精 霊 呪 縛
第二部 ラージャスタン・アグラ宮殿編
第6話「国ふたつ」(3)
昼食の時間、シフルとセージは慈善園に残っていた仲間二人と合流した。
ルッツとメイシュナーは揃って午前の時間割をこなし、客舎に戻ってきたものの、わざわざ反対方向の道順を選んで別々に帰ってきたというから、ひとえに仲が悪いといってもムダに根性がある。だが、客舎でシフルとセージに再会した二人の台詞は、揃いも揃って、
「ずるいよ、二人とも」
であり、どこか似たところもある二人なのだった。
「書道のあとは何やった?」
シフルはルッツに尋ねた。女官ファンルーが運んでくれた食事を囲み、四人は思うぞんぶん現代プリエスカ語でしゃべる。ファンルーとメアニーが食事の世話をするべく控えていたが、彼女らがプリエスカ語を理解できないと思えば、肩の力は自然と抜けた。
「歴史学に代数学」
ルッツは答える。「歴史学のほうはけっこうおもしろかったかな。プリエスカのラージャスタン史なんか、たかが知れてるからね」
「へー、やっぱ明日は出ないとな。代数学は?」
「ほれがふごひんは」
メイシュナーはリスのごとく頬に米をためている。ルッツは軽蔑の眼を向けた。
「汚い」
「まあまあ。で?」
メイシュナーも例によってルッツをにらんだが、シフルのとりなしがかろうじて効いた。メイシュナーはレモン水のカップをつかむと、米を喉に流しこむ。育ち盛りの早業である。
「それがすごいんだよ。あの『一組』にいるのって最高でも十六、七歳で、十四歳ぐらいがいちばん多いじゃん?」
シフルたちが編入した年長者のクラスは、「一組」と呼ばれていた。最年少の四組まで、四クラス合計八十人が慈善園生のすべてだ。「けど、代数学はAクラスレベルと大差ねえ問題やってる。十四なんて、理学院じゃほとんどが初級(エレメンタリー)かせいぜいDクラスのヒヨッ子なのにな」
「レベルが高いというよりは——」
ルッツは肩をすくめた。「——死にものぐるい、だね」
居眠りやよそ見をしたり、内職にいそしんだりする生徒は一人もいなかった、とルッツはいう。メイシュナーも、書道はほぼ自習といっていい形態だからわかりにくかったが、自分の優秀さを教師に見せつけることのできる代数学という授業では、生徒たちの態度は鬼気迫るものがあった、と述べる。教師が挙手を求めれば、挙手せぬ者はない。可能か不可能か、と問われれば、不可能という者はない。
「だから、どんどん問題のレベルがあがっていくんだよ。意欲がある、といえばそうかもしれないけど、あの年齢の人間としては異様だね」
「ふーん」
シフルは損をした気分になってくる。慈善園、ひいてはラージャスタンという帝国の特殊性に直面する機会を逃したのだ。とはいえ、明日以降いくらでもお目にかかれるものではあるが。
「つくづくプリエスカとはちがう国だな」
セージがつぶやく。
「当たり前だよ」
ルッツは金の瞳を細めた。「というより、プリエスカ『が』ちがうんだ」
「どういう意味?」
セージは問い返す。
「ラシュトー大陸全体としては、中央集権国家が多い。ラージャスタンしかり、カルムイキアしかり、スーサしかり、ニネヴェしかり。トゥルカーナは特殊、サーキュラスは元はスーサの一部だからおいておくとして、いわゆる古い大国はみなそうだ」
ルッツは猫の眼を光らせた。「プリエスカ、つまり前のロータシアは、古い五大国のなかでは一風変わってるよね」
「地方分権か」
セージは合点したように相槌をうつ。
「そのとおり。ロータシアの帝政はハリボテにすぎず、地方の存在が常につきまとっていた。今もね」
ルッツはそこでいちど区切り、続けた。「だから俺たちには、何市出身だって意識はあっても、俺たちの王さま、という意識はない。王さま万歳の教育を受けていないのは、大陸的には稀なことだよ。運がいいんだか、悪いんだか?」
ルッツは楽しげに語尾をあげる。こういう危うい話題を楽しげにするのは、ルッツのよくないところだ。
「いいんだろ?」
と、シフルは胸を張る。「おかげで、偏った人間に育たなくてすむじゃないか」
「おかげで平和ボケしてるんだけどね」
シフルはうッとつまった。つい先刻、火(サライ)一級の結界に迷いこみかけたのは、他でもない自分である。ルッツは、おおかた教室を去ってからのシフルの行動に察しがついているようで、ふふっと笑った。
「シフルはもっと気をつけなよ。そうでないと、死ぬよ」
「……ごもっとも」
(結局、油断すんなってこと!)
シフルは香辛料のきいたスープを飲みながら、今後の抱負を再確認するのだった。
昼食後は、皇宮警護の任務である。
とはいえ、何の訓練もなしでは皇帝を守るどころかシフルたちの身が危ないので、当面は訓練期間になる。理学院でも剣術や護身術を多少習いはしたが、かたちを教わるだけで実戦とはほど遠いし、何よりプリエスカで暮らす学生たちには相手を本気で叩きのめそうという気概がない。戦争への意識はないでもなかったが、若い世代ほど実感は薄く、絵空ごとのように感じる。
多くの召喚士を輩出し、前のプリエスカ・ラージャスタン戦争を支えた王立理学院召喚学部の学生さえも、大半が戦争の記憶をもたず、平穏に日々を過ごしている。学生のなかでは最年長といっていいカウニッツも、今年二十二になるはずであり、十六年前は六歳である。前の戦争では、戦場が今のパチア自治州近辺とラージャスタン国境地帯に限られており、国土を蹂躙されることもなかったため、質素な生活を余儀なくされた以外はとりたてて生々しい思い出もないだろう。
地方色が強く、国という枠を重んじないプリエスカの民——それも子供には、必ずや打ち倒さねばならない敵、という発想がない。「敵国ラージャスタン」といういいまわしは、戦争経験のある大人によって刷りこまれたもので、詩歌の丸暗記に似ている。恐ろしい言葉はそのまま恐ろしさをともなって子供を支配するものの、真にそれを理解するための土台に欠けていた。
そんなわけで、ルッツのいう「平和ボケ」は、まさしくシフルたち学生にぴったりの精神状態だった。誰かが突然じぶんに襲いかかるなんて、夢にも思っていない。危機意識が欠如した彼らでは、たとえ宮殿の警護に立ったとしても、十中八九、侵入者とそうでない者の見分けがつかないだろう。
アグラ宮殿側も、プリエスカの平穏な情勢から、留学メンバーの「平和ボケ」事情を予測していたのだろう。シフルたちは第一に、マキナ皇家には敵がいるということ、何があろうとも敵は倒さねばならないことから学ぶことになった。
昼食後、留学メンバーの客舎を訪れたのは、慈善園で歴史教育を担当する老人である。キナリーと名のった教師は、シフルとセージの二人と対面するにつけ、
「《こちらの二人は初めてかね》」
と、好々爺の体で首を傾げる。書道教員とのいざこざを正直に話すと、《ふむ、さもあらん》とひげの下でひとりごち、それについては何も言わずに、おもむろにマキナ皇家暗殺史を語りはじめた。
まだマキナ皇家が秘密主義として名を馳せていない時代、帝国暦八〇五年。時の皇太子ヒツタエンが、ニネヴェ王都カールーナで客死する。続く二年間に、ヒツタエンの娘も毒死、ヒツタエンの兄は水死。その次に死んだのは、ヒツタエンの父である皇帝タイルーフの側近中の側近・ファイハン侯爵。侯爵は瀕死の床で警察を指揮し、下手人を明らかにしてから息をひきとった。下手人は、スーサ皇室に買収されたラージャスタン貴族だったという。
もしファイハン侯爵の決死の尽力がなければ、しまいには皇帝が暗殺者の餌食となり、マキナ皇家の血統は途絶え、それを好機とばかりスーサやカルムイキアが軍を発したにちがいなかった。この暗殺のそもそものきっかけとして、ラージャスタンにおける皇帝権の強さがある。ラージャスタン皇帝は国政に関わる決断を一手に引き受けるのが伝統であり、側近や身内に助言を求めることはあっても、最終的には皇帝の独裁である。よって、皇帝が倒れれば帝国も倒れる、という脆さがラージャスタンにはあった。
それでも、皇太子ヒツタエンを皮切りとした一連の暗殺事件が起こるまで、ラージャスタン皇帝は公式の場にしばしば姿を現していた。ときに民と触れあい、外交上の役割を果たした。しかし、外交の舞台がそのまま暗殺の舞台となった皇太子ヒツタエンの一件以来、マキナ皇家は皇帝暗殺と、それに付随するだろう帝国総崩れの事態を恐れるようになり、加えて下手人がラージャスタン貴族だったことから、国内の貴族もまったく信用しなくなった。そこから、現在の「秘密主義」を掲げるようになったのである。
(はー、そんなことがあったのか)
シフルは興味深く老人の話を拝聴した。
「《同盟とは、歴史的に破られるものです。ですから、国家の抱く野望を阻止することはできません。現在のスーサでは英雄信仰が支配的であり、英雄同盟を破棄すれば民衆は怒りを覚えましょうが、民衆の怒りも一致団結しなければ国家を止める力になりません。そして、民衆の大半の性格は怠惰で脆弱です》」
老教師は独特の速度で述べる。「《ああ、話が逸れました。そのように、我らが皇家の命は、今も常に他国に狙われているといってよろしいのです。宮殿の各所にしかけられた炎の結界は、過剰すぎるきらいがないとは申せませんが、守りはかたいに越したことはありません。しかし、精霊はより強い精霊に呑まれるものですから、完全に寄りかかるのは少々不安です》」
教師は語りつつ、部屋の外に出ていった。留学メンバーを手招き、あちこちを指し示してみせる。老人の指さす先に、槍を持った衛兵が点々と立っている。
「《そこで、各所に衛兵を配置しております。君たちも、そのために雇っている、という名目で宮殿に滞在していることは、すでに聞いておられるでしょう。待遇は客人ですが、本来、客人は王侯の身分に限られます。宮殿に住むことのできる一般人は、私や女官のかたがたのように、皇帝陛下の御ため働く人間のみです》」
外国人も同じだと彼は言う。この点では老教師も書道教師と一致しており、おそらくはアグラ宮殿じゅうに共通する認識なのだろう。
老人が次に語ったのは、衛兵の役目についてだった。もっとも優先しなくてはならないのが、皇帝および皇家の身の安全。続いて客人、貴族、女官たち慈善園出身者の安全。彼女らの仕事の妨げとなる障害を排除し、皇帝および皇家の生活を十全のものとすること。最後に、己の命である。
「《自分の命よりも我らが皇帝陛下の生活、というのには、異議があるかもしれませんが》」
と、老人。「《それがアグラ宮殿の衛兵です。矛盾していますが、君たちは大切な客人であるとともに、皇帝陛下にお仕えする人間のうちでは最後になります》」
「《最後といいますが》」
セージが質問する。「《私たちと口をきくこともできない船頭や、位の低い女官についてはどうするんでしょう。宮殿側の扱いとして、私たちのほうが重視されています》」
「《彼らも一人残らず慈善園の出身者です。衛兵もです》」
教師は答えた。「《慈善園を出て衛兵に任命されるのは、慈善園でとりわけ武の部分で秀でている者です。力弱いが勉強の好きな者は私やグールーズ先生のように教師になり、力はあるが戦いの不得手な者などは君のみかけた船頭になります。つまり卒業後の配属は、適材適所といえましょう。おわかりですな》」
「《要は、強い者が殿(しんがり)を務める、ということですか。他に比べてとるにたりない命だから死ね、というのではなく、強いからこそ戦い、他を守る》」
「《そうです》」
教師は首を縦に振った。「《慈善園出身の下僕たちは、待遇はちがえど、生命においては平等です。戦いかたを知る者が衛兵の任に就き、己と仲間と我らが主とを守護するわけです》」
「《それを、おれらにもやれと?》」
メイシュナーが眉をひそめた。「《おれは、戦いかたなんて知らんですよ。そんなんと一緒にしていいんですか?》」
「《そのための訓練期間です。それに、そんなに心もとなくもありません》」
老人は穏やかさを保ったまま、メイシュナーに顔を向けた。「《君たちは名門理学院の召喚学部でもっとも優秀な四人として選ばれ、我らがラージャスタンに渡ったのです。精霊使いとしての能力は、アグラ宮殿お抱えの精霊使いたちにも勝るでしょう。例えば、妖精ではない、実体のない精霊の声を聞くことができるのは、優れた精霊使いの証拠》」
《それができるのは、この宮殿に一人しかいません》と老教師は付け足した。シフル以外の三人が、いっせいに少年に視線を注ぐ。少年は恐縮したが、悪い気はしない。この老人の語り口は思慮に富んでいて、彼の言葉なら何であれ真実のように響く。書道教師のグールーズと比べているのもあり、シフルはすでにこの老教師を買っていた。
彼の講義を受けること、休憩を挟んで三時間。これにてシフルたちの一日の仕事は終わりである。あとは夕食を皇女夫妻ととるだけなので、夜中近くまで授業尽くしだった特別カリキュラムを思えば、まったく苦にならなかった。プリエスカ人がラージャスタンの皇宮に滞在するということ自体の危険性を鑑みれば、特別カリキュラムの過酷さと五十歩百歩なのだが、今のところ留学メンバーは呑気である。
To be continued.