top of page
​精 霊

第二部 ラージャスタン・アグラ宮殿編

第8話「絡まる糸」(1)

 青年は、背中に森と空とを負っている。

 トゥルカーナの明るい森だ。夏の森は生命力をもてあますようで、木漏れ日すらも力強い。雲ひとつない空は、通り雨のあとの青天。青年の灰青の瞳が、森と空に呑まれてかすんでいる。

 自分と同じ色、自分から受け継がれた瞳だというのに、なぜ青年のまなざしは憂いを含むといわれるのだろう。まったく身に覚えのない特徴である。自分ではなく、彼の父親がそれを与えたというのか? あのろくでもない男に、そんな殊勝な要素があったとでも?

 しかし、何にせよ、ここで踏みとどまる理由にはならない。なぜなら、彼は今日のために生まれたからだ。彼の心はきょう肉体を離れ、精霊界へと還る。とうに人間でなくなった自分にとっては、悲しむべきでもない自然の営みである。たとえ不自然な状況下で起こったとしても、それもまた自然の一部。

 ——ためらわないで。

 ふいに、青年が告げた。

(もう、いい。あなたは今日のために、俺の望みをたくさん叶えてくれた。すべての望みを、受け入れてくれた)

 ——だから、いいんだ。……

 彼の足もとに、底の見えない崖がある。けれど青年は恐れるそぶりをみせない。むしろ、すすんで崖のほうへ近づいていく。

 思わず、名前を呼ぼうとした。やめろと叫びたかった。

 が、自制心がはたらいた。この日のために、二十年間やってきたのではなかったか。大いなる第六の元素——空(スーニャ)の器に、永遠に存在しつづけるに相応しい肉体を授けるため、あの不愉快なイェンスの前に我が身を投げだしたのでは。そればかりでなく、生まれてきた青年の忌まわしい願望に殉じもしたではないか。今や人間社会の一員ではなくなった身であれば、そうした禁忌を犯すのもたやすく、けれどかつて人間だった心がざわめいた。

 もはや、自分は人間ではないはずだ。自分の胸には第六の元素・時(ヘムダ)のすべてがある。精霊は人の心だが、自分の場合、人間ひとりの容量をはるかに超越している。

 だが、その中に本来の自分自身である時(ヘムダ)を含むことに変わりはない。心と人の器をもつものが人間ならば、たとえ余分なものを大量に内包していたとしても、本来の心が残っている限り人間にはちがいないだろう。

 また、視点を変えてみると、もって生まれた属性は心であると同時に精霊。つまり、自分は生まれながらにして人の器に宿った精霊、すなわち妖精だった、とも考えられる。したがって、人間はみな生ける妖精(エルフ)なのだ。結局のところ、自分も含め、誰一人として《人間》ではないのである。人間社会に属している限りにおいて、己を人間と呼んでいるだけ。

 人間でないのなら、苦しむ必要はない。まして自分は、わずらわしい規範の数々からは完全に自由である。それがなぜ、子供一人の命を奪うくらいのことで躊躇せねばならない?

 話はじつに簡単だ。彼の背中を軽く押せばいい。そうすれば、彼の肉体は谷底へとまっしぐら、あとには半ば潰れた死体が残るのみ。それこそが、二十年間の不愉快な日々の果てにあるはずの、唯一の目的。

(母さん)

 青年は、父親譲りの美貌で微笑んだ。(ティナンを、ありがとう。それから——もしよかったら、ティナンのことを忘れずにいてほしい)

 彼は、とうの昔にその目的を知っていた。

 しかし、決して恐れなかった。逃げも恨みも憎みもしなかった。——だから、自分は彼が恐ろしかった。

(あなたはいやがるだろうけど、)

 負の情念とは無縁の、春のまなざし。どこか楽しい場所へでかけるときのような、軽やかな声。瞳は憂いの色をたたえているというのに、彼自身はどこまでもおおらかだった。今この場に際してもなお、変わらない。

 

 

 ——ティナンは俺にとって、最愛の人の子供なんだ。……

 

 

 そうして、青年は身を翻す。

 深い谷底へ。

 次の瞬間、醜い音があたりに響き、自分はひと声、空(スーニャ)、と叫んだ。声は嗄れていた。

 青い光が、突風のごとくうなりをあげ、自分を追い越していく。青年の落ちた谷底めがけ、一直線に駆けていく。

 とたんに力が抜けて、自分は地面にくずおれた。からだに力が入らない。それでも必死に地を這い、崖縁から下をうかがった。

 谷底で青年が目覚めた。

 無傷で立ちあがった彼は、濃い青の瞳と、同じ色の髪をしていた。彼はすでに、彼ではなかった。けれど、崖の上で己を見ている者に気づくと、不慣れな様子ではにかんでみせた。その笑みはまちがいなく彼のもので、自分は覚えず戦慄した。

 彼は今、永遠になったのだ。永遠に、自分を縛る者になった。

 もしかすると、青年は知っていたのかもしれない。目的のみならず、自分の望みが彼の望みをも叶えることまで。

 だとすれば、彼はやはりイェンスに似ていた。大陸でもっとも美しく、もっとも忌むべきあの男に。……

 

 

  *  *  *

 

 

「時姫(ときのひめ)が、クレイガーンを殺した?」

 シフルは、その言葉をくりかえした。

 が、声の冷静さに反して、胸のうちでうずまくものは不快な熱を帯びている。時姫が——「実の母」であるあの女が、クレイガーンを殺した? ビーチェがかの英雄伝説の幕を引いた張本人で、しかも自分の息子を死に至らしめている?

「そうだろう? サルヴィア。そういうことなんだろう?」

 オースティンは切々と問う。「クレイガーンは本当は、トゥルカーナを捨てたわけじゃなく、その女のせいで捨てさせられた。そうだ、その女のせいで、トゥルカーナは——」

「シフルが許せば説明します」

 セージは一蹴した。オースティンの《大理石の肌》が、かっと赤くなる。

「かまってられるか! いいから言え」

「言いません」

 彼女は静かに答える。「どうする? シフル」

 セージの落ちついた黒い眼と、オースティンのいらだった眼とが、同時にシフルのほうへ向けられた。シフルは冷水を浴びせられたような心地で、二人を交互に見やる。

 シフルと同じ色をしたオースティンの瞳には、刺すような光があった。英雄クレイガーンの死の行方が、トゥルカーナの公子にとっていかなる意味をもつのか、シフルには計り知れない。

 一方、セージのまなざしは如実に語りかけてくる——自分で選べ、と。仮にセージがシフルの立場だったとすれば、彼女は絶対に目を逸らすまい。

「オレも……知りたい」

「本当にいいの?」

「……ああ」

 できるだけ歯切れよく返事したかったが、うまくいかなかった。緊張に喉がつまる。

「じゃあまず、なぜ事故死説と病死説が成立しないのか、ですね」

 セージは口を切った。「思うに、クレイガーンは寿命以外では死ねません。『英雄クレイガーンは精霊の愛を一身に受けていた』という伝承が事実だという前提で、ですが」

 彼女はかつて、水(アイン)という一属性の精霊の愛情によって災難を免れた。精霊は、愛する者を徹底して守護し、その者を傷つけるものに対してはいかなる危害を加えることも辞さない。おそらく、それが人間であれ獣であれ病であれ、精霊にとっては同じだろう。

「サルヴィアは水(アイン)に守られたことが?」

「ええ……水(アイン)は、私に危害を加えようとした相手を殺しかけました。私の場合は大した状況ではありませんでしたが、例えばその人が命を狙われていたとしたら、その人の運命は精霊の愛によって死から生へと反転することになります」

 それぐらい、精霊の愛はその対象の運命に影響を及ぼすといえるでしょう、と彼女は言った。

 それが「精霊の愛を一身に受けた」英雄クレイガーンともなると、まさしく運命が彼の味方をしているようなものではないか。クレイガーンを傷つけられる者はこの世に存在しないだろうし、馬車に轢かれたり病に冒されたりしたとしても、あらゆる精霊が救いの手を差しのべることで、きっと彼は生きのびる。

 しかし、寿命だけは別である。仮に病気などの要因がなかったとしても、心が器を離れ、精霊界に還ってしまえば、精霊とて止めることはできない。

「だとすれば、クレイガーンは老衰でしか死ねないのではないでしょうか」

「確かに僕も、厄介な病気や怪我には無縁だな」

 オースティンはうなずいた。「ラージャスタンに来るとき事故に遭ったが、無傷だった。父は年寄りのくせにやたら元気だし、自殺を図った従妹も一命をとりとめた。偶然といえば偶然なんだろうが」

「偶然も運命も、精霊に左右されるのでしょう」

 彼女の両目が、シフルをとらえてきた。「だからクレイガーンは事故死も病死もできない」

 少年は肩を痙攣させたが、なんとか相槌をうつ。

「すると、ここで問題が生じます」

 と、セージは続ける。「英雄クレイガーンは、若くして死んだ。事故死も病死もできないのに、どうやって?」

「——」

 シフルは息を呑む。

「これが、私の結論——」

 

 

 ——クレイガーン以上に精霊に愛される者が、彼を死に至らしめた。

 

 

「それが誰かというと」

 彼女は目を伏せる。「全精霊を統べる者——精霊王の寵愛を受けた人間しかいない」

「なるほどな」

 と、オースティン。「クレイガーンが精霊に愛されたのも、精霊王の寵愛を受けた女の息子だとすれば、ちっとも不自然じゃない。そして、おそらくその女であればクレイガーンを殺すこともできる」

「『英雄がトゥルカーナを捨てたかどうか』なんて、私にはわかりません」

 セージはここで、先ほどのオースティンの問いに答えた。「しかし、可能性としてはありえます。もしそうなら、オースティンは満足ですか?」

「——」

 オースティンは、灰青の瞳をみひらいた。「……さあな」

「何にせよ、とんでもない話っていうのは、そういうこと」

 セージはそれ以上の追及はせず、シフルに向きなおった。「確証はないけど、これまでに聞いた話から想像するとね」

 彼女の話が終わっても、シフルはとっさに反応できなかった。視線をあげ、口を開きかけたが、言葉がみつからない。

 何を言えばいいのかわからない、というのが正直なところだった。時姫ベアトリチェ・リーマンが英雄クレイガーンを殺し、トゥルカーナから初代大公を奪い去ったという可能性。それは確かに、シフルにとって衝撃だった。けれど、悲しみや怒りといった感情はなく、単なる「衝撃」というべき感覚、それと根本的な疑問が、少年の頭を占めている。

 仮にビーチェがそういう凶行にはしったとして、それで彼女は何を得るのだろう。殺人と引き換えの収穫など、彼女は望むだろうか? 「空(スーニャ)に肉体を授けるため、『ラシュトーでもっとも美しい男』を選びだして子供をつくった」とは聞いているが、それだけのために人を殺せるものだろうか。

「確証なら、簡単にとれる」

 オースティンがつぶやいた。「直接確認して、疑問はすべて解決だ」

「つまり?」

 と、セージ。

「空(スーニャ)の妖精を呼びだすんだ、シフル。おまえの妖精だろう」

「オースティン。私たち、ラーガさんのこと話してませんよね。ツォエルさんから聞いたんですか?」

「よくわかっているじゃないか」

 オースティンは表情を動かさずにいった。「シフルは留学メンバーの中でも変わり種だ。ツォエルから特に報告があってもおかしくない」

 セージは、それはそうですね、とあっさり引きさがる。

「踏みこみすぎるなよ、サルヴィア」

 オースティンは語気を強めた。「痛い目に遭っても知らんぞ」

「踏み入る隙をつくったのはあなたです。だいたい、痛い目に遭うのは、私たちだけではないのでは?」

「とにかく」

 少年公子は話を打ち切って、シフルのほうを向いた。「シフル、おまえが空(スーニャ)の妖精を呼んで事情を聞きだせば、おまえの好奇心は満たされ、僕も助かるというわけだ」

「……ラーガを? 呼ぶ?」

「空(スーニャ)ではなく、おまえの『実の母』という手もあるな。昔は人間だったとはいえ、今は人間でないのなら、今すぐにでも会う手立てはあるだろう。さあ」

「さあ、って」

 少年はためらった。「何を訊けっていうんです。『時姫、あんたクレイガーンを殺したのか』って、そう訊けっていうんですか?」

「そうだ」

(訊けるかよ、んなこと!)

 が、皇女婿相手では口に出せない。(あんたは遠い先祖のことなんて他人事かもしれないけど、オレだって最近まで全然知らなかったけど、ビーチェはオレにとって『実の母』なんだぞ? 『実の母』が英雄を殺したなんて、そんなのどうすればいいんだよ!)

 ラーガは、時姫はトゥルカーナに縁があると言っていた。もしセージの説が的はずれでないとすれば、その件と関係があるのかもしれない。だとすれば、この恐ろしい疑問に答えを出さない限り、すべての疑問は疑問のまま、何も見えてこないように思える。

「……わかりました」

 シフルは答えた。「ラーガを呼びます」

「よし」

 オースティンは口角をあげる。少年公子の関心は、明らかにただの興味の域を逸脱していたが、シフルはその点はあえて考えなかった。オースティンが何のために何を知りたがっていようと、彼自身がセージに忠告したように、踏みこまないに越したことはない。

「ラーガ、来てくれ」

 頭の中で、クーヴェル・ラーガ、と真名を呼ぶ。

 例によって、妖精の青い頭が地面から飛びだしてきた。いきなり芝生の上に頭が現れたので、セージとオースティンはあとずさる。

 ラーガは地面に降り立つと、真っ先にオースティンを見た。オースティンはラーガをにらみ返す。二人のあいだに流れる空気は、まるで顔見知り同士のそれだった。これだけ容貌が似ていると初めて会った気がしないのか、やはり先祖だからなのか。

「何の用だ」

 ラーガはいつもどおりの無表情で言う。

「あのさ、このあいだの話の続きみたいなもんなんだけど……」

 シフルはためらいがちに切りだした。「時姫とトゥルカーナの関係って……、時姫は……」

「——だめだ」

「は?」

 来たばかりだというのに頭を振られて、少年は呆気にとられる。隣にいるセージとオースティンも同様だった。

「帰る」

「ちょっ……」

 とっさに呼び止めてはみたものの、ラーガが制止を聞き入れたためしはない。いつでも彼は、シフルの召喚に応じて現れはするけれど、都合が悪いとなるとすぐにいなくなってしまう。

 案の定、ラーガはさっさと芝生の中に潜りこんでしまった。ラーガがやってきてからいなくなるまで、その間わずか二十秒足らず。

「待てッ、ふざけるな!」

 オースティンの声が空しい。セージも開いた口が塞がらない様子だったが、思い立ったように周囲を見まわすと、

「あれ」

 と、シフルに目配せした。

「え?」

「メアニーさんがいる。それに……」

 雨だ、とセージは言った。

 なまぬるい水滴が少年の額に落ちてきた。シフルは灰色の空を見あげ、それから客舎のほうに目をやった。客舎の廊下、柱の陰に少女がたたずんでいる。太陽のごとき朱色の髪と瞳は、普段は光を放つようだけれど、曇天の下では土の色に見えた。ラージャスタンの暗い大地の色。

(またメアニーか)

 シフルはひとりごちる。(しかも、あの『怖い』メアニー)

 前にもこういうことがあった。それも一度のみならず二度で、これでもう三度めになる。一度めは、シフルが危険な結界に侵入しそうになって、それを察知したラーガにすんでのところで助けられたときだ。その直後、メアニーが現れた。二度めは、時姫とトゥルカーナの関わりについて尋ねるため、ラーガを召喚したとき。やはりメアニーが姿をみせた。

 共通しているのはラーガがいた点、それとメアニーが日ごろの快活さとはうってかわって昏い敵意をみなぎらせていた点である。二面性といって差し支えない少女女官の豹変は、プリエスカにいる友人アマンダを思いだす。彼女も、普段は誰より明るくかわいかったが、秘密を隠し通すために嘘を重ね、シフルたちを拒絶した。

 それはそうと、ひとついえるのは、メアニーはラーガの訪問を知ることができるのかもしれない、ということである。言い換えれば、彼女は侵入者の存在を感知できるということ。

(メアニーって……、ひょっとして)

 あたりの空気が、にわかに冷えた。

「シフル!」

 セージが呼んでいる。気がつけば、ひとり本降りの雨に打たれていた。ラージャスタン式の木綿の上下は水を吸って湿っている。

「ゼッツェ濡れるよ、はやく」

 シフルは駆けだした。廊下に飛びこむと、そこで待っていたメアニーはいつもの彼女で、《あらら大変、今すぐおからだを拭くものをお持ちしますね》と告げ、廊下を走っていった。まもなくキサーラとともに戻ってくると、またセージと三人で何やら大騒ぎになった。

 オースティンはしばらく客舎にとどまり、やがてキサーラとともに自室へ引きあげた。その日は皇女夫妻との夕食もなく、話の続きはできずじまい。消化不良の気分のまま、シフルたちは別れた。

 

To be continued.

© 2022 by Kakura Kai / このサイトはWix.com で作成されました

  • Twitterの - ブラックサークル
  • Instagramの - ブラックサークル
bottom of page