精 霊 呪 縛
第二部 ラージャスタン・アグラ宮殿編
第6話「国ふたつ」(4)
キナリーの講義が終わると、自由時間になった。ルッツはサイアト宮の書庫に案内してもらうべく、キナリーとともに出ていった。シフルとセージはゼッツェを携えて庭に降りていき、メイシュナーも特にやることがないといってついてきた。
「カウニッツ元気かねー」
両腕を真上に伸ばし、そうつぶやくメイシュナーは、やはり寂しいらしい。彼の赤髪のはるか上に、退紅色に染まった空がある。
「あっちはそろそろ、新学期早々、昇級試験かな」
シフルも肩を回した。関節が小気味のいい音をたてる。
「こっちに来て四日」
セージは指を折る。「出発は新学期初日の早朝だから、もう試験は終わってるね」
「ユリス大丈夫かな。ユリスって、すっごい気負うんだよな」
「大丈夫だよ」
セージは思いのほかきっぱりと言い切った。なんで、と訊くと、
「ユリスは三年間努力してきた。このあいだの一件で変にくじけてなければ、なんとかなるんじゃないかな。私たち四人が抜けた分、Aクラスの人数に空きができたしね。それより……」
セージの表情が曇る。シフルもだいたい彼女のいわんとするところを察して、
「あー」
と、相槌をうった。セージは嘆息がちに口をひらく。
「……アマンダ」
「だよな」
シフルは同意した。まったく同感である。
アマンダは一分の隙もなくかわいい女の子だった。いい子で、よく気がついて、などなどの性格的美点も含め、「かわいい」という言葉にふさわしかった。
ところが、微塵も揺らがない愛らしさの陰に、隠しているものがたくさんあった。秘密のひとつやふたつ、誰にでもあるといえばそうだけれど、口にしようと思えばできるもので、ユリスやセージの場合は告白することで楽になった面もある。しかし、アマンダはちがった。彼女はその秘密に追いつめられていて、秘密を守るために四人組から離れることも、嘘を重ねることも厭わなかった。
中には偽ることに慣れた者もいる。が、彼女はそうではなく、嘘を重ねていくことに嫌悪をもよおしながらも、そうせずにいられないのだと、シフルには思えた。つまり、彼女は己を偽り、自分自身を疲弊させている。
元恋人の男と寄りを戻した彼女は、いっそうその様相を深めた。そういう不安定な状態で試験など受ければ、妥当に考えてまともな結果は出せないだろう。むろん、今度の試験でも優等生的な側面をいかんなく発揮できれば、話はちがってくるのだけれど。
「ああ、そういや《ワルツの夕べ》でひと騒動あったっけな」
メイシュナーが思いだしたように言う。「アマンダ・レパンズって、前からかわいいって有名だったけど、あのカンニング野郎とつきあってたのも有名な話でな、男どもが騒ぎだしたのはあの野郎が無期停学処分を受けてからだよ。カウニッツがどこぞから聞いてきた話によると、ちょうど《夕べ》の日に処分を解かれたそうな」
「『カンニング野郎』?」
シフルは聞き返す。
「アレックス・ルヴォン。背が高くて顔がいいってんで、ずいぶん女にもてるんだと」
メイシュナーは解説して、セージに目をやった。彼女は無感動に頭を振る。
「ま、ロズウェルが知ってたらびっくりだけどよ。とにかく、アレックス・ルヴォンはアマンダ・レパンズの元彼氏で、カンニング疑惑で無期停学くらって、しばらく学院では見かけなかった」
メイシュナーは灰色の瞳をきらりと光らせる。「カウニッツ情報では、アレックス・ルヴォンのカンニングはとんだ濡れ衣。真相はアマンダ・レパンズが、確実にあいつを学院から追いだすためにしかけた罠だそうだ」
「はあ?」
シフルは思いきり顔を歪めた。「何だそりゃ」
「噂、噂」
メイシュナーはひらひらとてのひらを振る。「でも、カウニッツって学院でひとりだけ歳くってるだろ? よくいろんなこと相談されるんだよ。そんで、自然にそういう情報集まってくるから、ひょっとしたらこれも直接聞いた話かもな」
「——」
シフルとセージは顔を見合わせた。秘密をもらさないために、冷え冷えとした横顔で元恋人の手をとった彼女である。同じ冷え冷えとした手で、試験前の元恋人のポケットに暗記事項を書いたメモをしのばせたとしても、さほど意外ではない。が、それだと、元恋人の男があまりにも鈍すぎるし、気づいていて寄りを戻したがるとしたら、男の性格に異常がある。
「カウニッツの情報源が、相談者の女子だとすれば」
セージが指摘する。「中傷目的という可能性もある」
「ま、ありうるわな」
メイシュナーはアマンダ陰謀説にはこだわらなかった。「あんたは何か知らねえわけ? 女子のことは女子に聞くのが一番」
セージは無表情に頭を振る。メイシュナーはかかっと笑い、
「『色男』アレックス・ルヴォンも知らないわ、女子の噂話も知らないわ、あんたつくづく女子じゃねーな」
「……」
セージは黙って目を伏せ、メイシュナーを指さした。「——水(アイン)」
スポン、と音がして、メイシュナーの頭が球状の水(アイン)に包まれる。
「傷ついた」
セージは真顔で言った。
「……」
シフルはセージとメイシュナーとを交互に見る。メイシュナーは首の上だけで溺れようとしており、彼が水の中でもがくたび、口から水面へと気泡がのぼっていった。空気は水の外に出られるが、メイシュナーは出られない。
「あの、セージ……、メイシュナーも言葉のあやだろうから」
シフルはおそるおそる彼女をなだめた。横では、メイシュナーが必死に水を掻いている。当然、掻いたところで水はつかめず、セージの命令がない限りなくなりもしない。セージはシフルにちらと眼を向けると、ふっと息を吐いた。
「私、こう見えても気にしてるんだよ。私は女の子たちに属してないし、女の子らしくもない」
「そんなことないって!」
シフルは全力で否定した。まちがえてはいけないと思った。「セージはじゅうぶん女の子っぽいよ! いや、女の子っぽいというか、お姉さんっぽいというか。セージは他の子みたいにおかしな噂たてたりしないし、女の子は女の子でもできた女の子なんだと思う。メイシュナーはきっと、そういう未熟な女の子ばっか見慣れてて、だからセージみたいのは珍しく見えるんであって、だから……」
無我夢中でしゃべり、ふと気づけば、セージがにまにま笑いつつ少年を眺めている。シフルは我に返った。
「ふんふん。それで?」
セージのにまにま笑いが迫ってくる。
「……それでって……」
シフルは返事に詰まった。
「ねえ、それで?」
「えっと……、あの……」
セージの笑顔を間近にみつめながら、シフルはようやく悟った。脅されているのは、メイシュナーでなく自分なのだ。そして、自分はまたしても彼女の策略にはまったのである。
そうとわかれば、何かうまくかわす方法を考えなくてはならない。セージを傷つけず、自分の名誉も傷つけず、彼女の策略から抜けだし、もちろんメイシュナーをも救いだす。軽妙な切り返しでもってこの議論を回避し、答えの部分は巧みに隠し通したうえでセージを煙に巻くには、いったいどうすればいいか。
シフルはしばし思案した。やがて至った結論は、
(セージじゃあるまいし、んな真似できるかー!)
である。
シフルが頭を抱えたそのとき、メイシュナーの頭にまとわりついていた水球が、破裂音とともに弾けた。
「!」
シフルとセージは同時に振り返る。
が、うしろには誰もいない。暮れなずむ《赤の庭》は、相変わらず平穏である。風はなく、葉ずれの音も聴こえてこない。まっすぐに伸びていく水路の流れも、ごくゆるやかだ。
シフルは歩きだした。セージ以外の第三者が、彼女の水(アイン)と同じ級の精霊を飛ばし、力を相殺させたのである。精霊の階級すら見分けるということは、その人物は非常に才長けた召喚士だということであり、もしかすると件の火(サライ)の結界を敷いた術者かもしれない。一級火(サライ)を使役できる召喚士なら、会って話をする価値がある。
だが、二人と、芝生に倒れこんだ一人とを除き、庭に人影はなかった。
「《誰かいませんか》?」
仕方なく、シフルは呼びかける。「《誰か》——」
ふと、シフルの靴が、やわらかいものの上に乗った。
(?)
二、三度、足でそれを押してみた。弾力がある。
視線を落とした。半ば怒っている灰青の瞳と、呑気な灰青の瞳とがぶつかりあった。
あの少年だった。
「——あ」
シフルは息を呑む。
オースティン・カッファ・ド・トゥルカーナ・マキナ・ラージャスタン。それが、彼の名前だった。以前セージがラージャスタンに迷いこんだとき、彼女が出会い、ラージャ語発音を盗みとった現地人の片割れ。対になる現地人・皇女マーリがその名を教えてくれた。
彼女はまた、こうも言った。彼はいつも客舎前の《赤の庭》にいるから、また会うこともあるだろう、と。
最初にここで会ったときに目撃した、セージと彼との不自然なやりとり。あの謎は、すでに解けている。二人はとうの昔に顔見知りだったわけだが、王都グレナディンと皇都ファテープルを瞬時にして移動する手段が通常はない以上、公式にはあってはならない事実である。そこでセージも彼も、おおっぴらに再会を喜ぶことはせず、微笑みを交わすだけですませた。
(どうせあの場にはオレしかいなかったんだから、隠さないでもいいのに)
シフルはなんとなく悔しかったが、ラージャスタンにおいては何をするにも細心の注意を払うべきだろう。残りの留学メンバーが事情を知らなかったことを考慮しても、セージと彼の態度は正しい。ついでにいえば、宴の時間に眠っていたルッツは、いまだに事情を知らない。
それはいいとして、もうひとつの気がかりはまだ解決していない。シフルが彼とまみえたときに覚えた、不思議な既視感である。セージの一件では、アグラ宮殿の塀に張りめぐらされていた火(サライ)の結界のため、彼女を迎えにいくことができなかった。外まで見送りに出た皇女マーリの姿は見ていても、皇女婿オースティンの姿は目にしておらず、シフルは一度たりとも彼には会っていない。
それなのにどうして、この人を知っている、と思うのだろうか?
(トゥルカーナに親戚なんかいないしな)
いや、いるにはいる。シフルはまったく関係のない考えが浮かんだことに、少し笑った。実の母、時姫(ときのひめ)がそうだ。彼女の小さな館はトゥルカーナの森の中にある。空(スーニャ)の結界のうちにあっては、厳密にはトゥルカーナの地ともいえない気がするが、一応トゥルカーナではある。
(——ん?)
シフルの脳裏に、一刹那、何かがよぎった。しかし、どういうわけか、すぐに思考の外に弾きだされてしまった。弾きだされたあとで、それがとてつもなく核心に近い答えだったように思えて、シフルはうめく。今、何を考えた? もしかしなくても、それが答えではないのか? トゥルカーナの森、時姫ビーチェときて、何かを連想した——。
シフルは腕を組んで思案に暮れる。が、
「痛い!」
という怒声によって、すぐに現実へと引き戻された。
眼下には、相変わらず灰青の瞳の少年がいる。そして相変わらず怒っている。きょとんとするシフルに、足、とセージ。シフルの靴は、相変わらず少年の腹部を踏みつけている。
「げッ!」
シフルはあわてて足を引き、ごめんなさい、と謝った。少年は黙ってからだを起こす。シフルに踏まれたシャツを、いまいましげに払った。非ラージャスタン式の青いシャツに、土の足跡がくっきり残っている。
「うわっ、すみません!」
シフルも少年を手伝う。幸い土は乾いており、手早くはたけば落ちた。しかし、少年は依然として不快感をあらわにしている。シフルはそのかたわらで、おろおろするばかり。トゥルカーナ大公の末子、ラージャスタン皇女婿の腹を踏みつけにしたのだ。
「《ごめんなさい、オースティン》」
セージは苦笑した。「《彼はいつもこうなんです》」
「《こう、とは? サルヴィア》」
「《考えだすと、まわりが見えなくなる》」
セージは肩をすくめた。「《ああ、ご存じでしょうが、私の本名はセージです。もう偽名を使わなくとも》」
「《似合う名前で呼ぶのがいい》」
少年は「曇り空の瞳」を細めた。「《『セージ』は男名前と聞く。賢者という意味もあるそうだから、そぐわないとはいわないが、『サルヴィア』のほうが可憐だ》」
「《ふふ、そうですか》?」
セージはおかしげに笑みをもらす。聞いているシフルは、背中がかゆくなってきた。
「《それで、サルヴィア》」
少年も笑いながら、セージを手招く。
「《はい》?」
セージは呼ばれるまま、少年のかたわらに腰を下ろした。その彼女に、少年は耳打ちする。セージは吹きだした。頬がかすかに赤い。
「《ふふ、大丈夫ですよ》」
と、彼女は返し、芝生に寝転がっているメイシュナーを指し示した。「《ちゃんと手加減してますからね》」
どうやら、耳打ちの内容はメイシュナーだったらしい。その程度の話題ならば、どうしてわざわざ内緒話をする必要があるのか? シフルの心を占めていた皇女婿への罪悪感は、それで一気に消し飛んだ。代わりに、刺々しい不快感につつまれた。
メイシュナーは、芝生の上に大の字になって荒い呼吸を繰り返していたが、がばっと起きあがり、
「……てめえ、何が《手加減》だ!」
と、息巻いた。「だいたいあんたはいっつもいっつも、何様のつもりだっつの!」
「発言には気をつけることだね」
対するセージはさらりと応じる。メイシュナーは今にも沸点を越えそうだったが、その後どうなるかは目に見えている。彼はかろうじて昂りを抑えると、勢いよくそっぽを向いた。
美しい少年はそんな二人を眺めて、いかにも愉快げである。
シフルは彼をじっとみつめた。知らないようで、知っているようでもある。トゥルカーナ——トゥルカーナ公子——。
「……何だ」
「!」
少年がシフルのまなざしに気づいた。シフルはとっさに顔を背ける。
あなたのことを知っているかも——などと告げても、笑われるだけだ。なにせ、彼はトゥルカーナ公子で、自分はプリエスカ人の平民にすぎない。まともに考えれば、知りあいのわけがないのだ。それを、そんな気がする、といえば、正気を疑われるどころか、まるで取り入っているかのようである。いくら話し相手という名目で留学しているといっても、それはまずい。
「……あの」
シフルはためらいがちに彼のほうへ向き直る。「あれは、どういう意味ですか」
「『あれ』とは?」
間髪入れず、少年は問い返す。灰がかった青の瞳が、まっすぐにシフルを見据えてきた。シフルはまたも、目を伏せた。
「……『蛇』……」
ぽつりと答えれば、
「……ああ」
少年はあからさまに脱力する。「あれに意味などない。そのまま事実だ」
シフルには、彼のそうした態度がひっかかった。「蛇」の話への無関心と、直前に示した強い関心。おそらく少年は、シフルの口をついて出るべき何らかの疑問を予期していたが、それは実際に呈示されたものとは異なっていたのではないか。そこに、落差が生じたのでは——。
(でも、なんで? オレはいったい、何を訊けばよかったんだ?)
——オレがあんたに覚える既視感を、あんたのほうでも覚えているのか?
「シフル?」
セージがシフルの顔をのぞきこんできた。メイシュナーも芝生に座りこんで、皇女婿と同級生のやりとりを不思議そうに見やっている。皇女婿はシフルを凝視して、身じろぎひとつしない。シフルはシフルで、ものいいたげな顔をうつむけたまま、固まっている。夕暮れの《赤の庭》は、時が止まったようだった。
もはや夕焼け空は、暗い青に染まりつつある。女官たちが、各所につるされたランプに火を灯しながら、宮と宮をめぐり歩いている。《赤の庭》では、水路沿いに一定の間隔をおいて燭台が立っており、庭にたたずむ少年少女の容貌をかろうじて照らしだしていた。もう少しすれば、ファンルーあたりが夕食の時間を知らせにくるだろう。
それでも、シフルと少年は黙って向かいあっていた。他の二人も、横やりを入れることのできない雰囲気を感じているようで、二人の少年を見守っていた。
「……あなたは」
ようやく、シフルは問いかける。「誰……?」
「——」
少年はゆっくりと眼をみひらいた。シフルもまた、少年の反応に引きずられるように、目の前にいる彼を直視した。
少年の瞳も、シフルの瞳も、同じ灰青。
「なに言ってんだ?」
メイシュナーがいぶかしげに尋ねる。
だが、シフルも少年も返事をしなかった。メイシュナーにはわからない。ここにいる者のなかでは、シフルと少年だけがわかる。自分たちは、互いに同じ何かを抱いている。
「——僕が」
と、少年は言った。「僕が……、訊きたい」
一人はラシュトーの北西、プリエスカ王国のいち市長の子供。もう一人はラシュトーの南東、トゥルカーナ公国の大公の末子、《英雄の現身》と謳われる子供。つながりなどあるはずのない二人、瞳の色以外はまったく似ていない二人。互いのみが察知できる——共通点。一人はいまだ知らず、もう一人はすでに感じとっている。
少年は密かに断言する。
——それは、同じ《英雄の血》。
あるいは、もっと根源の。……
* * *
ユリスは机の上に頭を乗せて、天井のタイルを見ている。
Aクラス教室の天井には、白い陶器の小さなタイルが一面に貼られていて、それも一枚一枚手貼りである。目を凝らすと、一枚ごとに歪みがあって独特の風合いを醸しており、暇潰しに眺めるにはもってこいだった。
我ながら暗いとユリスは思うが、いかんせん春休み前に友達四人組は解散している。うち二人は留学メンバーとしてプリエスカを去り、うち一人は自らユリスたちのもとを離れていった。
シフルとセージはいろいろとおもしろかったし、アマンダの愛らしさにはいつでも打ちのめされていたから、ユリスは新学期を迎えた今なお、彼らを失った打撃から立ち直れずにいる。前者二人については失ったわけではないけれど、失ってしまった彼女と二人、プリエスカに残されることが、二人との別れの意味を重くした。
(あーあ)
視線を下げると、Aクラス教室は平常どおりの明るい喧噪に包まれていた。(何やってんだろーな、俺)
春休みが終わって、故郷のベルファストから寮に戻ったとき、真っ先にアマンダの姿を探した。春休み中、実家で休み明けの試験勉強に勤しみながら至った結論は、やはりアマンダと仲直りしたい、だった。けんかとは少しちがうが、とにかくシフルたちがいなくてもアマンダと友達でいたかった。
もちろん、どうせ仲がいいなら、友達ではないほうがいいに決まっているけれど、そんな身のほど知らずなぜいたくはいわない。せめて、アマンダと笑顔であいさつできる仲でいられれば、満足とはいかなくとも幸せではいられるだろう。ユリスは寮に帰ってすぐ、一階上のアマンダの部屋のドアを叩いた。
アマンダは返事をしなかった。単にいなかったのかもわからない。五分ぐらいはドアを叩きつづけた。が、答えもなければ、やめろとも言われなかった。もしアマンダが在室だったとしたら、ユリスにそれ以上いつづける根性がないということを、知っているかのようだった。ユリスは実際、五分で引きあげた。寮内で問題視されることを恐れたのだ。
——シフルだったら?
と、ユリスは考えた。シフルだったら、アマンダは応じただろうか。もしくは、やめてほしいと告げただろうか。少なくともシフルなら、こんなに簡単には諦めないかもしれない。けれどユリスはすごすごと部屋に帰り、詮方なく試験勉強に着手し、今いちど彼女の部屋を訪れることもしなかった。
新学期が始まると、アマンダもちゃんと出席していた。Aクラス教室で、遅刻すれすれに教室にやってきた彼女は、ユリスの背後を通り過ぎ、不自然に距離をおいて座った。同級生たちは先日の騒ぎを知っていて、アマンダに声をかけたがっている者もいたが、アレックスなる元恋人との寄りが戻ったことも周知の事実だったので、誰ひとり勇気を奮い立たせた者はなかった。ユリスも同じだった。
そのまま、昇級試験を迎えた。ユリスは黙々と勉強に励んだ甲斐あって、なんとか残留組に名をつらねた。しかし、彼女の名前はBクラス脱落組のリストにあった。彼女はいよいよ、ユリスから遠ざかったのである。が、一方では、試験に集中できないほどに、彼女が四人の解散を気にかけていたとも思われて、妙なうれしさもあった。こんなことでしか喜べない自分が、情けなかった。
そうして、新しいクラスが開始したのである。今日は初日で、むろんアマンダはAクラス教室にはいない。
(残留組だったのはラッキーだけど)
ユリスは教室の片隅に座って、この世に恨みでもありそうな顔つきでいる。(これでいよいよ、アマンダと仲直りする機会が立ち消えかけってわけだ)
寮にしても、アマンダはBクラス寮に移ってしまった。Aクラス寮と同じ棟だが、Bクラス生は五クラス二百人もいる。彼女の部屋を探すのは骨だし、それであのアレックスと鉢合わせしても面倒である。きっと、このままアマンダとは完全に疎遠になってしまうのだろう——と、ユリスは思った。
「なんか寂しそうだな」
と、誰かが頭上で言った。
「あ?」
ユリスは声のほうを見あげる。
すると、黒い眼がやわらかく笑っていた。落ちついた物腰に、学生にしては老けた容姿。ユリスはぽかんと口を開けた。
「あんた……、カウニッツか。《四柱》の」
「君はペレドゥイだったね。ダナンの友達の。ここ、いいかな?」
どうぞ、と返すと、カウニッツはのんびりとした動作で隣に腰を下ろした。
「Aクラス戻れたのか。よかったな」
「ありがとう」
「もうちょっと早ければ、メイシュナーとドロテーアのいさかいも激化しなかったのに。一時、すごかったんだぜ?」
ユリスがからかうような口調でいうと、
「ニカから聞いてたよ」
カウニッツはわずかに笑みをたたえて答える。「——お互い、友達においていかれたな。でも、おかげで雑念がなくなったから、勉強ははかどった」
「ああ、俺もそうかも」
「でも、寂しいことには変わりないな」
そう言うカウニッツの笑顔は、学生にしては成熟した、安定感のある土台の上に立っていたけれど、その言葉どおり力ない印象が否めなかった。ユリスはおのずから、そうだよな、とつぶやく。本当にそうだ。ひとりでも、アマンダとあいさつさえ交わさなくとも、なんとかなる。けれど、なんとなく力がわかない。
「そういや、ラージャスタンって手紙出せるのかな?」
と、ユリスは言ってみる。
「あ、それいいな」
カウニッツはじっさい心弾ませた様子で、目を輝かせた。「あとで訊いてみようか。ボルジア助教授にでも」
「おー、賛成」
ユリスはにんまりと笑った。カウニッツも応える。
そのとき、Aクラス教室にヤスル教授が入ってきた。彼のひと声で、教室を満たしていたざわめきはおさまり、歩きまわっていた学生たちも席に着く。
「では、授業を始める。初回の今日は、導入から……」
プリエスカは春——。
新しい日々のはじまりだった。
To be continued.