精 霊 呪 縛
第二部 ラージャスタン・アグラ宮殿編
第7話「見えない糸」(1)
室内には、箸を使う音がしきりと響いていた。
ここはクッティ宮の一角、マキナ皇家の人々が親しい客と食事するための小食堂だ。例にもれず砂岩造りのこの部屋では、赤い壁や天井が松明に照らしだされ、親密げな空気を演出している。
シフルたち留学メンバーと皇女夫妻は、床に車座して夕食を囲んでいた。シフルの斜め前には、皇女婿のトゥルカーナ公子オースティン・カッファがいる。箸に慣れないシフルは、皿を抱えて米を直接流しこみつつ、皿越しに少年公子をうかがっていた。
オースティンはきれいな箸づかいで、美しくものを食べている。容姿のみならず、挙止のすべてが整っているのは、さすがに《英雄の現身》と謳われるだけのことはあった。
(本当に、何なんだろうな、あの人)
先刻シフルは、あなたは誰、と少年に尋ねた。仲間に怪しまれようとも、その問いを発せずにはいられなかった。
シフルはオースティンを知っている。プリエスカにいた自分と、トゥルカーナやラージャスタンにいた彼が、よもやどこかですれちがっていたとはいわないが、それでもきっと何かがある。少なくとも、シフルはそう確信していた。
すると、オースティンもまた、僕が訊きたい、と返してきた。その後すぐにファンルーが食事の時間を告げにきて、途中で話を切りあげざるをえなかったが、ひとつの問題はこれで解決した。すなわち、シフルの既視感はシフルだけの思いこみではない、ということだ。
が、問題はその「何か」である。いったい、プリエスカの庶民とトゥルカーナ公子の、何が通じあっているというのか。
(あっちはわかってんのかな)
シフルはまたオースティンに視線を向ける。しつこくみつめていたところ、オースティンも気づいて見返してきた。
二人はおたがいに観察しあった。周囲がいぶかっても気にしない。
(何がひっかかるって、……そう、顔だよ、顔)
シフルは胸のうちでつぶやく。(オレとははっきりいって似てない。似てたらもっと人生得だらけだろ。オレが似てるのは瞳の色だけ。それじゃ、誰か身近な人間がこの人に似てる、とか……)
——あ……!
それだ。シフルは食器をおいた。
尋常でなく美しい人間を、オースティン以外にもうひとり知っている。
(ラーガに似てるんだ!)
シフルは内心断言した。空(スーニャ)の妖精ラーガは髪や瞳が人ならぬ色をしていて、だからすぐには思い至らなかったが、かたちはかなり似ている。ラーガの髪を黒くして、瞳を灰がかった青に変え、長い髪を切れば、ひょっとして瓜ふたつではないか。
ラーガとオースティンが似ているとなれば、ラーガの器は時姫(ときのひめ)の息子でシフルとは父親ちがいの兄弟だから、シフルとオースティンに共通点があるのも納得がいく。
——美しいだろう? この器は。
以前、ラーガは語った。
——時姫さまが、俺にはこの世でもっとも美しい器を与えよう、とおっしゃった。そして、大陸でいちばん美しい男をみつけだし、その者とのあいだにもうけたのがこの肉体。……
(『大陸でいちばん美しい男』……)
シフルは表情に出して笑う。(まさか、なあ)
「ダナン君、思いだし笑い?」
メイシュナーにセージにルッツ、皇女や女官たち、同席する者はみな不審がったが、オースティンだけは真顔だった。それがばかげた考えを裏づけているようでもあり、シフルはおちおち笑ってもいられなくなった。
食事をすませると、シフルは体調不良を理由に客舎に引きあげた。食事中にさんざん奇態をさらしていたので、その点は怪しまれることなく、皇女夫妻との歓談の席を辞した。いっそ夫妻の片一方を捕まえて話をしたいぐらいだったが、皇女や女官の前ではむりだ。一緒に帰る、部屋まで案内する、などと言い張るセージや女官を断り、シフルはひとり客舎に戻っていく。
半ば走るようにして帰り、客室に飛びこむと、
「ラーガ! 来い!」
青い妖精を召喚する。クーヴェル・ラーガ、と念ずるのも忘れない。
彼はいつもどおり現れた。砂岩の壁から飛びだした妖精の腕を、シフルはつかむ。
「そんなにあわてなくとも、事実は逃げん」
ラーガは淡々と言い、床に降り立った。
「ラーガ! おまえ……」
シフルはラーガの容貌をじっと見た。思ったとおり、オースティンにひどく似ていた。「……おまえ、いや、時姫は——」
「……」
「時姫が、トゥルカーナの森に住んでいるのって……、」
シフルは問いかける。「——トゥルカーナに、縁があるからなのか?」
遠まわしにしか訊けなかった。あまりにも突飛すぎて、でもビーチェの人生はすでに突拍子もないできごと尽くしだから、今さらなのかもしれないけれど、とにかく正面きって口にすることは躊躇された。だが、伝説というべきものが身近な場所に息づいていることは、学生シフルにとって興奮を禁じえない事実でもある。
「そうだ」
ラーガは肯定した。「そうでなければ、あれほどロータシアを愛した時姫さまが、ロータシアの地を離れるわけがない」
「や、やっぱりそう? ってことは——」
「——待て、メルシフル」
ラーガはシフルの言葉を遮り、再び砂岩の壁に沈みはじめた。
どうやら、誰かが近づいているらしい。けれど、そんなことはどうでもよかった。今はただ、時姫とラーガ、トゥルカーナの関わりを知りたい。
初代トゥルカーナ大公である英雄クレイガーンが即位前に失踪して、かの伝説は幕を降ろした。クレイガーンは謎の失踪によって却って存在感を増し、大国を煩わすほどの人気を集めることになる。時姫やラーガは、伝説の真実を知っているのではないか? クレイガーンが「失踪」した理由を——。
「ラーガ!」
シフルは叫んだ。「ラーガ、おい、もう一回来いよ!」
が、ラーガは用心深く、一向に姿を現さない。頭の中で繰り返し真名を呼んでみたが、無視された。シフルは唇を尖らせる。
「《シフルさま》」
そこに、闖入者がやってきた。客室の入口に立ったのは、女官メアニーである。「《今、誰か?》」
「《あ、オレの妖精です》」
隠す必要もないので、シフルは答える。そしてそのまま、部屋の外へ駆けだした。
「《どこに行かれるんです? ご体調は?》」
メアニーの声は、シフルが結界に踏みこみかけた際と同じく、冷ややかさと敵意に満ちていた。シフルは一瞬どきりとしたが、体調不良と偽った以外はとりたてて悪いこともしていない。
「《嘘ついてごめんなさい。ちょっと気になることがあるので、サイアト宮の書庫に行ってきます。じゃあ!》」
シフルはさっさと身を翻し、サイアト宮めざして走りはじめた。
好奇心に突き動かされている少年は、二度と振り返らない。よって、廊下にたたずむ女官メアニーの昏い眼を見ることもなかった。
「《妖精……》」
夜の闇と燭台のあかりのなかで、メアニーの表情が陰影を増す。影は去ることなく、いつしかその全身を覆い尽くした。
翌朝、シフルはおぼつかない足どりで慈善園に赴いた。
サイアト宮の書庫で夜を明かしたのである。空が白みはじめる時分まで資料を漁り、そのあと書庫の床で仮眠をとっただけなので、はっきりいって寝不足だった。
というのも、この書庫は綿密な整頓がなされていない。申しわけ程度の分類はされているようだが、シフルの求める分野の場合、民話・伝承と最近のものらしい物語とが雑多に居並ぶ。したがってシフルは、ひとつひとつ背表紙を確認するのみならず、目次や、ものによっては本文まで見ていかなければならなかった。
ラージャ語生活も今日で五日め、口語なら多くの単語を覚えたけれど、民話や物語には日常生活ではほとんど使用しない独特のいいまわしが見られる。幸い、書庫には『ラージャ語—ラージャ語辞典』もあったが、ときおり辞書に掲載された解説のラージャ語さえ読めないこともある。真夜中に自分の『ラージャ語—現代プリエスカ語辞典』をとりに客舎へ戻って女官に見咎められるのも億劫なので、そこで調べものを断念する。
おまけに、存外それらしい資料が見当たらない。シフルが探しているのは、トゥルカーナの英雄関連の研究書もしくは史料である。英雄についての伝承、宴のときに使った巻物などの史料があればいいと思ったのだが、書庫にあるのは活字本が大半、しかも伝承や民話となると子供向けのものが多い。そういった本にはシフルでも知っているような話しか書かれておらず、これといった収穫がない。
歴史書はおもしろそうな本が揃いぶみだったが、シフルが今ほしい情報ではなかった。試しに開いてみた本には、かつてラージャスタンがこの地にあった三十もの小国の一国に過ぎなかったことが記されており、ついつい読みふけってしまった。が、そうしているうちに、これといった収穫もなく夜が明けたのである。
床でひと眠りしたあと、朝食をとりにいったん客舎へ。それから、寝ぼけ眼で慈善園に登校した。きのう飛びだしてきた教室に入ると、席に着く。同時に猛烈な眠気に襲われ、危うく陥落するところだったが、書道教師グールーズとの対決は避けて通れない。何としてでも、グールーズを見返してやらねば。
シフルは竹ペンをとりだし、もちかたを点検した。メアニーにしつこく直されたところは入念にもちなおす。よし、完璧だ。ちょうど目も冴えてきた。
入口の扉を開け、教師が入ってくる。
(え?)
シフルは眉をひそめた。
年長組の教室に現れたのは、鞭使いのグールーズではなかった。初めて見る、優しげな面ざしの老婦人である。シフルは気勢を削がれた。
ところが、
「《おはようございます。さっそく書道の授業を始めましょう》」
と、老婦人は告げた。「《『詩歌に親しむ』の九一頁を開いて、各自練習してください》」
「《ちょっと待ってください》!」
シフルは席を立った。
「《あなたは留学生の?》」
「……《はい、メルシフル・ダナンといいます》」
相手の態度があまりにもやわらかいので、シフルは威勢のいい物言いをためらった。「《あの、グールーズ先生は? 書道はグールーズ先生ですよね。それとも毎回、先生が変わるんですか》?」
「《グールーズ先生はもうここにはおられません》」
彼女は同じやわらかさで答えた。「《今朝がた、退宮されましたよ》」
「は?」
シフルは思わずプリエスカ語でぼやく。「《それって、辞めたってことですか。なんで》……?」
「《キナリー先生に教わったでしょう。アグラ宮殿にいられる一般人は、我らが皇帝陛下のお役に立てる者だけです》」
「だけど……! 《昨日までは『役に立っていた』んじゃないですか》?」
新しい書道教師は、静かに笑みをもらした。
「《さあ、そこは皇帝陛下の崇高なるご判断があったのでしょう。あなたのうかがい知るところではありませんよ、ダナンさん。それよりも、我らが皇帝陛下の御ため、いかに尽力できるかを考えるのです》」
「……!」
シフルは絶句した。鞭を振るった以外にグールーズが何をしたか知らないが、これでもうあの教師に自分を認めさせることはできない。セージが流麗なラージャ語で教師を圧倒したように、シフルも努力の成果を見せつけるはずだったのに、叶わなくなってしまった。
歴史教師のキナリーや女官たちの反応を見るにつけ、グールーズはあまり評判がよくないようだから、いずれこういう結果になったのかもしれない。けれど、シフルにはこのタイミングの悪さが呪わしかった。
シフルは腑に落ちないものを感じながら、矯正済の竹ペンで手習いに勤しむ。タマラという名の書道教師はグールーズとは対照的で、プリエスカから到着したばかりのシフルが正しいペンの使いかたを知っていることにいたく感心し、むやみやたらに褒めちぎってきた。ルッツやメイシュナーにはやりかたを教えてやり、慈善園の生徒たちの課題を受けとっては賞賛した。
宗旨替えともいえる方向転換に、シフルは却って気疲れした。書道の課題が終わり、休み時間に入ると、寝不足も手伝って机に突っ伏す。
「ひょっとして、シフルのせいじゃない? 昨日の教師が辞めさせられたのってさ」
と、ルッツが冗談めく。
「それはないだろ」
シフルはぐったりしながら答えた。「メアニーの話だと、慈善園じゃ体罰も普通にあるんだと。他にも何かやらかしたんじゃないか」
「そうかな」
ルッツは肩をすくめた。「俺たちはここでは特別なんだよ、シフル。キナリーが言ったようにね」
「また、こんなとこでそんなこと……」
「プリエスカ語のわかるやつはいないよ」
ルッツはくすくすと笑う。彼は選抜試験の前に、学院の勉強なんてもう俺にはつまらない、俺はおもしろいところに行く、と発言していたが、こんな状況に彼のいうおもしろさがあるのだろうか。
確かに、シフルにとってもおもしろさがないわけではない。新たな知識を得る喜びに、昨夜はつい夜を徹して読書に耽ってしまったのだし、あの公子と出会ったことで世界がさらに変質しようとしている。ビンガムの父のもとでくすぶっていたら知りえなかった、世界のひろがり。
だが、うやむやのうちに対立する相手がいなくなることは、相手とシフルとの対立関係が半端な状態のまま途切れるということを意味する。この対立関係から、シフルは正しい竹ペンの持ちかたを学べたのだし、これからもさまざまな面で成長するはずだった。対立関係をバネに、さらに世界をひろげるはずだったのだ。
(どうして辞めさせられたんだか)
シフルは長い息をつく。隣の席に、昨日『《詩歌に親しむ》』の教科書を教えてくれた生徒がいる。慈善園内部の生徒なら、事情を知っているかもしれない。シフルはさっそく隣の席に近づいていく。相手の少年は、シフルに気づくと怪訝な顔をした。
「《昨日は助けてくれてありがとな》」
と、まずは礼をいった。「《あのさ、ひとつ訊きたいんだけど、グールーズ先生が辞めさせられた理由って聞いてる》?」
「《……》」
シフルの質問に、少年は沈黙を返した。
「……」
シフルとしても、沈黙には沈黙で応えるしかない。愛想笑いを浮かべたまま、しばし固まっていた。が、黙っていても話が進まないので、やがて《知らないならいいや》と踵を返した。席に戻ろうとすると、ルッツが愉快げに目を細めている。
「何だよ」
「シフル、ごらん」
ルッツは猫の瞳を細めて、顎をしゃくった。
「?」
シフルは振り返る。
すると、教室中の生徒がシフルに視線を注いでいた。それも、静かながらに剣呑なまなざし。シフルの背中が、ぞくりと粟だった。
しかし、それぞれの生徒に注目すると、敵意はシフルだけに向けられているわけではなかった。おもしろがるルッツと、やはり状況を察していづらそうなメイシュナーにも、平等に分散している。
「……オレ、昨日は休み時間になる前に教室出ちゃったけど」
「ああ」
ルッツは笑った。「昨日もこんなだよ。休み時間のことは訊かれなかったから、特に言わなかったけどね」
予想してたことだしさ、と彼はいう。確かにそうだ。慈善園が徹底して孤児たちに皇帝崇拝の念を植えつけているとすれば、同様に反プリエスカ心をも刷りこまれている可能性が高い。ファンルーたちは特別に優秀な女官だろうから、露骨な嫌悪をみせることはすまいが、生徒たちは子供である。
「だけど、昨日はいやな顔しないで教えてくれた。着いたときだって、大歓迎だったし」
「教師が見てたからね。ファンルー・イーリも」
ルッツはシフルの希望を打ち消した。
「グールーズはオレに目ぇつけてた。一緒になってオレに意地悪したところで、グールーズなら何もいわないよ。でも、そうはしないで親切にしてくれたじゃんか」
「つまりはさ」
ルッツは口角をあげた。「教師より生徒のほうが賢いってこと」
「——」
もう何も言い返せない。
「何にせよ、お客さま気分でいるのはやめるんだね」
ルッツは忠告した。「彼らが俺たちを敵とみなすなら、俺たちにとっても彼らは敵だよ」
これ以上、痛い目に遭いたくないよね? と、ルッツは笑う。シフルには、どうして彼が笑うのか理解できなかった。自分に向けられた誰かの敵意を楽しむことなど、シフルにはできない。けれど、正面きって自分は敵ではないと宣言することもできなかった。
今でさえ、プリエスカとラージャスタンの関係はあたたかなものではないのだ。どちらかが何らかの行動に踏みだしたとき、ぎりぎりのところで十七年近く維持されてきた均衡も、あっけなく崩れ去る。
例えば、
——何の申し入れもなく、このような場に突然おいでになるとは。残念ながら、当学院はあなたを歓迎いたしかねます。即刻、国境外に立ち去っていただければ、とりたてて問題にもいたしませんが。
——まあ……、プリエスカの御仁の頭の堅さは知られたことではありますけれど、はるばる皇女殿下と婿殿の話し相手の選定にやってきた異国人を無碍に追い払うのは、こちらのお国の度量の狭さにはなりますまいか。きっと、大陸中の評判にもなりましょう。
——それは……、困ります。……
カリーナ助教授が、あの日あの場所で、ツォエルに譲らなかったとしたら。
きっとそれだけのことでも、簡単に揺らぐのだろう。そうなれば、現実問題として慈善園の生徒たちはシフルたち留学メンバーの「敵」になる。
ラージャスタンに来たことを、後悔はしない。だが、表面上だけでも、シフルたちが平穏無事な留学生活を送っていくためには、この針のむしろの上に平然と座りつづけ、釈然としない思いを呑みこみつづけるしかないのである。シフルはようやく、選抜試験のおりにカリーナ助教授が留学希望者を牽制した理由を、肌で感じた。
——危険は危険でもただの危険ではなく、あなたたちが複雑な立場に置かれる可能性がある、そういう危険。……
(先生)
シフルは拳を握る。(オレ、がんばります。負けん気だけじゃなくて、いろんなこと耐えられるようになりたい)
せめて助教授が、自分を送りだしたことを悔やまないように——。シフルは突き刺さる視線を浴びながら、ひとり決意した。
To be continued.