたにごあいさつは! おまえ、自分の立場をわかっているのッ?》」

「《ごめんなさいごめんなさい!》」

 メアニーと呼ばれた女官は頭を下げる。「《わたしは《五星》第三席、メアニー・イーリと申します。今日からみなさまのお世話をさせていただきます。何なりとお申しつけください!》」

 女官二人のやりとりに、アグラ宮殿の女官もいろいろいるんだな、と留学生たちは思った。ツォエルのように微塵の隙もみせない者もいれば、ファンルーのように至極まっとうでありながら、ぬかりの多い部下に悩まされて冷静さを失ってしまう者も、メアニーのようなあわて者もいる。最初に遭遇したのがあの「蛇のごとき」ツォエルだったから、シフルはアグラ宮殿を蛇の巣ぐらいにみなしていたけれど、やはりラージャスタンに仕えていても同じ人間なのだ。

 ——アグラ宮殿には蛇が棲んでいる。

 と、先ほど出会った少年は言った。

(あれも、ツォエルさんのことなのか?)

 だが、あんな場所にいるということは、彼もまたアグラ宮殿の住人なのだろう。客室前の庭園で居合わせたことと、ラージャスタンらしからぬ服装を考慮すると、彼は宮殿の客なのかもしれない。宮殿の客が、世話になっている皇家を貶めるような真似をするとは何ごとなのか。ただの怖いもの知らずなのか。それならば、彼のいったとおり、シフルが黙っていればすむ話だが。

 それにしても、これで「イーリ」の名をもつ女官は三人めである。「蛇のごとき」ツォエル・イーリ、泣きぼくろが魅力的なファンルー・イーリ、子供子供して落ちつきのないメアニー・イーリ。三者は容姿も性格も似ていないので、おそらく「イーリ」とは、アグラ宮殿で働く女官たちに与えられる名前なのだろう。

 以前、シフルが教授会に乱入した際に、

 ——イーリは特殊な意味あいをもつ名でございます。個人をそれと呼ぶのには相応しくありませぬ。

 と、ツォエル・イーリもいっている。あながち誤りでもないだろう。

「《メアニー、失敗しないようにね。さあ、お三方はわたくしに続いてくださいませ》」

 ファンルー・イーリの先導に従って、三人の留学生は廊下に出た。隣の建物に渡ると、男女に分かれて部屋に入っていく。そこで、ラージャスタン式の服を合わせた。シフルとメイシュナーは白く長いシャツをはおらされたうえで、女官たちが身につけているものと同じスカートをはかされた。色は紫ではなく白だったが、スカートを女性のものだと考えている二人は、いぶかしげな表情を隠さない。

「《袴と申しまして、ラージャスタンでは男女関係なく着用いたします》」

 ファンルーに教えられ、シフルとメイシュナーは納得した。精霊召喚士のローブも裾は長いが、男女ともに着用するもので、かたちも男女のちがいはない。あれと似たようなものだと思えばいい。

 とはいえ、ローブは制服の上からはおるもので、下には普段どおりにズボンを着ていたから、裾が邪魔になる程度だった。一方の袴はズボンを脱いで着るので、何やら危うさと煩わしさがつきまとう。ついでにシャツも、ボタンもなしに前で合わせ、腹部を紐で巻いてあるだけなので、気を抜くとはだけてしまいそうだった。はっきりいって動きづらく、合理的とはいいがたい。

 シフルとメイシュナーは交替で鏡を見た。衣装はラージャスタン式、頭にはクーヴェル・ラーガ(青い石)の光る理学院Aクラスの校冠。少年たちの皮膚の上で、プリエスカとラージャスタンの二ヶ国が相まみえている。クーヴェル・ラーガの原産地のことを思えば、三ヶ国かもしれないが。

「よしっ」

 シフルは気合いを入れた。これからシフルは、望むと望まざるとにかかわらず、シフルという個人ではなく、プリエスカ学生の代表として、人目にさらされる。

「はりきってんなー、ダナン君」

 メイシュナーが鏡をのぞきつつ、ちゃかしてきた。

「当ったり前だろ?」

 そういわれると気恥ずかしい。別に、国のために何かをしたいというわけではないが、自分の責任でプリエスカの評判がいっそう失墜するのは避けたいし、役に立てるものなら立ってやりたかった。たとえ彼らがシフルの出国を阻止しようとしたとしても、特待生として入学させてくれた恩は返したい。

「メイシュナーは緊張しないのか?」

「そうだなあ、少しは」

 メイシュナーは答える。「でも、好きにやればいいじゃん。タダで留学させてもらってるからって、ない見栄は張れんだろ」

「ふうん、ドロテーアがいないときは、けっこうまともなんだな」

 そう言って入ってきたのは、着替えをすませたセージだ。彼女も白い袴を着ている。姿勢がよく、しゃんとしている彼女には、この衣装がとても似合った。シフルは褒めようとして、心臓がちくちくした。なぜかわからないが、先ほどの少年とセージとの秘密めいたやりとりを思いだした。

「うっせえよ、ロズウェル。おまえはムカつく。すっげえムカつく。何度も何度も人を水(アイン)ん中に閉じこめやがって」

 メイシュナーは唇を尖らせる。セージは薄く笑った。

「私もおまえが邪魔だよ、メイシュナー。毎度毎度、どうでもいいことでドロテーアにつっかかって、騒ぎを起こす。いったい、ドロテーアの何がそんなに気に食わないんだか。まわりに迷惑をかけてまで、けんかを売るべき相手なのか?」

「好き嫌いに理屈なんてあるかよ」

 メイシュナーはそっぽを向いて、部屋を出ていく。「とっとと行こうぜ。腹がへって死にそうだ」

「《申しわけありませんが、会場に向かう前に説明がございます》」

 ファンルーがメイシュナーを呼び止める。メイシュナーは一刻も早く腹を満たしたい様子だったが、しぶしぶ戻ってきた。

「《キサーラ、あれを》」

「《はい、ファンルーさま》」

 紫のスカート——袴を着た四人めの女官が、巻物を携えて現れる。

「《みなさま、お初にお目にかかります。わたしは《五星》末席、キサーラ・イーリです》」

 彼女も少女というべき年齢だったが、先ほどのメアニー・イーリよりはそれらしく振るまっている。「《これは、ラージャスタンの歴史を物語風にしたものの写しです。今から始まる宴では、みなさまをはじめ、お客さま全員でこれを順番に読んでいただく決まりです。本来は暗誦ですけど、今回は見ながらでかまいません。あらかじめ分担をお教えしておきますね》」

 そう言って、キサーラ・イーリという女官は巻物をひろげた。羊皮紙の上に、ラージャ語の装飾文字が延々つらなっている。あまりにも装飾が大胆なので、装飾文字に慣れないシフルには読みにくかった。何しろくねくねと曲がったり、蔓やら花やらが生えていたり、あげくの果てに雲が飛んでいたりするのだ。少年にしてみれば、もはや文字ではなかった。

「《本日、ブリエスカのかたがたのほか、六十七名のお客さまがご同席なさいます。みなさまを加えて七十名でこれを読みきります。みなさまには皇帝陛下のおそばに座っていただきますので、計算すると……、ここですね。ここから九行ずつ読んでいただきます。順番はどうしますか》」

 話しあいの結果、トリだけはごめんこうむりたいと主張するシフルが一番、同様に言い張るメイシュナーが二番、トリも辞さないセージが三番となった。

「《あの、読みを確かめさせてもらってもいいですか? 装飾文字がわかりにくくて》」

 シフルはおそるおそる尋ねる。女官たちは《どうぞ》と言ってくれたが、メイシュナーが強硬に反対した。空腹が臨界点に達しているという。おまけに食事の前にこんな長ったらしい物語をやるのだ、もはや一刻の猶予もないと。

「ひっかかったら教えるし、とにかく始めてもらおうぜ」

「私も助け舟だすよ」

 セージも腹を空かせているようだ。

「《わたしも、みなさまのうしろにいます。いざというときはお呼びください》」

 キサーラ・イーリは微笑む。

「《え……、いいんですか》」

 女官はみなとてつもない美人揃いであり、キサーラも例外ではない。シフルは思わず、どぎまぎと聞き返した。

「《ええ。ご心配には及びません》」

「《じゃあ、すみません。よろしくお願いします》」

 シフルは安堵の笑みを浮かべた。すると、キサーラの笑顔に華やぎが生じた。二人は意味もなく微笑みあう。かたわらのセージが、それに反比例するように表情をこわばらせたのが、シフルには不思議だった。

To be continued.

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