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​精 霊

第二部 ラージャスタン・アグラ宮殿編

第9話「脅迫」(2)

 解き放たれ、安堵したのは一瞬だった。

 ラーガが姿を消そうとした直後、シフルは再びオースティンに絡めとられていた。

 あっと思う間もなくあたりは真っ暗になり、しかも、あろうことかオースティンは、そのとたんにラーガの腕を離してしまったのである。

〈! メルシフル〉

 のばされた手の指先をかすめ、シフルは皇女婿もろとも斜めに傾いた。

 そしてそのまま、一気に落下していく。またたきの間にラーガの姿が遠くなり、ひたすら均一な黒一色の世界を直滑降していく。

 落ちる。落ちる。どこまでも落ちる。

 先日この場所——《時空の狭間》に来た際はすぐに意識を失ったが、二度めともなると驚きも薄れるらしい。一直線にからだが落下する感覚を、冷静な頭でつぶさに味わった。

 黒一色しかない広大な空間を「あーあ」と眺めやっていると、肩をつついてくる者がいる。

 こんなことをしでかしておきながら、ここにきて呆然としている——ムストフ・ビラーディ(婿殿)・オースティンだ。

 彼の口は、何だここは、と動いた。

〈ここは《時空の狭間》です。聞こえないでしょうけど〉

 シフルはなげやりに答える。当然、シフルの声も音にならなかった。ここ《時空の狭間》では、ありとあらゆる音が意味を失う。ここで言葉を交わせるのは、自由に行き来できる空(スーニャ)の元素精霊長・ラーガだけ。

〈ここ、身動きとれないんですよ。ああいうことするんなら、しっかりラーガの手つかんでおいてくれないと〉

 困るんですよね、とぼやいたが、音が聞こえない以上伝わるはずもなかった。オースティンの灰青の瞳にはひたすら疑問符が浮かぶばかりで、芳しい反応はもちろん、自分のしでかしたことへの反省の色も見えない。

〈ったく、なんつーことしてくれたんですか!〉

 シフルは、ためにためたものを吐きだすように言った。

〈自分が知りたいことのためなら刃物出すとか、いったいどういう育ちかたしたらそうなるんだか。あげく、危険な《時空の狭間》に人を巻きこんで……これからオレたちどこに出ると思います?〉

 もちろん声にはならないが、そのほうがむしろ好都合だった。〈言っときますけど、前にセージがこうなったときはアグラ宮殿の上空に出たんですよ。セージじゃなかったら無事じゃいられないです……つっても、そのときはオレのせいだったんですけど〉

 でも、今回のは明らかにあんたのせいですからね、絶対責任もってメアニー納得させてくださいよ! 強制送還になったら一生恨みますから! と、まくしたてる声はやはり一切音にならなかったが、憤りは通じたとみえ、オースティンも何やら口を動かす。悪いですけど聞こえないんで、と鼻で笑ってやると、侮りのほうも通じたらしい。ひとしきり口をぱくぱくさせていたが、通じないとなるとあきらめ、あきらめたところで急に不安になったのか、腕に力をこめてきた。

 どうやら形勢逆転らしい。シフルは、この状況にもかかわらず、つい笑ってしまった。

〈いいですか、オレから離れないでくださいよ〉

 シフルは横柄な態度で告げた。〈このうえバラバラにはぐれたら、もっと面倒なことになりますから〉

 これも声にはならなかったが、だいたいは理解できたらしく、オースティンは青い顔でうなずく。

 シフルも、自分たちの落ちていく方向をにらみながら、オースティンにしがみついた。セージのときのように危険な場所に出た場合、すみやかにラーガを召喚しなければならない。《英雄クレイガーンの現身》に与えられた精霊の愛とやらがあれば、どんな状況でも無事にすむのかもしれないが、不確かなものに命を預ける気にはなれなかった。

 それにしても、こうして密着を余儀なくされる相手がセージじゃなくてよかった、などとシフルは呑気に考える。シフルにとって、もはや腕の中の人物は「生ける伝説」ではない。自分の悩みのためならなりふりかまわない、同じ年ごろの人間だった。生まれ育ちはちがっても、同級生みたいなものだ。

(とんだ公子さまがいたもんだ)

 彼がアグラ宮殿の《蛇》だと? 知らなかったとはいえ、我ながらあほらしい。刃物を出したことにも驚いたが、まさかここまでやってくれるとは。なるほど決闘を挑むような人物にちがいない。どんな事情があるか知らないが、辛抱がなさすぎる。

 そして、いま目の前にいる彼の、このうえなく心細そうな顔。自分がやらかしたくせに、予想を越えた状況に陥れば、まったく耐性がないというわけだ。

(しょうがない。今はオレとこいつしかいないんだから。オレがこいつをアグラ宮殿に帰してやらないと)

 眼下の闇に、わずかに白い光の粒が見えた。

 それは、みるみるうちに大きくなり、シフルたち二人に迫ってくる。

 ——出る。

〈行くぞ、オースティン! 何があってもきっちり起きてろよ!〉

 少年たちは、光のなかに飛びこんだ。

 

 

 二人は地面に放りだされた。固い大地の上を転がり、それから止まる。一瞬、何がどうなったのかわからず、二人揃って目をぱちくりさせた。

 先にシフルが我に返り、あたりを見渡した。見ると、寂れた片田舎の町中で、自分たちは道路の真ん中に座りこんでいた。舗装はされていたが、それにしても一帯はものさびしい。夕刻にもかかわらず人っ子一人なく、さしあたりシフルは胸を撫で下ろす。

「さーて、今度はどこかなっと」

 安心したところで、立ちあがってからだを伸ばした。「ラージャスタンかカルムイキアか、はたまたプリエスカか。もうスーサでもニネヴェでもどんと来いだよ」

「……前に、サルヴィアがラージャスタンに来た『事故』がこれか」

「あのときはセージと一緒にビーチェんとこ行くつもりで、手ぇ離しちゃってさ」

 つい雑ないいかたをして、シフルはあわてて口をふさぐ。忘れそうになるが、この人とは立場がちがうのだ。

「——『ビーチェ』?」

 問題はそこではなかった。シフルは再度あわてたが、オースティンは聞き逃さない。

「それも、おまえの『実の母』の別名というわけだ」

 オースティンはシフルの胸ぐらをつかんだ。「『母親』のところにサルヴィアを連れていったのか? サルヴィアがかまわないのなら、僕が行って何が悪い! 今すぐ連れていけ」

「前から思ってたんだけどさ、オースティン、セージをサルヴィアって呼ぶのやめろよ」

「は?」

 シフルは露骨に話題を逸らしたが、なぜかオースティンは乗ってきた。

「だってさ、なんか気持ち悪いし」

「気持ち悪い?」

 オースティンは怪訝な顔をしていたが、若干の間をおき、それから思いきり一笑した。

 シフルは胸ぐらをつかまれたまま至近距離で笑いとばされ、《英雄クレイガーンの現身》の唾を正面から浴びるはめになった。

「なんで笑うんだよ?」

 シフルは袖で顔を拭った。

「これが笑わずにいられるか? サルヴィア、あれもまあ大した女なのに哀れだな」

「哀れなのは唾とばされたオレだろ」

 ははっ、とまた笑って、オースティンは肩をすくめた。

「いつからサルヴィアはおまえのものになった、シフル?」

「オレの、もっ、——はあ?」

 いっている意味がわからない。呼び名が気にいらないといっているだけなのに、なぜそうなる。

「愛称というのは、なかなか深い意味があると思わないか、シフル。集団の中でつけられた愛称がその集団の中での役割や立ち位置なら、一人と一人のあいだでつけられた愛称は、さしずめ二人だけの言語といったところか」

「言ってる意味わかんねーよ」

 シフルは口を尖らせる。

「そうか、わからないか」

 少年公子はにやりと笑った。「おまえがそんなざまだから、サルヴィアが哀れだと言っている」

「セージがかわいそうって……かわいそうって」

 シフルはさらに反論しようとする。が、そんなシフルを遮って、オースティンは唇に人差し指をあてた。そして有無をいわさず、すぐそばの民家らしき建物の陰にシフルを引きずっていった。何すんだ、と言いかけたシフルの口を手でふさぎ、今しがた自分たちのいた場所に目をやる。

 道のむこうから、人が来る。

 人数は五人——うち一人は子供で、見たところ家族づれのようだったが、なぜか一切物音をさせずに歩いてくる。しかも、全員、黒づくめの服装だった。一行は、シフルたちの声を聞きつけたのか、いぶかしげにあたりを見回していたが、そのまま立ち去った。

「……ここ、どこなんだろうな?」

「ラージャスタンだ。さっきの連中の服装を見ただろう」

「服……、あ」

 黒い服のかたちは袴と一緒だった。つまり、あれがセージが話していた《黒袴》か。今日、慈善園で縫いはじめたという休戦記念日の儀式装束——ということは、あの連中が着ていたのは喪服であり、そうなるとこの場所は。

「ここがラージャスタンなら、却ってまずい。僕の顔を見られれば騒ぎになる。さっさと空(スーニャ)の妖精に来てもらえ。で、『実の母』のところに連れていけ」

「わかった」

 最後のひと言は聞き流し、シフルはうなずく。ともかく、次に誰かに会う前にここを去らなければ。

「ラーガ。クーヴェル・ラーガ。……来てくれ。ラーガ」

 しかし、何度真名を呼んでもラーガは応えなかった。ラーガは以前、シフルが呼べばいつ何時でも駆けつけてくれると言っていた。まして今は緊急時である。

「来ない」

「僕(しもべ)の妖精に声が届かないということは、何か結界のようなものがあるということだ。まあ、喪服の人間がいるような場所なら、それもありうる」

「へー、なんで?」

「墓場というのは、人間の心、精霊が抜けたあとの抜け殻を安置する場所だ。抜け殻であれば、生前の痕跡が残っていることもありうる。現に、あの空(スーニャ)も、おそらく肉体——クレイガーンの記憶をもっている」

「そうなのか?」

「クレイガーンは剣の名手だった。さっき、空(スーニャ)は慣れた手つきで僕の懐刀を叩き落としたろう。墓場というのは、眠れる妖精がひしめいている場所ともいえる」

「へー、なるほど」

 シフルは感心したが、一方でそう考えるとぞっとした。墓石や石碑のひとつひとつの下に、大勢のラーガが眠っていることを想像したのだ。それは、ただ眠りつづけるだけかもしれないし、何かをきっかけに強大な力として発現するかもしれない。少なくとも今、この場所のどこかに、眠りの中からでも空(スーニャ)の元素精霊長たるラーガの耳を塞いでしまう存在がいるのは確かなのだ。

「ラーガー? 聞こえないのか、ラーガ?」

 曇天の夕方は、やがて夜へと変わった。

 ときをおいて何度か妖精を呼んでみたが、相変わらず答えはなかった。これは本当に、何かいるのかもしれない。

「結界の効かないところまで行くしかない」

「そんなのわかるのか?」

「おそらく、わからないだろうな。アグラ宮殿のように単一元素であればまだしも、こういうところはいろいろなものが混在している。精霊や、精霊じゃないものが」

「精霊じゃないもの……」

 シフルは四大元素精霊信仰の国に生まれ育ち、この世のすべては精霊によって成ると教えられてきた。少年公子の言葉が、自分の世界をひどく心もとないものに変えてしまったような、そんな気がした。

 精霊以外のものもまた、世界を構成しているかもしれない、という可能性——それは、今まで培ってきたものが根底から覆されるかもしれないという可能性でもあった。

 自分を守っていた何もかもを失い、見知らぬ場所に放りだされるような、そんな気がする。確かにここはシフルにとって見知らぬ異国にちがいないが、おそらくは、異国よりもっと異質なところなのだ。

「……オースティンは、精霊じゃないものに会ったことがあるのか?」

 少年は、ぽつりと尋ねる。

「あるに決まっている」

 オースティンは即答した。

「えっ?」

「人間だ」

 彼の答えに、シフルは拍子抜けする。

「そうじゃなくて……『力』というか、ほら、キナリー先生の話にあった、聖人とか女神とかって」

「それもある」

「えっ!」

 オースティンはこれも即答した。

「英雄だ」

 二度拍子抜けして、脱力してしまう。

「……まあ、それもそうか」

 でも、そういうことでいいのかもしれない。四大元素精霊信仰も、火(サライ)信仰も、聖人・女神信仰も、あくまでも人間のつくりだした言葉にすぎないのである。

 言葉が世界を決めるのではなく、世界を理解するために言葉が生まれたはずだ。自分の知っている言葉が通用しない世界に来たとしても、ひるむ必要はない。

「それにしても、ラーガ来ないな。なあオースティン、気味が悪いし、ここ離れないか? ラーガには悪いけど、何か……」

 シフルたちが元いた場所から動けば、ラーガの探索はむずかしくなる。経験上わかってはいたものの、この場所はひどく落ちつかない。

「おまえが怖いなら、そうしてもいい」

 言われて、例によって負けずぎらい心を刺激されたシフルだったが、

「じゃ、そうする!」

 それ以上に駆り立ててくるものがあって、負けずぎらいのほうは抑えた。そうして、先ほどの人々がむかった方向へ歩きはじめる。やはり人通りは絶えたままで、やがて民家らしい家々もなくなり、代わりに礼拝堂らしき建物や石像がちらほらと見えはじめた。

 日の落ちかけた時間帯の宗教建造物群は、いっそう不気味だった。そのうえ、徐々に足もとも危うくなってくる。火(サライ)、足もとを照らせ、といって、オースティンは精霊を召喚した。

「そういうことにも使うんだな、精霊って」

「こういうことに使わなければ、何に使う」

 少年公子は淡々と返した。「理学院召喚学部でいったい何を教わってきた」

「それもそうか……」

 シフルは、精霊を生活の一部として考えたことがない。思えば、これこそ学院が精霊を兵器としかみなしていないことのあらわれではないか。セージはかつて、友達と一緒にそれをやめさせることを夢みていたというが、その意味をいま急激に実感した。

「……オースティンって、すごいな」

 小さいけれど赤々と目の前を照らす火(サライ)に安堵を覚えつつ、シフルはつぶやいた。

「僕の小姓でさえ、火(サライ)でランプを灯すぞ」

「そっか、すごいな。その小姓って人にも会ってみたいな。当たり前に火(サライ)でランプを灯す国か……」

 一度、その片隅を見たことがあるだけの国、トゥルカーナ。見知らぬその国の一隅で、夕方になると火(サライ)でランプを灯す人々がいる。

 これも、ささやかだけれど、知らない世界を知るということなのだ。ビンガムでくすぶっていたときに知りたかった「大海」。ひとつひとつ、小さな「知らない世界」を拾い集めることが、やがて「大海」へとつながっていく。シフルは今、素直にそう思えた。

 いつか、わかった、と思える瞬間がくるのだろうか。見るべきものは見たと思い、このうえ知るべきものはないと思える日が。

 けれど一方で、そんなときは永遠に来ないでいいという気もした。セージと出会う前、あの展望台で知らず合奏した日々は、その後セージとともに過ごした日々とはまた別の甘美さがあった。それは、知らないということの甘美さだった。

 こうして今、まったき暗闇の中を照らす精霊のランプを静かに見ている、こんな時間をいつまでも味わっていられたら、きっとそれもひとつの幸福なのだろう。

 なぜか、シフルの胸に、そんな感触が落ちてきた。

 が、その一方で、遠からずこの時間は終わるという予感が、少年を落ちつきなく駆り立ててくる。——どこへ? 未来へ? ざわつく胸に、答えは出ない。

(オレとオースティンは、何年かあと、どこにいるんだろう)

 ふと、少年は思う。(オレは普通に帰国して、オースティンはラージャスタンで一生暮らして……それだけか?)

 精霊のきまぐれか、同じ血をもつ自分たち二人が、このラージャスタンで出会った。

 出会い、そして——そのために変わるものとは何か。

「なあ、オースティン」

「何だ」

「——教えてくれよ」

 シフルは、オースティンの瞳にきらめく炎を見た。「どうして、オースティンはクレイガーンにこだわる? ……」

 自然に、その問いが口をついて出た。

 自分たちはしょせん、「ラージャスタンとプリエスカの架け橋」などという建て前で結びつけられただけの関係にすぎない。皇女婿と留学生という立場がある以上、一線を画してしかるべきだ。それはよくわかっている。でも今、現にこうして自分たちは二人、ある一線を越えてここにいた。

 今日、《赤の庭》で少年公子がシフルにむかって伸ばした手が、あるべき壁を取り払った。それとも、もっと前だったろうか。お互いが誰なのかを話したとき。お互いが誰なのかを問いかけたとき。あるいは、もっと前から。

「五百年前の人間が殺されようと殺されまいと、あんたには関係ないだろ? いくら《英雄クレイガーンの現身》って言ってもさ。それが、オレの顔も知らないうちから、寝てるオレたちの部屋にラーガに会いにきたって、尋常じゃない」

「サルヴィアを計算に入れなかったのは失敗だった」

 オースティンは、曖昧な光のなかでもはっきりわかるぐらい、忌々しげな顔をする。

 シフルは思わず噴きだした。

「セージには誰も勝てないって。あきらめろよ」

「勝てる可能性があるのはおまえぐらいだ」

「オレぇ? ムリムリ。や、好敵手としてはいつか勝つけど! 今そういう話じゃないもんな」

「サルヴィアがいいかげん哀れだが、それはともかく」

 オースティンは戯れの色を消した。「おまえの想像のとおり、僕が《英雄の現身》だからこそ、五百年前のクレイガーンの死は他人事じゃないんだ」

 と、少年公子は告げた。

「僕にとって、クレイガーンは伝説なんかじゃない。——僕に覆いかぶさる幻影として、クレイガーンは今なお生きている」

 オースティンは語る。……無責任なかたちで姿を消してもなお、人々の心に永遠の影を落とす英雄クレイガーン。

 オースティンたち英雄の子らは、トゥルカーナ建国以来クレイガーンの影を背負いつづけ、生涯をそれに捧げる運命にある。まして、先祖返りしたといわれるオースティンにさす影は濃く、どこへ行ってもまとわりついてくる。

「僕はどこへ行っても、英雄づらで愛想を振りまかなければならない。僕が人々の思慕を失うことは、トゥルカーナの存続が危うくなることを意味する。果てはこうしてラージャスタンくんだりまでやってきて、《英雄の血》を皇家に与えるための種馬として飼い殺しにされている」

 そう言いながら、灰青の瞳にふつふつと怒りを浮かびあがらせる。

「なぜ僕が、こんなことを? ——トゥルカーナを生きながらえさせるための《英雄の子》の義務だから。なぜ、この義務が遂行されなければトゥルカーナは滅びる? ——トゥルカーナが力なき国だから。こんな国にしたのは誰なんだ? ——英雄クレイガーン」

 少年公子はたたみかける。「英雄こそ、すべての元凶。だがクレイガーンは他でもない僕の先祖で、《英雄の現身》たる僕には英雄は僕自身も同然。無責任は僕、無力も僕。僕がトゥルカーナを情けない国にし、こうして自分で尻拭いをしている」

 シフルが口を挿む隙もなかった。そして、そのままの勢いで、

「——そんなのは、いやなんだ!」

 オースティンは半ば叫んだ。静寂の街に響きわたったが、彼は頓着しなかった。

「僕は知らない。クレイガーンは僕じゃない。なのになぜ僕が、《英雄の血》が、クレイガーンの罪を償う?」

 少年公子は、切実な眼をシフルに向ける。「僕は僕だ。——僕は、僕として生きたい」

 そのためには、クレイガーンは無実でなければいけない——。オースティンのてのひらの上で、小さな炎がゆらりと揺れた。

「それってつまり」

 シフルは答えた。「もし、セージのいうとおりビーチェがクレイガーンを殺したのだとしたら、クレイガーンは『無実』になるってこと……なのか?」

「そうだ」

「『クレイガーンがトゥルカーナを捨てたのではなく、捨てさせられた』のだとしたら、少なくともクレイガーンの責任はない。それでオースティンは楽になる」

「そうだ」

 オースティンは何ひとつ詭弁を弄さなかった。

 少年公子の抱える苦しみを目の当たりにして、シフルはどうしたらいいのかわからなかった。シフルには、ビーチェの苦しみもオースティンの苦しみもよくわかる。

 幼いころ、人ごみの中で手を引いてくれた女。オースティンの渇望を癒すことが、彼女の新たな苦しみの種になるとしたら、シフルはオースティンを会わせたくないと思った。

 けれど、オースティンの身勝手と裏表の切実さは、シフルにも身に覚えがあった。シフルも、自分の《呪われた血》のことを知ったとき、父と母にその責任を負わせようとして、できなかったのだから。

 そして同時に、シフルはビーチェでもオースティンでもなかった。オースティンが自分として生きることを望むように、シフルもまたシフル以外のものではなく、結局のところ、

(ビーチェのことは、ビーチェが決めるしかない)

 と、いうことなのだ。

「——わかった」

 シフルはオースティンをまっすぐに見た。「時姫(ときのひめ)ベアトリチェ・リーマンの家に、おまえを連れていく。今度こそ」

「!」

「そこから先は、ビーチェ自身に決めてもらう。だけど、まずはラーガにみつけてもらわないとな」

 シフルは手をかざした。六本の指を立て、火(サライ)、ランプになってオレたちの足もとを明るくしてくれ、と言ってみる。オースティンの小姓にもできるという日常生活上の精霊召喚を、自分でもやってみたかった。

 けれど、一瞬だけまたたいた小さな火は、ゆらめき、儚くしぼんで、すぐに消えてしまった。あれっ、とシフルは首を傾げる。

「理学院召喚学部Aクラス生は、六級精霊の召喚すらそんなざまなのか?」

 オースティンは遠慮しない。

「や、いつもはもう少し……。火(サライ)?」

 呆れ顔のオースティンを前に、シフルは焦る。が、何度呼んでも精霊は戻ってこない。

 そういう態度なら連れてってやらないからな、おまえの実力不足は僕のせいじゃない、などと言いあっていると、オースティンの手のなかの火も、あとを追うように消えてしまった。

 あたりは漆黒の闇となった。もはや《時空の狭間》とも見紛うような空間である。すでに夕刻をすぎているのだろう。そして、空には一点の星の光さえなかった。

「オースティン? いるか?」

「ああ」

 闇を探り、相手の服をつかむ。少しだけ安堵したものの、解決にはならない。とにかく、一刻も早くこの場所を出なければ。精霊の愛を一身に受ける《英雄の現身》オースティンさえ火(サライ)に見放される場所——それは明らかに、普通じゃない。しかも、ついさっきまで火(サライ)はいたのに、今の今いなくなったのである。

 ということは、

(むしろ、入りこんでいってる?)

「引き返そう!」

「どっちにだ?」

 妙に冷静なのが憎らしい。今、二人の少年には何の灯明もない。

「いいから!」

「引き返そうにも、右も左もわかるまいよ」

「い、い、か、ら!」

 シフルはオースティンの服をつかんだまま、踵を返す。

「やみくもに動きまわってコケないか?」

「怖いんだよ! あんたは《英雄の血》だから、何があっても平気なんだろうけどさ」

 もう負けずぎらいとか何とか言っていられる状況ではなかった。怖いものは怖い。

「おまえも《英雄の血》だろう?」

 しれっと言う少年公子に、シフルは口をきくのをやめ、力づくで引っぱっていく。積極的ではないにせよ、オースティンは大人しくついてきた。

 

 

 ——メルシフル

 

 

「……何だよ?」

「は?」

 名前を呼ばれたので問い返すと、怪訝な声が返ってきた。

「今、呼んだだろ?」

「呼んでない」

 

 

 ——メルシフル

 

 

「だから、何だよ」

「だから呼んでない」

「じゃ、誰だよ?」

「僕は知らない。だいたい、女だ」

「女……」

 まさかとは思うが、セージか? 今さら「メルシフル」なんて呼ぶとは思えないが、ラーガと一緒に助けにきてくれたとか。

 しかし、日ごろ一緒に過ごしている友達の声を、聞きまちがえるだろうか。

 

 

 ——メルシフル

 

 

「僕じゃない」

 言われて、シフルははっと息を呑む。この状況には覚えがあった。

「それはわかった。セージでもなさそうだし」

「それだからサルヴィアが哀れだといったんだ」

「それももういい」

 理屈だけで考えるなら、この場所に何らかの影響を及ぼしている人物、それも女、ということになる。しかもその女はシフルのことを知っている。となると、その女とは。

(……って、わかるか!)

 世の中、自分の想像だけで理解できることばかりではないと、すでにいやというほど知っている。こんな怪しげな場所にいる女の知りあいなど、それこそビーチェしかいない。あとはセージの妖精・キリィぐらいのものだが、彼女はサイヤーラ村の水源にいるはずだし、こんなところにいるわけがない。

「オースティン、ここラージャスタンだって言ったよな?」

「さっきはな」

 オースティンは闇のむこうで答えた。「今はちがうかもしれない。シフルに何か思うところのある女が、僕たちを別の空間に引き入れたということもありうる」

「オースティンは、どこだと思うんだよ」

「女に訊けばいい。すぐそこにいることだしな」

 

 

 ——メルシフル

 

 

「いやだよ……!」

 シフルは振り絞るように言った。

「怖いのか? 《ブリエスカの留学生》」

 オースティンはいやみったらしくラージャ語に切り替える。

「怖いよ! なあ、オースティン、オレたち実は寝てたりする? これ、オレの夢?」

「落ちつけ」

 そうだ、あれは夢だったはずだ。体調を崩して眠っていたときに見た夢。

 あのとき見た夢で、確かに女の声がシフルを呼んでいた。夢だとわかっていたから怖くはなかったけれど、どんなに尋ねても声はシフルの名前を呼ぶばかりで、何者か答えてはくれなかった。

 これがあの夢の続きなら、次に何が来るか、シフルは知っている。

 少年たちの目の前で、黒一色の世界にちがう色が混ざる。

 

 

 ——メルシフル。……

 

 

 それは、シフルにむかってさしのべられた、白い手だった。

(手! やっぱり手!)

 しかも、その手は招いている。他でもないシフルを、どこかへ誘おうとしている。

「……誰だよ?」

「だから知らない」

 少年公子は律儀に返してきたが、シフルはもう聞いていない。

 あの日、呼ばれて振り返ると、暗闇のなかに白い手が浮かびあがっていた。自分を招く手に叫びだしそうになったとき、あの夢は途切れた。

(誰なんだ、いったい?)

 恐怖の底から、わきでてくるものがあった。

 夢で見た白い手が、いま現実にシフルを手招いている。それは、いったい誰なのか。

 好奇心。それは少年に、その手をとれと誘う。

「——おい」

 オースティンの声が遠くなる。「シフル?」

 少年は無意識のうちに、そばにいる皇女婿の服の裾を放していた。吸い寄せられるように、白い手のほうへと向かう。

 闇のなか、ただひとつ光をまとっている、その手のほうへ。招く手の動きは、手首から先しかないというのに、奇妙になまめかしい。

 その手は思っていたよりも近くにあった。シフルが手をさしのべると、光が少年の手にもまとわりついてきた。自分の手が発光しはじめたのを、シフルはおもしろがって見た。もはや恐怖心はなかった。

 光をまとうふたつの手が、今にも結びつこうとしたとき、

「——離れろ!」

 もっと大きな光が、少年を包みこんだ。

 自身もまた、淡い光をまとっている妖精——クーヴェル・ラーガ。

「あの手を見るな! 魅入られる」

 言って、ラーガは片手でシフルを抱えこんだ。もう片一方の手には、すでに皇女婿たる少年を抱えている。

 妖精が身を翻すと、あっというまに白い手は見えなくなった。

 元どおりの真っ暗闇の中で、シフルははっと気づく。

「……今、オレ」

「もう少しで、おまえも『妖精の花嫁』といわれていただろうな」

(それって……)

 が、少年の思考を妖精の声が遮った。

「——我が主メルシフル! 頼むから、時姫さまのご忠告を少しぐらいは聞いてくれないか?」

 いつもの皮肉ながら、いつになく下手に出たようなラーガの物言いだった。それがことの深刻さを如実に示しているようで、さすがのシフルも好奇心に負けたことを申しわけなく思った。

「忠告って」

 何のこと、と言いかけた声が消える。《時空の狭間》に入ったのだ。同じ暗闇でも、ラーガがいるこの場所は、さっきの場所とは根本的にちがっていた。

〈なあラーガ、さっきオレたちがいたのってどういう場所? 墓があるんじゃないかって、オースティンは言ってたけど。それに、オレを知ってるあの女って誰? ビーチェじゃないもんな〉

〈ちがう〉

 ラーガはそれだけ答えて、あとはだんまりを決めこんだ。阿呆呼ばわりさえしてくれなかった。

 オースティンも、しきりと妖精の顔をうかがっていたものの、やはりラーガのほうでとりつくしまがなく、さしもの彼も何もできなかった。

 

To be continued.

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