精 霊 呪 縛
第二部 ラージャスタン・アグラ宮殿編
第9話「脅迫」(1)
ひとつだけ、わからないことがあった。
《赤の庭》で眠りつづけた日々の終わり、皇帝の住まうターズ楼へ呼びだされ、女官頭から空(スーニャ)と留学生のことを告げられたとき、その疑問は生じた。
が、そのころのオースティンは、乳兄弟アレンを呼び寄せ、メルシフル・ダナンと空(スーニャ)の真実を知ることができれば、あとのことはどうでもよく、強いて考えもしなかった。
しかし、
——なぜ、『今』だったのか。
オースティンのなかで疑問はくすぶりつづけた。
少年の知る限り、この一連の流れは皇女マーリが「早く《英雄クレイガーンの現身》に会いたい」と言いだしたことに端を発している。
そのため、本来はマーリが即位してから執り行うはずだった婚儀を前倒しにし、そうしてラージャスタンにやってきたオースティンを、「故郷恋しさに塞ぎがちな皇女婿の話し相手」としてプリエスカの留学生を招致する計画が待っていた。空(スーニャ)の元素精霊長という効果絶大な餌とともに。
一見したところ、さも偶然の一致のように見えるこの一連の流れが、仮にアグラ宮殿の《蛇》によるものだとすれば、今この時期でなければならない理由は何なのか。婚儀を前倒しにしてまで時期を調整し、それに合わせてプリエスカに留学生募集を持ちかけたのには、どんな理由があるのか。
けれど、想像を働かせるだけの材料はオースティンにはなく、疑問は疑問のまま、今日に至った。
休戦記念日が来月の上旬だとキナリーに言われたとき、
——また、唐突な……。
と、オースティンは思った。
マーリとの結婚といい、プリエスカの留学生といい、自分にとって厄介なことはいつも前触れなくもたらされるのだと、心の底から辟易した。
が、直後、あることに気づく。
「唐突」——その意味するところは何なのか。
たとえそういう印象を与えたとしても、「それを」「そのときに」実行しなければならない、ということではないか。
休戦記念日の儀式をいま実行することに、何の意味がある? 休戦協定の締結から、今年で十七年が経つ。オースティンが生まれる一年前のことだ。オースティンは次の誕生日で十六歳になる。
十七年めの休戦記念日。意味があるとしたら、そこにちがいない。
「——先生!」
オースティンは客室を飛びだし、老教師を呼び止めていた。「キナリー先生、ひとつ訊きたい」
「どうなさいました。そんなに息を切らせて」
老教師は、かたわらの留学生ルッツ・ドロテーアとともに振り返る。
「七という数字——」
オースティンは口を切る。「ラージャスタンでは、七という数字に意味はありますか」
「——万象を司るのは、火、水、風、土、ふたつの《禁じられた元素》こと時と空。そして、それら六元素精霊を支配する《精霊王》、七つの存在です」
老教師は、準備していたかのように、淀みなく答えた。「よって、『七』とは世界であり、世界とは終わりなく循環するものであり、七は『永遠』を意味するのです」
(休戦記念日に関しては、ラージャスタンはすっごい悔しかったと思うんです。だから毎年喪に服して、屈辱を忘れない日にするとか)
そう言ったのは、他ならぬメルシフル・ダナンだった。
——ラージャスタンは「永遠に」その屈辱を忘れない。
来る十七年めの休戦記念日、その象徴的な宣言をもって、何かが始まるのだとしたら——
(だとしたら、もう)
時間が、なかった。
「《いいか、サルヴィア。メアニーが来たら、こう言え》」
オースティンは留学生メルシフル・ダナンに懐刀を突きつけ、告げる。「《皇女婿オースティン・カッファが、メルシフル・ダナンを懐刀で脅して空(スーニャ)の妖精を召喚させ、宮殿の外に出た——と》」
「《水(アイン)》!」
サルヴィアの行動は迅速だった。反射的にかまえて、精霊の名を呼んだ。
これほどすみやかに動けるのも、ひとえに彼女が水の精霊(アイン)に、また水(アイン)からも寄せられる信頼と愛情ゆえだろう。しかし、
「《さすがだな、サルヴィア》」
応じるオースティンは平静そのものだ。つまり、今ここでサルヴィアに応えた精霊はいない。
「《時が時なら、ラージャスタンはどんなにかおまえを恐れただろうな》」
「《皮肉はけっこうです》」
サルヴィアは答えて、眼に昏さをよぎらせたが、それを振り払うようにかまえを解き、
「《これが英雄の力、精霊の愛情を一身に受けるということですか。……無敵ですね、本当に》」
「《そうらしいな。実際に試したことはなかったが。おかげで準備は整った》」
オースティンはシフルの後頭部にむかって言う。「《あとは時姫(ときのひめ)とかいう女に会うだけだ。さあ、シフル》」
《呼べ》、と少年公子は言い放つ。
「——」
銀の髪の少年は答えない。オースティンからは、その表情はうかがえない。
夕闇に包まれつつある《赤の庭》に、沈黙が落ちた。庭を彩る草花が、ひとつ、またひとつと、闇に呑まれていく。
オースティンは焦れた。ここで時間をかければ、遠からず女官がやってくる。一度みつかれば、もはや機会はあるまい。
「《時間かせぎはなしだ》」
シフルの首に懐刀を近づけ、オースティンはいう。「《ただの脅しだと思うか? 僕はおまえたちが来る前に謹慎していた。ちょっとした問題を起こしてな》」
「《……問題?》」
シフルはわずかに身じろぎした。
「《宴の場で僕を侮辱した貴族に決闘を申しこんだ。マーリの機転があって大事にはならなかったが、さもなくば相手を討ち果たしていただろう。相手はほとんど剣を使えなかった》」
《僕は怒りに駆られてそういう真似をしでかす人間だ》と耳もとで言い放つ。
「《ただの脅しかどうか、見せてやる》」
「! ……」
サルヴィアは叫びかけた。が、精霊の助けのない彼女になすすべはない。
当のシフルはといえば、声もなかった。オースティンは本当に首を掻っ切るつもりで力をこめる。
懐刀の切先が吸いこまれていく——シフルの皮膚に——いや、ちがう。あるはずの血のしたたりがなかった。幸福しか知らないようなその顔が、苦痛に歪むこともなく、
「ラーガ……」
代わりに、少年のつぶやきが落ちる。
——来たな。
「《また会えてうれしいよ。我らが『父上』——英雄クレイガーン》」
そう語りかけるオースティンの刃に、切先はない。
折られたのではなく、シフルの皮膚と刃のあいだのわずかな空間に暗い穴がひろがり、切先が吸いこまれたのである。そう、目の前にいるのは空間を自在に操る唯一無二の存在。
深い青の髪と瞳をした妖精。禁じられた第六の元素、空(スーニャ)の元素精霊長にして、英雄クレイガーンの器をもつ妖精《ラーガ》。《ラーガ》とは、主であるシフルによって与えられた彼の名前なのだろう。
「《今は『クーヴェル・ラーガ』と呼んだほうがいいか?》」
《ラーガ》は東言(とうげん)で「青い」を意味する。《クーヴェル・ラーガ(青い石)》という貴石は、トゥルカーナの名産品としてよく知られているので、そこからオースティンは妖精の真名を連想した。
「《いかにも、俺の名はラーガだ。真名はクーヴェル・ラーガ》」
青い妖精は表情を動かさずに答えた。「《だが、真名を言いあてたからといって、きさまに俺が支配できるわけではない》」
オースティンとてそんなことは知っている。それでも少年は、この妖精に対して優位に立ちたかった。目の前にあるこの器の秘密が、長年にわたって少年を支配してきたのだ。この器の今の持ち主である空(スーニャ)の精霊は、いわば諸悪の根源の一端。
「《はっきり言っておく。おまえに話す気があろうとなかろうと、僕は『それ』を知るそのときまでシフルを追及しつづける。手段は選ばない》」
言いながら、オースティンは再び懐刀を振りあげた。シフルはびくりとしたが、もはや下ろされた切先が彼を傷つけることはない。何度刃を振りあげ、何度振り下ろしても、その切先は見えない空間に吸いこまれていく。
「《いいかげんにしろ》」
言うが早いか、妖精は刃を叩き落とした。
妖精が物理的な手段に訴えるとは思わず、オースティンはあっさり懐刀を手放した。
英雄クレイガーンは剣術の名手だったといわれる。一般に「クレイガーンは狂った魔物たちの病魔を払った」といわれるが、その陰では払いきれなかった魔物を器ごと処分していた。英雄とは、史上最強の魔物殺しに与えられた称号でもあるのだが、トゥルカーナの外ではあまり知られていない。トゥルカーナ国内でさえほとんど忘れられていることで、こうして実際に会わなければオースティンも思いだすことはなかっただろう。
妖精は、クレイガーンの姿かたちを引き継いでいるとともに、筋力や体力も引き継いでいる。だとしたら、記憶は? オースティンは空(スーニャ)をみつめる。妖精は冷ややかな一瞥を返してきた。反射的に、少年はシフルを解放した。
「《シフル! 大丈夫?》」
芝にくずおれたシフルに、サルヴィアが駆け寄る。シフルは応える代わりにぽつりと言う。
「《ラーガ……ごめん》」
妖精は、ふん、と鼻を鳴らした。
「《それで? メルシフル》」
「《?》」
「《こいつの望みを叶える気はあるのか?》」
と、妖精は主たる少年に問う。「《おまえは知りたいと思うのか? 英雄伝説の真実とやらを——トゥルカーナで時姫さまに何があったかを》」
「《……、》」
オースティンは、渇くほどにそれが知りたかった。
芝の上でうつむいたままの妖精の主を、オースティンは刺すように見る。
もう、二重の意味で時間がなかった。こうして空(スーニャ)の元素精霊長が現れたということは、このアグラ宮殿の結界が破られたということであり、結界の術師であるメアニーに気づかれる。メアニーがここに来れば、妖精はいなくなる。そして、このアグラ宮殿においてプリエスカの留学生たちに与えられた自由で平穏な時間も、やがて終わる。休戦記念日の儀式まで一か月を切っている。
「《シフル——》」
オースティンが彼を呼んだのと、同時だった。妖精が、何かに気づいたように身を翻した。シフルとサルヴィアが目を見合わせたのを、オースティンは見逃さなかった。
「《——逃がすものか!》」
ずっとずっと、追い求めていたもの。呪いと憎しみとあきらめと、かすかな期待と——長年の問いに対する答えが、そこにあった。
オースティンは、今まさに姿を消そうとしている妖精に、全身全霊で飛びかかる。
「《えっ》」
きょとんとした顔で振り向いたシフルの首を、とっさに抱えこみ、もう一方の腕を青い妖精へとのばした。
「《——シフル! オースティン!》」
サルヴィアの悲鳴じみた声を背に、オースティンは確かにそれをつかんだと思った。時空を超え、いま目の前に現れたすべての鍵。
驚いたような濃青の瞳——かつては少年と同じ色だったのだろうその瞳が、オースティンをとらえ、風景は暗転した。
To be continued.