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​精 霊

第二部 ラージャスタン・アグラ宮殿編

第7話「見えない糸」(3)

 土の底で、時姫(ときのひめ)の姿を見た。

 夢か幻か、あるいはラーガの力か。けれど、彼女は明らかに呆れていた。彼女のまとう鮮やかな青のワンピースは、まえに過去を見せられたとき、父リシュリューとの出会いのおりに着ていたものと同じ。だから、これはきっと夢なのだろう。思い出のワンピースを着てみせるだなんて、そんなことをすすんでする人とも思えない。そもそも、彼女にとっては大した思い出でもないだろう。何しろ彼女には、六百年分の思い出があるのだから。

 時姫は腕を組むと、おもむろに、

(おまえ、自分が弱いことを忘れているね)

 と、言った。(理学院での訓練もたった一年弱。実戦にいたっては経験皆無。それなのに、ラージャスタンの孤児に勝てると思ったのか? それとも、授業だから死なずにすむとでも?)

 本当に甘いな、あのリシュリューの息子とも思えん、と追い打ちをかける。

 シフルは言い返せなかった。代わりに、

(……オレは死んだのか?)

 と、尋ねる。実際、あたりは濃密な闇で、そうだとしてもちっともおかしくなかった。

(生きてるけどね)

 時姫は頭を振った。(でも、土(ヴォーマ)に生き埋めにされて意識を失ったんだよ。そのまま死んでも不思議じゃない)

(生き埋め……)

 笑えない事実である。顔が引きつった。

 時姫は肩をすくめる。

(私がなぜ空(スーニャ)を与えたと思う、メルシフル?)

(え? ……オレがラージャスタンに留学できるように、力を貸してくれたんじゃないのか)

(それもある)

 彼女はうなずいた。(しかし、答えはひとつとは限らない。確かにおまえのためにも力を貸した、が、本当は私のためかもしれんな? 空(スーニャ)は——あの子は純粋な子だから、美しいものを本気で信じるが、私はそうもいかない。私は何しろ、かつて人間だった)

 時姫は表情を動かさずにいう。

(私には私のもくろみがある。言ったろう、貸しは必ず返してもらう——と。だからメルシフル、おまえも、与えられたものを存分に使えばいい。気兼ねするな、どうせおまえに留学は早すぎたし、おまえのなかの私の血は精霊王に祝福されていない。三級以上の精霊を操れない者に、アグラ宮殿の環境は厳しいものがある)

 死にたくなければ、ためらわずに空(スーニャ)を使役するんだ——、いいね? ……

 時姫は念を押し、煙のようにかき消えた。

 同時に、視界がひらける。

 意識を取り戻したのだ、ということに気づいたのは、目の前の景色や周囲の物音がはっきりしてきたからである。

 窓から白い日射しが差しこんでいる。まだ昼間だった。

 手や足を確認する。土中に沈んだはずなのに、きれいなものだった。服が自前のものではないラージャスタン式の寝間着に替えられていることからしても、気絶しているあいだに女官がきれいにしてくれたらしい。

 枕元に眼鏡があった。土(ヴォーマ)に取りこまれたときに壊れていてもおかしくなかったが、一見したところ問題なさそうである。シフルは眼鏡をかけた。

 ブランケットをはねのけて、床に立つ。左足首に軽く痛みがはしった。土(ヴォーマ)にとらわれたさいにひねったらしい。伸びをして、肩をまわす。他は支障なし。異常らしい異常は左足首だけだった。

(これだけですんだのか。一応、運がいいのかな)

 けれど、あまりうれしくもなかった。情けないまでの惨敗を喫したうえ、自分で土の中から脱出することもできず、意識を失ったのだ。たぶん年下にちがいない園児を相手に、赤子以下だったといっていい。

 ——おまえ、自分が弱いことを忘れているね。……

 夢に出てきた時姫の言葉が、シフルを刺した。忘れてなんかいない。わかっているから、つらいのだ。わかっているから、こんな夢をみる。ラーガの力なしには、ラージャスタンに来ることはできなかった。いざラーガ抜きで慈善園の生徒に対峙してみれば、あっさりと負ける。負けて、ラーガの力を思うまま使うことを正当化するような夢をみる。

 正当化する術はいくらでもある。だからこそ、それを自分に許したくなかった。たとえ、子供じみた理想論にすぎなくとも。シフルはその場に立ち尽くす。

「《あ、シフルさま! お目覚めですかー?》」

 メアニー・イーリが部屋に入ってきた。「《おからだはどうです? どこか痛いところはありませんか?》」

「《あ、左足がちょっと》」

 シフルが左足首を指さすと、メアニーは足もとにしゃがみこんだ。

「《うーん、ちょっと腫れてますねえ。よかったですねー、このぐらいですんで。精霊召喚による戦闘法なんて、ちょっとした事故はしょっちゅうですから。わたしがいたときも》」

「あっ、《湿布! 湿布くれませんか》」

 話を遮り、シフルは頼んだ。教師を高位の火(サライ)で全裸にしたメアニーである。冗談ではすまない話がいくらでも飛びだしかねない。

「《はいっ! シフルさま》」

 メアニーは元気よく走りだした。「《待っててくださいねっ、今とってきますから》」

 彼女とすれちがいで、セージとルッツが入ってきた。二人は午後の予定を終えてきたところだった。例によってメイシュナーは別行動で、迂回路をとって客舎をめざしているらしい。

「シフル、授業中に気絶したって?」

 セージは心配そうに尋ねた。「大丈夫? ケガは?」

「大丈夫。軽い捻挫だから」

「そっか、それならよかった」

 セージは心底ほっとした様子で、胸を撫で下ろす。どうやらとても案じられていたようで、シフルとしては複雑だった。

「セージ、キナリー先生の授業は出たんだ?」

「私、キナリー先生はわりと買ってるよ。それにあの書道教師、宮殿を追放されたってね。なら、もう授業を休む理由もないな」

「誰も追放されたとは言ってないよ、セージ。タマラって新しい書道教師がいったのは、グールーズが今朝がた宮殿を出ていって、今はもうここにはいないってことぐらいで」

 シフルはルッツをにらむ。「ルッツおまえなー、また極端なこと教えて」

「俺はそう思ったけどね」

 ルッツは猫の瞳を細めて、くすくすと笑みをこぼした。そうなの? とセージは首を傾げたが、さほど興味もないようで、それ以上なにも言わなかった。確かに、深く考えさえしなければ、腹の立つ教師がいなくなってくれただけの話である。原因が何であろうと不都合はない。

「それはいいとして、シフル、さっそくやったね」

 ルッツのひと言に、シフルは思いきり喉を詰まらせた。「せっかく忠告したのに、人の厚意を何だと思ってるんだか」

「厚意ね」

 セージが呆れたようにいう。「おまえが言うとうさんくさいな」

「ロズウェル、俺は本当に純粋な厚意で忠告したんだよ? お客さま気分でいるのはやめろってさ。今シフルに死なれたら、楽しみがひとつなくなるからね」

 と、ルッツ。「よりにもよって、精霊召喚の戦闘中に手を抜くとはね。仮に相手が殺せと命じていたら、きみは二度と目覚めなかったわけだ」

 シフルは目を伏せる。自分の死を示唆されるのは、夢のなかを含めて二度めだけれど、何度いわれても慣れる気がしない。

「今のラージャスタンは『敵』なんだよ、シフル。敵と戦うのに、最善を尽くさないでどうする? 最善を尽くさなければ、死ぬよ。きみがつまらないことにこだわっている間にね」

 そう告げると、ルッツはさっさと踵を返す。「それじゃ俺、用あるから」

 ルッツは早足で客室を去っていく。シフルとセージは黙ってその背中を見送った。

「……ルッツは勝ったのか?」

 尋ねると、

「ああ」

 セージは当たり前のように答える。「彼は戦い慣れてる。気にすることないよ」

「戦い慣れてる……?」

「推測だけど、ドロテーアはたぶん学院の外で何か別の訓練を受けてたんじゃないかな」

「別の訓練? 根拠は?」

「根拠はないかもしれない。特別カリキュラム中、彼が毎晩のようにどこかにでかけてたことぐらいかな。だけど彼は、まるで戦いを知っているみたいだ。ドロテーアは確か十八歳で、戦争を記憶している世代じゃないのに」

「ふーん……」

 彼女の語り口はもっともらしかったが、今のシフルには単なる慰めとしか聞こえなかった。慰めも心配も、されたくなかった。もしセージが授業に参加していたとすれば、彼女も理学院時代と同様、華麗な勝利をおさめたにちがいない。その彼女が口にするあらゆる言葉は、シフルにとってうわべのものに過ぎなかった。そうやって無関係な彼女をやっかむのは、八つ当たりである。シフルは自己嫌悪に陥った。

 すると、

「足、見せて」

 セージが微笑んだ。

 黒い、きれいなまなざしには、何の邪念もない。まごうことなき好意だけが、そこにある。

「……セージ」

「ああ、腫れてるね。手当てしないと。捻挫は癖になるから、早めに治さなきゃ」

「そうなんだ?」

 シフルはどぎまぎしてしまう。歯切れの悪さは、そのままうしろめたさだ。セージの善意を受けとる資格は、自分にはない。

「今、メアニーが湿布とりにいってくれてる」

 やっとのことで、シフルはそう返した。顔が熱い。自分のこのいたらなさは、どうすれば変えられるのだろう。

 が、メアニーの名を出したとたんに、彼女のまなざしが冷えた。

「……メアニー?」

 セージは昏い表情でつぶやく。優しく微笑んだセージとは、まるっきり別人だった。

「オレ何か、まずいこと言った?」

 顔面上の昼夜逆転を目撃してしまった少年としては、おろおろと相手の顔色をうかがうほかない。

「あ、もしかしてメアニー苦手? まあ、セージと気が合うとは思えないけど……、でもいい子だよ、親切で。昨日も竹ペンの持ちかたを教えてくれて、おかげでオレ、竹ペンの持ちかただけは完璧になったし。今ならグールーズにも文句いわせないよ。さっきも、走って湿布とりにいってくれて」

「——ううん」

 セージは強い調子でいう。「別に私、彼女をきらってるわけじゃないの」

「そう? それならいいけど」

 シフルは少し安心して、一方でセージの言葉づかいが急に女の子らしくなったのが気になった。そういえば、以前セージの実家を訪れた際、弟妹とやりとりする彼女の口調はふつうに女の子らしかった。理学院関係者の前では変にかたい言葉づかいで通しているけれど、ひょっとするとそちらのほうが地に近いのかもしれない。つまりは、つい地が出てしまうほど動揺しているようにも思えるが、どうか。

 それにしても、こうやって強引に話を遮るのは、セージがこの話題を好ましくないと感じているからだろう。いまシフルが精霊召喚の戦闘について触れたくないように、セージもメアニーの話題を避けたがっている。理由はわからないが、とにかくお互い心安く過ごすに越したことはない。

「……そういや、セージは戦闘はどうなんだ?」

 むりに選んだ次の話題は、うっかりしたことに今のシフルをもっとも苛む話題だった。シフルは、しまった、と思ったが、今いちばん自然な話題はこれである。

「前に、ルッツがふざけて風(シータ)をけしかけたとき、顔色ひとつ変えずに相殺したよな。あれも、やっぱ慣れなのか? だとしたら、どこで身につけたんだ?」

 あれは、シフルがAクラスに昇級して間もないころ。精霊召喚のこつを教わるため、シフルは《四柱》の一人であるルッツに話しかけた。シフルはルッツに促されるまま、六級風(シータ)の召喚に成功する。ルッツは自分も六級風(シータ)を呼びだすと、ふたつの力を融合してみせた。

 その後、セージが二人のところにやってくる。ヤスル教授にいわれて、教授の実験の要であるルッツを呼びにきたのだ。するとルッツは、融合した二体の風(シータ)を、こともあろうにセージに差し向けた。その直前に精霊の力を目の当たりにしていたシフルは肝を冷やしたが、予想に反し、彼女はあっさりと風(シータ)を退ける。

 ——水(アイン)。

 という、簡潔な呼び声ひとつで。

「あれはほんと驚いたよ。通りすがりのセージをいきなり風(シータ)に襲わせるルッツにも驚きだけど、セージもずいぶん簡単に防いでくれたもんな」

 シフルは懐かしさにも似た気持ちでしゃべる。あれは、いろいろな事件があったAクラス生活でも、比較的はやい段階のことである。よって、印象は強烈だった。

「私も、召喚の訓練は理学院の授業だけだよ」

 いつもどおりの表情を取り戻しつつあるシフルに対し、セージの表情は曇っていった。

「ああやって反応できたのは——私が、ドロテーアを含む学院生を敵視していて、いつも彼らに対して緊張状態を保っていたからだ」

 彼女は心なしか声を低くした。「いつ誰が、あんなふうに——あんなふうじゃなくても——私を攻撃してくるか、わからない。そんなふうに思っていたから。そう考えれば、例の一件も、将来は教会所属の召喚士になる学生として、えがたい経験だったのかもしれないな」

「あ……」

 返す言葉がなかった。この話題は、シフルのみならずセージにとっても毒だったらしい。

「おかげでね、シフル」

 重い空気を払うように、セージが笑う。「もう誰にも負ける気がしない。慈善園の生徒だろうが先生だろうが、勝てる。憎むべき『敵』だと思える。ドロテーアも、訓練じゃなくて何かの事情があるのかもね。そうそう、メイシュナーとのいがみあいだって、役にたってるかも。あれも一応、精霊召喚の戦闘だしね」

「あー、それ言えてる」

 シフルもつられて頬をゆるめた。「だとしたら、メイシュナーも勝ってるかもな。帰ってきたら訊いてみよっと」

「《シフルさまっ!》」

 会話の途中で、メアニー・イーリが部屋に駆けこんできた。あのばか長い廊下を全力疾走したのだろうか、額に玉の汗が浮かんでいる。両脇には治療に使うと思しき道具の数々。

「《ありがとうございます、メアニー。だけど、そんなに急がなくても。それに、そんなに……たくさん》……」

 みるみる不機嫌になっていくセージを横目に、シフルはこわごわつぶやく。すると、メアニーはすごい勢いで首を横に振った。頭の両横で結われた髪が、激しく左右に揺れる。

「《いいえっシフルさま、捻挫は早期治療、早期治療が大事です! 湿布はぬるくなったら意味ありませんから、替えをたくさんお持ちしました! それに、はさみに包帯、三角巾、ぜんぶぜんぶ必要なものですっ。えーと……ではっ、失礼します!》」

 メアニーはすばやくシフルの足もとにひざまずく。いや、ひざまずくというより飛びつくといったほうが正確だった。反射的に、シフルは飛びのいた。自分の体重が、いきおい患部に響く。メアニーは悲しげな瞳でみつめてきたが、逆にセージの表情が一瞬だけ明るくなったのを見るにつけ、まあいいか、と思った。

 そのとき、

「《メルシフルさま!》」

 女官がもうひとり飛びこんできた。キサーラである。彼女もなぜか、手当ての道具を抱えていた。

「《おけがを召されたと聞きました。メアニーさまに手当てさせるなんて、そのような危険な真似はいけません! ご存じでしょうけど、メアニーさまは天下無敵のおっちょこちょいで通っているかたなんです。メアニーさまに包帯なんか巻かせた日には、メルシフルさまのおみ足がトゥルカーナのロールケーキになってしまいます。わたしにおまかせください!》」

「《キサーラあんたね、末席のくせして何をえらそうに》」

 メアニーは唇を尖らせる。が、キサーラも負けてはいない。

「《席次なんて関係ありません。メアニーさまは確かに宮殿にとって必要なおかたですが、お客さまにとって必要なのは、いちばん手際よくお客さまをもてなせる女官ですよ。わたしは笛も吹けますし、メアニーさまとちがって手先も器用です》」

「《上官に向かって暴言の数々、聞き捨てならないわ! ファンルーさまに報告してやるー!》」

「《どうぞご自由に。でも、ファンルーさまはわたしの味方だと思いますけど》」

 メアニーは治療道具を床に叩きつけた。包帯や湿布が散らばった。

「《『特例』が、ばっかじゃないの? ムストフ・ビラーディ(婿殿)・オースティンの気まぐれがなかったら、あんたなんか宮殿では用なしだわ!》」

「《おあいにくさまです。それが大事なんですよ、メアニーさま。ツォエルさまもおっしゃってました》」

 キサーラはふふんと鼻で笑う。「《ツォエルさまもライラさまも『特例』、それにメアニーさまだって結局は『特例』じゃないですか。今の《五星》でまっとうな手順をこなしてきたのは、ファンルーさまぐらいのものですよ。もっともメアニーさまは、問題を起こして初めて皇帝陛下のお目に留まったんですもの、ツォエルさまやライラさま、それにわたしの受けたご寵愛とはわけがちがいますけどね》」

「《むーっ!》」

 メアニーは頬を膨らませている。キサーラは高らかに笑った。

「シフル、シフル」

 シフルはすっかり圧倒されていたが、セージに肩をつつかれて、いわれるまま床に座りこんだ。セージは口論中の二人を刺激しないよう、散らばった道具類を静かに集め、手当てを始める。湿布をそっと貼りつけて、ていねいに包帯を巻き、先端を入れこんだ。

「ありがと、セージ」

「いえいえ」

 セージはごきげんで返事をした。よくわからないが、このところのセージは天気が変わりやすい。

「《さてと、メアニーさんにキサーラさん》?」

 セージは手を叩いた。二人の少女女官は、ぴたりと口げんかをやめる。

「《ここはもうけっこうです》」

 と、セージは告げた。「《どうぞお仕事にお戻りください。道具を貸してくださって、ありがとうございました》」

「《——!》」

 二人は同時に目をむいた。

「《何です、変な顔をして》。ほら、シフルもお礼いいなよ」

「あ、そっか」

 セージに促されて、シフルは二人に頭を下げる。「《ありがとうございます、メアニーもキサーラさんも。手間かけてすみません》」

「《……》」

 メアニーとキサーラは顔を見合わせた。そして口をそろえた。「《……お役に立てたのでしたら、何よりですわ……》」

《では、失礼いたします》と断り、女官たちは客室を出ていった。心なしかうなだれているように見えたのは、気のせいだろうか。

 セージは入口の外まで二人を送っていき、すぐに戻ってきた。部屋に入ってきたセージが明るい表情をしていたので、何にせよよかった、とシフルは思う。貼ったばかりの湿布も心地よかった。

 廊下において顔を合わせた三人の少女が、少年の目の届かない場所でいかなるやりとりをしたかは、定かではない。

 

To be continued.

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