精 霊 呪 縛
第二部 ラージャスタン・アグラ宮殿編
第8話「絡まる糸」(2)
あくる日の朝、目覚めたシフルの頭に異和感があった。
(? なんだこりゃ、気持ち悪い)
すると、起きあがろうとしたとたん、異和感は鋭い痛みに変わった。
頭蓋骨の内側で、グレナディン大聖堂の鐘が鳴り響いているかのようだ。シフルはたまらずうめいて倒れこむ。しばらく痛みの波は寄せては退きをくりかえしていたが、じっとしているうちにおさまってきた。
そのあと、シフルを襲ったのは寒気だった。ブランケットの中にいても寒い。昨日の雨で風邪をひいたか、今になって外国暮らしの疲れが出たか。思いあたる原因はいくつもあったが、重要なのは原因ではなく結果だ。シフルは信じがたい気持ちで自分の手をみつめる。手が小刻みに震えて、止まらない。
(慈善園休むのか……? よりによって今日?)
何しろ、精霊召喚を用いた戦闘法の試合に負けてケガしたばかりなのである。ここで欠席したとあっては、傍目には自信喪失して寝こんだようにしか見えないではないか。
(休んでたまるか……!)
シフルは、持ち前の負けん気で己を鼓舞する。(起きる。起きて慈善園に行く!)
深呼吸して、ゆっくりと身を起こす。が、からだの角度が垂直へ近づくにつれ、頭痛が勢いを増していった。シフルは頭を抱え、なんとか波をやりすごしてベッドから出ようとする。
足に力をこめるや、今度は左足首が悲鳴をあげた。シフルは再びベッドに倒れてのたうちまわる。すっかり失念していたが、昨日の今日で捻挫が完治するはずもない。
「シフル? 何やってんの」
隣のベッドのルッツが、静かにシフルの苦闘を眺めやっている。
「……やー、おはよ、ルッツ」
「案外、やわだね」
「え?」
「顔、真っ白」
「あ」
いわれてみれば、頬がやけに冷たかった。が、平気平気、と手を振ってみせる。ルッツは呆れたように肩をすくめた。
「《おはようございます》」
朝のあいさつとともに、三人の女官が入ってくる。「《お支度お手伝いいたします》」
シフルとルッツはあいさつで応えた。メイシュナーはそれでようやく目が開いたらしく、寝ぼけ眼でブランケットから這いでてきた。
「《おはようございます。気持ちのいい朝ですねっ》」
シフルのそばにやってきて、メアニーは薄水色の下着《襦袢》をひろげる。客舎で寝起きするようになった当初から、《五星》女官のうちファンルーがルッツを、キサーラがメイシュナーを、メアニーがシフルの着替えを手伝う決まりだった。同じ年ごろの女の子に着替えを手伝わせるのは新手の拷問以外の何ものでもなかったが、現実問題ラージャスタン式の衣装は着用がむずかしいので仕方ない。
「《あら?》」
ふと、メアニーは首を傾げた。シフルはぎくりとする。「《シフルさま、顔色が悪いみたいですけど》」
「あー、えっと」
シフルはかろうじて踏んばりながら、苦笑した。
「《おかげんが悪いんでしたら、授業は休んだほうがいいんじゃ?》」
「《大丈夫です》」
メアニーは《そうですか? ふーん》と、あからさまに疑わしげである。少女女官は襦袢の前を閉め終えると、おもむろにシフルの横にまわった。それから、《えい!》というかけ声とともに、体当たりしてきた。シフルは驚く間もなく、その場に崩れ落ちた。
見あげるとメアニーが、それ見たことか、という表情でシフルを見下ろしている。
「《ムリしちゃダメですよー、シフルさま。慈善園の授業は楽じゃないんですから》」
「《それは身にしみてわかってますけど》」
シフルはさしだされた手をとり、立ちあがる。「《休んだら最後、いろんな機会を逃すんじゃないかって思うんです。グールーズ先生がそうだったし》」
「《グールーズ?》」
メアニーはきょとんとした。「《あんなの、いなくなって万々歳じゃないですか》」
「《だけど、オレはグールーズ先生と戦わずに逃げてしまったんです。その翌日にはもういなくなってたから、逃げっぱなしになった》」
「《シフルさまも、服、燃やしちゃえばよかったんですよー。そうすれば、後悔しないですんだのに》」
シフルは一応《そうですね》と同意しておいた。もはやツッコミを入れる気力もない。
「《とにかく、寝台に戻ってください》」
メアニーはシフルをベッドのほうへ押しやっていく。シフルが不服の声をあげても、少女女官は一向にかまわない。てきぱきとシフルをベッドに寝かせ、ブランケットをかぶせると、嬉々として少年の顔をのぞきこんできた。
「《今日はわたしが、つきっきりで看病してさしあげます》」
女官は全力でにんまりした。「《シフルさまったら、目を離したら授業に行ってしまいそうなんですもん》」
「はあッ?」
シフルは思わず、使い慣れた言葉で叫ぶ。「なっ、あんた、なに聞いてんですか! オレは授業出ますっ……、て……」
叫んだとたんに、なけなしの体力が抜けでていった。シフルの声は尻すぼみになる。
「《ほーら、どなることもできないじゃないですか》」
女官は胸を反らして勝ち誇った。「《そんなじゃあ、授業に参加したところで何もできませんよ》」
シフルは反論したかったが、だんだんと目を開けていることすら億劫になってくる。ため息とともに眼をつむると、メアニーは《そうそう、それでいいんです》とご満悦だった。が、いちいち気にする意欲もなく、シフルは今いちど眠りにつこうとした。
直後、ばちんと景気のいい音がして、シフルは反射的にまぶたを持ちあげる。
「《メアニーさま! 何してらっしゃるんですか!》」
遠慮なしの大声でどなったのは、《五星》末席キサーラ・イーリである。その衝撃で、シフルの頭に痛みの波が蘇った。
「《いったーい! キサーラ、あんたねえ! あんたこそ何すんのよ!》」
「《とんだご無礼を、メアニーさま!》」
キサーラは、けんかを売っているとしか思えない口調で言い放った。「《わたくしのような若輩者が、栄えある《五星》第三席のメアニーさまを叩くなど、あってはならぬこと。なれどわたくし、留学生のかたがたを王侯のお客人と同様にもてなすよう、我らが皇帝陛下より申しつかっています。メアニーさまのその態度は、明らかにふさわしくありません! メルシフルさまをいったい何だとお思いですか!》」
「《はあー? なに理屈こねてんの?》」
キサーラの主張は、理屈自体は確かにもっともらしい。しかし、それをなぜ病人の横でどなりちらすのか。シフルはブランケットに頭を埋めた。眼だけを外に出すと、喧々ごうごうのやりとりが依然として続行されている。少女女官二名はシフルのことなど忘れ果てたかのように、口論そのものに夢中だ。そのむこうに、支度を終えて呆れているルッツとメイシュナー、それに噴火寸前といった体のファンルー。
「《メルシフルさまの看病はわたくしがします! メアニーさまはメルシフルさまに迷惑ですから、引っこんでてください》」
「《本音が出たじゃない、キサーラ! あんたの魂胆は見え見えなのよ》」
「《メアニー……、キサーラ……》」
ファンルーのかたちのいい唇からもれる恐怖の呼び声に、シフルはさらなる状況の悪化を予期した。
「《おはようございます》」
そこに、待ちわびた伏兵が現れた。「おはよう、二人とも。あれ、シフルは?」
「おはようさん、ロズウェル。ダナン君はアレ」
と、メイシュナー。「病気だと」
「ふうん、せっかく今まで元気だったのにね」
彼女はシフルのベッドに近づいてきた。ちょっとごめん、と断ってからブランケットをめくり、シフルの額に手をあてる。急に顔が外気にあたったのと、セージの手に触れられたのとで、シフルはどぎまぎする。
「……おはよ、セージ」
「おはようシフル、顔色悪いね。熱はないみたいだけど、今日は一日寝てなよ。慈善園であったことは、ちゃんと教えるから」
簡潔に告げて、ベッドを離れた。それから、いがみあう少女女官二人の首根っこをつかみ、彼女たちの抵抗をものともせず入口へと引きずっていく。そしてやおら振り返り、
「《この二人、引きとってくださいますよね? ファンルーさん》」
と、微笑んだ。
「《ええ、今すぐに》」
ファンルーはファンルーで、微笑みが怖い。「《セージさま、お手をわずらわせて申しわけございません》」
「《いいえ、とんでもない。では、行きましょうか》」
メアニーとキサーラは震えあがった。二人はセージに引きずられたままのかっこうで、みるみる青ざめていく。彼女は容赦なく二人を引き渡したので、二人の少女女官はいよいよ蒼白になった。そのまま先輩女官に引きずられていき、セージはあとに続く。ルッツとメイシュナーも客室を出ていった。
少年はひとり部屋に残された。ようやく訪れた静寂の心地よさに、ついさっきまで授業を休むまいと息巻いていたことなどどうでもよくなった。静寂のなかで、少年は眠りに落ちた。
To be continued.