精 霊 呪 縛
第二部 ラージャスタン・アグラ宮殿編
第7話「見えない糸」(4)
青々とした芝生を踏みしめ、《赤の庭》を行く。
《赤の庭》は、その名のとおり、赤い草花を中心に造園されているという。しかし、やはり時期によって植物の種類がちがってくるようで、どちらかというと雨季よりも乾季のほうがそれらしいそうだ。雨季の今、庭園は多様な色彩を誇り、ところどころに集中的に植えられた赤い花が却って目を惹いた。
「なんか、湿っぽい匂いがする」
「雨が降るのかもね」
シフルのつぶやきに、かたわらのセージが応じた。「ゼッツェ、持ってこないほうがよかったかな。木管楽器だし、水には弱そう」
言いながら、セージは庭石に座るよう勧めてきた。
いいよ、ありがと、とシフルは頭を振る。気づかいはありがたかったが、捻挫の痛みはただ立っている分には差し支えない。痛くも痒くもないといえば嘘になるが、ケガ人ぶりたくはなかった。
「今日は何吹こっか」
セージもこだわらず話を切り替える。
「いつもの精霊讃歌は?」
「やめといたほうがいいと思う」
シフルの答えに、彼女は即座に言った。「誤解されたくないでしょ?」
「あー、誤解」
精霊讃歌は、元素精霊教会の編纂した歌集である。
すべての歌を教会関係者がつくったわけではなく、各地に伝わる精霊関連の民謡や有名な詩に曲をつけたものなどを、元素精霊教会出版が一冊の本にまとめたというだけの話だ。しかし、それが日々の礼拝に使われているとなれば、元素精霊教という宗教の一部とみなされて当然だった。プリエスカの国教たる元素精霊教の歌を、ラージャスタンくんだりまでやってきてわざわざ演奏するのは、聞く人によってはいやみになりかねない。
「でも、それでいくとロータシア民謡もだめだろ?」
「本当だね」
セージも首をひねった。「どうする? 流行歌も古典音楽もだめ。知ってる曲は、どれもこれもプリエスカを懐かしんでるみたいになる」
「そんなに気にしないでもいいんじゃないか? オレたちしょせん留学生だし」
「それはあとが怖いよ。だから」
セージは顎をしゃくった。「あの人に訊くのはどう?」
彼女の示す先に茂みがあり、その陰から非ラージャスタン式のズボンをはいた足が、怠惰に投げだされている。
もはやおなじみになってきた、トゥルカーナ公子にしてラージャスタン皇女婿、少年オースティン・カッファ。彼の両まぶたはかたく閉ざされており、憂いに満ちた灰青の瞳も今は見えない。
「寝てるけど」
「いや」
セージは少年のそばに歩み寄る。「どうせ、起きているんでしょう? オースティン」
「まあな」
彼は現代プリエスカ語で返した。
「前も、そのあたりで昼寝しているからと言われて探していたら、いきなり手首をつかまれました」
セージはオースティンの横にしゃがみこみ、ようやく眼を開けた少年に笑いかける。「こんにちは。ムストフ・ビラーディ(婿殿)・オースティン」
「どこでそんな呼び名を覚えた? サルヴィア」
オースティンは起きあがり、不愉快そうに眉をひそめた。
「理学院で習いましたよ。それに、女官たちがそう呼んでいました。オースティンはキサーラさんを寵愛しているんだとか? 寵愛というと、なんだか色っぽいですね」
「セっ、セージ!」
シフルは赤面した。
「言っておくが、そんな事実はない」
「そうでしょうね。キサーラさんを見ていれば、なんとなくわかります」
セージはさらに続けた。「そうだ、やはり女官たちが言っていたんですが、ツォエルさんとライラさんというのも、皇帝陛下のご寵愛を受けて宮殿入りされたそうですね。ライラさんはまだ会ったことがないのでわかりませんけど、ツォエルさんはけっこう怪しいですよね。ちょっと類い稀な美人ですから」
「そう、確かに怪しい」
オースティンも神妙な表情でうなずく。「あの女は、女官でも《五星》でも異質だ。それは確かだが、サルヴィア、もうあの女の噂を口にするのはやめたほうがいいな」
「ふふ」
セージはにっこりと笑う。オースティンは笑わない。
「まして、おまえはそうとうに勘がいい。おそらく、ムリーラン宮に移ったあと、ツォエルの監視下におかれるのはおまえだろう」
「どういうことです?」
セージは聞き返す。シフルは二人を交互に眺めやるしかない。
「じき客舎からムリーラン宮に移される。それはもう聞いただろう。ムリーラン宮では、留学生一人につき《五星》の女官が一人付く。《五星》の中で、ライラだけは特殊な役割があるから、残り四人のどれかだ」
「なるほど」
セージは興味深そうに相槌をうった。「それで、留学生は四人なんですね。……ある意味、楽しみだな」
「そのお気楽、長続きするといいな」
「それはわかりません」
セージは無難に応じる。「それで? ムストフ・ビラーディという呼称のどこが気にくわないんです、オースティン。本来、『国の君』という意味でしょう。国そのものといえる『皇太女』殿下の夫君、ってことですよね。そのままじゃないですか。もっとも、マーリ『皇女』殿下はまだ立太子されていないようですけど」
「ふん」
オースティンは目をすがめた。「僕とて、支配者の一族に生まれた者としてある種の矜持がある。むろんトゥルカーナでは他国に婿入りすることばかり刷りこまれて育ち、それも当然のことと諦めて受け入れてはいたが……、」
人並みはずれた美貌をもつ少年は、そう述べたあとで一瞬目をみひらいた。口が滑ったらしい。妙に実感がこもっていたので、シフルとセージも思わず顔を見合わせる。いかに留学メンバーを宮殿の住まわせる名目が「皇女夫妻の話し相手」だったとしても、プリエスカの一般市民であるシフルたちとラージャスタンの皇女婿たるオースティンの関わりあいは、常に一線を画していてしかるべきだ。
「それはいいとして、何か用件があったんだろう」
オースティンは動揺を押し隠し、セージに水を向ける。
「ええ」
セージはうなずいて、ゼッツェを差しだした。「これです」
「楽器か?」
「ゼッツェといいます。プリエスカ……、もしくはロータシアの民族楽器です。それで、何か曲を教えていただけないかと思って」
「ああ、精霊讃歌は避けるとか何とかいう話か」
先ほどまでの会話はしっかり聞かれていたらしい。それでまったくうしろめたさを見せないとは、なかなかちゃっかりした性格のようだ。
「だが、それでいくと、楽器自体民族楽器だろう?」
「さすがにそれはどうしようもないですよ」
「そうそう、オレたちゼッツェが民族楽器だから好きってわけじゃないですし……」
シフルもセージに同調する。
口を挿んだとたんに、オースティンの灰がかった青の瞳がシフルをとらえてきた。何かを問うような視線——いや、明らかに特定の問いを含んだ視線。
シフルの心臓が跳ねる。そして、昨日のラーガとのやりとりを思いだす。
——時姫(ときのひめ)が、トゥルカーナの森に住んでいるのって……、トゥルカーナに、縁があるからなのか?
——そうだ。そうでなければ、あれほどロータシアを愛した時姫さまが、ロータシアの地を離れるわけがない。……
ラーガに瓜ふたつのオースティン公子。シフルはラーガの器の異父兄弟。
細かい数字は覚えていないが、時姫は約六百歳。人間の女であるベアトリチェ・リーマンは六十二歳のときに失踪しているから、彼女が時(ヘムダ)と空(スーニャ)を授けられたのは、約五百四十年前のことになる。トゥルカーナの英雄伝説はおよそ五百年前のものなので、計算は充分に合う。
——……あなたは、誰……?
——僕が……、訊きたい。……
「オースティン、さま」
シフルは呼びかけた。
「『さま』は要らない」
オースティンはすぐに応える。「最上の礼を尽くす必要はないと、マーリに聞いただろう」
「じゃあ、オースティン。ひとつ訊きますけど、オレが話したら、あなたもちゃんと話してくれますか?」
「シフル?」
セージがいぶかしげにみつめてくる。
「というと?」
オースティンは聞き返す。
「例えば——」
シフルは一拍おいて、それから少年に問いかける。「例えばそれが、あなたの国の重要な問題だったとしても、あなたはちゃんとオレに教えてくれますか?」
あなたの知りたいことだけわかって、オレの好奇心が満たされないままなんて、絶対ごめんですから——とも、シフルはいう。
オースティンは薄く笑った。
「僕は、婿入り先で公務を放棄するような公子だ。国家機密のひとつやふたつ、何ということもない」
さらに、こうも付け足す。「だいたい、五百年前の伝説など、伏せるまでもないだろう?」
シフルはわずかに口の端をあげた。
「それはよかった」
そして、静かに深呼吸し、
「——オレは……、精霊王の元正妃で、時(ヘムダ)属性を司る《時姫》の息子です」
「……」
オースティンは眉をひそめる。「……何だって?」
たとえそれがめったにない境遇で、人や精霊召喚学を専門とする研究者の興味を惹くのに充分だったとしても、トゥルカーナの少年公子にとっては期待はずれの回答にちがいなかった。
オースティンの関心はおそらく、オースティンとシフル、トゥルカーナとシフルの関係にある。しかし、ここから始めなければ、あとあと話が通じなくなるのだ。
「時(ヘムダ)。《禁じられた第五の元素》か」
案の定、オースティンは温度の低い反応をみせた。「ではおまえは、妖精の子ということか。だが、妖精の器は死体にすぎず、機能しないんじゃなかったか」
「いえ、時姫は人間です」
時姫は五百年以上前、六十二歳のときに、精霊王と出会って若かりしころの姿を取り戻した。《精霊人形》として精霊王に仕えるべく、肉体の時間を遡らせ、もっとも美しかった十八歳当時の容姿となって、そこで時を止めた。時を止めたというのは、死ぬということとは別である。死とは終わりのことだが、時姫の命は潰えたのではなく、途中で休止したのだ。つまり、時(ヘムダ)の力を使うことによって時は再び動きだす、と考えられる。
「おまえを身ごもったときには、その女の時は動いていたと?」
「そうです」
シフルは首を縦に振った。「現に彼女は、オレの父親の目の前で十月十日の時間を経過させ、オレを産み落とした」
「……なるほどな。なかなか興味深い出自だが、おまえが妖精の子供でも人間の子供でも、僕には何の関係もない」
オースティンは切り捨てる。「僕は、おまえが《英雄の血》をもつように思えた。それがまちがいだったとすれば、この話を続ける意味はない」
「ふーん、ずいぶんせっかちなんだな。ムストフ・ビラーディ・オースティンは」
「なんだと?」
「人の話は最後まで聞いてください」
オースティンのにらみをいなし、シフルは話を続ける。
「彼女、時姫は、人間として暮らしていたころ、独身を通していました。子供ができたのは精霊王の正妃になってからで、少なくとも二人の子供を産んでいます。両方とも、精霊王の子供ではないんですが」
オースティンはむっとしていたが、子供の話題が出るにあたり、眼をみひらいた。
「一人は十六年前、じき十七年になりますけど——に産んだオレです。もう一人が——五百四十年ぐらい前に産んだ、空(スーニャ)の器。他は知りません」
「ふん……」
少年公子は身を乗りだした。
「空(スーニャ)は、精霊王によって時(ヘムダ)の力を与えられたとき、一緒にもらった元素です。そのときから、時姫は空(スーニャ)を従えるようになったんですが、それで空(スーニャ)に肉体を授けるため、『ラシュトーでもっとも美しい男』を選びだして子供をもうけた、と聞いています」
「——」
オースティンの表情がこわばった。「それでは……、おまえは」
「もし、空(スーニャ)——ラーガの器があなたの国の初代大公なら」
と、シフルは言った——「オレにとってあなたは、甥の子供の子供の子供の子供の……、あー、何回いえば五百年分経過するんだか!」
(あーあ、言っちゃったよ)
と、シフルはなげやりに思った。
今の彼を満たしている気持ちを表現するなら、後悔、というのがいちばん近かった。
結論はすでに出ていたけれど、現実にトゥルカーナの関係者であるオースティン本人に、ついでにセージにまで伝えてしまったのだ。これで二人が真実だと認めるようなら、このばかげた結論はいよいよ本当らしくなってしまい、時の経過とともにまぎれもない事実として定着していくことになる。
この結論を導くにあたって、多少は材料を集めた。まず、自分が時姫の腹から生まれたことは最前提。次に、オースティンとラーガが酷似した容貌をもつこと。さらにはラーガいわく、時姫はわざわざロータシアの地を離れてトゥルカーナに住居をおくほどに、トゥルカーナに執着もしくは因縁があること。加えて、時姫の年齢が伝説の年代とぴったり一致すること。
時姫がクレイガーンの母親で、ラーガの器がクレイガーンである点はいい。どちらにしても、常識ではかることのできる連中ではないのだ。何がばかげているかというと、《英雄クレイガーン》とシフルが兄弟だという点である。六百年前の女から生まれただけでも認めがたかったのに、ラシュトー大陸では知らない者のない英雄伝説——その主人公が、五百余年の時を越えて自分の兄弟。これはいったい、どうしたものだろう。
そして、目の前の少年は兄弟の子孫。兄弟といっても、こちらはたかだかあの父親の子供で、あちらの父祖は「ラシュトーでもっとも美しい男」なのだから、それなりの差異があっても仕方のないことではあるが、
(『伝説』と血縁ね……)
シフルはうつろな笑みをもらす。(変な宗教家じゃあるまいし、誰が信じるもんかよ)
「……信じられない」
誰より先にセージがつぶやいた。「確かにシフルとオースティンって、瞳の色が同じだけど。でも、まさか」
「いっそ嘘だといってほしいよ」
シフルはぼやく。「でも、何といってもオレが感じるんだ。……オレはこの人を知っている。というより、この人はラーガそのもの」
「《英雄の現身》ってことか。だとしたら、詩人というのもあながちバカにできないな」
セージは感心したようにシフルとオースティンとを見比べる。正直なところ、オースティンと比較されるのはかなり微妙な気分だったが、
「やっぱり似てないね」
もちろんセージは容赦しない。「シフルはお母さんにすごく似てるけど、オースティンが時姫さんの要素で引き継いでるのって、瞳の色ぐらいじゃない? ということは、残りはその『ラシュトーでもっとも美しい男』と他の要素。でもそれ、誰なんだろう」
「……イェンス、という」
オースティンが答えた。「名字もない、スーサの農民だ。妻の名前はヴァレリー。トゥルカーナ以外ではほとんど知られていないが」
「『ヴァレリー』!」
シフルは叫ぶ。「『ヴァレリー』ってのは時姫の別の名前で、オレの親父もそう呼んでた。トゥルカーナで夫だったそのイェンスとやらにも、同じように名のってたんじゃないか」
「——」
オースティンとセージは沈黙した。
セージはもはや、信じられない、とはいわなかった。オースティンもシフルの考えを否定しない。
シフルはまた力なく笑ってから、勢いよくオースティンに向き直った。
「そんなわけで、オレの話は以上です。今度は、あなたが答える番だ」
とたんに、シフルは灰青の瞳に光をみなぎらせた。「オレが教えてほしいのはただひとつです。トゥルカーナでは、初代大公の行方についてはどう記録されてるんですか?」
自分のことはこの際どうでもいい。逃避であれごまかしであれ、伝説の真実が知りたい。
ラシュトー大陸で生まれ育った者なら知らぬ者のない、英雄クレイガーンの伝説。伝説の幕引きは実に潔い。彼は民の要望に応えてトゥルカーナ建国を果たそうとするものの、己の器を省みて大公位には相応しくないと痛感し、戴冠を目前にして姿を消した。歴史的に、英雄や革命家が統治者になろうとして失敗する場合が多いことを考えると、賢明といえる。
けれど、それは本当なのだろうか。本当にクレイガーンは、大公位を辞退するために失踪したのだろうか? 確かに、彼がいなくなったのは事実なのだろう。事実上の初代大公はクレイガーンの息子である。しかし、ひとえに姿を消すといっても、常に自ら去っていくとは限らない。同じいなくなるのでも、強制的に消えさせられたり、本人が自覚しないうちに消えたりすることもあるはずだ。
「オレは、行方不明になった、と聞いてます。クレイガーンが失踪したことで、いっそう英雄信仰は加熱したって」
「……こちらでも失踪したことになっている。スーサに行って農民に戻り、生涯幸せに暮らした、という説もあるな。ただし、後年英雄信仰の加熱したスーサで、皇室が捏造したという線が濃厚だ」
そう言って、少年公子はうつむく。が、オースティンの側にいかなる事情があろうと、答えを知る前に話を切りあげるつもりはない。
知りたい。伝説が変貌する瞬間を、この眼で見たい——。
「そういえば」
思いだしたように、セージが口を挿んだ。「ラーガさんの器、かなり若いね」
「!」
オースティンは顔色を変える。
「そう。ラーガの外見年齢はせいぜい二十代そこそこ。ラーガがクレイガーンの遺体に宿借りしたとすれば、クレイガーンは若いうちに死んでるってことだ」
シフルはうなずいた。「だから、クレイガーンが生涯幸せに暮らした、という説は少なくとも成り立たない。……クレイガーンが失踪したとされるのはいつ? クレイガーンが何歳のときですか? プリエスカには、具体的な数字は伝わっていない」
「狂った魔物を浄化していたのが、十八から十九のあいだ。失踪時は二十歳だな」
息子で事実上の初代大公ティナンは十七のときの子で、活躍時すでに子持ちというのがトゥルカーナの祖先らしいところだ、とオースティンは薄く笑う。
「じゃあ、五年から十年以内には亡くなってたってことか」
シフルはラーガの容姿を脳裏に浮かべつつ、多めに見積もった。「だけど、ひょっとしたら——失踪する以前に、すでに死んでいたのかもしれない」
「——シフル」
オースティンが口を挿む。セージにつられてか、勝手に愛称を使っている。「要は、おまえは暗殺説をとるわけだ」
「いや、そこまでは言いませんけど」
シフルは首を横に振る。「事故死でも病死でもいいんです。とにかくクレイガーンは、即位がどうのといって失踪したわけじゃなくて、ただ命数が尽きて、人間の世を離れるはめになったんじゃないかと」
「シフル」
今度はセージだった。「その説はたぶん成立しない」
「え、なんで?」
「というより」
彼女は目を伏せる。「もっと、とんでもない話だ。シフルが知ったら、きっと後悔する」
「セージ? それ、どういう……」
シフルはセージを、次いでオースティンをみつめたが、二人とも答えない。セージはシフルと視線を合わせず、オースティンは考えこんでいた。シフルは自分でも必死に考えた。事故死説もしくは病死説のどこに、論理としての矛盾があるというのか。
「! サルヴィア——」
突然、オースティンが口をひらく。
シフルもセージも、少年公子を見た。オースティンは二人のプリエスカ人留学生の前で、隠しもせずに震えている。シフルは息を呑んだ。
「——その時姫という女が、」
オースティンはためらいつつ、乾いた声でそれを口にする。「……クレイガーンを、殺したと? ——」
一瞬、何をいわれたのかわからなかった。オースティンの言葉は、現実味のない遠さでシフルの耳を通り抜け、去っていった。
* * *
「風(シータ)——」
ユリスは開いた右手をすばやく振りあげる。「頼む! 来てください!」
それから、同じ速度で振り下ろした。かたわらでは、カウニッツが見守っている。
ユリスの腕が空を切った直後、突風が二人のあいだを駆け抜けた。埃を巻きあげ、ユリスとカウニッツの髪をかきまわしたかと思うと、あっというまにいなくなった。風(シータ)は俊敏そのものの精霊だ。恥ずかしがりやともいわれる。
「おっ」
ユリスはささやかに拳を握った。「来たじゃん。来た来た」
風(シータ)の五級精霊。これまで六級以下しか呼べなかったユリスにとって、初の快挙だった。もう少しがんばれば、かつて《Aクラス四柱》時代に四人が独占していた、礼拝の《若人》役さえ手に入る階級である。現在の《風(シータ)を讃える若人》は、四級風(シータ)を召喚できる学生が務めていた。
「やったな、ペレドゥイ。おめでとう」
カウニッツは乱れた髪を整えつつ、ユリスを祝う。「五級は初めてだろう?」
「そー。Aクラス生活半年にして、やーっと」
はー、とユリスはため息をつき、大いに伸びをした。「一緒に昇級したシフルがさ、六級五級ときて妖精(エルフ)まで軽ーく使役するだろ? もー、自分のほうは遅々として進歩しないし、どうなるかと思ったよ」
「結局のところ、焦っても仕方ないのさ。成長のはやさは人それぞれ」
ありがちないいまわしだが、カウニッツの言葉である限り、重みが感じられた。カウニッツは先日二十二歳になったそうで、ユリスより五つも年上である。二十歳になる前にたいていが見切りをつけて卒業していくのに、彼はいまだに召喚学部で粘りつづけている。ユリスはAクラスに上がるまで三年かかったけれど、カウニッツに比べればヒヨッ子に等しかった。
前は、シフルやセージのような早熟型および天才型の人間に囲まれ、どうしても肩身が狭かった。今は友人に去られた者どうし、カウニッツと行動することが多くなったが、二人ともどちらかといえば成長に時間がかかるたちである。あの四人組も好きだったし、とても楽しかったけれど、この二人組はなんといっても気楽だった。
(風(シータ)五級か。これでなんとか、シフルたちが帰ってきたとき、胸張ってられるな)
そう思うと、ユリスは安心できた。一年後か二年後に、彼らはきっと驚くべき成果を示してくれるはずである。そのとき、自分が何も変わっていないのでは、二人の顔を直視できなくなる。
(それでなくても、アマンダと完全に縁切れちゃったしな……。まー、期待もしてないだろうけど)
アマンダについては、このところまったくといっていいほど見かけない。四十人しかいないAクラス内にいるのならまだしも、彼女はBクラスの人間である。理学院の交遊関係の基本として、他のクラスの人間とは疎遠になりがちだ。勉強だけでも大忙しの学院生活では、わざわざちがうクラスに通う暇などないし、同じクラスの人間のほうが何かと役に立つ。クラスがちがうというのは、すなわち学部内の階級——まさしくクラス——がちがうということであり、おたがい微妙な感情を抱きもする。優等生揃いの名門理学院の学生は、みな強い自負心をもつのだ。
(元気にしてっかな、アマンダ。まだあいつとつきあってんのかな? 弱み握られてるんだもんな、そりゃそうか)
——ユリス!
脳裏に、ありし日のアマンダの姿が浮かぶ。ありし日といっても、彼女は生きているのだが。
——シフル! ユリス! ……
かわいらしく微笑む、明るい水色の瞳のアマンダ。それとともに、あまり思いだしたくないことまで思いだしてしまい、ユリスは落ちこんだ。そう、アマンダは必ず、シフルの名前を最初に呼ぶ。
(……セージめ)
それに気づいたのは彼女だ。セージは以前、シフルが好きだと言ったことがある。そのくせ、シフルに関連するできごとであっても冷徹に観察している。思い起こすだに変な女だ。シフルもシフルだ。冷静で鋭いところもあるが、ものによっては人並みはずれた鈍感ぶり。あのふたり、ある種の変人同士、非常にお似合いである。せいぜい《永遠の仮想敵国》でよろしくやるがいい。
(なんかやさぐれてきたぞ)
ユリスは内心ぼやいた。(やめだ、やめ。集中集中。この時間に五級風(シータ)をものにする)
ユリスはまた腕を掲げた。おやペレドゥイ、やる気充分だな、と言って、カウニッツが目を細めた。
二人は今、召喚実習の授業で広場にいた。
といっても、例によって例のごとく、Aクラス担当教諭アルフォンソ・ヤスルの姿は見えない。カウニッツと同い歳の召喚学部教授である彼は、このところますます自分の研究に熱中していて、もはや「今日の課題は七級精霊召喚の練習だ。時間は授業の終わりまで」とすら言いにこない。
「ヤスル教授はいっつも忙しそうだけど、ここんとこ誰も彼も忙しそうだよな、先生たち」
ユリスはつぶやく。「何かあったのかな?」
言いながら、開いた手を振り下ろす。気が抜けた状態での召喚は、きっちり失敗した。
「そうだな」
カウニッツは同意した。「Aクラスの授業なんか、今やあってないも同然だしな。それで卒業を決めた学生もいる」
他の学部もいろいろあるそうだよ、とカウニッツはいう。召喚学部以外に、法学部、農学部、工学部、芸術学部の四学部があるものの、芸術学部を除いた各学部の教授陣は何やら駆けずりまわっていて、毎日のように休講が入るらしい。日ごろ昇級試験の対策に追われて休む間もない学生たちは、珍しく穏やかな日々を楽しんでいるが、かつてない状況に不安を覚える者もいる。
「また相談されたのか?」
ユリスは尋ねる。カウニッツは、学生の中の「大人」として、学生たちから頼られていた。
「俺に相談されても、今回ばかりは解決できそうにないけどね」
カウニッツはうなずいた。「たぶん、情勢の問題だ。ドロテーアが前、よく言っていた。ヤスル教授は、戦争再開のための研究を進めている。他の先生も同じかもしれない」
「えッ、……本当に?」
予想できなかったわけではないが、ユリスは目を剥いた。「……それじゃ、シフルたちはどうなるんだ? 危ないんじゃ——」
「——手紙、書いてきたか? ダナンたちへの」
真剣な表情で、カウニッツが訊く。
「ああ。カウニッツは?」
「もちろん。ほら、これだ」
カウニッツはズボンのポケットから白い封筒を取りだした。「今から、ボルジア助教授の研究室に届けにいこう」
彼の提案を、拒む理由はない。ユリスは歩きだそうとした。
しかし、
「——ムダよ」
背後で、女の声がそう言った。
ユリスとカウニッツは同時にそちらを振り返る。
「……ムダ?」
「ええ、ムダ」
迷いのない、凛としたまなざしの女学生だった。黒い瞳に、土沙漠を思わせる赤い髪、広場にすっくと立ったきれいな足。艶と力強さを併せもつ少女である。ユリスにしてみると、アマンダのほうがかわいいけれど。
「ボルジアは送ってくれやしないわよ」
と、彼女は言い放つ。「学院の情報が盛りこんであるかもしれない手紙を、誰がラージャスタンに届けるものですか。仮に検閲して配達させたとしても、今度はラージャスタン側が握りつぶすわ。留学メンバーが、精神的に理学院から孤立するようにね」
「ステッドラーさん? 君、いったい……」
カウニッツは彼女にいぶかしげな眼を向ける。ユリスも驚きのあまり、目をしばたかせた。
二人はこの女学生を知っている。だが、一度も話したことはない。
彼女——マリアム・ステッドラーは二人の同級生、つまり召喚学部Aクラス生である。
セージがラージャスタンに留学し、アマンダがBクラス脱落の憂き目を見て、Aクラスの風景は再び荒涼たる様相を呈した。女子の少ない理学院では当たり前の光景なのだが、Aクラスに残ったあらゆる男子が自分たちの状況を嘆いた。手に入れさえしなければそんなに悲しむ必要もなかったのに、ついこのあいだまで彼女らはいたのだ。男子学生たちは喪失感に苦しんだ。
マリアム・ステッドラーは、そんな荒野に降り立った美貌の妖精(エルフ)である——というのは、むろん詩人ぶった男子の用いたおもしろみのないたとえだが、アマンダに代わってAクラス昇級を果たした彼女は、実際のところ美人だった。しかも色気があって、ある意味アマンダより見ごたえがあった。
男子一同はそれぞれの胸のうちで狂喜したが、それも最初のうちだけ。ステッドラーは昇級直後に四級風(シータ)を召喚してみせ、いきなり《風(シータ)を讃える若人》の役を奪いとる。電光石火の早業に男子一同は唖然。彼女の美しさにうっとりしている場合ではない。彼女は何よりも優秀な精霊召喚士候補生であり、Aクラス生全員の敵手なのだ。彼女は第二のセージになった。能力的にはセージほどではなかったものの、その色気によってちがう方向の衝撃が大きかった。
そのステッドラーが、いきなりユリスとカウニッツに近づいてきたうえ、この過激な発言である。二人はただただ呆気にとられた。
「あの……、何を言ってるわけ?」
ユリスはおそるおそる問いかける。「ものすごいこと言ってるの、わかってる?」
「ばかにしないでくれる? ユリシーズ・ペレドゥイ君」
ステッドラーは冷ややかに返した。
「俺の名前……?」
「そちらはエルン・カウニッツ君。去年の一時期まで《四柱》で有名だった」
ステッドラーはいう。「覚えたの。だってあなたたち、ルッツとしゃべったことあるでしょう」
「ルッツ? ドロテーア?」
そう、と彼女は妖艶に微笑んだ。そして、それ以上は説明しなかった。
(ツッコミ不要ってか)
ユリスは乾いた笑みをもらす。心は荒みきっている。彼女が訪れる前のAクラスの風景のようだ。もっとも、ユリスの荒廃は彼女自身がもたらしたのだけれど。
「それで、どうして君はそんなことを?」
カウニッツが尋ねる。「カリーナ助教授が手紙を検閲するとか届けてくれないとか、ラージャスタンが手紙を握りつぶすとか、なぜそうも断定的に言える?」
「知ってるからに決まってるじゃない」
ステッドラーはきれいな細い指を自分の唇にあてた。「情報の出所は訊いちゃダメよ?」
「……」
ユリスとカウニッツは目を見合わせる。知っている? 情報の出所は秘密? 美貌の妖精(エルフ)なだけに、怪しすぎる。それに、こうしてわざわざ教えにくるということは、彼女には何らかの目的がある。言葉とは裏腹に、彼女の真意は「情報の出所」を教えることにある。そうやって、ユリスとカウニッツ——あるいはカウニッツひとりかもしれないともユリスは思う——をどこかへ導こうとしているのだ。
「もちろん、訊かないさ」
カウニッツは静かに答える。「ステッドラーさん、忠告どうもありがとう。だけど、俺はカリーナ助教授を信じる」
先日、ユリスとカウニッツはカリーナ・ボルジア助教授のもとへ質問に行った。彼らに手紙を出したいのですが、送ってもらえるでしょうか、と問う二人に、カリーナ助教授はにっこり笑って言ったのである。わかりました、今度の汽車が出発するときに手紙も運んでもらいます、手紙を書いたら持っていらっしゃい、と。
「俺も。届くかどうかは、やってみなきゃわかんないしな」
と、ユリスも言った。
「——」
それを聞くマリアム・ステッドラーの表情に揺らぎはない。
そして、
「それでもしも、私の言ったことが本当だったら——」
彼女はかすかに口角をあげた。「——私を信じて、私に協力してくれるかしら?」
そう告げる彼女の瞳は——黒い。
ユリスはこれまで、人の瞳の黒さを暗闇だと思ったことはなかった。セージの瞳も黒かったけれど、漆黒だと思っても闇の黒にはとても見えなかった。彼女が《鏡の女》として名を馳せていた時期はさておき、シフルとアマンダと四人で一緒にいたころは、瞳の色の暗さ以上に眼の光が明るかったから。
マリアム・ステッドラーの瞳は闇だ。
そう思うと、ユリスはぞっとした。なぜこの人物は、自分たち、あるいはカウニッツに目をつけたのだろう。いったい何を望んでいるのだろうか?
(それとも、ドロテーアか? あいつ、いったい何者なんだよ)
何にせよ、関わってはいけない。
「カウニッツ、行こうぜ」
「ああ」
カウニッツも、同じような思いを抱いたらしい。二人は彼女にあいさつもせず、足早にその場を離れた。研究室棟の入口扉を押したところで、ユリスは背後を確かめる。マリアム・ステッドラーはすでに広場にはいなかった。
薄気味悪い。
そのうえ、得体が知れない。美人だからいっそう怖い。
(シフル、大丈夫なのかよ。あのドロテーアと一緒で)
ユリスは内心ひとりごちる。(セージは大丈夫だろうけど、シフルは心配だよなあ、ホント。カウニッツの友達のメイシュナーは、あいつもドロテーアとは敵対してるから問題ないか)
二人はひと言も会話を交わすことなく、研究室棟の螺旋階段を昇っていった。五階にたどりついて、カリーナ助教授の研究室の扉を叩く。
カリーナ助教授は満面の笑みで二人の手紙を受けとった。
彼女がとうの昔に学生の信頼を裏切っていることなど、二人は知りもしなかった。
To be continued.